映画「天心」の制作が進んでいるのは、2012年5月に開催された、日本橋高島屋で観た「五浦と岡倉天心の遺産展」のときでした。東日本大震災で五浦の「六角堂」が流され、その再建のために茨城大学五浦美術研究所等が立ち上がり、併せて「五浦との関連で岡倉天心の足跡を辿ることで、震災からの復興と文化財保護をアピールしていました。
日本橋高島屋で「五浦と岡倉天心の遺産展」を観た!
その後、2012年5月に、僕は五浦を訪れて「六角堂」を観ることができました。
「五浦美術研究所」 のホームページには、以下のようにあります。
岡倉天心は、1903(明治36)年の5月頃、飛田周山の案内で五浦を訪れ、この地をいたく気に入りました。天心は、二年後には六角堂を構え、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点としました。1906(明治39)年11月には、日本美術院を五浦の地に移し、岡倉天心、菱田春草、下村観山、木村武山が家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史に輝かしい一ページを刻んだのです。また『茶の本』もボストンと五浦の往還のなかで生まれました。
つい先日、横浜美術館で「横山大観展 良き師、良き友」を観ました。映画「天心」の中に出て来る大観の大画面の「屈原」を観ました。屈原は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。中国の戦国時代末、楚の屈原は讒言を受けて左遷され、あげく自身の意を貫くため旧羅に身を投げ入水自殺した。天心も怪文書が引き金になった「東京美術学校事件」で校長職追われて野に下り、大観も従った。その天心を屈原に重ねて描いたと言われるのがこの絵です。(「松尾文化研究所」による)
天心が創設した日本美術院の第一部(絵画)が明治39年に五浦に移されると、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らは、この地に移り住み制作活動に没頭します。日本近代絵画史上に遺る傑作を生み出しています。映画「天心」は、その辺りの様子を描いています。映画では、「都落ち」と揶揄された大観らを、誇張して極貧生活を送っているように描いています。天心がボストンなどで高給を取っているというのに対して、やや誇張が過ぎるように思いました。
春草が若くして明治44年(1911)9月に亡くなったことは、明治神宮の「菱田春草展」を観て知っていました。大観と春草は天心とともに明治37年(1904)、30歳でアメリカへ渡り、意外にも彼らの「朦朧体」と批判された絵がよく売れたという、その辺の事情は映画では描かれていません。五浦移転はその次の年、明治39年(1906)11月のことでした。五浦は横山大観らが、新しい日本画の創造に励んだ歴史的な場所です。天心の死で「五浦時代」は終焉をむかえますが、一周忌にあたる大正3年、日本美術院は再興され、現在に至っています。
「天心」の主要な人物は、下記の通りです。
「五浦美術文化 主な関連人物」
以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。
チェック:明治から大正にかけて伝統美術の再興に尽力し、日本近代美術の父と称された岡倉天心の葛藤と創作活動を描く伝記ドラマ。現・東京藝術大学を創立、日本美術院を立ち上げるなど美術界で活躍していた天心が、苦境に立ち、新天地となった茨城県五浦で新たな日本画の創造にのめり込んでいく姿を映し出す。天心にふんするのは、数多くの作品で独特の存在感を放つ竹中直人。日本画家の大家である横山大観を中村獅童が、狩野芳崖を温水洋一が演じる。急速に進む西洋化の中で日本の美を守り、外国に日本の美を紹介した美術家の知られざる人生の裏側が興味深い。
ストーリー:明治初期。廃仏運動が起こり、仏寺や伝統美術が失われようとする中、日本独自の美を守るため、岡倉天心(竹中直人)はアーネスト・フェノロサと手を組み奔走。その後、東京美術学校や日本美術院を創立した天心だったが、西洋画派と対立するなど、逆境に陥ってしまう。天心は茨城県五浦に六角堂を建立し移り住み、これまでにない日本画を作り上げるため、創作活動に打ち込んでいく。
「天心」公式サイト
過去の関連記事:
明治神宮文化館宝物展示室で「菱田春草」展(前期)を観た!
明治神宮文化館宝物展示室で「菱田春草」展(後期)を観た!
山下裕二氏のセミナーに参加し「横山大観(前期)」展を観た!
明治神宮文化館宝物展示室で「横山大観(後期)」展を観た!
発行日:平成21年10月3日
発行所:明治神宮
監修:佐藤志乃(横山大観記念館学芸員)
「横山大観」
発行日:平成22年10月2日
発行所:明治神宮
監修:佐藤志乃(横山大観記念館学芸員)
編集:明治神宮宝物殿