Quantcast
Channel: とんとん・にっき
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2506

東京ステーションギャラリーで「エミール・クラウスとベルギーの印象派」を観た!

$
0
0


東京ステーションギャラリーで「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展を観てきました。


2010年9月4日から10月24日に、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「フランダースの光~ベルギーの美しき村を描いて」は、古都ゲント近郊の村、シント・マルテンス・ラーテムという芸術家村に移り住んだ芸術家たちの作品を時代順に、象徴主義、印象主義、表現主義という三つに分けて紹介した展覧会でした。また、この地にゆかりのある日本人画家である太田喜二郎と児島虎次郎の作品もあわせて展示されていました。

Bunkamuraザ・ミュージアムで「フランダースの光」展を観た!


今回の「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展と重なり合うところは、エミール・クラウスを取り上げた第2章の「移ろいゆく光を追い求めて」でした。そこでの目玉はチラシにもなったエミール・クラウスの「刈草干し」(今回は出品されていません)でした。画面中央に刈り取った草を肩に担ぐ女性が、逆光の中、つまり女性の背後から強い光があたり、手前に影を落としています。今回の展覧会でその時と同じ作品が出されていました。それは、エミール・クラウスの作品、今回のチラシにも取り上げられた「野の少女たち」、「レイエ川の水飲み場」、そして「フランダース地方の収穫」です。


ざっと数えてみると、エミール・クラウスの作品は11点もありました。今回のエミール・クラウスの作品は29点ですから確かに多いことは多い。がしかし、それだけでチラシにある「ベルギー印象派の画家、エミール・クラウスについての日本初の展覧会」とは言えないのではないでしょうか。もちろん、展覧会の切り口が双方異なっていることは確かなことです。一方はラーテム芸術家村の画家たちの作品、しかも年代順に象徴主義、印象主義、表現主義という分類をしています。もう一方は、印象主義、新印象主義というくくりでまとめられています。いずれにしても二つの展覧会を併せて観ることにより、ベルギーの画家エミール・クラウスとその「ルミニスム(光輝主義)」についての理解が深まることは言うまでもありません。


「ルミニスム(光輝主義)」とは何か?ゲント美術館のヨハン・ド・スメットは図録の巻頭論文「エミール・クラウスとベルギーのルミニスム(1890-1914)」のなかで、次のように述べています。「1890年初頭から、クラウスの受容した印象主義は『ルミニスム(光輝主義)』という言葉で言い換えられた。・・・筆者はこの語を、フランス印象主義に影響を受け、自由で粗い筆遣いと明るい色彩を組み合わせたあらゆるベルギー美術を集合的に指すものとして使用したい」と。もちろん、クラウスのルミニスムは様々な影響を受けて発展しました。モネを出発点として、シニャックを経て、ピサロの影響は1900年頃に様式を確立する上で特に大きな役割を果たしました。「クラウス的」作品の特性は、後により自由な様式に取って代わられ、第一次世界大戦中のクラウスは再びモネの作風に近づいている、とスメットは言います。


1882年にゲント近郊を流れるレイエ川沿いのアステヌを訪れたクラウスは、その後「陽光(ゾンヌスヘイン)荘」と命名した小屋をアトリエに構えて、この地の農民たちの姿や農村風景を描くようになります。1889年から数年間、冬期のみパリに滞在し、ここで目にしたフランスの印象派、特にモネに大きな影響を受けたことが一つの転機となりました。以後、彼の作品は急激に明るさを増し、逆光の中に対象をとらえ、画面はまばゆいばかりの光にあふれるようになります。1904年には、クラウスは「生と光」というグループを結成します。その名の通り「光」(ルミエール)も探求を掲げたメンバー達の作品の傾向は、「ルミニスム」と呼ばれ、日本語では「光輝主義」とも訳されます。クラウスはその中心人物として、ルミニスムを牽引し、第一次世界大戦以前のベルギー美術に大きな影響を与えました。


作品について何かを書くという力は僕にはありませんが、以下に簡単に感想だけを書いておきます。まず驚かされたのはエミール・クラウスの「タチアオイ」でした。まさしく日本人好み、日本的な美意識、酒井抱一の「立葵図」ですよ、これは!驚きました。今回の展覧会、目玉はと言われると、この2点、エミール・クラウスの「昼休み」と「野の少女たち」でしょう。「昼休み」は戸外で農作業をする人々が題材。スカートの裾を縛りあげ、籠と荷物を手に提げた女性が、作業の手を休める仲間のもとへ草花のなかを歩いて行きます。背を向けた女性の表情は分からないが、陽はまだ高く、眩しい日差しを顔に受けているのでしょう。逆光の中、草花の描写は写実的でもあります。


エミール・クラウスの「野の少女たち」、これも逆光、午後の強い日差しを背中に受け、家路へと急ぐ子どもたちは裸足で、その表情はなぜか不安げでもあります。エミール・クラウスの「昼休み」と「野の少女たち」、この2点を観れば、今回の展覧会の大方の目的は達したと言えるでしょう。草花の描写がアンドリュー・ワイエスと似通っているという指摘もあります。農作業を終えて家路を急ぐ老夫婦を描いた「仕事を終えて」を観ると、ワイエスと通底したものを感じることができます。真冬の寒さで凍りついた川で遊ぶ子どもたちを描いた、まさに題名通りの作品「そり遊びをする子どもたち」、光を追求するクラウスにとっての絶好の題材です。遠景の空と、曲がりくねったレイエ川の蛇行線を境に、奥から左手は岸辺の雪面、右手から手前にかけてのひろい部分は凍りついた川面、という構図で描かれています。全体を一様な白ではなく、ピンク、黄、グレーで塗り分けています。この微妙な色合いは、実際に近くで観なければ分かりません。


展覧会の構成は、以下の通りです。

第1章 エミール・クラウスのルミニスム

第2章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニスム

第3章 フランスの印象派:ベルギー印象派の起源

第4章 ベルギーの印象派 日本での受容



エミール・クラウス(1849-1924)

フランドル西部ワレヘムの小さな村で食料品店を営む家庭に生まれる。1869年、アントワープの美術アカデミーに進学し、在学中の1874年、アカデミーのコンクールで二等に入選する。アントワープ時代は、主に肖像画、風景画、風俗画などをアカデミックな写実で描いた。1882年、「フランス芸術家協会」に出品し、以降、頻繁にパリを訪れるようになった。ベルギーの作家カミーユ・ルモニエを通じて、アンリ・ル・シダネルやフランスの印象派画家に出会い、特にモネの印象主義に影響を受ける。h雁の探求という理想のもと、1904年、ルミニスムのグループ「生と光」をブリュッセルで結成。戸外の光を強く意識しながら描くことに没頭していった。イギリスに逃れていた第一次世界大戦中の1914年から1919年までの間を除き、1883年以降、歿するまでゲント近郊レイエ河畔のアステヌに住み、「陽光荘」と名付けた自宅兼アトリエで数々の秀作を描いた。徹底した田園賛美と光にあふれる表現は国際的な評価を得て、ルミニスムの指導者と呼ばれるようになった。(図録「作家解説」より)


第1章 エミール・クラウスのルミニスム





第2章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニスム


第3章 フランスの印象派:ベルギー印象派の起源



第4章 ベルギーの印象派 日本での受容



「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展

ベルギー印象派の画家、エミール・クラウスについての日本初の展覧会を開催します。1849年に生まれたエミール・クラウスは、フランス印象派などから影響を受け、独自のルミニスム(光輝主義)といわれるスタイルで、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍しました。太田喜二郎、児島虎次郎という2人の日本人画家がクラウスに教えを受けたことでも知られています。ベルギー近代美術史の展開を考えるうえで、また印象主義の国際的な伝播という観点から見たときに、そして日本への影響という意味でも、非常に重要な画家であるにもかかわらず、これまで日本ではクラウスをテーマにした展覧会は開かれてきませんでした。本展は、フランス、ベルギー、日本の印象派の作品とともにクラウスの代表作、あわせて計65点を展示し、国際的な印象主義の展開の中にこの画家を位置づけ、陽光あふれる田園の情景や、自然の中で暮らす人々の姿をいきいきと描き出したクラウスの魅力に迫ります。


「東京ステーションギャラリー」ホームページ

とんとん・にっき-cla2 「エミール・クラウスとベルギーの印象派」

図録

監修:

ヨハン・ド・スメット(ゲント美術館 ヨーロッパ絵画専門学芸員)

冨田章(東京ステーションギャラリー館長)

発行:神戸新聞社


とんとん・にっき-cla1 「フランダースの光」

図録

監修:

ロベール・ホーゼー(ゲント美術館館長)

宮澤政男(Bunkamuraザ・ミュージアム チーフキュレーター)

企画:

Bunkamuraザ・ミュージアム

毎日新聞社

ゲント美術館

発行:毎日新聞社©2010-2011




Viewing all articles
Browse latest Browse all 2506

Trending Articles