清水徹の「ヴァレリー・知性と感性の相剋」(岩波新書:2010年3月19日第1刷発行)を読みました。
ヴァレリーについては2冊の本を持っています。ずいぶん昔の本ですが・・・。ひとつは、森田慶一の「建築論」、このh0音の最後に「ポール=ヴァレリ エウパリノスまたは建築家」という論文が載っています。ソクラテスとパイドロスの対談形式で、読んだ記憶はありますが、内容まではまったく憶えていません。
もう一つはずばり加藤邦男の「ヴァレリーの建築論」です。「ヴァレリーの建築論」となっていますが、建築に限らずヴァレリーの作品全般を取り上げて論評しています。森田慶一の「建築論」の他にも、田辺元の「ヴァレリーの芸術哲学」も取り上げて詳細に分析しています。僕にはちょっと難しすぎますが・・・。そうそう、この本のカットは、すべてヴァレリー自筆のデッサンによっています。
2010年、世田谷文学館で開催された講演シリーズ「知の巨匠―加藤周一ウィーク」の最後は、山崎剛太郎と清水徹の対談「加藤周一の肖像―青春から晩年まで」でした。清水徹は、もちろん対等に話してはいましたが、強いて言えば対談の進行役、山崎の話の聞き出し役のような感じでした。そこで初めて清水徹がどういう人なのかを知りました。たまたま昨日の朝日新聞夕刊に海老坂武の「加藤周一」(岩波新書)を取り上げた記事が載っていたので、下に載せておきます。
その後清水が、岩波新書からヴァレリーの本を出していると知り、購入しておいたのですが、なかなか読むことができませんでした。清水の略歴をみると、デュラス「愛人」や、ヴァレリー「エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話」などを訳していて、僕はそれらの本を持っていました。なかなか読めなかった本、ところが昨日、一晩で、と言ったら言い過ぎですが、読み出したら止まらず、一気に読み終わってしまいました。海老坂武の「加藤周一」を読んだ時にも書きましたが、2年以上も読めなかった本でしたが・・・。
本の帯には、「この狂おしい情愛の深みの痛み」―《ムッシュー・テスト》を理想とした《知性のひと》の四つの恋、とあります。それはどういうことなのか? 帯の後を見ると、次のようにあります。
わたしは愛し―そして愛されることなしには、もういられない。わたしはなにもかもうんざりだし、あれがなければ、なにもかもわたしに重くのしかかってくる―(…)これがわたしの「自我」のありようです。(ルネ・ヴォーティエ宛書簡より)
本の案内は、以下のようにあります。
20世紀前半のフランスで最高の知性とされた詩人・批評家,ポール・ヴァレリー(1871-1945)。しかし鋭敏で明晰な《知性のひと》は、同時に強烈な《感性のひと》でもあった。生涯に少なくとも四度の大恋愛に耽溺し、熱烈に女性の愛を乞いつづけた、その感性と知性の相剋に本質をみさだめ、創作に新たな光を当てる、魅惑的な伝記。
1870年を中心としてその前後に生まれた四人の作家たち、劇作家ポール・クローデル、小説家アンドレ・ジッド、小説家マルセル・プルースト、そして詩人であり批評家でもあるポール・ヴァレリーは、」いずれも程度の差はあれ、象徴派の詩人ステファヌ・マラルメから強い影響を受け、19世紀的なリアリズム・自然主義とはまったく離れた、内面性と精神性の深い作品を創造して、まさしく「20世紀文学」を確立しました。
清水徹はこの本で、この輝かしい時代に主要著作を発表した一人であるポール・ヴァレリーを取り上げています。その理由は、《知性のひと》と見られていたヴァレリーの像をくつがえしたいからと、「序」で述べています。ヴァレリーは女好きで、ときには狂おしいまでに心を痛める恋愛を生涯に四度も経験しています。彼は愛人たちに、おそらく3000通以上の恋文を送っているという。そのたびに悦びまた悶え苦しみ、そういう恋愛を乗り越えて「精神の平和」を求めて、幾つもの優れた作品を書きました。清水は、「伝記批評」のかたちで、彼の女たちとの、ドラマチックな交渉の側から見つめて書いて行こうと思う、と述べています。
まず最初は、ヴァレリーが17歳の時に恋い焦がれた、海水浴への行き帰りに電車で乗り合わせた「伯爵夫人さん」こと、20歳も年上のロヴィラ夫人。彼は恋文を3通書きますが、すべて出さずじまい。年の差がありすぎました。ここからが本題、ヴァレリー49歳の時、裕福な外科医で、社交界の名士だった人の娘、聡明で、エキセントリックなまでに意志が強く、語学もそして哲学や神学までも勉強し、知的に深く極めたカトリーヌ・ポッジ。二人は互いに相手を認め合い、ほとんど知的二卵性双生児のようでした。しかし彼女は結核に冒されていました。そしてあまりの階級差があり、私設秘書だったヴァレリーとは上手く歩調を合わせることができませんでした。
次に若い女流彫刻家ルネ・ヴォーティエ。ルネは当時33歳、優雅でほっそりした美貌の持ち主で、顔立ちはキリリとして、どこか幼さを残していました。ヴァレリーの胸像をつくるため、仕事に熱中する彼女をヴァレリーは真剣に見つめるようになります。ヴァレリーの愛を彼女が受け入れないのは、彼女にも熱愛して報われない男性がいたからでした。ヴァレリーは自分の60歳という年齢と、ルネの若さとの歳を痛感しました。ルネのつくったヴァレリーの胸像は、ヴァレリーの国葬が行われたトロカデロ講演にひっそりと置かれています。
そして、ベルギーの高校で教鞭をとっていたエミリー・ヌーレ。ある雑誌に50ページもの長いヴァレリー論を書いたという知性の持ち主です。清水によると「ヴァレリーはエミリーの据え膳を喰ったかたちであった」という。そして最後の愛人は、「現代最後のロマネスクな女性」であるジャンヌ・ロヴィトンです。ジャンヌはヴァレリーより30歳年下でした。美貌で才能に恵まれた彼女は、ヴァレリーからなんと1000通にも及ぶほどの恋文をもらいます。美貌で才気に溢れ、気力と優しさ、豪奢と明晰、理知と夢想という風に、多角的な性質を合わせ持ちしかもつねに世間に対しても男性に対しても自分が得をするように行動します。
ときにヴァレリーは66歳。ジャンヌは単なる愛人を超えて、ヴァレリーにとってミューズでもありました。しかしジャンヌとも別れが待っていました。ヴァレリーとジャンヌは毎週日曜日に愛のくつろぎの時間を持っていましたが、ジャンヌはわざわざそんな日曜日を選んで、彼女にとっては幸福な結婚を告げるのでした。ジャンヌのこの言葉にヴァレリーは絶望のどん底に突き落とされます。
《知性のひと》だったのか《感性のひと》、《知性》と《感性》のどちらが勝利を挙げたのか、ヴァレリーの生涯を見てゆくと、いずれとも決めがたい、と清水は言います。そうした知性と感性の交錯と相剋のうちに、ヴァレリーは1945年7月20日、この世を去りました。
最後に「エウパリノス」について書かれた箇所を、以下に載せておきます。
(ヴァレリーは)「建築」という名の雑誌に頼まれ、図版などのためあらかじめ字数まで定められているという困難な条件下にあった「エウパリノス」が、プラトンの対話篇「饗宴」にならってソクラテスとパイドロスとの対話というかたちで1921年に書かれた。これはプラトンとパイドロスのふたりが、パイドロスの友人である建築家エウパリノスの業績について優雅な口調で語る作品だが、そこでは思索者プラトンが若き日に建築家でもありえたことを告白したあとで、みずからなりえた「アンチ・プラトン」としての建築家という夢想を繰り広げている。対話というかたちで「知る」ことと「作る」ことが対比されているのだ。そのようなかたちで、ここにヴァレリーの芸術論の展開を眺めることができるという意味においても、これは注目すべき作品である。
清水徹:略歴
1931年東京生まれ。1956年東京大学大学院フランス文学科修士課程修了。明治学院大学教授、同図書館長を経て、現在、明治学院大学名誉教授。専攻は、フランス文学、文芸評論。
著書─「廃墟について」(河出書房新社)、「書物の夢 夢の書物」(筑摩書房)、「書物について―その形而下学と形而上学」(岩波書店、藤村記念歴程賞・読売文学賞・芸術選奨文部科学大臣賞受賞)ほか多数。
訳書─ビュトール「時間割」(中央公論社、クローデル賞受賞)、デュラス「愛人」(河出書房新社)、「マラルメ全集」(編集・分担訳、筑摩書房)、「ヴァレリー全集」(編集・分担訳、筑摩書房)、ヴァレリー「ムッシュー・テスト」(岩波文庫)、ヴァレリー「エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話」(岩波文庫)ほか多数。
目次
序 ―《感性のひと》の側面
1 最初の危機―ロヴィラ夫人をめぐって
2 レオナルド論とムッシュー・テスト
3 ロンドンと『方法的制覇』
4 詩作の再開と第一次世界大戦
5 愛欲の葛藤―カトリーヌとの出会い
6 胸像彫刻にはじまって―ルネ・ヴォーティエと『固定観念』
7 崇拝者からの愛―エミリー・ヌーレの場合
8 最後の愛―『わがファウスト』と『コロナ』と『天使』
略年譜/あとがき
1978年2月22日第1版第1刷発行
著者:森田慶一
発行所:東海大学出版会
昭和54年5月10日発行
著者:加藤邦男
発行所:鹿島出版会
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