吉田修一の「愛に乱暴」を読みました。本書は2011年9月から2012年9月にわたって、長崎新聞、沖縄タイムスほかに連載された「愛の乱暴」を改題し、改稿したものです、と末尾に但し書きがありました。ここのところ、吉田修一の作品は、まず始めに新聞小説が多いようです。
吉田修一原作の映画「さよなら渓谷」(2013年)が公開されました。2008年7月にこのブログに書いた、吉田修一の「さよなら渓谷」を読む! が、ここ1ヶ月ほどの間、毎日とんでもないアクセス数を数えています。昨年は、やはり映画化された吉田修一原作の「横道世之介」は、1980年代に長崎の港町から大学進学のため上京した青年・横道世之介を中心とした青春時代を描いた作品でした。「悪人」は、「大化け」していまの吉田修一の作家としての方向性を決定づけた作品で、映画化もされ大ヒットしました。「愛に乱暴」は、本の帯にセンセーショナルな言葉がちりばめられています。
妻も、読者も、騙される!「悪人」の作家が踏み込んだ、〈夫婦〉の闇の果て。
これは私の、私たちの愛のはずだった――。夫の不実を疑い、姑の視線に耐えられなくなった時、桃子は誰にも言えぬ激しい衝動に身を委ねるのだが……。夫婦とは何か、愛人とは何か、〈家〉とは何か、妻が欲した言葉とは何か。デビュー以来一貫して、「ひとが誰かと繋がること」を突き詰めてきた吉田修一が、かつてない強度で描く女の業火。狂乱の純愛。本当に騙したのは、どちらなのだろう?主人公・桃子は、あの「ボヴァリー夫人」のように、愚かで、健気で、孤独で、美しい。
まずは不倫相手の三宅奈央から。もちろん初瀬さんには何度もお願いしていた。初瀬さんはちゃんと話すからと言うくせに結局自分からは動いてくれなかった。でも初瀬さんが悪いんじゃない。悪いのは初瀬さんの奥さんだ。どうしてあの女が、もう愛のなくなった結婚生活に執着するのか本当に分からない。・・・もうあなたには何もない。そう言ってやりたい。唯一あるとすれば、妻という立場だろうが、きっとそれを意地になって奪われまいとしているのだと思う。
「一度、彼女と会ってほしいんだ。もちろん俺も含めて三人で」、真守の話はそこで終わった。説明も謝罪も種明かしも何もない。「私、会う気ないから」と桃子は言った。・・・あれ以来、真守から例の話は一切出ていない。「私、会うから」と真守に言った時の気持ちが、自分でもよく分からない。彼がなぜ私とその女を会わせたがっているのかは分かる。きっと自分ではもうどうにもできなくなっているのだ。私に対して「ちゃんと話をするから」と言っているように、おそらく向こうにも「きちんと話をするから」と同じことを言っているのだ。要するに現状を変えたくないだけで、ならばその時点で妻である私の勝ちなのだ。
今、私のおなかで新しい命が育っている。・・・初瀬さんに連絡を入れると、すぐに向かうと言ってくれたが、とにかく病院に電話をしたら「すぐに来て下さい」ということだったので、タクシーを呼んだ。・・・病院に着き、担当の先生の顔を見ると、かなり落ち着いた。エコーで赤ちゃんの姿が見えた瞬間、涙が出た。診察室を出ると、ベンチに初瀬さんの姿があった。二人で家へ戻ると、驚くことが起きた。初瀬さんが、「今夜、泊まっていくよ」と言ったのだ。・・・結局、これまで初瀬さんに泊まってほしかったのは寂しかったからじゃなくて、不安だったからなのだと思う。その不安が今日の夜、消えたのだと思う。
今日、葉月が遊びに来てくれた。・・・私の状況についてはほとんどを葉月に話している。おなかでは初瀬さんとの赤ちゃんが育っていること。初瀬さんは私との結婚を望んでいること。現在、今の奥さんが体調を崩して精神的に不安定なため、とにかく回復を待って、子供のこと、離婚のことをはっきりと告げ、もしも承諾してくれないようであれば、私を含めた三人で会い、きちんと今後のことを相談すること。葉月は、「一番大切な時期に一人きりで心細くないの?」と言ってくれる。・・・たしかに初瀬さんとはまだ一緒に暮らせないけど、まったくひとりぼっちだという気がしない。もっと言えば、私はこれからずっと赤ちゃんと一緒だし、もう少し待てば、必ずそこに初瀬さんが加わるのだという確固とした安心感もある。
桃子は言う。「浅尾くんって浮気したことある?」。あまりにも猪突だったせいか、浅尾が目を泳がせている。「浮気にも状況として二通りあるじゃないですか?」、「二通り?」、「たとえば彼女がいたとして、その彼女のことを好きなのに別の子と関係持っちゃうっていうパターンと、彼女との関係は冷えてる状態で、別の子と始まっちゃうっていう。この場合、彼女のことをまだ好きなら浮気だろうけど、もうそうじゃない場合って浮気って呼べないような気がするんですよね」。浅尾は続けて「自分のことをもう好きじゃない彼女とまだ一緒にいたいかって言われたら俺は無理だなー。諦めますね」と。
いよいよ今度の日曜日、向こうの奥さんを含めて三人で会うことになった。頭に浮かんでくるのは、とても静かな場面で、どちらかと言えば、私の方が冷静で、奥さんが悲嘆にくれている。もしかすると修羅場と呼ばれるものよりも更にたちが悪いのかもしれない。・・・そう、初瀬さんが言う通り、私は堂々としていればいいのだ。初瀬さんは一緒に来る奥さんではなく、一人で待っている私を愛している。そして私のおなかには二人の赤ちゃんがいる。そのことを冷静に、そしてはっきりと向こうの奥さんに伝えればいい。
「その人っていくつなの?」、「ああ、二十六」、「あなたと十六も違うじゃない」。「その人、おなかに子供がいるんだ」と真守は言う。「そんなの嘘に決まってるじゃない。その女の嘘、大嘘。ちゃんと検査結果みせてもらった? 証拠あるわけ?」と、桃子は笑い出しました。・・・桃子は改めて女に目を向けた。本当に特徴のない女だった。「私と真守は夫婦なの。あなたが入り込む余地はないの。うちの人は意気地がないところがあって、あなたとの関係を自分できちんと終わらせることができないみたいなの。・・・ぐだぐだ話しても時間の無駄でしょ? とにかく今後二度と真守に連絡しないで」と、桃子は一気にそこまで言った。
「奈央のおなかには子供がいる。俺は奈央と、そのおなかの子と、これからの人生を送りたいと思っている」、とても小さな真守の声だった。「え? 何っ?」と、桃子は場違いな大声を出した。「申し訳ありません。本当に申し訳ありません!」、とつぜんスイッチが入ったように女が頭を下げる。次の瞬間、真守までが同じように頭を下げる。「何の真似よ、私、何だか分からない。とにかく帰るから」、「ねぇ、やめてよ。私が悪いみたいじゃない!」。自分では冷静になろうとしているのだが、声だけがその意志に反して大きくなってしまう。「ほら、早くしてよ」、桃子は真守の腕を取ろうとした。しかし真守は立とうとしない。「いい加減にしてよ!」と怒鳴ると、「お客さま、申し訳ありません。他のお客さまもおられますので・・・」、近寄ってきたマネージャーが桃子の耳元で囁きます。
真守が帰ってきたらさっそく話してやろうと思う。「今日会ったあの女のことだけど、騙されちゃダメよ。ああいうしおらしさを売りにする女は、絶対に嫌らしい裏の顔があるんだから」と。・・・初瀬さんの奥さんはとても冷たい感じの人だった。私自身、とても緊張していたせいで、今日のことをほとんど覚えていない。ただ、二人と向かい合った瞬間、初瀬さんと奥さんの間に何も感じなかったことだけははっきりと覚えている。何年も一緒に暮らしてきたはずなのに。・・・初瀬さんからは「もう心配ない。これからは全て順調に行く。おなかの赤ちゃんのことだけ考えてくれ」と言われている。
昨夜、真守のあとをつけ、埼玉の河口にある女の満床を突き止めた。結局、朝まで一睡もできなかった。どうせ眠れないならと、何かやりたい気持ちはあるのだが、何をやっていいのか分からない。やりたいことを見つけたのが深夜三時過ぎだった。せっかく買ったチェーンソーを使ってみたい。
産んであげられなかったおなかの子のためにも私は書く。病院で胎囊確認。妊娠証明をもらう。母子手帳をもらう。この頃つわりがなくなった。四ヶ月検診。医者より稽留流産を告げられる。エコーでは赤ちゃんを確認できず、急遽手術を行う。・・・あんなに喜んでいる初瀬さんにどう伝えていいのか分からない。やっぱり言えない。ごめんね。産んであげられなくて、本当にごめんなさい。・・・真守と不倫関係にあった頃から葉月には何かと相談していた。今の状態を話せば、彼女はなんと言うだろう。やったことはやり返されるのよとでも笑うだろうか。
(桃子の日記)初瀬さんが正式に離婚届を出したことを受けて、今日初めて初瀬さんのお母様と新宿のホテルのレストランで会った。ここ数週間、何もかも慌ただしいが、これまで私が願っていた通りに動いている。唯一おなかの赤ん坊がもういないということを除いて。・・・流産したあとすぐに言おうと思った。正式に離婚したのだからもう言ってもいいはずなのに、今は心のどこかで自分たちが正式に結婚してからの方がいいと思っている。産んであげられなかった赤ちゃんのことを考えてなく日々が続いている。悲しくて、申し訳なくて、頭がヘンになりそうだ。
「あのさ、桃子と別れるつもりなんだ」と真守の声。「もちろん上手くやっていこうと思って努力したよ。でも、やっぱり何かあると思い出すんだよ」、「思い出すって、子供のこと?」と義母の声。「そりゃ、お母さんだって・・・。新宿のホテルのレストランで初めて桃子さんに会った時、生まれてくる子供のためにもこの離れで暮らした方がいいとか、何でもお手伝いするからなんて言った自分が情けなくなることもあるわよ。ああ、あの時すでに桃子さんは流産してたくせに私達を騙していたんだなんて考えると、頭にもくるわよ」と義母。「実はさ、俺、もう別のがいるんだ」、「実はもうその相手の腹に子供がいるんだよ」、会話が途切れる。
もうこのおなかにはあかちゃんがいないということを、きちんと初瀬さんに伝えなければならないのは分かっている。そんなことは分かっているのだけれど、昨夜のようにベッドで初瀬さんにおなかを撫でられ、耳を当てられたりすると、言わなければならない言葉がうまく口から出てこない。・・・私に子供ができたことで、初瀬さんが離婚に踏み切ったのは間違いない。私に子供がいることで、初瀬さんのお母様は早く籍を入れるようにと言ってくれる。もし私が告白しても、私たちは夫婦になれる。なのに、何かが恐ろしくて告白できない。
「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。もう私とあなたの赤ちゃん、いないの。言おう言おうと思っていたの。でもどうしても言えなかった。自分でも認めたくなかった」。初瀬さんは私の背中をずっと撫でてくれた。聞かれるだろうと予想していたことを、初瀬さんは一切聞かなかった。ただ「桃子が悪いわけじゃない。謝ることない」と繰り返していたように思う。
結婚前、流産したことをなかなか真守に言えなかった時の気持ち。それをずっと根に持っていたと今になって言い出した真守や義母のこと、真守の浮気、浮気相手の女のこと、話し合いに女の家に行ったこと。階段から落ちた女を病院に連れて行ったこと。・・・六畳間の畳の向きが気になり始めたこと、そのうち一枚を上げてみたこと、そして床板の下をのぞいてみたくなったこと、駅前のスーパーで小型のチェーンソーを買ったこと、そして床板を切り抜き、スコップで掘った穴にいた時に真守と義母の話を聞いてしまったこと。
桃子が実家の軽井沢に戻っていると、真守から速達が来た。できれば協議離婚。このままだと調停離婚。二人で話し合いを。俺の気持ちは。桃子の気持ちが。お互いの。将来。いがみ合い。ここ最近のあなたの行動。母が脅えている。玄関を乱暴に叩き続ける。出てこいと母を脅したり。もう普通ではない。奥の六畳間の床下。チェーンソー。冷静に話し合いたい。しかし。無理。
まるで自分だけが我が儘を通そうとしているかのように思えてくる。自分だけが理不尽なことを言い続け、いい加減にしろと、みんなから言われているような気がする。誰もかれもが私がここから逃げ出すのを待っている。転がっていた手紙を拾い上げ、流しに向かう。引き出しからチャッカマンを取り出して、丸めた手紙に火を近づける。目をとじると、シンクで燃え上がる炎が見えた。・・・本当にもうダメなのだと。本当に終わったのだと。結局私だけが私たちの生活から追い出されるのだと。・・・どうして自分だけが全てを奪われなければならないのか。あまりにも理不尽じゃないかと。「手紙、読んでくれた?」と真守が恐る恐る訊いてくる。「私、ここから出ていく気ないから」と桃子は言った。
作者の吉田修一は、次のように言います。「愛に乱暴」は、やはり恋愛や夫婦関係がテーマではなく、いろんな方向から桃子の居場所、あるいは居場所のなさ、を書きたかったのだと思う、と。そしてもう一つ、桃子は地方出身者で、仕事を辞め、子供もおらず、夫に不倫された専業主婦として、きちんとした肩書きがなくなったことが彼女を不安定にさせたのかなとも思います。母でも妻でも娘でもない彼女は居場所がなくなってしまう、と。
吉田修一:略歴
1968(昭和43)年、長崎県生れ。法政大学経営学部卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、2010年『横道世之介』で柴田錬三郎賞を受賞。ジャンルにとらわれない幅広い作風と、若者の心情をみずみずしく描き出す筆致の確かさに定評がある。ほかに『東京湾景』『長崎乱楽坂』『女たちは二度遊ぶ』『初恋温泉』『静かな爆弾』『さよなら渓谷』『元職員』『キャンセルされた街の案内』『平成猿蟹合戦図』『太陽は動かない』など著書多数。
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