今日から世田谷文学館で始まった連続講座「書物の達人―丸谷才一」、5回連続のトップを飾るのは、川本三郎の「昭和史のなかの丸谷才一」です。
川本については僕はまったく何も知らず、映画評論家だろうと長い間思っていました。奥さんが亡くなって、追想記「いまも、君を想う」 を書きます。本の内容紹介には、「30余年の結婚生活、そして、足掛け3年となる闘病…。家内あっての自分だった。7歳も下の君が癌でこんなにも早く逝ってしまうとは。文芸・映画評論の第一人者が愛惜を綴る、感泣落涙の追想記」とあります。事情を知らなかった僕は、なんと女々しいヤツだと、川本のことを思いました。その後、映画「マイ・バック・ページ」の原作が、全共闘時代だった川本三郎だったことを初めて知りました。
川本三郎:
忘れていた「映画における音楽」という仕事について、管野館長の話で思い出しました。「ローマの休日」という映画で、グレゴリー・ペックの部屋に行くと、ラジオから流れていました。リストの「巡礼の年」でした。今日は丸谷才一のことを話すので、大変緊張しています。ジョイスの「ユリシーズ」を翻訳した方であり、そして古典に強い方でもあります。私にとって、こわい人でした。読売文学賞の審査員に加えていただいた時に、「声が小さい」と怒鳴られました。文壇では、開高健、井上光晴、丸谷才一の3人は、声が大きいことで有名でした。こうして前説をしないと、緊張しているので話せません。丸谷才一という人は、前説をしない人、いきなり本論に入ります。
今日は「昭和史における丸谷才一」というタイトルでお話しします。丸谷さんと戦争という話です。丸谷さんは、戦争体験の最後の世代です。丸谷文学の核心には、「自分は兵隊にとられた」ということがあります。徴兵忌避者を書いた作品に「笹まくら」(1966年)があります。丸谷は昭和20年に20歳でした。戦前まで「徴兵制」があったこと、肺病が死病だったこと、この二つの事実をみないと、戦前の作品を読む時に見誤ります。吉本隆明もそうでしたが、時代は愛国少年、軍国少年がほとんどでした。丸谷は少年の頃から戦争が嫌いでした。丸谷は山形県鶴岡の出身で、藤沢周平や大川周明がいました。
戦争の熱気の中で、町には号外が出ました。「ああ、イヤだな」と、丸谷は感じたという。これが一貫して丸谷の軍隊嫌い、兵隊嫌い、これは皮膚感覚で、生理的なものです。私が一番尊敬している人は永井荷風ですが、「四畳半襖の下張り」を書きました。「面白半分」という雑誌、野坂昭如が編集長でしたが、裁判沙汰になります。丸谷は弁護役をかって出ました。反骨精神旺盛で、反権力、国家批判、権力批判です。丸谷は、20歳で兵隊にとられ、たこつぼを掘って、米軍が上陸した時に立ち向かえと言われていた。丸谷は、そんなことをしても無駄だと思っていました。しかし、ヒステリー的な戦争批判はしませんでした。
「笹まくら」の中で、玉音放送を聞くところがあります。放送を聞いて無学な上官は理解できませんでした。上官にその内容を説明すると、上官に殴られました。丸谷の「にぎやかな街で」(1968年)は、あまり読まれていませんが、不思議な作品です。広島の郊外、在日朝鮮人の目からみた話です。広島に原爆が落ちます。日本人の映画館主と親しくなります。非常に不思議な印象を与える小説です。館主は妻を殺してしまった過去があります。後に「女ざかり」を書いた作家とは思えません。同じ頃「秘密 シークレット」という、後の「笹まくら」につながる作品です。徴兵忌避者が主人公の、当時としては珍しい小説です。8月15日が来て、命拾いします。この2作品は、重要な作品だと思います。
東北は今でも薩長が嫌いな人が多い。薩長と會津は姉妹都市にはなりません。いま「原発」で東北は大変なことになっています。永井荷風も薩長が嫌いで、悪口を書いています。ここあたりが丸谷が荷風を好きだった理由かもしれません。夏目漱石の「坊っちゃん」、坊っちゃんは江戸っ子で、山嵐は会津です。佐幕派の文学です。丸谷の書いた論文「徴兵忌避者としての夏目漱石」(1968年)。「こころ」を読む時に、先生の気持ちが理解できます。先生が乃木大将が死んで、なぜ死ななければならなかったのか。漱石は戸籍を、日本海側の北海道岩内町に移しています。岩内には顕彰する碑があります。丸谷によると、北海道の人間は徴兵制から見逃されていた。漱石が徴兵にとられていたら、日露戦争に行っていた。それが漱石の心の負い目になっていました。
いよいよ「笹まくら」です。「草枕」と同じ意味です。私は、戦前の若者たちは、心の底から本当に戦争に行きたいと思っていたのか、疑問でした。私は昭和19年の生まれです。来年は70歳です。岩波現代文庫に「あの戦争を伝えたい」という本があります。そのなかに「こんな戦争はイヤだ。家に帰りたい」というのが出てきます。建前と本音です。丸谷の「笹まくら」は、徴兵忌避で5年間も日本中を逃げ回る話です。私は一種のファンタジーだと思います。もう一人の自分を想定して小説を書いたのではないか。主人公はラジオの修理をしながら、転々と旅をし、特効の目を逃れました。
ディテールがしっかり書かれていることによって納得させられます。こういう人はそもそもアウトサイダーです。山下清は日本中を旅しました。「裸の大将」です。旅というよりは、兵隊にとられるのがイヤだったからだと思う。山中を移住していた「木地師」は、戸籍がなかった。それにしても5年間も逃げ回ることが可能なのか。私はファンタジーだと思う。最後の1年、ある年上の女性と出会い親しくなります。よくあるパターンです。宇和島の質屋の娘で、助けられて逃げます。「貴種流離譚」の型もふんでいます。
二本立て、現在と過去が表されています。戦後はどうなったのか。大学の事務局職員になります。徴兵忌避をしても主人公は心が楽しくありません。自分と同じ年齢の若者が兵隊に行っていて、自分だけが逃れている罪悪感。それらが重なり合っていきます。これは徴兵忌避のパラドックスです。小林正樹監督の映画「日本の青春」、原作は遠藤周作ですが、心が晴れることはなく、決してハッピーエンドにはなりません。
国家権力は、さまざまなものを民営化してきました。しかし、最終的に民営化できないものがあります。それは軍隊、警察、そして税務署です。安倍総理は憲法を変えようとしています。今の若者はそれでいいのか。私は公安事件で逮捕されました。小説「マイ・バック・ページ」を書きました。真っ先に褒めてくれたのは丸谷さんでした。絶賛していただきました。丸谷さんにお会いしてお礼を言うと、「君、僕は『笹まくら』の作者だよ」と言われました。
以下、川本三郎によるメモ
丸谷才一の戦争と国家にかかわる小説
「贈り物」(1966年)
「にぎやかな街で」(1968年)
「笹まくら」(1966年)
「たった一人の反乱」(1972年)
「横しぐれ」(1974年)
「裏声で歌え君が代」(1982年)
論文
「徴兵忌避者としての夏目漱石」(1968年)
徴兵について考える映画
木下恵介「陸軍」(1944年)、原作:火野葦平
篠田正浩「あかね雲」(1967年)、原作:水上勉「あかね雲」
小林正樹「日本の青春」(1968年)、原作:遠藤周作「どっこいしょ」
堀川弘通「裸の大将」(1958年)
増村保造「清作の妻」(1965年)、原作:吉田弦二郎「清作の妻」
徴兵について考える小説
松本清張「遠い接近」(1972年)
川本三郎:略歴
1944年東京生まれ。東京大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。編集者として活躍したのち1972年に退職。以後、文学、都市、映画を中心とした評論ほか、小説、翻訳など幅広い執筆活動を行う。 1991年に「大正幻影」でサントリー学芸賞、1997年に「荷風と東京」で読売文学賞、2003年には「林芙美子の昭和」で桑原武夫学芸賞、毎日出版文化賞を受賞。著書・訳書に「郊外の文学誌」「都市の感受性」「今ひとたびの戦後日本映画」「マイ・バック・ページ」「叶えられた祈り」(トルーマン・カポーティ著)ほか多数。
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