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Channel: とんとん・にっき
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芥川龍之介の「南京の基督」を読んだ!

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練馬区立美術館で「牧野邦夫―写実の神髄―展」を観てきました。画像のアクセス解析を見ると、牧野邦夫の「南京のキリスト」が、ここ数週間、一番多いのでまずは驚きました。なにしろインパクトのある牧野の油彩画です。筋肉質の女性の裸像が素晴らしい。僕も牧野作品のなかでは、「南京のキリスト」が好きです。

練馬区立美術館で「牧野邦夫―写実の神髄―展」を観た!


話は最初から脱線しますが、今日の朝日新聞夕刊(2013年5月28日)に、「キリスト墓 観光の目玉 青森・新郷村」という記事が載っていました。副題には「慰霊祭50年・・・なぜか神式・盆踊りも」とあります。記事を読んで、いや、驚きました。「ゴルゴダの丘で磔にされたキリストが、ひそかに日本に逃げ延びていた」というのだから、「エ~ッ、うそ~」と言いたくなります。いや、ホントの話のようです。なにがホントかはさておき・・・。


青森県新郷村には、キリストの墓があり、墓前で毎年開くキリストの慰霊祭はこの6月に50回目を迎える、という。人口3000人足らずの新郷村、村を貫く国道沿いの高台に、木製の古びた十字架が立つ塚が二つ並んでいます。「キリストの墓」と、キリストの身代わりとなって十字架にかけられたとされる「イスキリの墓」です。伝説では、キリストは村の娘をめとり、3人の子を育て、106歳まで生きた、という。慰霊祭である「キリスト祭」は64年に始まったが、なぜか神式で営まれる。「真偽はともかくとして、ロマンがあるでしょう」と須藤良美村長は笑う、と記事にあります。



それはさておき本日の主題は、芥川龍之介の「南京の基督」です。練馬の展示では「南京のキリスト」(芥川龍之介作品より)とありました。芥川の作品、押し入れの奥にあった文学全集を引っ張り出してきました。実は、黒澤明の映画「羅生門」について、このブログに書いたときに、この全集を出して、芥川の「羅生門」と「藪の中」をこの本で読んでいたのです。そんなわけで、芥川龍之介の「南京の基督」、ありました。上下2段組ですが、わずか10ページの短編です。一気に読み終わりました。なんとなくですが、そんな物語かなと、予想していた感じが、おおむねあたらずとも遠からず、でした。さて、「南京の基督」とは、どんな物語なのか?3章からなる短編小説です。


南京奇望街のある家の一間に、色の青ざめた支那の少女が、古びた卓の上に頬杖をついて、西瓜の種を噛んでいます。壁には折れ釘に小さな真鍮の十字架が懸かっています。その十字架の上には、受難の基督が両腕をひろげて浮き彫りされています。少女の名は宋金花といって、貧しい家計を助けるために夜な夜なその部屋に客を迎える、15歳の私娼でした。私娼のなかでは、金花ほどの容貌の持ち主は何人もいたが、金花ほど気立ての優しい少女は他にいません。他の売笑婦と違って、嘘もつかなければわがままも言わず、夜ごとに愉快そうな微笑を浮かべて、この陰鬱な部屋を訪れるさまざまな客と戯れていました。こういう金花の行状は、彼女の生まれつきにもよりますが、まだそのほかに何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から壁の上の十字架が示す通り、亡くなった母親に教えられた、羅馬加特力教(ローマカトリック)の信仰を持ちつづけているからでした。


ところが一月ばかり前から、この敬虔な私娼は不幸にも、悪性の梅毒を病む体になりました。周りの人は、痛みを止めるのに阿片酒を飲むことを教えてくれたり、さまざまな薬を親切に持ってきてくれたが、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引きこもっていても、一向に快方へは向かいませんでした。ある人は、「あなたの病気はお客から移ったのだから、早く誰かに移し返してしまいなさいよ。そうすれば二、三日でよくなってしまうに違いないわ」と言います。金花はひとり壁に懸けた十字架の前にひざまついて、受難の基督を仰ぎながら、熱心にこういう祈祷を捧げました。


「天国にいらっしゃる基督様。私は父を養うために賤しい商売を致しております。しかし私の商売は、私一人を汚すほかには、誰にも迷惑はかけておりません。けれども今の私は、お客にこの病を移さない限り、いままでのような商売をすることはできません。たとえ飢え死にしても、お客と一つ寝台に寝ないようにしなければなりません。さもなければ、怨みもない他人を不幸せにすることになりますから。しかし、私は女でございます。いつなんどきどんな誘惑に陥らないものでもございません。天国にいらっしゃる基督様。どうか私をお守りください」。こう決心した宋金花は、いくら商売を勧められても強情に客をとらずにいました。だから客は彼女の部屋には来ないようになりました。同時に彼女の家計も、一日ごとに苦しくなりました。


今夜も彼女は卓によって、長い時間ぼんやり座っていました。そこへ見慣れない外国人が外から入ってきました。「何か御用ですか」と金花が訊くと、相手は首をふって、支那語はわからないという合図をしました。金花はこの時この外国人の顔が、確かに見覚えがあるような、親しみを感じ出しました。金花がこんなことを考えていると、外国人はにやにや笑いながら指を二本立てて金花の眼の前に突き出しました。指二本が二ドルという金額を示しているようです。客を泊めない金花は、否という印に二度ばかり笑い顔を振って見せました。すると客は指を三本出して、答えを待つような眼つきをしました。金花が当惑顔をすると、客は二ドルでは彼女が体を任せないと思っているらしかった。ところが相手の外国人は、薄笑いを浮かべながら、四本の指を立てて、何かまた外国語でしゃべっていました。相手が両手の指を見せると、金花は苛立たしそうに足踏みして、続けざまに頭を振りました。


その途端に、釘に懸かっていた十字架が外れて、足元の敷石の上に落ちました。彼女は慌ただしく大切な十字架を拾い上げました。その時十字架に彫られた受難の基督の顔を見ると、それが外国人の顔と生き写しでした。金花の心には、巧妙な催眠術師が被術者の耳に囁き聞かせる暗示のような作用をおこしました。彼女の健気な決心も忘れてしまったのか、怪しい外国人の側へ、恥ずかしそうに歩み寄っていました。外国人は力一杯金花を抱きすくめました。この不思議な外国人に、彼女の体を自由にさせるか、それとも病を移さないために、彼の接吻をはねつけるか、そんな思慮をめぐらす余裕はどこにも見当たらなかった。ただ燃えるような恋愛の歓喜が、初めて知った恋愛の歓喜が、激しく彼女の胸元へ突き上げてくるのを知るばかりでした。


そして数時間後、金花の夢は、埃じみた寝台から、屋根の上にある星月夜へと、煙のように高々と昇っていきました。彼女のいまいる所は、確かに天国の町にある基督の家に違いなかった。卓の上にはさまざまな豪華な料理がたくさん並んでいます。「まあ、お前だけお食べ。これを食べるとお前の病気が、今夜のうちによくなるから」と、外国人は無限の愛を含んだ微笑も洩らしました。南京の基督はこう言ったと思うと、おもむろに椅子を離れて、呆気にとられた金花の頬へ、優しい接吻をしました。


金花は眠りがさめた今でも、うとうと心をさまよわせていました。昨夜不思議な外国人と一緒に、この籐の寝台へ上がったことが、はっきりと思い出されてきました。「もしあの人に病気でも移したら・・・」、金花はそう考えると急に心が暗くなりました。部屋は冷ややかな朝の空気に、残酷なくらいあらゆる物の輪郭を描いていました。金花は、眼をしばたたいて、しばらく取り乱した寝台の上に横座りをしていました。「やっぱり夢ではなかったのだ」。突然、彼女の顔は生き生きした血の色が広がり始めました。金花はこの瞬間、彼女の体に起こった奇跡が、一夜のうちに跡形もなく、悪性を極めた梅毒をいやしたことに気づいたのでした。「ではあの人が基督様だったのだ」。彼女は転ぶように寝台を這い下りると、冷たい敷石の上にひざまずいて、再生の主と言葉を交わしました。美しいマグダラのマリアのように、熱心に祈祷を捧げました。


翌年の春、一年ぶりに金花の所を訪れた日本人旅行家は、金花が話す基督が彼女の病を治したという不思議な話を聞いて、その外国人が自分の知ってる人で、彼が南京の私娼を買って、その女が寝ているすきに逃げてきたと得意そうに話していたが、その後、悪性な梅毒にかかり、発狂してしまったという話を思い出します。この女は今になっても無頼な混血児を耶蘇基督だと思っている。おれは女のために「蒙を啓いてやるべきか」、それとも「昔の西洋の伝説のような夢を見させておくべきか」と、迷います。


物語が終わった後、芥川は、以下のように書いています。

本篇を草するに当たり、谷崎潤一郎氏作「泰淮の一夜」に負うところ少なからず。附記して感謝の意を表す。

(大正9年6月22日)




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