東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」が開催されています。2013年3月8日(金)から5月26日(日)までです。副題には「ピカソと並ぶ美の巨匠。没後アジア発の回顧展」とあります。僕が観に行ったのは、5月8日でした。実はこの展覧会、まったく僕は観に行く予定がなかったのですが、NHKの日曜美術館に大江健三郎が出ていて、ベーコンについて自分に引き寄せて熱く語っていました。タイトルは「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」でした。
NHK日曜美術館「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」
5日、その日は朝、僕は用事があって外に出ていて、帰ってきたときに家人がこの放映を観ていました。僕が観たのは大江さんが出ている最後の部分だけでした。さっそく再放送を録画して、何度も繰り返し観直しました。もちろん大江さんに感化されて、直ぐに近代美術館の「フランシス・ベーコン展」を観に行ったというわけです。 とりあえず通り一遍の記事を5月18日に、このブログにアップしました。
そうこうしているうちに、朝日新聞の投稿欄「はがき通信」(2013年5月16日)に、以下のような記事が取り上げられていました。
悲しみが伝わる
「恐ろしいのに美しい」という見出しにひかれ、12日の「日曜美術館」(Eテレ、再放送)を見た。フランシス・ベーコンの「ある磔刑の基部にいる人物像のための三習作」は1940年代の作品。彼は第2次世界大戦下のロンドン空襲で多くの死んだ人を見た。その説明の後再び同じ絵が映ると、赤ともオレンジともいえる背景の色が目に飛び込み、悲しみが伝わってきた。人間の塊で表現したベーコンを少し理解できた気がした。(岐阜県多治見市・TK・会社員・36歳)
テレビで放映されたものをブログで取り上げるのはいかがなものか、というご意見はあるでしょう。図録も高くて買わなかったので、仕方がありません。労多くて益なし、というご意見もあるでしょう。が、僕の理解力不足に起因しているのは分かっていますが、大江さんの話は文字にして初めて伝わるものではないかと思っていたりもします。先日も、「第7回大江健三郎賞」の受賞者本谷有希子との公開対談にも行ってきました。老人特有の早口で、一度聞いただけでは理解できない部分も多々ありました。これも記録として文字にしておきました。
「第7回大江健三郎賞・公開対談」を聞く!その対談の中で、フランシス・ベーコンについて触れた箇所がありました。
大江:長編小説でも、即興性が大事。フランシス・ベーコンという画家。同じ名前の哲学者がいる。即興性、偶然性が必要だ。偶然性を彼はアクシデントと言っている。いいものにするためにはアクシデントが必要であると。偶然によって仕事を始める、が、それを書き直していく。最初の構想などないのだと言う。書き直していくと自分がなにを表現したいのかが分かってくる。ベーコンはこう言っている。書き直している間に小説ができてくる。その間に批評性が入る。私の長編小説もこうして書いている。創り上げていく、それが文学だと。
また、たまたま出会った、ベーコンに関連した文章を以下に載せておきます。
先日、酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」(岩波現代文庫:2013年4月16日第1刷発行)という本を読みました。その中の「写真術の招来」という章に、フランシス・ベーコンに関して、以下のような文章があるのを見つけました。なんと初出は「月刊百科」1983年11月号に書いたものだというから、30年も前の文章です。酒井忠康の鑑識眼の高さが分かります。
近年、その作品がはじめて組織的に日本に紹介されたイギリスの画家、フランシス・ベイコンなどは、写真をもっともたくみに利用している作家といってよい。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」のカットによった、ベイコンの仕事などは、写真と絵画だけでなく、映画も加わって、映像の再生が不断に行われていることを物語っている。(平凡社「遠い太鼓」所収、「写真と絵画」を改題)
以下、NHK「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」より
フランシス・ベーコン(1909-1992)
20世紀初頭に生まれ、第2次世界大戦後、世界的に活躍。
映画監督:デヴィッド・リンチ
フランシス・ベーコンはおそらく、私がもっとも好きな画家です。私は共鳴するのです。私も有機的な現象を愛しています。肉が大好き、人間の形が大好き、彼も同じものを愛しているのだと感じました。
ベーコンのアトリエには多くの写真が残されていた。ベーコンは写真を材料に遣い、時には何枚も組み合わせて絵を描きました。
「叫ぶ教皇の頭部のための習作」1952年
幾つものイメージが重なり合って生まれた作品は、20世紀を象徴する人間像と言われている。
大江:
「人体による習作」1949年
この絵なんか、実に美しく描かれていると思います。フランシス・ベーコンという人が、戦後から21世紀までの絵の世界を完全にリードした人だということを、いま改めて感じています。
「ある磔刑の基部にいる人物像のための三習作」1944年頃
ベーコンはデビュー作だと呼んでいた。30代半ば、画家としてはまだ無名南敷、明日をも知らない戦争の最中、ベーコンはこの絵を描きました。
「ソーホー」はロンドンの繁華街、ゲイコミュニティの中心、ベーコンはここへ足繁く通った。1967年までイギリスでは同性愛は違法でした。だからベーコンは人生の大半を法律違反の状態で過ごしたのです。ゲイをオープンにした彼は、とても勇気があったと思います。会員制の「コロニー・ルーム」、ソーホーでは伝説的なクラブで、そこではなんでも起こりえた。女主人ミュリエル・ベルチャーのお眼鏡に適わなければ、店に入ることさえできない。
「スフィンクス ミュリエル・ベルチャーの肖像」1979年
ベーコンは開店当初からの会員で、二人は大親友だった。コロニー・ルームはベーコンにとってどこよりもくつろげる場所だった。
ベーコンは絵を描くのに、写真を使っていた。特に気に入っていたのはイードウィアード・マイブリッジの写真。19世紀の写真家マイブリッジは、レスリングをする二人の男性の動作を、一コマずつ連続して撮影しました。
マイブリッジ「動いている人間像」1885年頃
この写真をもとに、ベーコンは物議を醸す作品を生み出します。ベッドの上で、裸の男性が二人絡み合っています。薄いカーテンのような縦の線が、カメラのブレに似た効果を生んでいます。男性の肉体がぶつかり合う激しい動きそのものを表そうとしているかのようです。
「二人の人物」1953年
学芸員マルガリータ・カポック
ベーコンは、マイブリッジの写真を、体の動きを調べる視覚辞典のように用いました。彼は、絵の中に動いている感じを表現したかったのです。それは「レスリングをする人」から離れ、まったく違う状況に置かれました。恋人同士の男性を描写したかったのです。
「ベラスケスによる教皇イノケンティウス10世の肖像に基づく習作」1953年
ベーコンの代表作のひとつ、ローマ教皇が大きく口を開け叫んでいます。この作品でベーコンは複数の画像を混ぜ合わせて使っています。ひとつは、17世紀スペインの画家ベラスケスによる肖像画の傑作です。
「教皇イノケンティウス10世の肖像」1650年
玉座に座る教皇の権威的な姿に、ベーコンは一見まったく関連性のない別のイメージを重ねます。
映画「戦艦ポチョムキン」1925年、セルゲイ・エイゼンシュテイン。
1925年に製作されたこの映画を、ベーコンは若い頃に観ています。乳母車が階段を落ちていくシーンは、ベーコンの脳裏に焼き付きました。アトリエには、叫ぶ乳母の写真が残されています。ベーコンの中に、乳母の叫びがベラスケスによる教皇の肖像画と混ざり合います。
学芸員マルガリータ・カポック
頭のなかに様々なイメージが混在しているとベーコンは言っていました。イメージを本来の文脈から抜き出し、他のイメージと融合させることが重要です。美術学校で学ぶような技術は、ベーコンはこだわりませんでした。
17世紀の名画と20世紀の映画、ベーコンは独特な感覚でイメージを組み合わせ、一人の人間の孤独な叫びを描きました。正式の美術教育をう受けかったベーコンは、こうした技法を独学で切り開いていきました。
東京国立近代美術館で、日本では30年ぶりとなるベーコンの展覧会が開かれています。
大江:
「叫ぶ教皇の頭部のための習作」1952年
この口に僕たちの目が吸い込まれるように描かれていて、実に人間の叫ぶということはこういうことだと。一個の人間がいま現実に生きていて叫ぶ、恐怖によって叫ぶ、怒りによって叫ぶ、悲しみによって叫ぶにしても、その叫び声がこんなに見事にとらえられている絵はない。人間が叫ぶということの意味ということの全体が表れているような絵だと思った。しかも、これは美しい。僕は美しいと思うんですね。
僕ら原発反対というのでも、少し下火になったとみんな言ってますが、私はそう思っていませんが、やはり大きい声で叫びますけど、その時に自分たちの叫び声が非常に有力だと、優勢だと、力があるとも思えわないけれども、叫ぶ当人にとっては非常にいま自分にとって大切なことをしているという気持ちで、僕はデモに行っています。デモで叫ぶとすれば、叫ぶと言っても大江さんは小さな声で何かぶつぶついっているだけじゃないかと言われるけれども、心からぶつぶつ言ってるんです。小さな声でも叫ぶことはできる、黙っていても叫ぶことがある。
大江:
絵というものは、文学でもそうですけど、ほんとに優れた文学、ほんとに優れた絵画、ほんとに優れた音楽というのは、それ以前につくられたものの影響を無視できない。しばしばいろんな絵の引用がある。しかし、引用で表現が二重三重にある面白さがある。
「ン・コッホの肖像のための習作Ⅵ」1957年
ベーコンは、19世紀の画家ゴッホを、独自のリアリズムを新たにつくり出したと讃えています。南フランスの田園を画家が一人歩いている。元になった絵、
ゴッホ「タラスコンヘの道を行く画家」1888年
大江:
芸術がしちゃいけないことは、よく分かっていることを、人が表現したり言ったりして、よく分かっていることを説明するように、絵解きするように描くものは芸術じゃない、と思います。彼はゴッホの絵を観て、夏のフランスを歩いている一人の画家ゴッホはどう感じているか、すべての感覚をリアルに感じとって、自分が絵を描くとこの絵になる。この絵が、自分がゴッホの絵を観て、心の中に呼び起こされたすべての感覚の総体だと、総合されたものだと、彼は言いたいわけです。それが僕にも伝わってくる。そして、それを見ている日本人の一人の観客が同じように強胸に突き刺さるように感じる。それが芸術というものが伝達されるリアルなものとして、芸術が受けとめられることだと、ベーコンは何度も言っています。
1960年代になると、身近な人物の肖像画を多く描くようになります。繰り返し絵にしたのは、恋人のジュージ・ダイアです。
「ジュージ・ダイアの三習作」1969年
25歳年下のダイアの整った外見を、ベーコンは好んでいました。ダイアはロンドンの下町出身。男らしい見た目とは裏腹に、内向的な性格で、酒に溺れる危うい一面がありました。お気に入りのダイアの顔を、ベーコンは激しく歪めて描いている。どんなに親しいモデルでも、肖像画を描くときには写真を使いました。写真は傷むにまかせ、時には自ら折り曲げることもありました。ダイアの写真には皺がより、顔に絵の具が落ちています。ダイアの肖像画、顔の真ん中に銃で撃たれたような黒い穴があります。ベーコンは、写真を無造作に扱ううち、偶然に生まれる色や形を絵に利用していました。ダイアはこの肖像画が描かれた2年後、大量のアルコールと薬を飲み、帰らぬ人となりました。愚かでどうしようもないのに愛おしい、一人の男性から受け取ったすべての感覚を、ベーコンは絵に残そうとしていました。
「現実は曖昧である。その曖昧さを正確に捉えなければならない」と、ベーコンは言う。
大江:
「横たわる人物像No.3」1959年
今回、ここに来ている絵の中で、フランシス・ベーコンを表現している一番の典型的な絵、一番の代表作のひとつじゃないかと思っている絵です。彼は人間の形を考える上で、人間の骨格、肉付きを含めて、一人の人間がそこに立っているとすると、その人間で一番重要なものは何かというと、脊髄骨だと彼は考えている。一人の人間がいますね。背骨がありますね。この背骨が人間の体に一本通っている。背骨というものが動物と違って、人間というものの本質を、まっすぐ立っている背というものを表現していると。ここに黒く見えますね。これは髪が伸びているんじゃなくて、背骨が体の中にある。黒い線がレントゲン写真で写したように、自分の感覚に受けとめられる、自分の感覚には目に見えるように、人間の背骨というものが見えているんだと、それを自分は描きたいんだと。すっかり新しいリアルなもの、新しいリアリズム、新しいリアリスティックなもの、新しいリアリティを絵で表現しなきゃいけない。それが私たちのやることですと、フランシス・ベーコンは言っている。
大江:
最初はそれは偶然のようにして始まった。そうするうちに一つの絵のある部分ができあがる。そうするとその段階で批評性、自分の中に批評する力が現れる。自分が描いているものがいいか悪いか、この点はいい、後半は捨ててすっかりやり直さなければ行けない。意志としてのはっきりやり方が分かっている態度決定を自分に呼び起こす力が、偶然から始まった絵に、偶然からのように始まった小説の草稿にはある。それが僕にとっては一番面白い。小説家であることの驚き、悦びに関係しています。
「三幅対―人体の三習作」1970年
僕はこの絵がとても好きです。どうしてこの絵が好きだったのか。いま考えますけど・・・。悲劇的な、残酷な、苦しい、そういう現実というものを、我々が生きている時代がそうです、それをリアルの表現する。それと共に現実の中でフランシス・ベーコンが感じているユーモア、おかしさ、陽気さ、笑い、そういうもの、あるいは根本的に肯定的なもの。こういう現実に我々が勇気を持って生きていることには意味がある、そういう人間として絵を描いている。いま若い人たちが真面目にしっかり受け止めようとすれば受け止めるべきものはある、それが人間に対する芸術の役割なんだと。非常に苦しい時代で、だから家で悲しんでいようと言うよりは、例えば近代美術館へ来て、ベーコンを観ることがどんなに励ましになるかと、僕は思っているんです。
「自画像のための習作」1976年
60歳を過ぎるとベーコンは、たびたび自画像を描くようになります。そのわけを問われてベーコンは「親しい人たちが次々と死んでしまい、自分以外にモデルがいなくなったからだ」と答えています。
1992年、ベーコンは旅先のスペインで、心臓発作のため82歳で亡くなります。
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