シャルロット・ペリアンは、1927年のサロン・ドートンヌに展示した「屋根裏のバー」で大成功をおさめ、それを引っさげて1928年、コルビュジエのアトリエに入ります。そこには世界各国から集まってきた男ばかり、女性は始めて、しかもフランス人は彼女一人でした。その頃コルビジュエのアトリエで給料をもらっていたのは彼女一人、他の人は無給、つまりただ働きだったというから驚きです。コルビジュエは見習いとしてではなく、協力者として採用したという。以後、ペリアンは約10年の間、コルビュジエ、ジャンヌレの協力者として、独創的な家具だけでなく、建築空間をコルビュジエとともに創造していきます。
前川國男とはほぼ同期入所、コルビュジエのアトリエに入った初めての日本人です。前川は1930年までコルビュジエのアトリエにいます。その後、坂倉準三が前川と入れ替わりにコルビュジエのアトリエに入ってきます。ペリアンは10年、坂倉は7年、コルビュジエのアトリエにいました。その頃のコルビュジエは、フランスでは攻撃の的でした。コルビュジエは「ボザール(フランス国立美術学校)」を嫌っていたからです。しかし国際的にはすでに有名で、世界各国の多くの若者たちがコルビュジエを訪ねてきました。「それは単に建築上の理由からだけではなく、コルが新たな生活のビジョンを提案していたからです」とペリアンは言う。
ペリアンはコルビュジエのアトリエで、ホセ・ルイス・セルト、前川國男、坂倉準三らと仕事をし、画家のフェルナン・レジェを知り、スチールの天才ジャン・プルーヴェと出会います。こうして日本とのつながりが生まれます。1940年、坂倉準三を通じて、日本の工業デザインを指導するという名目で、ペリアンは商工省からの招待を受けます。既に第2時世界大戦は始まっていましたが、彼女は思いきって来日します。坂倉からもらった岡倉覚三(天心)の「茶の本」を手に、白山丸に乗船し、日本へ出発。それはナチスドイツによるパリ陥落の翌日だったという。出迎えた前川や坂倉はもちろん、案内役の柳宗理など、多くの人に歓待を受けます。また民藝運動の創設者である柳宗悦や河井寛次郎などとも交流を持ちます。彼女は精力的に各地を訪れ、特に地方の風物に興味を持ちます。来日1年足らずで、東京、大阪で「伝統、選択、創造」展を開くことになります。
しかし、日本も大戦に突入したため、出国できなくなり、インドシナを経てフランスへ帰国したのは6年後の1946年だったという。日本滞在は彼女の創造活動に大きな影響を与えました。その結果が具体的に形になったのは、1950年コルビュジエの協力してマルセイユのユニテ・ダビタシオンのオープン・キッチンのプロトタイプです。その後、1955年、ペリアンは再び来日して、「ル・コルビュジエ、フェルナン・レジェ、シャルロット・ペリアン」展を開催します。コルビジュエはタピスリー、レジェはセラミック壁画、そしてペリアンの作品を加えた空間構成でした。1957年、パリに戻ったペリアンは、グラン・パレで「日本の住まい」展を開催します。それ以降、エールフランスの各支店のインテリア、ジュネーヴの国連会議場、等々をデザインします。
ペリアンは「本来、家具もインテリアも建築も、すべては人間に共有されるもの」という考えを持っています。妥協せずに、生涯、純粋性を貫き通しました。1998年10月、ペリアンの生前最後の展覧会が、東京のリビングデザインセンターOZONEで開催されました。
シャルロット・ペリアン(1903-1999) 略歴
1903年:パリに生まれる。
1927年:ル・コルビュジエのアトリエに入所(1937年まで)。
1940年:商工省の招聘を受け、輸出工芸指導顧問として来日。
1941年:東京と大阪の髙島屋にて「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」(通称「選擇、傳統、創造展」) 開催。
1946年:仏領インドシナを経由して、フランスに帰国。
1955年:東京、髙島屋にて「芸術の綜合への提案―コルビュジエ、レジェ、ペリアン3 人展」開催。
1985年:パリの装飾美術館にて「シャルロット・ペリアン、生きる芸術」展開催。
1996年:ロンドンのデザインミュージアムにて「シャルロット・ペリアン、モダニスト・パイオニア展」開催。
1999年:パリにて逝去。
展覧会の構成は、以下の通りです。
第一章 日本との出会い 1929-1940
第二章 日本発見 1940-1946
第三章 戦後―日本との再会 1949-1960
第四章 フランス―暮らしの中の日本 1959-1999
第五章 生活と芸術―ペリアンからのメッセージ
「シャルロット・ペリアンと日本」展、会場風景
「シャルロット・ペリアンと日本」展
20 世紀の建築とデザインに画期的な刺激をもたらしたシャルロット・ペリアン(1903-1999) は、巨匠ル・コルビュジエとその従兄ピエール・ジャンヌレとの共同作業を経て、建築とインテリアに数々の優れた作品を残したフランスの女性デザイナーです。1940年の初来日以降、たびたび日本を訪れたペリアンは、日本を愛し、また多くの日本人に愛されてきました。今回の展覧会では、戦前戦後を通じて日本のデザイン界に多大な影響を与えたシャルロット・ペリアンと日本の関係に注目しながら、彼女の仕事の今日的意義をさぐります。
展覽会概要
シャルロット・ペリアンは、1927年のサロン・ドートンヌに出品した「屋根裏のバー」が認められ、ル・コルビュジエのアトリエに入所しました。そこでル・コルビュジエと ピエール・ジャンヌレとともに手掛けた鉄やアルミニウム、あるいはガラスといった新しい素材を用いた内装は、「住宅インテリア設備」として、住宅に新しい概念をもたらしました。1940年にペリアンは、かつてル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三や柳宗理の推薦によって、商工省の「輸出工芸指導顧問」として初来日します。海外向けの工芸品の改良・指導を任されたペリアンは、柳宗理とともに日本全国をまわり、仙台の工芸指導所では若い研究員たちに、素材の扱いやデザイン手法など、ヨーロッパのモダン・デザインの実際を示しました。日本滞在中に「民藝」運動の推進者である柳宗悦や河井寬次郎らと交友したペリアンは、「民藝」の理念に触れ、また地方に残る伝統的な意匠や素材、技術を同時代の感覚と結びつける試みをしました。1941年の「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」( 通称「選擇、傳統、創造展」) で発表した《竹製シェーズ・ロング》はそのひとつです。このほかにも、彼女が提案した竹や木を素材とした合理的かつ現代的なデザインは、当時の日本のデザイン界に強く深い示唆を与えました。それは戦後のデザインにも鮮明な流れとなって残り、今なお絶えず更新されながら脈々とつづいています。1953年に再び日本を訪れたペリアンは、東京で「芸術の綜合への提案―コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」(1955年) を開催。文楽から着想した椅子《オンブル(影)》をはじめ、違い棚をヒントにした書架《雲》など、戦前の自身の日本体験をデザインに生かした数々の名作を生み出し、高い評価を得ています。5つの章で構成される本展では、家具、インテリアに関する図面、写真資料のほか、シャルロット・ペリアンが撮影した写真、交友のあった日本の人々とのあいだの書簡など約500点を紹介します。ペリアンと日本人との間の感性の共鳴とその波及をたどりつつ、21世紀の建築やデザインを考える機会となれば幸いです。
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