難波田龍起と舟越保武は、一方は画家で、もう一方は彫刻家です。二人とも、戦後日本の美術の歩みと共にほぼ同時代に生きてきました。70年におよぶ制作の歴史の中で、二人は幾たびもの苦難に出会い、生を深く見つめていました。僕が難波田龍起を知ったのは、実は東京オペラシティのアートギャラリーででした。2011年11月から板橋区立美術館で開催された「池袋モンパルナス展」にも頻繁にその名前が出てきました。また、最近読んだ中野淳の「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中公文庫:1999年8月18日初版発行、2012年7月25日改版発行)にも、自由美術展と松本竣介の関わりで、何度か難波田の名前が出てきました。
昭和22年7月に第11回自由美術展が開催されます。主な出品者は、今でこそ知名度の高い画家たちですが、当時はまだ無名に近い若者たちでした。麻生三郎、浜口陽三、井上長三郎、村井正誠、森芳雄、松本竣介、難波田龍起、小山田二郎、末松正樹、鶴岡政男、山口薫などで、少し遅れて糸園和三郎、寺田政明が参加しているし、若い人では野見山暁治、浜田知明その他の多くの俊英が出品するようになる、と、中野淳は克明に列挙しています。
難波田龍起は、1905年北海道旭川に生まれます。翌年上京し、のちに駒込千駄木に住みます。1923年の関東大震災の折りに町内の夜警に立ち、高村光太郎と知り合う。龍起が絵画を始めるきっかけは詩人・彫刻家の高村光太郎との出会いでした。光太郎のアトリエのすぐ近くに住んでいた高校生の龍起は、自作の詩を携えて光太郎のアトリエに通ううちに、彼の生き方や芸術観に非常に強い影響を受け、絵画の道を志すようになりました。龍起は高村光太郎や、一時、川島理一郎に師事しながらも、ほぼ独学で絵画を学び、70年以上に及ぶ画業の間、最後まで独立の精神を貫きました。自由でありながら一方で厳しいまでに色や形を追い求めた龍起は、西洋にはない独自の抽象絵画を確立したのです。
1933年頃より、松本竣介、鶴岡政男らと親しくなります。この頃、ギリシャ彫刻をモチーフにした作品を制作、翌年のフォルム展で発表します。「池袋モンパルナス展」では、難波田の1936年の作品、「ニンフの踊り」と「ヴィナスと少年」が出されていました。戦後の独自の抽象画作品とはまったく異なります。
抽象美術は 人間の空想力や 想像力を取り戻すものである。
そして、目に見える現実のみに執着する人間の心を
もっと広い世界 目に見えない世界へ解放するのである。
―難波田龍起―
一方、舟越保武(1912-2002)については、過去の何度かこのブログで取り上げているので、簡単に述べておきます。佐藤忠良との関係も、また松本竣介との関係も何度か書いたことがあります。舟越がカトリックの洗礼を受けたのは1950年のことでした。熱心なカトリック教徒であった父親への反抗心から、洗礼を拒み続けたという。舟越が帰依するに至ったのは、戦後の食糧難の中で生後8ヶ月の長男を亡くしたことによります。以後舟越はキリスト教を題材にした作品を多く手がけるようになります。大理石の彫刻に長年取り組んできた舟越の作品の根底には、人間愛と慎みがあります。
1987年、舟越は脳梗塞によって右手の自由を失い、翌年から残された左手による制作を始めました。粘土で原型を作るブロンズの技法はここから始まります。「ゴルゴダ」や「聖マリヤ・マグダレナ」には、粘土との格闘の痕跡がそのまま残された荒々しい造形には力強さがあり、研ぎ澄まされた精神そのもののあらわれが見る者を惹きつけます。
難波田龍起作品
舟越保武作品
難波田・舟越関連
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