田中辰明の「ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家」(中公新書:2012年6月25日発行)を読みました。帯には「ドイツ→日本→トルコ ドイツ表現主義の旗手から、社会主義建築家へ。日本美を称賛し、新生トルコで新様式を展開――」とあります。帯の裏には「色彩の建築家はなぜ白木の美に惹かれたのか」として、以下のようにあります。
第1次大戦後のドイツ、タウトは貧困にあえぐ労働者のための集合住宅を華やかに彩り、「色彩の建築家」と呼ばれた。しかしナチスの圧迫を逃れて来日、白木の建築に感銘を受けて、日本美の紹介に努めた。その後トルコに招聘され、新しい様式の建築を展開した。激変する環境のなかで変容を重ねる作品を紹介しつつ、妻と秘書の2人の伴侶、建築家であった弟と子供のことなど複雑な人間関係を解明し、58年の生涯を辿る。
この本は、一言で言えば「労作」です。間違いなく足で稼いだ著作です。この本の著者・田中辰明は、「筆者は1970年代初頭のベルリン留学中からタウトの建築に惹かれ、現存するほぼすべての作品を訪れた。主要作品はすべてフィルムに収めたと自負している」と、自負しています。「あとがき」には、1972年、ベルリンに住んでいた頃、大学時代の恩師で建築家の武基雄の訪問を受け、タウト設計の住宅団地を案内し、以来、タウトの建築作品を現地に訪ね、資料を収集し、関係者にインタビューして、ようやく「ブルーノ・タウト」を上梓することができたと、喜んでいます。
田中辰明の略歴は、以下の通りです。1940年東京に生まれる。1965年早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専修修士課程修了。65~93年大林組技術研究所勤務。この間、71~73年DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所に留学(客員研究員)。93~2006年お茶の水女子大学生活科学部教授。2006年ドイツ技術者協会(VDI)よりヘルマン・リーチェル栄誉メダル授与される。工学博士。現在お茶の水女子大学名誉教授。著書に「建築家ブルーノ・タウト――人とその時代、建築、工芸」(柚木玲と共著:オーム社、2011年)他、多数。
意外や意外、ブルーノ・タウトの足跡を追って、その仕事や人となりを紹介する著作は、実はあるようで、ない。「タウトはナチス政権を逃れて伴侶エリカと共に来日し、主に高崎市郊外の少林寺達磨寺の洗心亭に籠もって『日本 タウトの日記』『日本美の再発見』『日本文化私観』など多くの著作を遺し、日本文化を世界に紹介した」とあるように、タウト自身の著作はよく知られているし、数も多い。桂離宮を絶賛し、また伊勢神宮を称賛しています。タウトは桂離宮を「皇室芸術」、東照宮を「将軍芸術」と読んで対比しています。「皇室芸術はお茶の流れを取り入れて、桂離宮に到達し、将軍芸術は秀吉の豪華絢爛を経て、日光東照宮にたどり着く。これはキッチュ(いかもの)である」と。
この辺は井上章一の「つくられた桂離宮神話」に詳しいが、タウトは日本到着の翌日、5月4日に、上野伊三郎にに案内されて、もう桂離宮を訪問しています。この辺はちょっと出来過ぎた感があります。「第4章 日本美の再発見」には多くの実業家や文化人との交流を一人一人丹念に追っています。上野伊三郎、井上房一郎、下村正太郎、久米権九郎、蔵田周忠、ブブノワ夫人、廣瀬大蟲、上野リチ、廣瀬敏子、水原徳言、吉田鉄郎、等々、興味は尽きません。また、日本でのたった一つの実現した仕事である「日向別邸」、その発注の経緯や、一部屋ごとの詳細な記述は目を見張ります。
圧巻は、ここまで書くのかというほど、「第5章 二人の伴侶――妻と秘書」の項は、田中は追求の手を緩めることをしません。ブルーノ・タウトは建築家として、文筆家として、偉大な業績を残しています。その陰には、タウトを支えた2人の女性がいた。一人は正妻のヘドヴィックであり、もう一人はタウトと共に来日した秘書のエリカです。タウトはヘドヴィックと結婚しておきながら、エリカと20年以上生活を共にしていました。エリカは事情はともあれ、日本ではタウト夫人とされていたようです。田中はタウトの孫を訪ね、エリカやヘドヴィックの墓を突き止めます。また建築家であった弟のマックス・タウトのことなど、知られていない事柄も紹介されます。
ブルーノ・タウトは、来日前にすでにドイツで名を成した建築家でした。ドイツ表現派の旗頭であり、ベルリンに集中してきた労働者のための集合住宅を建設した人物でした。その数1万2000戸に及んだという。2008年にベルリンの集合住宅団地(ジードルンク)6件が「ベルリンのモダニズム集合住宅群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。そのうち4件がタウトの設計でした。平和主義に徹したため、当時の政権と折り合いが悪く、亡命のようなかたちで、1933年に来日します。しかし希望していた大学教授の口もなく、設計の仕事も熱海市に残る「旧日向別邸」の地下室だけです。
ナチスドイツと共に戦争に突入しようとしていた日本は、タウトにとっては次第に住み辛くなっていきます。そしてイスタンブール芸術アカデミー享受として招聘されていたトルコへ向かいます。トルコでは初代大統領ケマル・アタチュルクの信頼を得て、アンカラ大学をはじめ多くの設計活動を行います。しかし、大統領が急死し、タウトはその葬祭場の設計と演出を行った後、家老がもとで同じ年に亡くなり、イスタンブールの土となります。享年58歳で、波乱に満ちた生涯でした。
目次
まえがき
第1章 修業時代
第2章 円熟期を迎えて
第3章 ベルリン・モダニズムのなかで
第4章 日本美の再発見
第5章 二人の伴侶――妻と秘書
第6章 イスタンブールでの生活
参考文献
あとがき
付録
「ブルーノ・タウト」ウィキペディア
日本美の再発見 増補改訳版
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳
岩波新書(赤版)39
1962年2月20日第19刷改訂版発行
桂離宮をはじめ、伊勢神宮、飛騨白川の農家および秋田の民家などの美は、ドイツの建築家タウトによって「再発見」された。彼は、ナチスを逃れて滞在した日本で、はからずもそれらの日本建築に「最大の単純の中の最大の芸術」の典型を見いだしたのであった。日本建築に接して驚嘆し、それを通して日本文化の深奥に遊んだ魂の記録。