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松家仁之の「火山のふもとで」を読んだ!

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とんとん・にっき-shin


松家仁之の「火山のふもとで」を読みました。この小説を知り、読むきっかけとなったのは、松浦寿輝の「文芸時評」 (朝日新聞:2012年6月27日)でした。「主人公の『ぼく』は設計を志す若者で、尊敬する建築家の事務所に採用されるという幸運を得て、才能豊かな先輩たち、魅力的な女性たちと出会う」として、「吉村順三、丹下健三、野上弥生子といった実在の人物を想起させる趣向が、虚構と現実との間に回路を開く効果を上げ、終始読者の興味を繋ぎとめる」と続けます。こう書かれると、建築家としては是が非でも読んでみたくなるというもの、すかさずアマゾンに頼んで、一気に読み終わりました。


目次には、「先生は、小さな声で呟くように、建築史に残る建物を生み出す。生を豊かにする空間とは? 浅間山のふもとの山荘で、設計コンペの戦いとロマンスの時が静かに深々と刻まれる――。超大型新人デビュー!」と書かれており、デビュー作・650枚一挙掲載とあります。650枚というと、僕ら素人にはよく分からないのですが、雑誌「新潮」 の2段組、200ページ弱というもの、単行本にしたらどの位になるんでしょう。たまたま新潮2012年4月号の、柴崎友香の「わたしがいなかった街で」は、目次には350枚一挙掲載とあり、やはり2段組110ページでした。なんとその倍です、「火山のふもとで」は。


巻末の「主要参考文献」、邦訳されたものでは、「北欧の建築」、「アスプルンドの建築1885-1940」、「アスプルンドの建築 北欧近代建築の黎明」、「ライトの生涯」、「知られざるフランク・ロイド・ライト」、「未完の建築家 フランク・ロイド・ライト」、「ライト 仮面の生涯」、等々。著者の松家は、これらの文献を相当読みこなしていること、そしてそれが尊敬する先生の言葉となって随所に出てきます。



ぼく・坂西徹が村井設計事務所に入ったのは1982年、村井俊輔はすでに70代半ばでした。新卒の学生の採用は1979年で、新たな採用はもうないだろうといわれていました。4年生になったぼくは、大学院の残る気もなく、ゼネコンの設計部へも、アトリエ系の事務所にも行くつもりはなかったが、ただ一人、尊敬する建築家がいました。64年の東京オリンピックや、70年の万国博覧会など、日本を象徴するような舞台で設計をした人ではない。口数が少なく、本業以外には手を出さなかったから、建築に強い興味を持つ人以外に、その名を知る機会はなかったろう。その人は村井俊輔でした。


60年代の終わりから70年代の初め、村井俊輔はむしろアメリカで知られていたかもしれない。アメリカ東部屈指の資産家の邸宅(注1)を設計します。数ヶ月の間アメリカ東部に滞在し、現場の監理をしました。大戦前から2年にわたって、フランク・ロイド・ライト(注2)の設計事務所に弟子として勤めて以来のアメリカ滞在でした。新たな邸宅の依頼も「大邸宅ばかりやっていたらスケールの感覚がおかしくなってしまうからね」というのが本当の理由でした。60年代に入ってから数年間、国のかかわる大規模な仕事(注3)を依嘱されたが、設計の方針を巡り担当部署と対立し、屈する思いを味わわされます。先生はこれを期に、公共建築の設計には手を出さなくなります。


注1:ポカンティコヒルの家/ロックフェラー邸 1974年

注2:レーモンド事務所 1940年春渡米

    1941年帰国、太平洋戦争勃発の日に事務所開設

注3:新宮殿基本設計 1966年


大学4年の秋になって追い詰められたぼくは、ほとんど可能性のない、しかし自分の一番の望みに向けて足を踏み出します。村井設計事務所で働かせてもらえないだろうかと尋ねる手紙を書き、投函します。一週間ほどして、事務長の井口さんから電話があり、採用の予定はないが、短い時間なら先生が会ってくれるという。翌日、北青山の事務所を訪ね、所長室で先生と話をします。一週間後にまた井口さんから、仮採用が決まったと、電話がありました。翌日事務所を訪れると、先生は「ここにいる限りは、良く弁キョして、いい仕事をしてください」と言いました。


年が明けてから、大学の授業がある日をのぞいた月、水、土の3日間、朝から事務所に通うようになります。設計室のいちばん隅に机をあてがわれます。じっと座っている暇もなく、隣の席の教育係の内田さんから雑用を次々と申しつけられ、なんとか仕事を覚えてゆく日が続きます。雑用といってもその仕事にはすべて理由があり、可能な限り合理的に動かされていました。80年代早々の、どこか騒がしい、風を切るような建築の世界で、先生の作品は日本的な伝統の流れをくむ懐かしいものと評価されがちでした。しかし、事務所の運営にも先生の建築にも、日本的とはいいがたい、合理性が貫かれていました。先生がつくる空間がしみじみと落ちついたものに感じられるとしたら、そのしみじみには理由がありました。


春になり、4月1日の夜、事務所近くのイタリアンレストランで、ぼくの入所を祝う会が開かれます。最後に出てきた「コ」の字型の白い大きなケーキ、北浅間の「夏の家」をかたどったものでした。もうひとつのケーキは、ひとかかえもあるモンブラン、山肌はパレットナイフで整えられ、頂上から白い粉佐藤が振りかけられていました。雪の残る春の浅間山でした。その1ヶ月後、ラジオで浅間山の噴火のニュースを聞きました。1973年以来、およそ10年ぶりの噴火でした。


北青山の住宅街の見落としそうな路地に、村井設計事務所はひっそりとあります。コンクリート造の一軒家で、軒下に3台分の駐車スペースがあります。毎年、7月の終わりから9月半ばまで、北青山の事務所は開店休業状態になります。北浅間の古い別荘地、通称青栗村にある「夏の家」へ、事務所機能が移転するからです。村井設計事務所は先生と経理担当を含め13人のメンバーで、貴人の建築家が主宰する設計事務所としてはそこそこの規模だが、戦後日本の建築しに名を残す設計事務所としては、むしろ小さい方です。先生は事務所の規模に合わせて仕事を選び、気乗りのしないものについては丁寧に断って、拡大の機会を淡々とやり過ごしてきました。


村井山荘が1956年に建てられたときは、先生夫妻が夏の避暑に使うための小屋でしかなかったものが、82年までの4半世紀で6度の増改築が繰り返され、5倍以上の大きさになっていました。


続く

新潮社「火山のふもとで」(立ち読み)


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