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Channel: とんとん・にっき
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芥川賞候補作・松永K三蔵の「バリ山行」を読んだ!

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芥川賞候補作・松永K三蔵の「バリ山行」(群像:2024年3月号)を読みました。

 

執筆者一覧には、作家。80年生。「カメオ」とあります。

群像新人文学賞受賞第一作です。

 

道とは言えない山道をひとりゆくその人の思いは、どこにあるのだろう。やり過ごす毎日に追われながら波多はふと妻鹿さんのことを考える。

群像新人文学賞優秀作受賞第一作。

 

松永K三蔵の「バリ山行」はこうして始まります。

 

山ですか? 最初に山に誘われたのは四月。山ガールだという事務の多門さんに声を掛けられ、私はキーボードを叩く手を止めて顔を上げた。

「はい! 波多さんも行きましょうよ」

山。それはいつ以来だろう。高校、いや、あれは中学時代。部活の合宿で丹波の山に登らされた記憶があった。大学の頃、旅行先で寄って夜中に友人と旅館の裏から山道に入り込んだのは登山とは言わないだろう。

登山歴20年、定年後も嘱託として勤めている松浦さんが「いっぺん、みんなで行けへんか?」と言い出したという。社内の電子掲示板に「春の六甲登山」というタイトルのトピックが出ており、「運動不足解消に。先着10名限定 レッツのぼりニケーション」というかなり無理のある語呂の見出しがついていた。ジムを退会し、運動不足にもなっていたし、アウトドアにも興味があった。

 

けれど、何度か山に登るうち、いつしか私のスマホには登山関連のものが増えた。登山アプリはもちろん、関西の山を紹介したブログや登山系ユーチューブチャンネルの更新をテックして、アプリでフォローした相手の相手の山行記録を見る。そんなことが私の昼休みの過ごし方になった。

そんな登山部の山行に、妻鹿(メガ)さんが参加すると聞いて私は意外に思った。――妻鹿さん。営業二課主任。メガ。インパクトのあるその響き。私がその名前をはじめて耳にしたのは転職した数ヶ月経ってからだった。

 

――バリって何ですか? あの時に訊けなかった問いが、私の中で甦った。

「バリっていうのは、バリエーションルートの略ですよ」

バリア―ションルート。バリルート。そんな言い方もするという。通常の登山道でない道を行く。破線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道そういう道やそこを行くことを指すという。「でも明確な定義はないんじゃないかなぁ。ちょっと珍しいルートでもバリエーションと言っちゃう人もいますし。逆に踏み跡も無くて、ルートにもなっていない沢沿いとか尾根伝いとか、地形図を見て、登れそうなところ、行けそうなところを進んでいく完全ルート無視の山行――」そんなものを含めて指すこともあると言う。

 

「じゃあ、一回行ってみる?」そう妻鹿さんが言ったのは帰りの社内だった。えっ? と思いがけない誘いに私が戸惑っていると、「山、行ってみる? バリ」と妻鹿さんは笑った。

「お、お願いします!」私はほとんど跳び付くような勢いで言った。妻鹿さんにどういう心境の変化があったのか、僅かであっても現場をともにして仲間意識が芽生えたのか。それは社交辞令でなく、妻鹿さんは「じゃあね――」と手帳を開いた。「来週の木曜、俺、振休なんだよ。もし波多くんも休めるならその時でう?」

 

「バリ山行」、終わりはこうです。

峪底の岩に腰を下ろして周囲を見上げる。新緑の緑が薄靄に溶け、濾された西陽がやわらかく漂っている。峪には僅かに流れがあった。屈んで流れの水を掬い、湯を沸かした。フィルターを広げコーヒー粉を落とす。均した粉に湯を注ぐ。粉は膨れて泡を噴いた。湯気は伸びてゆるく縒れていき薄靄の中に馴染んだ。一口飲んで息を吐く。

流れでステンのカップを濯ぎ、ザックのカラビナに吊るして立ち上がる。峪底を歩きながら木立の斜面に抜け経を探して歩く。

谷を囲うミツバツツジの赤紫が目を惑わせるほど眩しい。ふと見るとその中の一本が、枝先にひとつ青い花をつけている。不思議に思って近づいて見ると、それはまだ新しい、あの青いタータンチェックのマスキングテープだった。

 

中小企業の右往左往の社内事情と、それにもかかわらず、バリ山行を毎週のように決行する妻鹿さん。それに憧れ、バリ山行に同行を願い出る私・波多くん。終わりは決して明るいものではなかったが、それでも清々しさは残った。芥川賞の候補作、控えめだが候補作に該当するような作品だと思います。

 


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