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Channel: とんとん・にっき
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芥川賞候補作、三木三奈の「アイスネルワイゼン」を読んだ!

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芥川賞候補作、三木三奈の「アイスネルワイゼン」(文學界:2023年10月号)を読みました。

 

10ページから78ページまでの中編です。

全編、ほとんどが会話調です。

平易な文体で、読みやすい。

 

子供がうつらうつらしはじめたところで、琴音は足を組み直した。太ももに手をのせ、ピアノの屋根の上、四つの写真立てを眺める。端から順に、子供の写真、家族の写真、子供の写真、子供の写真。メトロノームは隣の食器棚の中、ワイングラスの横に並んでいる。琴音は腕時計を見おろすとため息をつき、子供の横顔を見つめた。頭がゆらゆらと前に傾いて楽譜にあたりそうになると、子供はびくついて目を開いた。「寝てたでしょ」琴音が言うと、子供は目をつむったまま、にやりとした。

 

「それで、先生にお伝えしないといけないんですけど」母親は隣に座る子供の顔を覗き込んで言った。「ね、先生に言わなきゃいけないことがあるんだよね?」子どもはフォークをくわえながら首をかしげ、ぽりぽりと頬をかいた。そしてそのまま押し黙った。「もー、自分から言うって昨日約束したでしょ」母親は笑いながら言った。「先生、大変申し訳ないんですけど、先週お聞きした、来年の発表会、今回は、欠席させていただきたくて」「えっ、そうなんですか」琴音は目を丸くした。

 

・・・

 

初めまして。私、加藤の妹の、加藤茜と申します。姉の代わりに、僭越ながらお返事差し上げております。この度キティちゃんのラインスタンプを頂戴し、誠にありがとうございます。

猪突ではございますが、姉の加藤美咲は今年の十一月十九日に亡くなりました。四十九日が過ぎるまでは姉の携帯を私が管理し、ご連絡いただいた方々へ姉の代わりにご報告させていただいている次第です。〈貴方様で三人目になります〉ご質問戴いた姉の作曲の件ですが、これではないかという見当があります。その話をさせていただきます。

 

姉が高校三年生の冬休みの時分、私はインフルエンザに罹っておりました。人生初めてのインフルエンザであり、一時は病院で点滴も打ったのですが、自宅に戻ってからは姉が看病をしてくれました。十二月二十八日は私の誕生日なのですが、その日も私は床に臥せっておりました。姉はアルバイトの休憩中に電話をくれ、誕生日ケーキは何がいいかと聞いてくれました。私はアイスが食べたいと答えました。夜になって姉はサーティワンのアイスケーキを携えて帰ってきました。蝋燭をケーキに立てようとしたのですが、凍っており刺さらず、キリで穴を開けて刺しました。そのとき姉が言ったのです。帰り道に曲が浮かんだので、この曲が完成したら、私の誕生日プレゼントとして贈ってくれると。数日後、姉は曲を完成させ、聞かせてくれました。(その頃はまだ家にピアノがありました)姉に曲名をたずねると、考えておくと姉は言い、後日、「アイスネルワイゼン」と命名した旨を教えてくれました。(ツィゴイネルワイゼンをもじったものと思われますが、どうしてもじったのか、結局聞きそびれてしまいました)おっしゃる通り、変イ長調の夜想曲です。姉が貴方様に披露した曲は、おそらくこれではないかと思われます。

 

音源をということですが、残念ながらありません。そういったものをこれまで残してこなかったのを後悔しております。曲によっては楽譜として残しているものもあり、おそらく「アイスネルワイゼン」もあると思われますが、まだ部屋の整理が終わっておらず、姉の私物が山積みになっている状態です。恐ろしいほどの量です。それに楽譜とは名ばかりで、姉が自分の演奏用に書いただけの、音符を用いた暗号文のようなものですので、私でさえ判読できるかわかりません。

しかし「アイスネルワイゼン」だけは、姉がよく演奏してくれた曲であり、(我が家のクリスマスソングのようなものでした)易しい曲ですので、実のところ私も弾けます。そこでこれは私の単なる思いつきですが、約日、ピアノのある公民館などの一室を借り、私が「アイスネルワイゼン」を演奏するというのはいかがでしょうか。それまでに姉の楽譜を探し出し、清書しておきます。それを当日、貴方様にお渡しします。お時間はそれほど取らせません。

以上、失礼千万を承知のうえで申し上げましたが、どうしてか私はいま、この突飛な思いつきを姉が喜んで聞いてくれているような気がしております。どうぞご検討のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

右手の親指を塗っているところで、電話が鳴った。ゆあなの母親からだった。琴音が電話に出ると、母親は一息に言った。「ごめんなさい、先生、おはようございます。私、市田ゆあなの母です。今大丈夫ですか?」琴音は遠い目を窓ガラスに向けると、どうしました、と言った。「ごめんなさい、ごめんなさい。先生、こんな朝早く、わかってます、クリスマスの、これからプロポーズされるってときに。でも私、どうしても先生にご相談したくって」「はい」琴音はネイルブラシをボトルに戻した。「発表会なんですけどね、私、やっぱり湯穴に出てもらおうと思うんです」「え!・・・」

 

県外からの旅客である山脇夫妻は、改札を出ると、広々とした駅の構内を見まわした。彼らが琴音に声をかけたとき、彼女はキャリーケースを抱き抱えるようにして地面にへたり込んでいた。「立ち上がれる?」妻が琴音の背中をさすりながら言うと、彼女は首を振り、キャリーケースを力無く叩いて言った。「これ、これが・・・。重たくて」妻は顔を近づけて聞き返した。「もう、持てません」琴音は声をひしゃげて言った。妻がキャリーケースの持ち手に手をかけると、それは軽やかな動きで琴音の腕を離れた。妻は不思議そうな顔を夫に向けた。琴音は両手を地面についた。ふかく頭を落とすと、垂れた髪がその手を隠した。ロータリーから射す光の束が、彼らのすぐそばを照らしはじめていた。「これが、重たいの?」妻がたずねると、琴音は声をあげて泣き崩れた。

 

三木美奈は91年生まれの作家です。

芥川賞は消去法で、他の三作品と違っているので、大穴で、もしかしたら受賞可能かもしれません。

「消火器」(「文学界」:2022年10月号)という作品があるようです。

 

これで今回の芥川賞候補作は、川野芽生の「Blue」以外、すべて読んだことになります。川野の「Blue」は、「すばる」2023年8月号が手に入らないため、読むことができません。さて、どうなることやら、予想がつきません。

 


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