映画「ヴェニスの商人」は、シャイクスピアが執筆した37の戯曲の中で最も人気が高い「ヴェニスの商人」を、「イル・ポスティーノ」のマイケル・ラドフォード監督が映画化したものです。アル・パチーノ主演の「ヴェニスの商人」を観たときに、まったく横道からでしたが、ブログには以下のように書き始めました。
「ヴェニスの商人」といえば、日本の代表的な経済学者で東京大学経済学部教授の岩井克人の書いた「ヴェニスの商人の資本論」、本棚を探したら出てきました。僕が持っているのは1985年に筑摩書房から発行されたもの。この本、何度読んでも頭に入らなくて、苦い思い出のあるものです。岩井克人の奥さんは、「続明暗」(1990年)や「本格小説」(2002年)を書いた作家の水村美苗です。
久々の水村美苗の作品、「母の遺産 新聞小説」(中央公論新社:2012年3月25日初版発行)を読みました。まさに新聞小説、初出は「読売新聞」土曜朝刊(2010年1月16日~2011年4月2日)でした。僕は見ていないので確かなことは言えませんが、挿絵はあの山口晃が描いていて、評判になっていたようでした。今回の著作も口絵と題字は山口晃が担当しています。そうそう、水村美苗の著作のカバー装画は、「続明暗」も「本格小説」も、そして今回の「母の遺産」も、ウィリアム・モリスの図案を使っています。
いろんな意味で関係するので、水村美苗の略歴を以下に載せておきます。
東京に生まれる。父親の仕事の関係で12歳の時に渡米。イェール大学および大学院で仏文学を専攻。創作の傍らしばらくプリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年「続明暗」で芸術選奨新人賞、2001年「私小説 from left to right」で野間文芸新人賞、2002年「本格小説」で読売文学賞。2009年には「日本語が滅びるとき――英語の世紀の中で」で小林秀雄賞受賞。
「きょう、ママンが死んだ」、あまりにも有名なアルベール・カミユの「異邦人」の書き出しです。水村美苗の「母の遺産」は、母親の通夜に主人公の美津紀と姉の奈津紀が、長電話をするところから始まります。姉妹が育った世田谷の千歳船橋の68坪の土地を手放して、老人ホームの入居金と月好きかかる費用を捻出したが、母が入居していたのは、誤嚥性肺炎で入院していた日数を入れてもわずか8ヶ月でした。姉妹の話題は、老人ホームからいくら戻ってくるのかも含めて、母の遺産はいったい全部でいくらぐらい遺ったのか。
「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」、介護疲れの美津紀は思ったりもしました。母からの開放感は、母との関係がちがった分だけ、姉妹で大きく質がちがったが、あの母から解放されたという全身を貫く開放感は同じでした。「でもね、自分のお金ができたのもうれしいけど、何よりも、50代であの人から解放されたのがうれしい。50代で解放されるなんて、そんな滅相もないラッキーなこと、考えないように、考えないようにってしながら生きてきたもん」、「ほんとうにそう」、「それに、あの人を見ていると、長生きだけはしたくないって、そんな思いばかり強くなって、なんだか生きる気がしなくなっちゃって」、「あたしもよ」と、姉妹の会話は続きます。
元芸者の「お宮さん」の娘に庶子として生まれた母「ノリコサン」は、身体が不自由になっても、死の間際までわがままのし放題でした。姉の奈津紀と母の関係は露骨にぎすぎすしていました。姉に見切りをつけた母は、それまで放っておいた下の娘の美津紀にすり寄って、すべてを任せるようになりました。このあたりは水村の実母がモデルだという。「母の面倒を見るのは本当に大変でした。実際は小説よりも凄かった。女性は最後まで人との関わりを持ちたがるので、うっとうしくて。多くの原材料を与えてくれました」と、述懐しています。この小説全体が、今までの水村の作品もそうですが、水村の実体験、まさに私小説だと、僕は思っているのですが。
夫は大学の教師、自分自身も大学で非常勤の職があるという、そこそこ恵まれた環境です。パリへ留学していた時に知り合い、結婚した高学歴の二人です。美津紀は自分のことを不幸だと思う権利などないと信じて生きてきました。それがある日、気がついた時、自分がそう幸せだとは思えなくなっていました。普通の切手を探しに夫の書斎兼寝室に入り、何の気もなしに一番上の引出を開けると、見慣れない綺麗な花柄の刺繍が施されたティッシュ入れが目に入ります。美津紀は直感します。哲夫に親しい女がいる、と。
愛されなかった。・・・18歳ならともかく、25歳にもなって、まちがった男を選んでしまった。天から、たった一度、与えられたことが軌跡だとしか言いようもない人生で、一番肝心なところで、躓いてしまった。しかも、それを知りながら、知っていることに向き合おうとせず、今の今まで生きてしまった。・・・愛されなかっただけではない。自分も哲夫を愛さなくなっていた。女とのメールを読んだ時、心を突き刺したのは、悲しみではなく、屈辱だった。思えば、あのメールは自分の心がいかにすでに冷え切っていたかを教えてくれたようなもので、それまで離婚を考えなかった自分こそ攻められるべきであった、と、美津紀は自分を責め始めます。
「羨ましいわ」と、美津紀の結婚を理想化する姉に言われるたびに得意だった。「横浜」に向かう上り坂を母を戦闘に、奈津紀の楽譜鞄を持たされた小さな自分の姿が蘇った。あんな不公平にもめげず、自分は自分の意志で姉の夫と対極にある人物を選び、めでたく幸せを掴んだ・・・その自負が自分の結婚が失敗だったのを正視するのを妨げたに違いない。
そもそも祖母が自分の身を「お宮さん」に重ねなければ、母がこの世に生を受けることもなかった。祖母があの新聞小説さえ読まなければ・・・。思えば、美津紀自身が新聞小説の落とし子であった。やはり、ことの根底には、あの母があの母であったがゆえの不幸があった。あの母はなぜあのような人間だったのだろう。題名の「新聞小説」は、夏目漱石の「明暗」や、尾崎紅葉の「金色夜叉」が新聞に連載されていたことによります。「なにしろ、あの漱石が新聞に連載していたんだからね、驚きだよ、当時の新聞は」と父がかつての文学青年なら誰もが言いそうなことを言った、という箇所があったりします。「母の遺産」も、読売新聞に連載されていたので、一章一章が短く、非常に読み易い文章です。
「母の遺産」は大きくは2部構成となっているように見えます。後半は、小田急のロマンスカーで箱根へ行って、ホテルに10日間の長逗留する中で、パリ留学中の夢のような夫との出会い、母親との反目、姉との確執などを思い出しながら、これからの自分自身のことを見つめなおします。前半とはちょっとニュアンスが異なります。しかも、通俗小説的に新たな人物が次々と出てきて、話題が進展します。カオルさんという老女が「自殺候補者」を探るあたりは、ミステリーじみてやや興ざめします。初老の夫婦や、仲の良い母娘はまだしも、偶然にしても母が入院していた病院で出会っただけの男、松原氏と再会するあたりは、やや出来過ぎた感があります。それも、もしかしたら、と思わせたりもします。
ラスト、「細雪するのどおお?」と姉の奈津紀に電話します。「細雪する」とは、母娘三人が着物を着てめかしこんで出かけるのを指します。久し振りに銀座で着物を着て二人は会います。美津紀は母の縮緬の濃紺の訪問着を着ているのを見て、姉の奈津紀は「五つ紋? それってひょっとして・・・」と驚きます。美津紀は「そう、“金色夜叉の着物”」と応じます。「なんだか離婚するっていうんで、発想がぶっとんじゃった感じね」と奈津紀は言い、「羨ましいわ。なんだかすごく自由に憧れちゃって」と続けます。「テッちゃんと結婚しても羨ましくって、離婚しても羨ましいわけ?」と美津紀は言い返します。
生きている・・・こうして私は生きている。私は幸せだ――その瞬間、そう思わねば罰が当たると美津紀は思います。どれほど長いあいだその言葉を自分に言えなかっただろう。私は幸せだ、と美津紀は口に出して言い、誰ともなく許しを請うていた。・・・哲夫にも許しを請うた。・・・正視すべきだったことをついに正視できたと、今や女に感謝していたぐらいだったが、そんな風に思っていること自体が哲夫に対して犯した罪であった。
母はにはどうか? ああしてわがままの限りを言いながら――ああしてわがままの限りを言うことによって、母は母なりに娘の許しを請うていたのかもしれない。美津紀自身、そんな母をいつのまにか許していました。時は4月、母が二度と見ることはない桜の花は、いづれ美津紀も二度と見ることがなくなる桜の花であった。
よくも悪くも日本近代の高学歴中産階級(正しい定義は知らないが)の小説です。水村美苗の書く小説は、「続明暗」から「本格小説」を経て、「母の遺産 新聞小説」に至り、明らかに日本文学の王道を歩み、意識して伝統を継承しようとする、優れた作品であると思います。
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