新宿・武蔵野館でロウ・イエ(婁燁)監督の「天安門、恋人たち」を上映していました。変則的な上映で、11月7日、上映開始18時30分の時間の1時間半前に行ったところ、残念ながら満席ですと言われ、すごすごと引き返してきました。
過去にこの作品について書いたブログがあったので、以下に載せておきます。
[シアター]イメージフォーラムで「天安門、恋人たち」を観る!
「文学界」6月号で、楊逸の「時が滲む朝」を読んだときに、もう少し中国関連の小説や映画がないかと調べていたら、「天安門、恋人たち」があるのを知りました。映画の内容紹介を見たときに、「時が滲む朝」とあまりにも同じようなプロットなので、ちょっと驚きました。つまり地方の若者が名門大学に合格して大学生活を送るうちに、天安門事件に遭遇し、大学を辞めて、その後転々とした生活を送る、というものでした。主人公は、「時が滲む朝」は男性で、「天安門、恋人たち」は、女性ですが。[シアター]イメージフォーラムで上映された「天安門、恋人たち」、変則的な上映なので、なかなかタイミングが合わず、やっと観に行くことができました。実は先日間違えて、[シアター]イメージフォーラムに「鳥の巣」を観に行ってしまうという大失敗を犯しました。しかし、今回は慎重に事前に確かめてから行ってきました。
1987年、中国と北朝鮮国境の町図們(トゥーメン)で、父と二人で暮らす娘ユー・ホンは大学の合格通知を受け取ります。故郷を離れて北京の大学に進学する彼女は、恋人シャオ・チュンと過ごす最後の夜に彼と初めて道ばたの草むらの中で結ばれます。この辺はいかにも田舎という感じがよく出ています。大学に入学し、寮生活を始めたユー・ホンにリー・ティといういかにもアジア系、おかっぱでお下げ髪の妙に大人びた親友ができます。そしてリー・ティの年上の恋人ローグーに、魅力的な青年チョウ・ウェイを紹介されます。まさに運命の人、出会った瞬間、彼こそが探し求めていた人だと感じるユー・ホンです。なにしろユー・ホンは田舎娘ですから、イケメンで秀才の都会人には滅法弱い。夜を徹して語り合い、当然の如く二人は恋に落ちます。
おりしも学生たちの間では、自由と民主化を求める嵐が吹き荒れ始めます。外は改革を激しく求める熱気渦巻く中、薄暗い寮の一室で、しかも狭苦しいベットの中で二人は狂おしく愛し合います。友人たちとトラックに乗って闘争現場に行ったり、また毛沢東の肖像が掲げられている天安門の前を自転車で通りかかったりもしますが、この二人の間には「政治」はほとんど介入してきません。いわゆる「ノンポリ」学生のように見えます。事実、天安門事件のその日に慌ただしく大学から町へと飛び出して行った彼らは、簡単に軍隊に蹴散らされ、敗北感にさいなまれて寮に戻るしかありません。二人は政治よりも恋愛に、恋愛というよりもセックスに夢中になります。タイトルからすると、いかにも政治色が強そうな作品ですが、実は「天安門事件」はずっと背景に退いています。
しかし、チョウ・ウェイにあまりに強く魅かれるあまり、いつか離れる日を恐れたユー・ホンは自分から別れを口にしてしまいます。彼女の気持ちをチョウ・ウェイは理解できません。お互いに身体を求め合いながらも、ふたりの心はすれ違ってしまいます。ある日、ユー・ホンが部屋に帰ってみると、なんとチョウ・ウェイがユー・ホンの親友とベットを共にしています。親友に裏切られ傷ついたユー・ホンは、学生たちによる激しい抵抗活動の続くある夜、彼女を心配して北京にやって来た故郷の恋人シャオ・チュンと共に、大学から姿を消してしまいます。 一方、天安門事件のあとチョウ・ウェイは軍事訓練に参加します。その後自由を求めてリー・ティ、ローグーと一緒にベルリンへと移り住みます。
そして10年に渡る月日が流れます。ユー・ホンは図們から深圳(シンセン)へ、さらに武漢、重慶へと中国各地を転々としながら仕事や恋人を変えて生活しています。既婚の男性と不倫をしたり、年下の恋人に求婚されても、胸の奥底ではチョウ・ウェイを忘れることができません。チョウ・ウェイもまた、外国での暮らしの孤独と不安のなかで、思い続けるのはユー・ホンのことでした。というと、初恋を10年もの長きに渡って思い続けていた純愛のように見えますが、ユー・ホンは流されるように男を変えながらの荒んだ生活ですし、チョウ・ウェイはベルリンでパーティを開いているときにリー・ティに飛び降り自殺をされたりしています。
帰国したチョウ・ウェイは偶然大学時代の友人に遭遇してユー・ホンの居所を知り、彼女に会いに行きます。思い続けた相手とはドライブインで再開します。そして言葉少なに海辺に立ち尽くす二人。ホテルに入った二人。抱き合うかに見えた二人ですが、チョウ・ウェイは「酒が飲みたい」と言います。ユー・ホンは「私が買ってくる」とホテルを出ます。買ったものを入れたビニール袋を手に下げて、道路を渡ろうとします。その前をチョウ・ウェイの乗った車が通り過ぎていきます。自由への幻想と共に心にしまった青春時代の恋は、再び交わるかに見えましたが、もう燃えあがることはありません。二人の間にはあまりにも長い年月が経ちすぎました。
「天安門、恋人たち」は、現代中国の二つのタブーを果敢に描いています。一つは「天安門事件」を、もう一つは多くの過激なセックス描写です。つまり「政治」と「性」です。カンヌでの上映の後、中国政府の許可を得ないままに国際映画祭に出品された本作に対して、政府当局から「技術的に問題がある」という理由で中国国内での上映禁止と監督の5年間の表現活動禁止という処分が言い渡されたという。ロウ・イエ(婁燁)監督は、この作品は、北京の大学時代に事件とかかわった自らの体験がもとになっているという。そして、中国政府当局の敏感な反応に対しては「自分の映画で政治を扱ったつもりはない」と話し、「本作で描いたのは、急激な社会変化の中で見過ごされている、人々の心の中の混乱」であると語っているています。
「天安門、恋人たち」では、天安門事件の描写自体は抑制されたもので、決してイデオロギー批判や政府批判を叫ぶものではありません。学生たちに発砲する人民解放軍も、発砲兵士の姿は画面には現れず、単に音と煙の中を逃げ惑う学生の姿が写されているだけです。つまり、学生の視点からの私的な経験として描かれているだけです。一方、過激なセックス描写については、よく「ラストコーション」と比較されますが、「天安門、恋人たち」では、ユー・ホンとチョウ・ウェイなど、人を変え場所を変えながら9回ものセックスシーンがありますが、どれも日常生活の延長のようなもので、けっして華美ではなく、かつ欲情を煽るようにも見えません。普通の男と女の営みといった程度です。逆に言えば、ユー・ホンの複雑な心境、深い心の痛みが、これらのセックスシーンから生々しく伝わってきます。
「天安門、恋人たち」を観て、楊逸の「時が滲む朝」の芥川賞受賞発表後に、選考委員の「選評」を読んで、次のように書いたことを思い出しました。
文化大革命や天安門事件については、現代中国史の重要なポイントです。村上龍の鋭い指摘ですが、「おそらくわたしの杞憂に過ぎないのだろうが」と断って、「『時が滲む朝』の受賞によって、たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ『大きな物語』のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く『小さな物語』よりも文学的価値がある等という、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている」と付け加えていることも、大事なことではないかと思います。