車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」(文春文庫:2002年2月10日第1刷、2018年10月10日第21刷)を読みました。
映画を観てすぐにこの本を買ってましたが、なぜか読むのはずいぶん時間が経ってしまいました。読む直接のきっかけは、斎藤美奈子の朝日新聞の「旅する文学」の三重編に取り上げられていた、下記の文章でした。
朝日新聞:2023年10月7日
解説の川本三郎は、以下のように書き出します。
口当たりのいい作品が多い現代文学にあってこの「赤目四十八瀧心中未遂」は、異物のように傲岸と屹立している。異彩を放っている。主人公の「私」はかつて会社勤めをしていたとき、坊主刈りで書類は頭陀袋に入れていたというが、その異形の姿は、作品そのものにも反映されている。
現代の多くの小説が、社会の表層に浮遊しているだけなのに対し、車谷長吉は、時代の流れに抗うように、社会の底へ、人の心の深部へと下降していく。日々、消費されていく日常の時間とは別のところに身を置こうとする。生半可な言葉を拒否し、生の深みへ、淀みへ、泥土へと降りていこうとする。
車谷長吉は、現代文学のなかで死滅しつつある私小説の、最後の書き手といわれている。確信犯的に”時代遅れ”の形式に執着する。といっても、よくある、作家と作中の「私」が幸福に一致しているっ私小説とは少しく違う。作者と「私」の関係は、もっとひりひりしている。作者は「私」を冷たく突き放している。ときには喧嘩ごしに「私」を見ている。作中の「私」を完全に信じてはいない。
この小説の「私」は、自ら世を降りてしまった世捨人である。三十三歳の若さなのに、まともな会社員生活を捨て、友人たちとの交流も断ち、町から町へと流れ歩き、尼ケ崎にやってきた。
「私」は、古ぼけた木造アパートの二階に身を潜め、来る日も来る日も、焼き鳥で使う臓物を切り刻み、串刺しにする。一本三円の「しょうもない」仕事を、自己処罰のように繰り返す。その姿は、生の深みへ、深みへと降りていき、言葉をつかみ、ひとつひとつの言葉を串刺しするようにして小説を書こうとする車谷長吉自身の姿と重なり合う。車谷長吉が私小説作家であるというのは、この意味でである。決して、作家と作中の「私」が一致しているからではない。「私」の求道的ともいえるストイックな無償の行為と、車谷長吉の”どん底”のなかから言葉をつかみとろうとする捨て身の意思が重なり合う。それこそが私小説なのだ。
以下、荒戸源次郎の最高傑作の映画、「赤目四十八瀧心中未遂」の画像を載せておきます。寺島しのぶのほぼデビュー作です。背中の見事な刺青が印象的です。配役がいい。
「赤目四十八瀧心中未遂」プログラム
平成15年赤目製作所提唱
35ミリカラー シネマスコープ 159分
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