太田記念美術館で「ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画」を観てきました。
ここでは「前期」を載せておきます。
Ⅰ 東京時代
ポール・ジャクレーは、昭和9年(1934)6月、38歳の時、彫師である山岸主計の協力を得て、第一作目となる新版画「サイパンの娘とヒビスカスの花、マリアナ群島」(No,1)を刊行した。
新版画とは、大正から昭和にかけて、絵師、彫師、摺師の協同作業によって制作された木版画のことである。新版画の制作を主導するのは一般的に版元であり、絵師は注文を受ける立場であるが、ジャクレーは自らがハンコとの役割も担い、彫師と摺師を指揮しながら、自らの作品をは頒布してゆくスタイルを取った。
ジャクレーは、東京から軽井沢に疎開する昭和19年(1944)までの間に、85点の作品を刊行している。そのほとんどが人物画であり、半数近くを占める南洋の人々の他、日本やア挑戦、中国といったアジアの人々など、さまざまな老若男女の生活する姿が、ジャクレーならではの鮮やかな色彩で描かれている。
Ⅱ 軽井沢時代
ポール・ジャクレーは、昭和19年(1944)6月、48歳の時、太平洋戦争の戦火を避けるため、軽井沢に疎開した。戦後もそのまま軽井沢での生活を続け、昭和22年(1947)9月、「待つ身、メナド、セレベス島」(No,86)を皮切りに版画制作を再開している。
ジャクレーは、軽井沢でも東京時代と同じように、自らが制作を指揮して頒布していくスタイルを取っていた。アメリカ軍関係者からの人気が高かったため、数名の摺師を軽井沢に住まわせて制作するほどであった。
ジャクレーは、軽井沢に疎開してから昭和35年(1960)3月に64歳で亡くなるまでの間、77点の作品を刊行している。世界各地の老若男女を描く姿勢は東京時代と変わらないが、南洋の人々は全体の4分の1弱となり、代わりに朝鮮を中心とするアジアの人々の割合が増えている。また、ジャクレーならではの色彩は、より彩度が高いビビッドなものとなっている。
「ポール・ジャクレー
フランス人が挑んだ新版画」
2023年6月2日発行
編集・発行:太田美術館
「太田記念美術館」ホームページ
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (ukiyoe-ota-muse.jp)
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