富岡多恵子の「西鶴の感情」(講談社:2004年10月5日第1刷発行)を読みました。単行本です。けっこう苦労して、ほぼ読み終わったときに判明しました。過去に読んでいました。ブログにも書いていました。読んでみると、なかなかよく書けていました。従って、これをそのまま載せることにしました。
ここから丸ごと、過去に書いたものです。
商都大坂、銀が銀を生む世の実相と、色と欲に翻弄される人達の生態をリアルに描いた井原西鶴。伝記もなく、殆ど知られざるその実像を、作品の行間から、また同時代の遊女評判記などから鮮やかな手付きで攫みだし、西鶴が生きた「時代」と「場所」を臨場感たっぷりに現前させる。中勘助、釋迢空など、評伝に新境地を拓いた作者の批評精神が最高度に発揮され、伊藤整文学賞、大佛次郎賞両賞を受賞した傑作。
この本のカバーの裏表紙には、前のような解説が載っています。読み終わって、いや、読んでいる途中でもそうでしたが、扱う相手の大きさにただ呆然としています。なにしろ僕は井原西鶴の「好色一代男」さえも読んでいないのですから。中勘助の「銀の匙」、文庫本を途中まで読んだような記憶があります。富岡多恵子の「中勘助の恋」は、評判は聞いていたのでそのうち読もうと思っていましたが、切っ掛けがつかめずいまだ読んでいません。「西鶴の感情」、文学賞を受賞したときから読んでみたいと思っていた本ですが、今回文庫本(講談社文芸文庫:2009年3月10日第一刷発行)になったので、さっそく読んでみました。そんなわけで、富岡多恵子の作品は、僕は初めて読んだことになります。
富岡多恵子については、池田満寿夫の著作「私の調書」や「日付のある自画像」や、篠田正浩の著作「日本語の語法で撮りたい」(NHK BOOKS)に出てきます。この二人の著作を通じて知っていました。富岡の若い頃のことです。才気あふれる彼女は、23歳で「H氏賞」を受賞しています。大阪から上京して、妻帯者であった池田満寿夫と幡ヶ谷本町で一緒に住みます。生活費の糧に、二人で豆本を作ったりしています。池田の才能が開花したのはその頃です。富岡も「室生犀星詩人賞」を受賞します。池田が海外へ行くようになると、富岡は英語の話せない池田の通訳兼助手として力を発揮します。富岡は、大阪女子大を卒業後、私立高校の英語の教師でした。
その後、成功した池田はアメリカで画家のリランと生活を共にします。池田の芥川賞受賞作「エーゲ海に捧ぐ」の中で、東京から主人公の妻トキコ(富岡多恵子とおぼしき?)が電話をしてきます。「10年前、あなたは25歳だった。あなたはネクタイのしめかたも知らず、ジンフィーズを飲んだこともなかった。キッスの仕方だけは、ばかにうまかったけど、盛り場をのら犬のようにさまよい、どぶねずみのような目つきで、いつもおびえていた」と、語る場面があります。富岡の年譜を見ると1965年7月に渡米、翌年7月に帰国、とあります。
帰国後、1968年に映画シナリオ「心中天網島」を、篠田正浩、武満徹と共同執筆しています。篠田とは、「札幌オリンピック公式記録映画」のナレーションを書き、その後も「卑弥呼」や「桜の森の満開の下」、「鑓の権三」などのシナリオを共同執筆しています。これらはすべて、篠田が松竹を退職した後の、「表現社」という独立プロになってからの作品です。何度か篠田の話を聞く機会がありました。篠田が日本の古典に対して詳しいのには驚きました。篠田正浩と富岡多恵子は、どういうつながりなのかは僕は分かりません。しかし、古典への視線の向け方は同じように思えます。「心中天網島」は言うまでもなく近松浄瑠璃の代表作です。篠田は、ATGで1000万円の低予算で「心中天網島」をつくります。粟津潔が100万円で美術デザインを担当しました。紙屋治兵衛に中村吉右衛門、女郎の小春はもちろん岩下志麻でした。
富岡は1977年に「文芸展望」誌で「近松浄瑠璃私考」を連載しています。篠田の著作で溝口健二監督が昭和27年に「西鶴一代女」を田中絹代の主演で撮っていることを見つけました。篠田は「宮仕えの家に生まれながら花魁までのぼり詰めた女が、とうとう零落して、街で男の袖を引く売女に落ち込んでいくという、西鶴のすさまじい崩落の物語」と、溝口作品を褒め称えています。1987年には「富岡多恵子の好色五人女」、翌年には「西鶴かたり」が刊行されています。1993年には「中勘助の恋」、2000年には「釋迢空ノート」を刊行、そして2004年に「西鶴の感情」を刊行したわけです。「西鶴の感情」は、「大坂的感情」(西鶴論)を改題したそうです。
「西鶴の感情」は、富岡が「桜坂高等学校」に通っていたことに始まります。「好色一代男」の版下を書いた水田西吟は「吾すむ里は津国櫻坂」と跋文に記している、という。「櫻坂」は現在の大阪府豊中市桜坂、つまり、富岡が高校へ通っていた土地だった、と思い至り、俄然西鶴に興味がわいてきたという。こうして地名や、大阪弁(上方語)からかみ砕いて分かりやすく西鶴に入っていく導き方は、見事というほかありません。最初僕は、タイトルの「感情」というのがよく分かりませんでした。「大坂的感情」ということであれば、よく分かります。
たとえば4.笑いという「すい」で、江戸語の「いき」と上方語の「すい」を比較している箇所があります。これを九鬼周造は「意味内容を同じくするものと見て差し支えない」、「両者は結局その根底においては同一の意味内容を持っていることになる」としているところを、富岡は「すい」が使われる地域で育った者には「全面的に納得しにくいところがある」としています。この論破の仕方は圧巻です。そしてこの「すい」を「好色一代男」の世之介へと結びつけています。また、芭蕉対西鶴、近松対西鶴、二つの作品比較で、西鶴を浮かび上がらせているのも見事です。
9.世界の偽かたまって美遊で、興味深い事実を知りました。「口伝解禁 近松門左衛門の真実」という本。著者の近松洋男は近松門左衛門から9代目の人です。近松家ではその9代目までずっと、先祖について口外するのを禁じてきたという。しかし9代目で、近松生誕350年のこの年(2003年)に明らかにしたものです。「事実は小説より奇なり」、この項がおもしろい。滋賀県大津市の「近松寺(ごんしょうじ)」があるという。鐘で名高い三井寺(園城寺)の五別所のひとつだそうです。つい先日、サントリー美術館で「国宝 三井寺展」がありました。武門に生まれた杉森信盛が、浄瑠璃作者の近松門左衛門になるまでのことが、詳しく書かれています。ここで富岡は、近松と西鶴の辞世を比較しています。
西鶴の「好色一代男」は、「源氏物語」を意識して書かれた一人の男の「成長物語」だと、富岡は言います。世之介7歳の時から書き始められ、遊びが過ぎて勘当され、父親の死で家に連れ戻され、母親から現在のお金で約450億円もの遺産を譲られたのが34歳で、35歳からは「粋人」としてその金を使って、60歳で女護島へ渡っていきます。勘当されている間も世之介は、褌の乾く間もないほどに腰のかがむまで色の道はやめまいと励んだそうです。連れ戻されてからも、使い切れないほどの遺産が入り「この金で、気に入った女はすべて身請け、名高い女郎はひとり残らず買わずにおかない」と神にかけて誓ったというから、すごいものです。
しかし末路は哀れです。還暦を迎えると耳も遠くなり、足も弱り、みっともない格好になってきます。信心したこともなく、死んだら鬼に食われるまでだと思ってきたので、成るようにしかなるまいと、残った金子を山の奥深いところに埋めてしまいます。同好の友7人と誘い合って、「好色丸」と名付けた小さな舟で女護島へ渡って、女のつかみ取りをやろうと伊豆の国から出て行って、結局は行方知れずになります。
西鶴は「俳諧」と「浮世草子」でゴハンを食べる「文筆業者」であった、と富岡はいう。もちろん「西鶴の感情」では、「好色一代男」だけでなく、他の西鶴の作品についても詳細な検討を行っています。文庫本の末尾には富岡多恵子の「年譜」が、そして「解説」は作家の松井今朝子が書いています。その中で松井は次のように述べています。
膨大な資料を前に徒らな妄想を封じ込め、ひたすら「感傷」を排して、事実を緻密に積み上げながら、淡々とした理詰めで近世の「作家」を「評伝」の俎上に載せてしまったところに富岡さんの凄みがある。敢えて近代的な「評伝」のスタイルを「確信犯的」に借りて見せながら、本書はまさしく「作家」富岡多恵子の壮大なテーマに基づくフィクションであることはいうまでもなかろう。
「西鶴の感情」の目次は、以下の通りです。
1 人は何ともいへ
2 そしらば誹れわんざくれ
3 水は水で果つる身
4 笑いという「すい」
5 是から何になりとも成べし
6 流れのこと業
7 雪中の笋八百屋にあり
8 鶴の孫は
9 世界の偽かたまって美遊
10 つみもなく銀もなく-