丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
当館は、丸亀市の市制施行90周年の記念事業として、丸亀市ゆかりの画家・猪熊弦一郎の全面的な協力のもと1991年11月23日に開館しました。建築家の谷口吉生による美しい建築を丸亀駅前に構える当館は、猪熊本人から寄贈を受けた約2万点の猪熊作品を所蔵し、常設展で紹介するとともに、現代美術を中心とした企画展を開催しています。また、講演会やコンサートなどの多彩なプログラムや、子どもの感性や創造力を育むワークショップなどを開催し、教育を目的とした活動にも力を入れています。
これらの特色は、猪熊と丸亀市とで協議を重ねて作り上げられました。猪熊は、MIMOCAが常に新しいものを積極的に紹介する「現代美術館」であることを強く希望しました。また、自然光を取り込んだ明るく広々とした空間は、美術館に美しい空間を求める猪熊の意思を共有して谷口が形作りました。そして猪熊は子どもが美にふれることを重視し、子どもの観覧料無料や、子どもが造形活動をする「造形スタジオ」の設置などを提案しました。
気軽に立ち寄り、美しい空間でいい作品を見て、新鮮な刺激を受けて心が元気になる場所であることを美術館に求めた猪熊は、MIMOCAのあるべき姿として「美術館は心の病院」という言葉を残しました。猪熊の思いが込められたMIMOCAが、みなさまの「心の病院」となれば幸いです。
猪熊弦一郎の画業
猪熊弦一郎は、1902(明治35)年に生まれ、1993(平成5)年に90歳で亡くなった。20世紀のはじめから終わり近くまで、和暦なら明治から平成にかけて4つの時代を生きたことになる。最後まで画家として現役を貫き、その画業は70年の長きに渡った。
書をたしなむ父親や美校生だった従兄の影響もあり、幼少期から絵を描くことを好み、近隣で評判の絵が上手い子どもだった。とは言え四国の田舎町のこと、画家を志して地元の旧制中学から東京美術学校(現東京藝術大学)を受験するにあたり、はじめて「デッサン」という言葉を耳にする。そんなのんびりした環境から、猪熊は画家への第一歩を踏み出した。
プロフィール
1902年 | 香川県高松市生まれ。少年時代を香川県で過ごす。 |
1921年 | 旧制丸亀中学校(現 香川県立丸亀高等学校)卒業。 |
1922年 | 東京美術学校(現 東京藝術大学)に進学。藤島武二教室で学ぶ。 |
1926年 | 帝国美術院第7回美術展覧会に初入選。以後、第10回、第14回で特選となるなど、1934年まで主に帝展を舞台に活躍する。 |
1936年 | 志を同じくする伊勢正義、内田巖、小磯良平、佐藤敬、三田康、中西利雄、脇田和、鈴木誠と新制作派協会(現 新制作協会)を結成。以後、発表の舞台とする。 |
1938年 | フランスに遊学(1940年まで)。アンリ・マティスに学ぶ。 |
1948年 | 『小説新潮』の表紙絵を描く(1987年まで)。 |
1950年 | 三越の包装紙「華ひらく」をデザインする。 |
1951年 | 国鉄上野駅(現 JR東日本上野駅)の大壁画《自由》を制作。 |
1955年 | 再度パリでの勉学を目指し日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれそのまま留まることとし、約20年間同地で制作する。 |
1973年 | 日本に一時帰国中、病に倒れる。 |
1975年 | ニューヨークのアトリエを引き払う。その後、冬の間をハワイで、その他の季節は東京で制作するようになる。 |
1989年 | 丸亀市へ作品1000点を寄贈。 |
1991年 | 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館開館。 |
1992年 | 所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する趣旨の文書提出。以降、順次丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に搬入。 |
1993年 | 東京にて死去。90歳。 |
以下、「猪熊弦一郎展 みんなで伝える、好きになる」の図録による。
猪熊弦一郎、初期の作品
「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」ホームページ
猪熊弦一郎展
みんなで伝える、好きになる
会期:
2015年10月3日~12月6日
主催:
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
公益財団法人ミモカ美術振興財団