井戸川射子の芥川賞候補作「この世の喜びよ」を読みました。候補作を読むのは、二作目です。
井戸川射子の略歴を・・・。
1987年生まれ。関西学院大学社会学部卒業。2018年、第一詩集『する、されるユートピア』を私家版にて発行。2019年、同詩集にて第24回中原中也賞を受賞。本書で2121年、第43回野間文芸新人賞を受賞。他の著書に、『遠景』(思潮社)『する、されるユートピア』(青土社)『この世の喜びよ』(講談社)。
幼い娘たちとよく一緒に過ごしたショッピングセンター。喪服売り場で働く「あなた」は、フードコートの常連の少女と知り合う。言葉にならない感情を呼び覚ましていく。
主人公は、大きなショッピングセンターの喪服売り場の店員です。
「この世の喜びよ」は、以下のように始まります。
あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなものを探した。豊作でしたのでどうぞ、という文字と、柚子に顔を描いたようなイラストが添えられた紙が貼ってある。その前の机に積まれた大量の柚子が、マスク越しにでも目が開かれるようなにおいを放ち続ける。・・・この柚子は娘たちに、風呂の時に一つずつもたせてやろう、とあなたは手の中のを握りしめた。従業員休憩室に、おすそ分けがこうして取りやすく置いてあるのは珍しい。
喪服売り場の向かいにはゲームセンターがあり、店員たちは若く、キーホルダーの群れとiPad、タンバリンを腰から吊り下げて、店内をより賑やかにしている。・・・客がクレーンゲームやメダルゲームで当てた時に打ち鳴らすためのタンバリンは、歩くたびにその動きだけで鳴る。家から近いので、まだ幼稚園にも入れない年だった娘たちと、時間をやり過ごすために毎日ここに通った、お世話になった、とあなたは昔を思い出すたびに頷く。
喪服売り場の店員になって良かったことは、仕事着で通勤でき、そのまま電車にでも乗れることだとあなたは思っている。・・・喪服売り場はいつでも人はあまり来ないが、休憩時間の散策が不便なので、本当は客の少ない平日だけの勤務ならありがたい。あなたの勤務は週に五日、あとの日や半日の交代で狩野さんが来ている。棚卸しの時などは一緒にシフトに入ることもある。
従業員出入り口から喪服売り場に出る時に横切るので、働いている日には毎日通る。だから最近少女が一人、夕方から暗くなるまでここにある席にへばりつくように、長い時間座っていることにあなたは気づいていた。少女は時々スーパー内を徘徊し、ゲームセンターやガチャガチャのところにもひっそりと立っていたりした。
出入り口に近い席にいつもの少女は座っており、小さなテーブルに重ねられた教科書の高い塔が、乾いた音だけ立てて雪崩を起こす。少女の、もう飲み終えていたジュースのコップが倒れた。軽い音と残っていた細かな氷が広がった。あ、あ、と少女は立ち上がり、あなたはトートバックから素早く小さなタオルを取り出す。これで、教科書から拭いて、床もこれで、とあなたは少女に差し出す。
「お母さん、来るといつも売り場にいないじゃん。いなくてもいいの? どこ行ってるの」早口で言いながら、下の娘は掛けられた商品たちに手を伸ばす。・・・「できるだけ接客したくないからでしょ。ねえ、お姉ちゃん出て行っちゃったよ、大きい荷物持って、家出だよ。一応玄関で引き止めてさ、ちょっとお互い啼きながらだよ。名古屋だから彼氏のとこかもしれないけど、寮だから泊まれはしないでしょ。私もこれから追いかけて、お姉ちゃんと一緒にいてあげようかなって」 名古屋か、遠いなとあなたは思った。
もうあなたの癖になってしまった、ここを通る時は一応フードコートを見渡す動作を今日もする。いないようだ。少女を見かける頻度は最近減ってきている。・・・でも時々はやはり少女はそこにいて、喪服売り場から遠い方角の奥の席で、通路に背を向けてb座っている、を繰り返していた。来づらくさせているなら申し訳ないが、喪服売り場へはここを通るのが一番早い、とあなたh思いつつも目立たぬように通り過ぎていた。
・・・
「この世の喜びよ」は、こうして終わります。
少女が近づく自分を観てうつむいたとしても、それならできるだけこれで最後だというように、でも力を込めてそう言う。進む脚に力は均等に入る、スーパーの空洞を循環する暖かな追い風が背を撫でる。あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸を体いっぱいの水が圧する。
さあ、どうでしょう、芥川賞、遠いと思うんだけどな、僕が思うには。