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第166回芥川賞受賞作、砂川文次の「ブラックボックス」を読んだ!

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第166回芥川賞受賞作、砂川文次の「ブラックボックス」を読みました。

 

砂川文次は、2016年には「市街戦」で第121回文學界新人賞を受賞、「戦場のレビヤタン」で第160回芥川賞候補作、そして「小隊」で第164回芥川賞候補作になったという、そうそうたる経歴です。そして「ブラックボックス」で第166回芥川賞を受賞しました。僕は第164回芥川賞候補作になった「小隊」を読みました。

砂川文次の芥川賞候補作「小隊」を読んだ!

 

さて、「ブラックボックス」は、以下のように始まります。

 

歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気が付いてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる。

 

ふざけんなよ、と内心毒づき、恨みがましく走り去った方向を見遣る頃には、エンブレムがどこにあるのかも分からないくらいのサイズになっている。後に残るのはやり場のない怒りだけだった。

しばらくしてから、加速度的に一挙に音が戻ってくる。触覚も味覚も嗅覚も、五感のすべてを取り戻した。背中ににぶい痛みが広がる。横断歩道はそれなりの長さがあったが、サクマは、結果的に渡り切ってはいた。

 

ヘルメットのコツッという音とともに。とりあえず助かった。でもまだこのアスファルトと背中の間でつぶれているメッセンジャーバッグの中には届けなければならない荷物がいくつか入っているから、いつまでも寝っ転がっているわけにはいかない。起き上がってみると、サクマのロードバイクはそれよりもさらに数メートル先まで滑っていったようだ。横倒しのまま車輪が空転している。

 

ため息をつく。ついでに背負っていたメッセンジャーバックをくるりと背中から前面へと取り回し、運んでいる荷物にダメージがないかをも確認した。だから雨はいやなんだよ、とサクマは心中毒づいた。とりあえず中身は無事だった。

どんくらいロスしたなか確かこれが四個目の配送で、二時間便だったよな、間に合うかな、などと頭の中でルートを改めて思い描き、到着予定時刻を計算する。

サクマはバイクにまたがると同時にペダルを踏み込んだが、足だけがむなしく空転した。全く車体に力が伝わらない。力んだ勢いで、うっかりまた転びそうになった。

 

また動悸が激しくなった。足元に視線をやる。フロントディラーからチェーンが脱落していた。・・・サクマはしゃがみ込み、手でペダルを回した。一周もしないうちにチェーンが引っかかって回らなくなった。・・・サクマは蹲踞の姿勢のまま、うなだれた。自走はできそうもなかった。

 

肩紐のショルダーパッド」近くには他のメッセンジャーや配車係(DP:ディスパッチャー)とやりとりするための無線機がナイロン製のホルダーに収まっている。DPを呼び出す。「どうぞ」「クラッシュしました。誰か合流できますか?」向こうでも若干の動揺が広がっているのが分かった。料金が変われば自分の取り分も変わる。時間が短い便ほど単価が高い。そしてこういう仕事は遅いやつにはできない。急ぎの仕事を受ければ稼げる。のではなく速いからこそ急ぎの仕事を任されるのだ。サクマは自他ともに認める、速くて稼げるメッセンジャーだった。DPの動揺もそこにあった。サクマの今抱えている荷物は、ほとんどが急ぎだったのだ。

 

「クマ、現在地」「千鳥ヶ淵」メッセンジャーは、物を拾って運んで、初めて仕事になる。であればオーダーの割り振りは、集荷、届け先、次の集荷と届け先、それから時間の緩急を組み合わせることで初めて成立する。

「09コン、竹橋、おれいけます」近藤は大が付くベテランだった。・・・リアディレイラーの点検をしていると、「サクマ!」と背後から声をかけられた。近藤だった。近藤は、入れ替わりの激しいこの職場にあって、すでに8年以上在籍している猛者だ。サクマは駆け寄りつつ茶封筒を三つ取り出した。・・・近藤もバックをいつのまにか身体の前に回して、受け取った二つをねじ込んだ。・・・近藤は最後の一つを仕舞うと、「今度メシでもおごれや」、と言い残して颯爽と駆け出して行った。・・・一体どんな鍛え方をしたらああなるんだろうか。・・・プロ崩れという経歴に甘んじないとこともメッセンジャー歴を鼻にかけないところも含めて、機材トークで盛り上がるメッセンジャーどもとか自分とかとはいなんともしがたい隔たりがあるということをまざまざと見せつけられた。

 

もっとちゃんとしなきゃなんねえ、行動で人となりを表すことのできる人間のなんと少ないことか、とサクマなんかは自戒の念も相まった思いで改めて近藤に思いを致す。外的な要素と自己研鑽とが相まっているからこそのストイックさだ。

歩いて帰るしかないんだよな、と不意に思い出して気が滅入って。歩いたらどれくらいかかるんだろうか。・・・意味もなくレインウェアのフードをかぶりなおした。髪が濡れていた。

 

今月の稼働率を考える。午前中いっぱいは潰れた。午後にはどれくらい走れるだろうか。今月の取り分は、多分良くて8000円、実際は7000炎前後だろう、と見積もる。今月の平均からはだいぶ下回るが致し方ない。・・・すぐに揺り戻しが来て、家賃、携帯料金、光熱費、その他諸々の費用が押し寄せ、来月の頭はたぶん振り出しだ。・・・惨めだ、と思う。・・・大学に行っていれば変わっていただろうか。自衛隊を辞めなければ、あるいは辞めた後の会社員を続けていれば。もっと遡って、中学高校と真面目にやっていれば。

 

学校生活の我慢と忍耐の日々は感情の暴発で幕を閉じた。ただの喧嘩と言えば喧嘩だった。人によっては若気の至りとか青春とかいって美談にするかもしれない。でもサクマは違った。・・・結局仕事も同じで、一任期で辞めた自衛隊も不動産の営業も、辞める直前まではそれこそ人生の一大決心とか転換点のように思っていても、辞めてしまえば、些末な事柄だったことに気付く。完全に辞め癖がついた、と思ったときにはもう遅く、感情の暴発が起きるのが先か飽きるのが先かは別にして、何か嫌になったら辞めるという選択肢がいの一番に上がってくるようになった。

 

思い返してみれば、ずっとこんなことを繰り返している気がする。入っては辞め、辞めては入り、不安に苛まれては途端に楽観的になる。・・・サクマはそういう小路をとぼとぼと歩いた。坂道を登りきると例の新旧入り乱れる住宅密集地の中に、自身の所属する自転車便専門の営業所が忽然と現れた。

滝本も元々はメッセンジャーで、5、6年前に正規雇用になった。「所長」という大仰な肩書ではあるが、人手が足りない時は自らも配達業務に従事している。「事故ったって?」「事故っていうか、まあ、事故ですね。こっちが進んでいるときに、後ろからすげースピードでベンツが追い上げてきて、そのまま目の前を左折してったんですよ」「そっか。なんにしても怪我なくてよかったよ。午後もできる?」

 

踊り場で滝本に引き留められた。「ちょっといいか」と事務室に半ば強引に招き入れられる。「話ってなんですか?」「一応な、採用の話なんだわ」と滝本が答える。「こんな状況なんだけどさ、本部と他ンところで人が出ちゃって、一応契約期間の長いやつからこうやって意向調査兼ねた面談してくれって通知きて」この仕事は、メッセンジャーだけではなく正規の方も離職率が高い。理由は明らかで、まず給料が安い。次に業務が多い。メッセンジャー―業務委託―は不安定だったが、そこはトレードオフだ。走れば走るだけ実入りがあったし、疲れたらシフトで業務量を調整できる。正規になったって賞与も雀の涙で有休が使えないのでは気も乗らない。正社員という地位が欲しくないわけではなかったが、イマイチ踏ん切りがつかないでいた。「まあ、おれもまだいいですかね」

 

ブラックボックスだ。昼間走る街並みやそこかしこにあるであろうオフィスや倉庫、夜の生活の営み、どれもこれもが明け透けに見えているようで見えない。張りぼての向こう側に広がっているかもしれない実相に触れることはできない。そんな予感がぼんやり心中に拡がる。

 

「サクマさん知ってました?近藤さん12月いっぱいでやめちゃうって」こちらが席に着く前に、だしぬけに横田が言った。サクマは「えっ?」と目を丸くして、それから近藤に視線を移した。近藤は照れ臭そうに「ショップ出すんだわ」と頭を掻く。

そりゃそうか、とすぐにサクマは一人合点をした。近藤もいい年になったし、そういえば去年くらいからシフトをへらしたり変わったりして専門学校の講習に出ていたから、多分その準備だったのだろう。年には勝てない。どれだけ鍛えても、だ。

メッセンジャーは一生続けられる仕事じゃない。このことはサクマにとっても結構重大な問題として頭をもたげてきている。でもメッセンジャーをしているとメッセンジャーは一生できないという問題を直視せずに済む。ペダルを回して息を上げて目を皿にして街中を疾走している瞬間を積み重ねることで一生を考えずに済む。

 

サクマの家は中央道から少し北に行った三鷹の端っこにある。・・・今はほとんど目にしない「離れ」というやつがサクマと同居人たる円佳の家だ。生産緑地を切り売りして生計を立てている大家の広い庭先にこの「離れ」があった。離れは、2階建てでそこそこの広さがある。というか2階建てであることと広さくらいしかいいところがない。建物はあまりにも古かった。隙間風がひどく、特に冬場の風呂は寒かった。そういうことで、とにかく家賃は破格だった。

「遅くなるだけじゃわかんないから、ちゃんと時間を連絡してよ」玄関でウェアを脱いでいるところで、リビングから声が聞こえた。円佳のコンバースが、一足だけ横倒しになっていた。帰るなりのお小言とそのコンバースのせいで、サクマの

うちに沸々といら立ちが起こる。

 

と、まあ、ここまでが前半、「メッセンジャーの章」とでも言いましょうか?

この後には後半、「刑務所生活の章」が続きます。

が、後半はほどほどにして、省略しておきます。

 

*       *       *

後半を一寸だけ…。

 

一日が終わった。部屋にはサクマを含めて6人の男がいる。部屋自体にはそれなりの広さがあるが、大の男が6人ともなると手狭だ。・・・サクマは後頭部で手を組んで布団に身体を横たえる。頭上には壁に取り付けられた本棚が見える。残りの3年をサクマはこの部屋で過ごさねばならない。外に出ることはできない。仕事も自分で選ぶことはできない。起きる時間も寝る時間も食べるものもすべてが決められている。でもそれを発露することはできない。癇癪を起こしたり不貞腐れたり悪態をつこうものなら刑務官がすっ飛んできて懲罰を受ける羽目になるからだ。

 

「生理がこないんだけど」円佳が出し抜けに、確か日曜日のことだったと思う。「はあ?」サクマはその言葉が意味することを全然理解できず、バカみたいな声を上げることしかできなかった。「いや、だからガキができたかもしんないってこと」円佳はこともなげに言う。二人とも黙ったまま、会話は止まった。サクマはもっとちゃんとしなきゃいけないな、と思った。

 

こうしてサクマの刑務所生活が続きます。

 

「『ブラックボックス』の主人公サクマが陥っている現実は、どうしようもない息苦しさに満ちている」と小川洋子は言う。「車輪の回転がようやく止まるのは、刑務所へ送られる事態になった時だ。彼は真の意味で閉じ込められることになる」、と。

 

 


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