九段理江の「Schoolgirl」(文学界:2021年12月号)を読みました。文學界新人賞受賞第一作135枚とあります。
そろそろ芥川賞の季節、前もってなにか読んでおかないとと思っていたら、どこのどなたかは忘れましたが、ほんのちょっとだけ九段理江の「Schoolgirl」に触れていたので、掲載されている文學界12月号をアマゾンで注文し、昨日読み終わった、ということです。
朝日新聞の12月15日夕刊に、年末恒例の「回顧 2021 文芸」私の3点で、上田岳弘が九段理江の「Schoolgirl」を取り上げていました。 「過去の文化的な素養をベースに、今の実感を経由し、書かれるべき作品を構築しようとする若い書き手の登場に瞠目」とコメントしています。上田岳弘は「ニムロッド」で、昨年度、芥川賞を受賞しています。「ニムロッド」は僕にはちんぷんかんぷんで、さっぱりわかりませんでしたが…。
さて九段理江は、「悪い音楽」で、文學界新人賞第126回(2021年度)を受賞しているんですね。僕はまったく知りませんでした。よく言われるように、文學界新人賞受賞から芥川賞受賞というコースがよくあるんですね。
文學界の目次を見ると、以下のようにあります。
「お母さんは空っぽだから」
14歳の娘は私にこう言った。
Z世代をあざやかに描き出す飛翔作
九段理江の「Schoolgirl」は、以下のように始まります。
夢だ。私は夢を見ている。
私は自宅のキッチンに立っている。調理台にはたくさんの食材が置かれている。普通、家庭では扱わないような巨大な肉の塊。同じ方向に寝かされた、これまた手に余るサイズの魚が数十種類。野菜や果物、缶詰だとか調味料の瓶まで揃っているけれど、どれもこれも実際よりひとまわりずつ大きい。これから何を作ろうか? 豊富な選択肢を前にして戸惑いながらも、どの材料を選び、どこの部分を切り取り、何と何を組み合わせれば娘がもっとも喜ぶかを考えている。そこに娘が帰ってくるのだが、その変わり果てた姿を認めて、私はもう料理どころではなくなってしまう。娘の体は、まるで途中で描くのをやめたデッサンみたいに、あるべきものが少しずつ欠けているのだ。左目のおさまっていた場所が空洞になっていたり、右の耳がなくなったりしている。左腕がなく、腕のバランスを補うようにして右足がない。
まあ、これは語り手の一人、母親のみた夢、というか妄想の一部です。
また、こんな箇所も。カズオ・イシグロの「クララとお日さま」や、平野啓一郎の「本心」の影響大です、たぶん。
「AI、何時?」
「七時四十五分です」
人間が起きてくるのを待ち構えていたらしく、その声は夜のあいだにたっぷり仕入れた情報を一気に放出する。落ち着いた男性の声だ。ネイビーのスーツにネクタイを締めた、清潔な見た目のアナウンサーの顔が頭に浮かぶ。昨日の夜、デフォルトの若い女性の声から変更したのは正解だった。周波数は低いほうが耳に馴染む。彼は自分が入れられているなめらかな手触りの器を紫色に明滅させながら、早朝に立て続けに入った夫からのメッセージを読む。どうやら今日も夫は帰らない。日本時間の深夜に乗る予定だった飛行機が欠航になったのだ。AIは機転を利かせ、フランスの航空会社のウェブサイトから抽出した新着情報を片っ端から読みあげる。
「ストップ」と止めさせると、彼は間髪を容れずに「空気清浄機の清掃を」と指示を出し、「『Awakenings』の新着動画がアップロードされました」と通知する。続けて、朝食のメニューの提案。
「小松菜とバナナと豆乳を使ったスムージー、もしくは小松菜と油揚げの味噌汁はいかがでしょう。小松菜はそろそろ使ったほうがいいですよ」
言われたとおりに朝食の支度を始める。しばらく経ってから、いつもより視界が暗いのは部屋の暗さのせいか、と気づく。窓に目をやる。起きたときの不安の正体のひとつが判明する。洗いかけた小松菜をザルに置いて、足をふんばり掃き出し窓を開ける。突風と轟音を顔に受けながら、
「今日から七月です」との報告を後ろに聞く。
34歳の母親と、14歳の娘。高額所得者の夫は外資系の会社に勤めている。母は専業主婦、娘はインターナショナルスクールに通っている。母は文学少女気質が抜けきれない。夫のことは愛していない。子どもが欲しい時に出会った、都合のいい男だった。今も不倫している。娘は意識高い系で、ユーチューバーとなって啓蒙活動に励んでいる。小説は現実逃避だから読まない。
で、出てくるのが太宰治の「女生徒」、文学全集を探したが、なぜか出てきません。もちろん読んだことはありません。が、読まないわけにはいきません。奥の手、「青空文庫」でなんとか読みました。この「女生徒」を通して、母と娘が初めて対話する、交流が生まれる、という筋書きです。
青空文庫 太宰治「女生徒」
「そうなってしまってから、世の中のひとたちが」と娘が文章を朗読する。紙と紙がこすれる。かすかな音が耳をくすぐる。
――そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ――。
・・・「あなたは、あなたが、誰だと、思うの?」
「わからない。お母さんは?」
「明日、起きたら、また、話そう」
「うん」
ラストは、こうです。
おやすみなさい。と思えば、それがそのまま、おやすみなさい、という字になって、あなたが何か思う端から、その人はそれを文字にして、気のおもむくままに、読点をつけ、句点をつけていくでしょう。するとあなたはあなたでなくなり、白い紙の上の、ただの文章になっていませんか。そこまでくればもう、眠っているのと変わりません。次に目を覚ますのを待つだけです。
さて、まだ今朝芥川賞・直木賞の候補作が発表があり、もちろんまだ九段理江の「Schoolgirl」以外は読んでいないので、芥川賞、何とも言えませんが、九段理江いけるんじゃないかなという感触はあります。(直木賞は僕は読みません)
朝日新聞:2021年12月17日