NHKの、100分de名著「ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟」が、また始まりました。11月1日が第1回目でした。
フョードル・ドストエフスキー(1821~1881)
世界的作家の事跡
物語が内包する二つの傷(トラウマ)
「カラマーゾフの兄弟」文庫本
亀山郁夫(ロシア文学者、名古屋外国語大学学長)
司会::伊集院光(タレント)、安倍みちこ(NHKアナウンサー)
プロデューサーAのおもわく
世界文学史上の最高傑作のひとつとの呼び声も高い「カラマーゾフの兄弟」。ロシアの文豪・フョードル・ドストエフスキー(1821- 1881)の代表作です。ドストエフスキーが人生の集大成として執筆したともいえるこの名著を、現代の視点から読み解くことで、「生きるとは何か」「善と悪とは何か」「本当の意味での魂の救いとは何か」といった、人生の根本的な問題を深く考えていきます。
好色で老獪な田舎地主フョードル・カラマーゾフには三人の息子がいました。激情的で熱血漢の長男ドミートリー、冷徹な知性を持つ無神論者の次男イワン、心優しき修道僧の末弟アリョーシャ。そしてフョードルが産ませた私生児と噂される使用人のスメルジャコフも。父とドミートリーの間に起こった財産相続問題を話し合うために三兄弟が集結しましたが、ゾシマ長老の仲裁にもかかわらず決裂。更に問題をややこしくしているのは、父とドミートリーがグルーシェニカという妖艶な女性を取り合っていたことでした。解決に奔走するアリョーシャは「信仰のゆらぎ」に直面しながらも少しずつ成長していきます。ところが、そんなある日、父フョードルが自宅で殺されます。果たして「父殺し」の犯人は? その究明のプロセスの中で、人類にとって根源的な問題が浮き彫りにされていきます。
この物語の中に私たちが生きる時代の原型的な姿があるというのはロシア文学者の亀山郁夫さん。農奴解放によって一見改善されたかに見えたロシアには新たな神が生まれていました。「お金」です。それは、庶民の中に静かに息づいていたキリスト教的世界観を破綻させ、人々を限りない欲望とアナーキーな自由へと駆り立てていきました。「お金」と「欲望」に翻弄される人間を描ききった「カラマーゾフの兄弟」の物語は、グローバル資本主義や未曽有の格差社会によって翻弄される現代人たちを映し出す鏡であり、そこで問われた「本当の自由とは?」「人間の強さや弱さとは?」「魂の救いとは?」「真の幸福とは?」といった問いは、私たち自身を鋭く突き刺す問いだと亀山さんはいいます。
番組では、ドストエフスキー研究の第一人者のひとり、亀山郁夫さんを講師に招き、新しい視点から「カラマーゾフの兄弟」を解説。現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する私達現代人がよりよく生きるための指針を学んでいきます。
第1回 過剰なる家族
老獪な田舎地主フョードル・カラマーゾフの三人の息子、熱血漢の長男ドミートリー、無神論者の次男イワン、修道僧の末弟アリョーシャ。財産相続問題を話し合うため三兄弟が集結したがゾシマ長老の仲裁にもかかわらず決裂。問題をややこしくしているのは父とドミートリーがグルーシェニカという妖艶な女性を取り合っていたことだった。果たしてこの問題の行方は? 彼ら登場人物は、母親の違い、性格の設定などによって、人間がもっている普遍的な問題が浮かび上がるように巧妙に設計されている。第一回は、作品の基本設定を深読みし、ドストエフスキーがこの物語に仕掛けた、彼自身の人間観や世界観を浮き彫りにしていく。
第2回 神は存在するのか?
問題解決のために町中を奔走するアリョーシャ。そんな彼にイワンは、絶対的な悪が存在する以上「神が創ったこの世界は認めない」と議論を投げかけ「人間は所詮自由の重荷に耐えられずパンを授けてくれる相手にひれ伏すだけだ」と告げる。追い打ちをかけるように尊敬する師ゾシマ長老が死亡。その死に直面したアリョーシャは信仰上の激しい揺らぎにさらされる。第二回は、「神は存在するのか」「存在しなかったとしたら全ては許されるのか」「人間は所詮弱くて哀れな生き物にすぎないのか」という、ドストエフスキーが問い続けた根源的な問いに迫っていく。
第3回 「魂の救い」はあるのか
信仰のゆらぎに直面し絶望しかけたアリョーシャは、ドミートリ―を翻弄しているかに見えたグルーシェニカに出会い、はからずも彼女の中に純粋な魂を見出す。その後、棺の傍らでゾシマ長老の夢をみたアリョーシャは歓喜に満たされ、何かに打たれたように大地と口づけをする。一方、狂おしいまでに金と欲望に翻弄され続けていたドミートリ―だが、彼の情熱にほだされたグルーシェニカとついに互いの愛を確かめ合うのだった。彼らの姿には、善悪の矛盾に引き裂かれつつも、決して失われることのない生命の輝きがある。第三回は、人間は、善悪の矛盾の只中に置かれながらも、その魂の救いがありうるのかを考えていく。
第4回 父殺しの深層
ついに殺されるカラマーゾフ兄弟の父親フョードル。いったい彼を殺したのは誰か?真っ先に疑われ逮捕されたのが、日頃から「父殺し」を公言していた長兄ドミートリー。裁判での弁明も空しく彼はシベリア流刑に処せられる。しかし、実際に彼を殺したのは使用人のスメルジャコフだった。しかも彼は、イワンの「神も不死もなければ全ては許される」という無神論にそそのかされて実行しただけだと言いイワンも共犯だという。イワンは彼の言葉によって自分自身の隠された欲望に気づいて狂気へと追い込まれる。ドストエフスキーはこの「父殺し」のテーマで何を表現しようとしたのか? 第四回は、ついに書かれることのなかった「カラマーゾフの兄弟」の続編にも想像を膨らませつつ、人類に普遍的な欲望だとされる「父殺し」の欲望とは何かを深く探っていく。
プロデューサーAのこぼれ話
人生を直撃する小説「カラマーゾフの兄弟」
亀山郁夫さんは、私にとって恩人ともいえる存在です。なぜかというと、生まれて初めて「カラマーゾフの兄弟」を完読させてくれた訳者だからです。思えば、私と「カラマーゾフの兄弟」との交流の歴史は挫折によって彩られてきました。中学生のとき、河出書房新社版のドストエーフスキイ全集(当時はこんな表記でした)の米川正夫訳を読んで早々に挫折。高校生のときには、新潮文庫版の原卓也訳で挫折。そして大学生になり、集英社世界文学全集版の江川卓訳で三度目の挫折。初回と二回目は、恥ずかしいことに第一部を読み切れず、三回目は、第二部のアリョーシャが綴るゾシマ長老の生涯のエピソードのところで挫折しました。
あとで聞くと、ゾシマ長老の生涯は誰もがぶつかる挫折ポイントだそうで、通称「ゾシマ超え」といわれているとのこと。これを聞いて少し安心しましたが、私にとってこの本は一生読み通せない本なのだと半ば絶望していました。ところが忘れもしない、2006年の秋、当時話題になりかけていた亀山郁夫訳を手にしたとき、ぱあっと視界が開かれたのでした。「読める、読めるじゃないか!」 驚きに包まれたまま、私はジェットコースターにでも乗せられているように一気に読みふけりました。もちろんすべてが理解できたわけではありません。ですが、今までとは違い、キャラクターが生き生きと頭の中で動き出していく…どきどきしながら読んだことを今も忘れることはできません。
当時、私自身、人生においても大きな挫折を経験していました。そういう曲がり角にいたということも大きかったかもしれません。本音でいいますが、「カラマーゾフの兄弟」は、私の人生を直撃しました。そして、確実に、私に生きる力を与えてくれたといってもよいと思います。そんな著作ですから、いつかは番組で取り組みたいとは思っていたのですが、すでにドストエフスキーは「罪と罰」を番組で紹介している。あまり放送時期が近すぎては一人の作家に依怙贔屓しすぎているともいわれかねません。「じっと時を待っていた」というのが正直なところです。
イギリスのEU離脱、極右勢力の台頭、移民問題の深刻化…そんな状況がここ数年、世を席捲し始めました。「分断」という言葉がキーワードのように語られ始めました。同じ国にいながらにして人々が分断されている…あるいは、隣り合った国同士でも恐るべき溝が両者を分断し始めた。こうした分断は乗り越えられないのか? そんな思いにとらわれていたときに一番に頭に浮かんできたのが「カラマーゾフの兄弟」でした。この物語は、私にとっては、「引き裂かれた魂が苦難や悲しみを通して再び結び合う物語」。今こそ、「カラマーゾフの兄弟」にヒントを得る時期ではないのか。そんな直観に突き動かされるように、亀山郁夫さんと連絡を取り合ったのを鮮烈に覚えています。
亀山さんは、実は「罪と罰」よりも「カラマーゾフの兄弟」の方をやりたかったと最初に告白されました。そして忘れられない言葉を発します。「秋満さん、生きている間に、間に合ってよかった。これを解説するのが夢だったんですよ」と。
その上で、亀山さんは、テキストの打ち合わせや番組の打合せでも、情熱のありったけをぶつけてくださいました。その熱は、番組の隅々からにじみ出ていたのではないかと実感しています。もちろん、「カラマーゾフの兄弟」はわずか100分ではとてもおさまりきれない巨大な物語です。視聴者の中には、欲求不満に陥った人も多いかもしれません。ですが、最良の入り口は用意できたのではないかと、スタッフともども自負しています。
亀山さんとの濃密なお仕事を受けて、語りたいことは山ほどありますが、とてもこの紙面では足りません。一つだけ、私自身が今後の人生においても糧としていきたいところがあるので最後に書かせていただきます。
私にとって「カラマーゾフの兄弟」は、「引き裂かれた魂が苦難や悲しみを通して再び結び合う物語」だと、先に書きました。このテーマは、登場人物それぞれの中で展開されますが、やはりドミートリーとアリョーシャの中の「魂の劇」は、私の魂の奥深くに鋭く突き刺さります。
アリョーシャにとっては「ゾシマ長老の死」という最も深い悲しみの中で、魂の再生が訪れます。ドミートリーも「父殺しの罪を問われる」という最も苦しい状況の中で、魂の再生が訪れます。それらは、いずれも「夢」という自分の奥深くから湧き上がる魂の力といったものがきっかけとなります。そして、アリョーシャの場合は「自分というちっぽけな殻を遥かに超えた、大地、星空といった大いなるものとの一体化」といった形で「救い」がもたらされます。ドミートリーの場合は、自分の傲慢さや罪への気づきから、あらゆる存在がもつ罪深さ、原罪性といったものへの深い自覚へとつながり、やがてそれは「罪を通しての浄化」とでもいうべき「救い」をもたらします。
私たちも人生において、耐えがたい悲しみや苦難に直面することもあるでしょう。ただ、それを厭うてはならない。むしろ、それを直視して、人間の中に存在する善も悪も、光も闇も、尊厳も愚かしさも、まるごと受け容れながら、「引き裂かれた魂」を結び合わせる努力を絶えず続けること。ちっぽけな自分を超えた大いなるものの存在を感じ畏怖の念を抱くこと。私にとってドストエフスキーは、繰り返しそのことの大切さを告げ知らせてくれる存在なのだということを今回、再確認しました。そのことに気づかせてくれた亀山郁夫さんに、もう一度深く感謝したいと思います。
「カラマーゾフの兄弟」は決して読み終わることのない物語です。みなさんも、一度といわず、二度、三度とこの物語に触れてみてください。そのたびに新たな発見があるはずです。
1968年ソ連映画「カラマーゾフの兄弟」、過去にテレビで放映していたものを録画してあり、今回、第1部から第3部まで、3本、一挙に観直しました。
2013年2月26日(火) 2:50AM(1H24M) NHKBSプレミアム
2013年2月27日(水) 2:30AM(1H15M) NHKBSプレミアム
2013年2月28日(木) 2:00AM(1H18M) NHKBSプレミアム