松家仁之の「泡」(集英社:2021年4月10日第1刷発行)を読みました。
僕が最初に読んだ松家仁之の著作は、「火山のふもとで」でした。この小説を知り、読むきっかけとなったのは、松浦寿輝の「文芸時評」 (朝日新聞:2012年6月27日)でした。
もともとは文芸誌の編集者、須賀敦子の担当者でもあった名物編集者だったようです。「火山のふもとで」は、若い建築家を主人公にしたストレートで分かりやすい小説でしたが、その後、徐々に書くものが分かりづらくなってきたように思います。たぶん、編集者の目でみると足りないところが見えてきて、あれも書かなきゃ、これも書かなきゃと思ってしまうのが災いしているのではないかと、僕は思いました。
本の帯には、以下のようにあります。
「光の犬」から3年ぶりの新作にして、最初で最後の青春小説。
自分の居場所はどこにもない。でもひとりでは生きていけない。
家からも学校からも離れ、見知らぬ土地で過ごす夏。
そこには言い知れぬ「過去」を持つ大人たちがいた。
男子校の二年に上がってまもなく学校に行けなくなった薫は、夏のあいだ、大叔父・兼定のもとで過ごすことに。兼定は復員後、知り合いもいない土地にひとり移り住み、岡田という青年を雇いつつジャズ喫茶を経営していた。薫は店を手伝ううち、一日一日を生きていくための何かを掴みはじめる――。思春期のままならない心と体を鮮やかに描きだす、珠玉の青春小説。
タイトルの「泡」、分かったようで分からない。初めにこんな一節があります。
湯船に身を沈めているとお腹に水圧がかかり、溜まった空気が動き始める。・・・いつのまにかやってきた小さな潜水夫が、股間の陰にひそんで呼吸している。呼気がぷくぷくと連続して浮かびあがり、その居場所を無防備に教える。いったん出てゆく道筋ができれば、今日一日吞み込んだ空気がよろこびいさんで解き放たれてゆく。
薫は、空気の吸い過ぎでからだの中にガスがたまる吞気症(どんきしょう)という病気らしいのですが、こういう病気があるんですね、僕は初めて知りました。まあ、これが、タイトルの「泡」のメタファーなのかどうか、よくわかりません。
テーマは、登校拒否の高校2年の薫が、父親の浩一の紹介で、大叔父・兼定の海辺の町のジャズ喫茶を夏の間手伝うという話です。そこを手伝っている岡田の話を織り交ぜて、夏休みの2か月を過ごす、というわけですが、まあ、取り立てて何も起こらない日々の繰り返しでした。しかし、高校2年の薫には、何事にも代えがたい体験だった、というただそれだけの話です。
大叔父の兼定という人物、小説の中ではあまり深入りはしないのですが、僕にはなかなかの人物にみえ、こちらを主人公にしても十分成り立ちます。シベリア抑留があって、帰国してからは、知らない海辺の町でジャズ喫茶を開いて、親戚ともつかず離れずの関係で、自由に生きています。また、手伝っている岡田という人物、これも詳細に語られることはありませんが、十分に主人公としても成り立つ人物です。
「泡」は、なぜかこれらの人物には深入りせず、ひと夏の3人の男たちが交差するさまを描いています。これが波と波がぶつかって「泡」となり、そして消えてゆく、そうしたたとえなのでしょうか?
松家仁之:
1958年東京都生まれ。編集者を経て、2012年に発表した長編小説『火山のふもとで』で第64回読売文学賞を受賞。2018年『光の犬』で第68回芸術選奨文部科学大臣賞、第6回河合隼雄物語賞を受賞。その他の小説作品に『沈むフランシス』『優雅なのかどうか、わからない』。共著に『新しい須賀敦子』。
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