西村賢太の「寒灯・腐泥の果実」(新潮文庫:平成25年12月1日発行)を読みました。「陰雲晴れぬ」「肩先に花の香りを残す人」「寒灯」「腐泥の果実」の、短編4篇が収録されています。いわゆる「秋恵もの」です。
「陰雲晴れぬ」は、念願かなって貫多と秋恵は共同生活をはじめますが、新居の管理人がゴミの出し方など、あれこれ言ってくるので、貫多は結局爆発して管理人室にどなり込む、という話。「肩先に花の香りを残す人」は、タクシーに乗った秋恵が、貫多の嫌いな整髪料の香りをうつされ、その整髪料のことで二人は言い争いをする、という話。「寒灯」は、秋恵との初めての正月を迎える貫多だが、秋恵の母親から帰郷の切符を一枚送ってきたことから、大晦日の夜、言い争いになる、という話。そして「腐泥の果実」は、邪険に扱っていた秋恵が貫多の元を去っていくが、それから8年後、初めての誕生日に秋恵からもらったペン皿のことを思いだして、未練とともにそれをゴミ集積所に放り捨て留、という話です。
そんな感じで短編4篇がありますが、言うまでもなくこれは西村流の「私小説」であり、北町貫多=西村賢太であるわけで、その極端な性格が何かと災いを引き起こします。秋恵はモデルはいるものの、何ごとにも頑固なところがある半面、他者への思いやりも滅法強く、自身の骨折りに関してもわりと厭わぬ性格です(と、解説の中江有理は述べている)。
これだけ読めば全体が分かる、そのポイントとなる箇所を、以下に抜き書きしてみました。
貫多は24歳時以降の、およそ10年に及ぶ長の期間を、全く異性からの愛情に恵まれることなく虚しく経ててしまっていた。それだけに彼は、ようやく手に入れることがかなった女・・・初めて同棲にまで漕ぎつける事態となった、この明恵と云う女には、生来の病的な短気さ、最早矯正も利かぬ我儘駄々っ子根性に依る、小言を端緒とした暴言、そして暴力へと発展する流れはたまさかあるものの、しかし一方では常に離れがたき未練と愛しさも確とあり、彼女をかけがえのない存在として、絶えず感謝と尊敬の念も抱き続けてはいる。(寒灯)
毎年、北町貫多は木枯らしの季節が近付くにつれ、せんに同居していた女のことを思い出すのが常であった。・・・その女とは僅か1年ちょっとの同棲にしかすぎず、知り合った頃を含めてもたった2年程の交わりでしかなかったが、貫多にとってそれは異性との生活を経てた唯一度の記憶である。そして彼の方では、その暮しがこの先も永遠に続くとばかり思い込み、これに何んらの疑念も抱かぬお目出度さであった分、はな、そんな自分を裏切り弊履同然に捨て去った女への怒りはなまなまなものではなかった。(腐泥の果実)
無論、それから8年の歳月が経った今では、さしも粘着気質の貫多といえど、その女に対する未練は殆ど断ち切れた状態になっている。その間に彼は柄にもなく小説を書き始め、それが自らの身辺に材をとったものであるだけに、女のこともかなりデフォルメを施したモデルの一人に使わざるを得ず、するとイヤでも往時のかの面影の想起に至る羽目にもなってゆくのだが、しかしそれは一面、当時の暮らしをやや客観的に眺められる心境になったと云うことの証じみたものでもあった。(腐泥の果実)
思えば、随分なことをしたものである。そうしてあのとき、女の深情に素直に感謝できなかったのだろうか。今、改めてその革のペン皿を眺めれば、貫多は激しい後悔と女に対する憫諒の念で、どうにも臥し転びたいような気持ちになってくる。ひいてはかような言動以外に、女に再三ふるった暴力の点にも膚受の慚愧が湧いてくる。・・・貫多は、女に手をついて、心底からの謝罪の言葉を述べたかった。(腐泥の果実)
遅ればせながら、使ってみようかと思ったのである。机上に置いてみると、暗く殺風景な陋室にあって、それはみずみずしくもほろ苦い香りを放つ、一個の果実たる錯覚をもたらしめた。・・・あの誕生日の頃には、おそらく女は例のパート先で知り合った男と親密になっていたであろう事実が、忽然と脳中に蘇ってきたのである。・・・すると途端に、またぞろ貫多はあの女の全てが汚らわしくてたまらなくなり、ついで8年越しの遺る瀬ない憤りが激しく再燃してきてしまった。いかにこちらにそもそもの非があり、それが積み重なった結果と云えど、所詮、あの女は不貞をはたらき、平然と彼を裏切ったのである。(腐泥の果実)
西村賢太の標準的な言い回し、つまり貫多の性格(根)は以下の如し。
・元来の根がひどく誇り高くできている彼には
・根がスタイリストにできている彼は
・ぼく、こう見えて根はかなりインテリにできているんだから
・元来の根が人一倍儒弱にできてる貫多は
・元来の根がひどく誇り高くできている彼には
・根がスタイリストにできている彼は
・ぼく、こう見えて根はかなりインテリにできているんだから
・元来の根が人一倍ヌレ弱にできている貫多は
・根がひねくれ者にできている偏屈な彼の胸にも
・互いに根はひどく大甘にできているフシがあるだけに
・根がワガママ気質にできている貫多は
・根が北向き天神にできている貫多は
・根がかなりスタイリストであり、自尊心だけは人並みに高くもできてる貫多は
・根が甘にできている貫多はいたく感動し
・元来の根はひどく好色にできた男であり
・根が坊ちゃん気質で我儘者にできている貫多は
・根がどこまでも駄々っ子気質にできている彼は
以下、本の裏表紙には・・・。
初めて恋人との正月を迎える貫多。だが些細な行き違いから険悪な雰囲気になり、大晦日の夜ついに爆発する。二人の新生活に垂れ込める暗雲の行方は―「寒灯」。いくら邪険に扱っていようと、秋恵への気持ちは微塵も変わっていなかった。しかし暴言や暴力は続き、ついに彼女は去ってゆく。そのあとに残されたものは―「腐泥の果実」。他二篇を収録する私小説集、待望の文庫化。
西村賢太の略歴は・・・。
1967(昭和42)年、東京都生れ。中卒。2007(平成19)年「暗渠の宿」で野間文芸新人賞、2011年「苦役列車」で芥川賞を受賞。刊行準備中の「藤澤希清造全集」(全五巻別巻二)を個人編輯。文庫版「根津権現裏」「藤澤清造短篇集」を監修。著書に「どうで死ぬ身の一踊り」「二度はゆけぬ町の地図」「小銭をかぞえる」「廃疾かかえて」「随筆集 一私小説書きの弁」「人もいない春」「西村賢太対話集」「随筆集 一日」「一私小説書きの日乗」「棺に跨がる」「歪んだ忌日」「けがれなき酒のへど 西村賢太自選短篇集」ほか。
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