Quantcast
Channel: とんとん・にっき
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2506

「建築の危機」打開せよ―建築界のリーダー3氏が公開討論!

$
0
0

kiki2
kiki1


「公開討論」とはいえ、東京大学建築学科大学院の企画、一般の人にはほど遠い存在です。また「建築の危機」と言われても、多くの建築の実務に就いている人には「いったい何が?」と疑問符が付きます。


が、いずれにせよ、現代建築をリードする槇文彦、磯崎新、原広司の3人の建築家が、「これからの建築理論」をテーマに公開で語り合ったことが、新聞紙上で一般に知らされたことは、多くの課題に突き上げられている建築界にとっても意義のあることでもあります。と、思うのでありますが、彼ら3人の建築家は東京大学建築科卒業のエリート中のエリート、3人とも白髪で合計年齢は244歳、大西若人の記事を見ると、かなり「うわづみ」の議論で、しかもそれぞれの意見がすれ違っているように思いました。


思えばこの3人の建築家、僕が建築の道に入ってから、彼らの言説やつくり出す建築に一喜一憂し、ずっと追っかけてきた遙か彼方の建築家でした。「代官山ヒルサイドテラス」の槇文彦、「つくばセンタービル」の磯崎新、「梅田スカイビル」の原広司、と彼らの代表作を付けて記事の始めに紹介されています。もちろん、その3作は出来てすぐに観に行っています。



槇文彦の建築に関しては、アメリカからの帰国後、デビュー作の「名古屋大学講堂」でいきなり建築学会賞を受賞します。ハーバードを出てホセ・ルイス・セルトの事務所に勤務後のことです。こんなラッキーは、ブロイヤーのところから帰ってきたばかりで、丸ビルを歩いていて中央公論社長に会い、「中央公論ビル」でこちらもいきなり建築学会賞を受賞した芦原義信くらいなものです。そう言えば2人ともハーバードでした。「千葉大学医学部講堂」も観ましたが、なんかの関係でバスでの見学会に参加した「立正大学熊谷校舎」が思い出に残っています。“モール”や“コリドール”など、都市の概念を使っての建築でした。「トヨタ鞍ヶ池記念館」も中を見せていただきました。


藤沢にある「秋葉台体育館」も、長谷川逸子の「湘南台文化センター」と一緒に観に行きました。もちろん、代官山集合住宅にあった「タンタン」の絵本のお店や「トムズサンドイッチ」には、子供が小さい頃はよく行きました。2期3期と次々と増築されて、雑貨店などで生活用具を買ったりもしました。「ヒルサイドテラス」も今では5期にもなりました。青山の「スパイラル」は今でもふらりとよく行きます。槇の母方の祖父は竹中藤右衛門、慶応から東大、ハーバードという学歴です。それを何代か溯ればただの大工ではないかと揶揄する人もいたりします。近代日本の名家であることは間違いありません。安藤忠雄、伊東豊雄、石井和絋、毛綱毅曠、石山修武ら若い建築家を、「平和の時代の野武士たち」と、一刀両断に揶揄したこともありました。



磯崎新の建築に関しては、大学の卒業時に友人たちと夜行列車で行った大分での「磯崎新建築もうで」を思いだします。「大分医師会館」や「岩田学園」、そして“プロセス・プランニング”を実践した「大分県立図書館」を観ました。また「N邸(中山邸)」では、住宅の中まで入れて貰い、丁寧に説明していただきました。そして「福岡相互銀行大分支店」でも、応接室に案内され、営業室の写真も撮らせていただきました。N邸といい、相互銀行といい、今ではとても考えられないことです。「群馬県立近代美術館」には、隣にある大高正人の「群馬県歴史博物館」と共に、何度か観に行っています。磯崎の出世作「つくばセンタービル」、そしてあの100mのタワーがそびえる「水戸芸術館」は、一つの時代をつくったと言えます。先日観た「磯崎新 都市ソラリス」には大いに刺激を受けましたが、やや時代錯誤の感は否めません。



原広司の建築に関しては、かなり初期の建築から観ています。佐世保の丘の上にある「久田学園佐世保女子高等学校」は、原の唱えた“アーティキュレーション”を実践した建築です。また“有孔体理論”を実践した佐倉市にある「下志津小学校」も観に行きました。もちろん原の著書「建築は可能か」を読んだりもしていました。「飯田市美術博物館」や「梅田スカイビル」も、わざわざ観に行きました。「京都駅ビル」はコンペの時から注目していて、指名コンペ参加者全員の作品が展示された展示会へも京都まで行った記憶があります。安藤忠雄やジェームス・スターリングをコンペで破って実施に至りました。東日本大震災の前に宮城県周辺で起きた地震の後に、「宮城県図書館」を訪れたこともありました。世界の集落調査のエッセンスである「集落の教え100」からは多くを学びました。大江健三郎は原の「集落の教え」を何度も引用しています。大江の故郷である内子町の「大瀬中学校」も原の作品です。


さて「多くの課題に突き上げられている建築界」のなかで、建築家の職能の問題、責任を分散させる資本主義社会の問題、都市が巨大化して建築との接点が薄れている問題、社会が高度に情報化されている問題など、多くの問題が現前しています。が、しかし、当座の最大の課題は「新国立競技場」の問題だと言えます。「建築ジャーナル」2014年1月号の特集は「新国立劇場案を考える」ですが、執筆者5人の内4人が反対派だったようです。読んでいないので詳しいことは分かりませんが、反対ではない1人は審査委員でもあった鈴木博之のようです。鈴木は別のシンポジウムで、新国立競技場と新築なった歌舞伎座を比較して、「襲名」という言葉で読み解いたという。同じく審査委員だった内藤廣は、自分の事務所のホームページで反論をしていたので話題になりました。


昨年10月11日、建築家協会主催の「新国立競技場案を 神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」と題したシンポジウムには、槇文彦も出席して行われたという。パネリストは、建築史・都市史の陣内秀信法政大学教授、社会学者宮台真司首都大学教授、建築家・東京大学教授大野秀敏、進行役は.JIA MAGAZINEの編集長・古市徹雄千葉工大教授で、総合司会は槇総合計画事務所OBで、東京藝大教授の元倉真琴でした。


鈴木は東京大学出身の東京大学教授、内藤は早稲田大学出身の東大教授で、東大の副学長まで務めました。審査委員長は安藤忠雄、大学は出ていないで突然東京大学教授になった建築家です。事実上、ザハ・ハディト案を選んだ張本人といえるでしょう。槇文彦がやり玉に挙げている歴史的な文脈を逸脱した「案」ということになります。槇にとってこの地は、TEPIA(機械産業記念館)を建て、東京都体育館を建て、津田ホールを建ててきた経緯がある、よく知った地でもあります。


こうしてみていくと、「新国立競技場」問題は、槇文彦対安藤忠雄という構図になります。安藤忠雄は、鈴木博之や前東大教授の難波和彦、早稲田大学の石山修武をも巻き込んで論陣を張ろうとしているようです。「新国立競技場」問題は、元東京大学教授同士の、どちらが正統派なのかというヘゲモニー争いか、これは部外者には「コップの中の嵐」にみえます、というとあまりにも不謹慎かもしれませんが・・・。


過去の関連記事:

新国立競技場、審査委員の内藤廣の発言!
建築家・槇文彦「異議あり 新国立競技場計画」!
槙文彦の「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」を読んだ!
熱狂の舞台は流線形 新国立競技場デザイン発表
新国立競技場コンペ、国内外から11点が残る。
あたらしい国立競技場、国際デザイン・コンクール!


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2506

Trending Articles