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ギャラリーエーA4で「三里塚教会物語と吉村順三展」を観た!

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ギャラリーA4で「三里塚教会物語と吉村順三展」を観てきました。副題には「時代を越えて生き続ける小さな木造教会」とあります。今まで吉村順三の作品集には載っていない、従って一般には知られてない、初めて公になった作品です。しかも吉村順三の唯一の教会建築です。この展覧会は明日23日までと聞いて、大慌てで観に行ってきました。用意してあったリーフレットが完売したというほど大好評だったようです。


「三里塚教会物語」とあるように、クリスチャン戸村一作氏の生涯にもスポットを当てています。また「吉村順三展」ともあるように、吉村の設計した幾つかの住宅作品も展示してありました。旧軽井沢の「エロイーズ・カニングハムの家」を、元NHKアナウンサーで作家の下重暁子 さんが購入していたことは、今回初めて知りました。そして吉村と言えば家具、折りたためる椅子が展示されていました。


三里塚というと、戦後この地に入植した開拓農民によって荒れ地を開墾された農地でした。作物がなんとか育つようになったときに、当時信徒代表だった戸村一作氏の呼びかけにより、吉村順三の設計で新たに木造の教会が建設されました。なぜその設計が、東京藝術大学助教授だった吉村順三に委嘱されたのかは、未だ不明です。この教会は開拓農民の心の拠り所として、日曜の礼拝だけでなく、毎日の集会の場として、集落の広場的な存在だったようです。


その後、成田空港の計画が決定され、空港建設の補償として県営地に新しく教会を建設し、この教会は取り壊される予定だったという。戸村氏は「解体のためにやって来た人々を前に両手を広げてそれを阻止した」と言われています。成田空港反対闘争中もその後も、この三里塚教会は現在に至るまで、使われ続けてきました。この教会には鐘楼がありますが、予算がなくて、鐘そのものはとうとう設置されませんでした。


「三里塚教会」

千葉県成田市三里塚47-2 昭和29年(1954年)
木造 平屋建 一部二階建 真壁構造
延床面積:82.08㎡(24.83坪)
施工:共立工業株式会社(成田市三里塚)


吉村順三の唯一の教会作品。住宅スケールの建築材料で建てられた木造の教会堂である。柱を見せた真壁構造に、外装は杉板下見張オイルステイン塗装及び漆喰塗りの仕上げとなっている。屋根は勾配3寸5分で厚型スレート葺。靴を脱いで上がる日本的な構えの玄関から入ると、前室の広間の引違い戸の奥に、幅18尺(約5.45m)×奥行き27尺(約8.18m)、約45㎡(約13.5坪)の、約27畳の小さな礼拝堂が続く。正面には木構造の柱・梁をそのまま十字架の表現として利用している。


側面のスリット窓より外光が入る。屋根を支える柱は4寸角(約12cm)、柱スパンを飛ばすために使った丸太を半割にした梁トラスを見せることにより空間に程よいリズムと緊張感を与えている。屋根の勾配をそのまま内部空間とした天井高約5.2mの礼拝堂である。住宅のようなスケールで当時周囲に広がっていただろう牧歌的な農村風景に溶け込みつつも、鐘楼を屋根の上に載せることにより教会堂としてのささやかな存在感を表している。






「軽井沢の山荘/吉村別荘 森の中の家」
長野県北佐久郡旧軽井沢町/昭和37年(1962年)
1階 鉄筋コンクリート造、2階 木造 2階建 
延床面積:87.7㎡ *増築部を含まず

 

吉村順三を代表する作品のひとつで、自身が家族や事務所所員と過ごすために建てた自邸(山荘)。鉄筋コンクリート造のボックスの上に7.2m角の正方形のコンクリートスラブを乗せ、その上に木造の2階部分と片流れ屋根と屋上の露台を載せている。楡と椚の林に囲まれ、宙に浮いているかのように外に開かれた居間を中心に、居心地の良い空間が7.2m角の正方形の中に、その3分の1の2.4mの寸法を軸にコンパクトにまとめられている。森の中に佇める簡素ながらも周辺の自然と呼応した豊かな空間が広がる珠玉の名作。




吉村順三の家具

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吉村順三:略歴
1908年(明治41年)9月7日 東京・本所生まれ。家業は呉服屋を営んでいた。
1921年(大正10年)建築雑誌「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に2案応募して

             入選、選外佳作となる。(13歳)
             関東大震災で本所付近全壊。(14歳)
1923年(大正12年)東京府立第3中学校卒業
1926年(昭和元年)東京美術学校卒業。卒業制作が最小限住宅(新しい住宅の

             スタンダードの在り方を提案)。

             在学中からアントニン・レーモンド建築事務所に通っていた

が、正式に入所。(18歳)
1931年(昭和6年)帰米したアントニン・レーモンドに呼ばれ、渡米。
1940年(昭和15年)太平洋戦争開戦直前に最後の引き揚げ船で帰国。
1941年(昭和16年)同じ船に乗り合わせていたジュリアード音楽院に留学していた

             バイオリニストの大村多喜子さんと出会い、その後結婚。

             チェリストになった長女・隆子さんと3人家族。
 同年12月8日 太平洋開戦(真珠湾攻撃)の日に建築設計事務所を開設。(33歳)
1945年(昭和20年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)助教授に就任。(36歳)
1956年(昭和31年)日本建築学会賞受賞(国際文化会館の共同設計)(48歳)
             パーソン賞受賞(ニューヨークの一連の作品)
1960年(昭和35年)皇居新宮殿の設計者に選定され、基本設計。(52歳)
1962年(昭和37年)東京芸術大学建築科教授に就任。(54歳)
1970年(昭和45年)東京芸術大学建築科名誉教授。
1972年(昭和47年)デザイン優秀賞受賞(ニューヨーク・ジャパンハウス)。
1975年(昭和50年)日本芸術院賞受賞(奈良国立博物館)。(67歳)
1980年(昭和55年)病に倒れ入院するが、およそ1年で現役復帰。(72歳)
1982年(昭和57年)勲三等旭日章受章。
1994年(平成6年)文化功労者顕彰。
1997年(平成9年)逝去。勲2等瑞宝章受章。(88歳)

主な作品:
1953年(昭和28年)佐倉厚生園サナトリウム/千葉
            東山魁夷邸/東京
1954年(昭和29年)ニューヨーク近代美術館日本館/アメリカ
            三里塚教会/千葉
1955年(昭和30年)園田高弘邸/東京
            国際文化会館(前川國男、坂倉準三と共同設計)/東京
1956年(昭和31年)モテル・オン・ザ・マウンテン/アメリカ
1957年(昭和32年)南台の家(吉村自邸)/東京
1959年(昭和34年)箱根ホテル小涌園/箱根
1960年(昭和35年)皇居新宮殿(基本設計)/東京
1962年(昭和37年)軽井沢の山荘(吉村山荘)森の中の家/軽井沢
            同志社大学アーモスト館/京都
            NCRビル/東京
1965年(昭和40年)浜田山の家/東京
            俵屋/京都
            愛知県立芸術大学・講義室棟ほか/愛知(~1971年)
            文殊荘/京都
1969年(昭和44年)青山タワービル・タワーホール/東京
1970年(昭和45年)軽井沢の山荘(脇田邸)/軽井沢
            山中湖の山荘(亀倉邸)/山梨
            ホテルフジタ/京都
1971年(昭和46年)ジャパンハウス/アメリカ
1972年(昭和47年)奈良国立博物館/奈良
1974年(昭和49年)ポカンティコヒルの家(ロックフェラー邸)/アメリカ


「Gallery A4」ウェブサイト

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