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世田谷百景「豪徳寺」招き猫伝説!

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「ボロ市」を見た帰りに、招き猫で有名な「豪徳寺」を訪れました。実は昨年の暮れ、30日にも訪れているのですが、その時は招き猫はほとんど奉納されていませんでした。わずか2週間でこんなにもたくさんの招き猫が奉納されていたので、いやもうビックリ、驚きました。ちょくちょく散歩がてら、豪徳寺に寄ってはいるんですが、ブログに書くのは久し振りです。総門右横の、豪徳寺のお墓にあげるお花やお水を扱っている「山崎商店」が

なくなっていました。お店の看板には「招福猫児」と書かれてあり、「豪徳寺 猫が手招く福と運」とありました。


以下、過去の記事から・・・。


この寺はもとは弘徳院といい、吉良氏の菩提寺だったのですが、吉良氏の没落と共に寺運も傾き、貧乏寺になってしまいました。江戸初期の頃、この破れ寺の和尚は大変な猫好きで、タマと名付けて自分の食をも分け与えて可愛がっていました。ある日、和尚はタマに向かって、「この貧乏寺をなんとか出来ないものか」と、言い聞かせました。ある時、寺の前を遠乗りの井伊直孝一行が通りかかった時に、激しい雷雨に見舞われました。山門に出てきたタマは手招きして一行を寺に招き入れました。和尚は渋茶でもてなし、心静かに「三世因果」の説法をしたり、四方山話に花を咲かせたりしました。


それが直孝のお気に召して、時折訪ねては和尚の話を聞いたそうです。これがきっかけで弘徳院は井伊家の菩提寺になり、藩主直孝の法号により「豪徳寺」と名前を改めました。井伊家から田畑を多く寄進されて一大伽藍になりましたが、和尚は天寿を全うしたタマを「猫塚」に祀り猫の恩に報いました。「豪徳寺」は、福を招き入れるので「猫寺」と呼ばれるに至ったそうです。現在でも「家内安全」「営業繁昌」「心願成就」を願って、お参りする人が絶えません。境内には、直孝を始め、井伊家代々の墓所があり、桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓は都史跡に指定されています。境内は落ち着いた静かさで、樹木に覆われ、四季折々の花を咲かせます。











招福猫児(まねぎねこ)の由来
今名刹の豪徳寺は、昔貧寺にして二三の雲水修行してようやく暮らしを立つる計りなりき。時の和尚特に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割いて猫に与え愛育せしが、ある日和尚猫に向かい、「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かせたるがその後幾月日が過ぎし夏の日の昼下がりにわかに門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出てみれば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗り捨てて入り来たり和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一匹うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫く休息させよ」とありければ和尚急ぎ奥へ招じ渋茶など差し出しける内天忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世の因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是れ偏に仏の因果ならん以来更に心安く頼み参らす」とて立ち帰られけるが、これぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにしてこの寺を猫寺と呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其冥福を祈り後世この猫の姿をつくり招福猫児(まねぎねこ)と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁盛、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。 (古文書より)


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