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麻布十番で「特上コロッケ」を食べる!

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麻布十番を歩いていたら「特上コロッケ」の看板が見えたので行ってみたら、「樂万コロッケ店」という小さなお店がありました。


「樂万コロッケ店」のコロッケは、保存料や化学調味料を一切使わず冷凍保存もなし、形を平たくしないで丸く(俵型)して、上質な油を頻繁に交換して揚げているので油っぽさが少なく、あっさりしています。「羅臼のこんぶ塩で食べるぜいたくコロッケ」と書いてあります。


試しに食べてみようと「和牛たっぷり特上コロッケ」を注文しました。わりと小ぶりのコロッケです。ビニール袋に入った塩が付いていました。店先には、お茶のポットも置いてあり、お茶が自由に飲めます。店先の椅子に座ってアツアツの「特上コロッケ」を食べました。美味しゅうございました。


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パナソニック汐留ミュージアムで「メイド・イン・ジャパン南部鉄器」を観た!

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パナソニック汐留ミュージアムで「メイド・イン・ジャパン南部鉄器」を観てきました。なんといっても、ポスターにあるカラーポットとポット敷きが強烈なインパクトを放っています。鉄器と言えば、茶色か黒と相場は決まっていますが、しかし、あまりにも衝撃的なピンクです。これが南部鉄器なのかと、一瞬我が目を疑いましたよ。


南部鉄器は、現在の岩手県北部を治めていた南部家の藩主・利直公が、盛岡に不来方城(こずかたじょう)を完成させた17世紀半ばにその起源があります。利直公は鋳物師や釜師を京都から招き、彼らに家禄を与えて召し抱え、仏具や兵具はもちろんのこと、茶道の普及のために茶の湯釜をつくらせたのが起こりです。次第に各大名や江戸への贈り物として重宝され、南部鉄器は盛岡藩の特産品となりました。


豊かな森林資源や鉄資源を誇る岩手県で約400年前に発祥した南部鉄器が、今、注目を集めています。南部鉄器に注目が集まるきっかけとなったのは、フランスやベルギーのハイセンスなティーサロンに、海外輸出用につくられた南部鉄器のカラフルなティーポットが選ばれたことだったという。欧米での人気が国内に還流し、南部鉄器は再び評価されるようになりました。


内田繁のデザインした茶室「行庵」は、茶会が終わると折りたためてしまえるというコンセプトでつくられたもの。茶室は、竹の乱れ張りにより、壁面を通して木漏れ日のように光が落ちる空間です。その中にしつらえた南部鉄器の茶釜や水指などの道具だてを提案していました。


展覧会の構成は、以下の通りです。

第1部 南部鉄器の歴史 その発展と逆境

第2部 南部鉄器の模索・挑戦といま

第3部 現代の生活における南部鉄器



第1部 南部鉄器の歴史 その発展と逆境



第2部 南部鉄器の模索・挑戦といま




第3部 現代の生活における南部鉄器




「おかげさまで開館10周年。」

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「メイド・イン・ジャパン南部鉄器 -伝統から現代まで、400年の歴史-」

自然とのかかわりや手仕事を大切にするライフスタイルがますます支持されるなか、岩手の豊かな大地が育んだ南部鉄器がいま、静かに注目を集めています。きっかけは、フランスやベルギーのハイセンスなティーサロンに、海外輸出用の南部鉄器のカラフルなティーポットが選ばれたことでした。各工房からは新しい感性による作品が次々と誕生し、また、南部鉄器に魅了されたデザイナーからの提案も人気作を生んでいます。日本を代表するプロダクトデザイナー柳 宗理(1915-2011)による南部鉄器のキッチンツールは、聖火台や陸橋など鉄を素材とする工業デザインを、都市のスケールにまで展開した柳ならではの名作といえましょう。歴史的には、現在の岩手県北部を治めていた藩主南部家が、17世紀半ば、盛岡に築城してから街づくりや文化振興に努めるなかで、鋳物師や釜師を京都などから招き、仏具や兵具はもとより茶の湯釜をつくらせたのが興りです。次第に各大名への贈り物として重宝され、特産品となりました。近代化の中で浮き沈みはありつつも、400年間以上研鑽を積み、奥州市水沢地区のもうひとつの鋳物のふるさととともに、1975年には国の「伝統的工芸品」の指定を受けました。質実剛健でぬくもりが感じられ、伝統的技法にこだわりながら、欧米で評価される「made in Japan」 の南部鉄器―21世紀の新しい生活への提言を秘めた、その真価がいま見直されています。本展は、第一線のクリエイターが手がける空間とのかかわりもご覧いただきながら、選りすぐられた作品の数々をご堪能いただけます。

「パナソニック汐留ミュージアム」ホームページ

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チラシ表面
「南部鉄器」岩手県盛岡市

ここは、盛岡の「鈴木盛久工房」。鉄瓶や茶釜などさまざまな南部鉄器を製造しています。今の15代当主は女性の釜師、志衣子さん。小柄な身体ながらも険しく男性的な釜作りの世界へ。南部鉄器の伝統技術に、新たな魅力が加わります。

nan2 「ただいま、東北♡」
チラシ裏面
「ただいま、東北♡」では、東北に今も残る心の原風景を訪ねて、大河ドラマ「八重の桜」主演の綾瀬はるかさんが、実際に東北各地を旅し、底に生きる人と触れあいながら、東北の魅力を伝えます。綾瀬はるかさんが、岩手県盛岡市の南部鉄器の工房を訪ねました。






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ここは赤坂

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豊川稲荷の節分会追儺(ついな)式に来ています!

豊川稲荷東京別院の節分会追儺式 2014

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久しぶりに豊川稲荷東京別院の、節分会追儺(ついな)式に行ってきました。


豊川稲荷東京別院は、日本三大稲荷の一つ愛知県の三州本山豊川稲荷(圓福山妙厳寺)の直轄別院です。赤坂一ツ木の大岡越前守邸にあったご本尊を明治20年に奉遷したものといわれています。愛知県の三州本山豊川稲荷は、明治の神仏分離令の折、宇迦之御魂神を祀っているのではなく「本尊ダキニ天」を主張して、それを乗り切ったそうです。境内の配置や本殿は鳥居がないこと以外はどう見ても神社です。が、しかし、そうじゃないんですね、お寺なんです。と、以前、このブログに書いたことがあります。


今年の豆まきに参加した年男(女)たちはほとんどが芸能人でした。司会は林家正蔵や林家三平を始め、林家一門。年男、年女、一人一人が一声挨拶をしてから、一斉に豆まきが始まりました。豆が銃弾のように空から降ってくるので、顔を上げてはいられません。皆さん、用意周到、袋状のものを持ってきて、空に向かって広げていました。豆まきが終わった後、豆を湯飲み茶碗に一杯と紅白の餅が配られました。


豊川稲荷東京別院





節分会追儺式






豊川稲荷東京別院について

豐川稲荷は正式名を「宗教法人 豐川閣妙嚴寺(とよかわかくみょうごんじ)」と称し山号を圓福山えんぷくざんとする曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院です。一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は「狐を祀った神社」を想像される方が多いと思われますが、当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)とは、昔、順徳天皇第三皇太子(じゅんとくてんのうだいさんこうたいし)である寒巖禅師(かんがんぎいん)が感得された、霊験あらたかな仏法守護の善神です。 豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。


当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公(おおおかえちぜんのかみただすけこう)が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集めさらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。


「豊川稲荷東京別院」ホームページ

過去の記事:

豊川稲荷東京別院 節分会追儺式 2009
豊川稲荷の「一か所七福神」!
豊川稲荷の節分会
ちょっと早いけど豊川稲荷へ



「アール・ブリュット―人の無限の創造力を探求する2014―」を観た!

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「アール・ブリュット」とは?

「アール・ブリュット(Art Brut)」と は、正規の美術教育を受けていない人々が伝統的な文化や社会の潮流に流されることなく、独自の発想と方法により制作した作品のことを指します。「アート(Art)」は「芸術」、「ブリュット(Brut)」は「磨かれていない」「(加工されていない)生のままの」という言葉を表すフランス語で、画家のジャン・デュビュッフェが1945年に考案した概念です。障害の有無にかかわらず、多様な作家がいるアール・ブリュットという芸術分野は「表現することの可能性」や「人の果てしない創造の力」を圧倒的な力でまざまざと体感させてくれます。

アウトサイダーアート


社会福祉法人 愛成会が主催する「アール・ブリュット -人の無限の創造力を探求する2014–NAKANO~街中まるごと美術館~」が、中野駅北口一帯で今年も開催されました。この企画では、街の中にアール・ブリュット作品があらゆる形で登場し、街全体がまるで大きな美術館のように変身しました。


第1弾 中野サンモール、アール・ブリュット

     中野駅北口を出て目の前の商店街が、

     アール・ブリュットストリートに変身!!

第2弾 中野ブロードウェイ、アール・ブリュット

     中野ブロードウェイ全館がアール・ブリュット一色に。

     作品のポスターやアール・ブリュット雑学など見どころ満載です。

第3弾 アール・ブリュット展

     日本を代表するアール・ブリュット作品や、これから注目される

     新しい作家作品の数々をご覧いただけます。

     心揺さぶられる感覚を是非、ご体感下さい。

     第1会場:中野サンプラザ(中野区中野4丁目1-1)

     第2会場:中野マンガ・アートコート(中野区中野3丁目40-23)

第4弾 アール・ブリュットフォーラム

     2014年2月11日(火・祝)

     プログラム 定員:200名

     14:00 特別講演「Art Brut Japan 日本のアール・ブリュットがイギリスに与えた影響」

     ケネス・アーノルド(ウエルカム・コレクション館長/イギリスロンドン)

     15:10 行政が取り組むアール・ブリュット魅力発信

     宮川正和(滋賀県総合政策部管理監「美の滋賀」発信室室長)

     山田貴之(板橋区議会議員)

     16:10 シンポジウム「アートがつなぐ人と街のかたち」

     高橋伸行(アーティスト、名古屋造形大学教授)
     齋藤誠一(アール・ブリュットインフォメーション&サポートセンター)

     青木武(中野ブロードウェイ商店街振興組合理事長)

     小林瑞恵(社会福祉法人愛成会アートディレクター)

     *フォーラム参加費:無料(要予約)

       社会福祉法人愛成会

TEL 03-3387-0082 FAX03-3387-0820

ギャラリートーク

      「キッズ編」定員:15名 参加費無料(要予約)

      2014年2月16日(日)11:00~12:00

      講師:小林瑞恵(本展アートディレクター)

      「街歩き編」定員:10名 参加費無料(要予約)

      2014年2月16日(日)13:00~14:00

      講師:小林瑞恵(本展アートディレクター)


中野サンプラザ、アール・ブリュット展


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中野サンモール、アール・ブリュット

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中野ブロードウェイ、アール・ブリュット

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過去の関連記事:

「アール・ブリュット 欧州巡回へ」
フォーラム「アール・ブリュット―生(き)の芸術―」に参加した!
生の芸術「アール・ブリュット」展を観た!



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豊川稲荷の七福神!

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豊川稲荷の「七福神」は、「一カ所七福神」と呼ばれて、一カ所で「七福神めぐり」ができる、というものです。あちこち歩き回るのが苦手なものぐさの人にはもってこいの「七福神めぐり」です。


一カ所七福神については、過去に豊川稲荷と、もう一つ、これは家の近所なのですが、環状7号線と国道246の交わるところの、上馬交差点のすぐそばの「宗円寺」にもありブログに書きました。

豊川稲荷の「一か所七福神」!

宗円寺の七福神


こんなホームページもありました。

「1カ所で七福神参拝できる!」


以下、豊川稲荷の「一カ所七福神めぐり」です。

(解説文:豊川稲荷のホームページによる)

番号は「順路」を示します。


①恵比寿尊

唯一、日本の神様(大国主命の息子、事代主命)

ご利益:商売繁盛、漁業繁栄

チャームポイント:右手に釣り竿、左手に鯛、とにかく釣り大好き。

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②大黒天

インドの神様(台所の神様)

ご利益:金運増長、開運招福

チャームポイント:頭に大黒頭巾、右手に神鎚、左手に大きな袋、米俵の上に立ち、福耳。

名前の由来は「黒くなってマメに働く」。

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③弁財天

インドの神様(3大女神の一人)

ご利益:芸道精進、財福招来

チャームポイント:ビワを抱えている音楽の女神。

七福神の紅一点。水神でもあったため、水の側に多く祀られる。

*豊川稲荷が芸能人に親しまれる理由のひとつでもある。

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④毘沙門天

インドの神様(四天王の一人。「多聞天」とも呼ばれる)

ご利益:開運福徳、智慧出世

チャームポイント:武将の姿。左手に宝棒、右手に宝塔。

すべてのことを一切聞き漏らさない智恵者。

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⑤布袋尊

中国の神様(布袋和尚と呼ばれて親しまれた禅僧)

ご利益:開運、良縁

チャームポイント:小柄で太鼓腹。

大きな袋は堪忍袋ともいわれ、現世の欲望を達観した大らかな人。

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⑥福禄寿尊

中国の神様(南極星の化身)

ご利益:福徳長寿

チャームポイント:長いあごひげに大きな耳たぶ。

福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長寿)、三徳揃った平和の神様。

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⑦壽老尊

中国の神(老子が天に昇ってなったといわれる仙人)

ご利益:長寿、諸病平癒

チャームポイント:仙人の姿でにこやかな微笑み。実は1500歳の諸長寿。

右手に持っているのは長寿の証、鹿の杖。

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「豊川稲荷東京別院」ホームページ


過去の記事:

豊川稲荷東京別院の節分会追儺式 2014
豊川稲荷東京別院 節分会追儺式 2009
豊川稲荷の「一か所七福神」!
豊川稲荷の節分会
ちょっと早いけど豊川稲荷へ




世田谷文学館で「星を賣る店 クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会」を観た!

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世田谷文学館で「星を賣る店 クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会」を観てきました。「星を賣る店」というタイトルは、イナガキタルホの著作からきているようです。


世田谷文学館へいくのは久しぶりです。お隣の千歳烏山駅には、ちょくちょく行ってはいるのですが・・・。同じ世田谷区とはいえ、僕の家からは対角線上に反対方向、三軒茶屋駅から東急世田谷線に乗り下高井戸駅まで行って、京王線に乗り換えて蘆花公園駅まで、けっこう時間がかかります。2010年には“知の巨匠加藤周一ウィーク”で、2013年には“書物の達人丸谷才一”で、通ったことがありました。ロビーには絹谷幸二の「愛すべきもの達へ・希望」という大きな絵が懸かっています。


クラフト・エヴィング商會については、チラシも見ていないし、まったく何も知りませんでした。どうして文学館で開催されているのか、どんなのもが展示されているのか、文学館へ行ってみるまで皆目見当が付きませんでした。タイトルに「星を賣る店」とあります。なんとなくメルヘンチックです。「あるかもしれません。ないかもしれません。答えはいつもふたつあるんです」というところがポイントかもしれません。会場は思っていた以上に、観客は少ない。しかも女性客ばかりでした。「三丁目の夕日」に出てくるような、ノスタルジックな「医院」が会場内に作られていました。


それはさておき、まず、展示物で笑わせてくれます。「赤巻紙青巻紙黄巻紙」や「道化師の鼻」を手始めに、たくさん笑わせてもらいました。いわゆる「カワイイ」展示物がほとんど。著作が多いのには驚きましたが、著作のタイトルも面白い。「ないもの、あります」は、今回の展覧会のテーマのようです。「じつは、わたくしこういうものです」は、何か言っているようでなんだか分からない、が時代を表しているよう、といえば言い過ぎか。小川洋子との共著「注文の多い注文書」も面白い。主として新書ですが、いわゆる装幀デザインは、架空ではなく実務そのものです。僕も彼らがデザインした本、数冊持っていますが・・・。


クラフト・エヴィング商會“前口上”が、分かり易く面白いので、下に載せておきます。


クラフト・エヴィング商會って何ですか?
はい。たびたび訊かれるんですが、じつに難しい質問です。
さて一体、どうお答えしたらいいんでしょう?
そうですねぇ。まぁ、屋号ですよね、わたしたちの。
その、わたしたちっていうのは誰のことです?
ええと、申し遅れました。わたくし吉田浩美と申します。
同じく失礼いたしました。わたくし吉田篤弘と申します。
二人あわせてクラフト・エヴィング商會。
夫婦漫才をしております。
いや、漫才ではないですよね。
まぁ。ほとんど漫才のようなもんですけど。
じゃあ、何をしているんでしょう?
まぁ、大体いつも二兎を追っていますょね。
そう。だから、答えはふたつあります。
たとえば、小説を書きながらデザインの仕事をしています。
デザイナーではあるけれど、アート作品も作っています。
アートというか、なんというか――。
この世に「ないもの」を取り寄せるお店ですよね。
あれ? どっちなんです? お店ですか、アートですか?
やはり答えはふたつなので、そのどちらでもあります。
いずれにしても、架空の品物を取り扱っている――。
いえ、そういうわけでもなくて――。
町の書店に並ぶ本のデザインもしています。
取り扱っている品も、架空の品物ばかりではありません。
で、そのお店はどこにあるんです?
いえ、どこにもないんです。
あ、ないんですね。
いえ、じつを言うと、このたびの展覧会の会場に――。
ある――かもしれません。ない――かもしれません。
どっちなんです?
答えはいつもふたつあるんです。まずは見てのお楽しみ。


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クラフト・エヴィング商會(craft ebbing & co.)は吉田浩美と吉田篤弘によるユニット名。著作の執筆と、装幀を中心としたデザイン・ワークを主として活動している。これまでに発表された著作は以下のとおり。
どこかにいってしまったものたち(1997 年 筑摩書房)
クラウド・コレクター / 雲をつかむような話(1998 年 筑摩書房)
すぐそこの遠い場所(1998 年 晶文社)
らくだこぶ書房21世紀古書目録(2000 年 筑摩書房)
ないもの、あります( 2001年 筑摩書房)
じつは、わたくしこういうものです(2002 年 平凡社)
テーブルの上のファーブル(2004 年 筑摩書房)
アナ・トレントの鞄(2005 年 新潮社)
おかしな本棚(2011 年 朝日新聞出版)
注文の多い注文書(2014 年 筑摩書房)*小川洋子との共著


これらの著作のほとんどに、「クラフト・エヴィング商會」は物語の中の二次元的存在として登場するため、ユニット自体が架空の存在と思われがちだが、実際に存在し、これまでにおよそ1000 点を超える書籍・雑誌等の装幀デザインを担当し、2001 年講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞した。同時に、自著に登場する架空の品々を「ないもの、あります」の謳い文句のもと、さまざまな手法によって具現化し、自著と展覧会を通して数多く発表している。それらは「作品」ではなく、あくまで「クラフト・エヴィング商會」というセレクト・ショップが仕入れた「商品」として取り扱っている。
また、吉田篤弘は並行して小説家として活動し、以下の作品を発表してきた。
フィンガーボウルの話のつづき(2001 年 新潮社)
つむじ風食堂の夜(2002 年 筑摩書房)
針がとぶ Goodbye Porkpie Hat(2003 年 新潮社)
百鼠(2005 年 筑摩書房)
78 ナナハチ(2005 年 小学館)
十字路のあるところ(2005 年 朝日新聞社)*坂本真典との共著
空ばかり見ていた(2006 年 文藝春秋)
という、はなし(2006 年 筑摩書房)*フジモトマサルとの共著
それからはスープのことばかり考えて暮らした(2006 年 暮しの手帖社)
小さな男*静かな声(2008 年 マガジンハウス)
圏外へ(2009 年 小学館)
パロール・ジュレと紙屑の都(2010 年 角川書店)
モナ・リザの背中(2011 年 中央公論新社)
木挽町月光夜咄(2011 年 筑摩書房)
なにごともなく、晴天。(2013 年 毎日新聞社)
イッタイゼンタイ(2013 年 徳間書店)
つむじ風食堂と僕(2013 年 筑摩書房)
ガリヴァーの帽子(2013 年 文藝春秋)
うかんむりのこども(2013 年 新潮社)

また、吉田浩美の著作に、
a piece of cake(2002 年 筑摩書房)


吉田音名義による著作に
Think 夜に猫が身をひそめるところ(1999 年 筑摩書房)
Bolero 世界でいちばん幸せな屋上(2000 年 筑摩書房)


がある。本展はこれまでの活動を総括した商會初の棚卸し的展覧会である。

「世田谷文学館」ホームページ


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鈴木博之さん、逝去のお知らせ

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山下裕二監修「超絶技巧美術館」を読んだ!

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山下裕二監修「超絶技巧美術館」(美術出版社:2013年12月25日第1刷発行)を読みました。あれも凄い、これも凄い、もっともっと凄い!本の帯には「日本美術が生んだ究極の技、集結! まずは作品と出会って、『なんだこれは!』とびっくりしてください。」とあります。


「超絶技巧」という言葉、ネットで調べても普通の辞書には出てきません。ただひとつ、「デジタル大辞泉プラス」には、「超絶技巧練習曲集」が出てきます。その解説には以下のようにあります。
ハンガリー生まれの作曲家フランツ・リストのピアノ曲集(1851)。原題《Etudes d'exécution transcendante》。全12曲。極めて高度な演奏技術を要求する難曲として知られる。


僕が「超絶技巧」を初めて知ったのは、泉屋博古館での「幕末・明治の超絶技巧」展でした。そこでは主として「金工」、「自在金物」などの「超絶技巧」作品でした。そこでの金工や自在金物が気になって、その後、京都の清水三年坂美術館を訪れたりもしました。毎年のお正月には、東京国立博物館で、自在金物を観ています。先日も、大倉集古館で自在金物が何点か出ていました。

泉屋博古館分館で「幕末・明治の超絶技巧」展を観た!
清水三年坂美術館で「鍛鉄の美 鐙、鐔、自在置物」を観た!


「超絶技巧美術館」では、大胆にも「超絶技巧」の意味するところを拡大して扱っています。「時流やマーケットの動向などとはさらさら関係なく、ただひたすら修行僧のように、自らの表現を突き詰めている作家たちがいます」。読者が本書を通じて初めてその存在を知る人です。「どうぞ、まずは何の予備知識もなくその作品のビジュアルに接して、ガーン、とショックを受けてくださいますよう」と、山下裕二はいう。


岡本太郎や赤瀬川原平を例に出し、前後美術の歴史の中で、「うまくて、きれいで、ここちよい」日本画などは、ほとんど絶滅しました。私は超絶技巧を追求するそんな作家たちと出会って、その凄さを多くの人に知って欲しいと思ってきた、という。


本書は、「美術手帖」2012年10月号の特集「超絶技巧」をもとに再編集し、書籍化した物です。そのときにとりあげた作家の追加作品を収録し、また、書籍化に際して取り上げた作家もいます。


目次

はじめに

PART1 鑑賞編

現代作家たちの「超絶技巧」。

予備知識なしで、まずは作品を味わおう。

池田学、安藤正子、山口英紀、会田誠、

井上雄彦、アイアン澤田、前原冬樹、青木克世、

橋本雅也、「雲龍庵」北村辰夫
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PART2 技巧編

超絶作品が生まれる制作現場を公開!

神技テクニックに迫る。

田嶋徹、前原冬樹、山口英紀、アイアン澤田、

「雲龍案」北村辰夫

東京藝術大学大学院文化財保存学

アダチ版画研究所

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PART3 歴史編

山下裕二さんが解説。

日本で生まれ、受け継がれる技巧の歴史。

倉本美津留さんと行く!超絶技巧の聖地巡礼

超絶技巧の絵画史

円山応挙、長沢芦雪、伊藤若冲、河鍋暁斎

狩野一信、鏑木清方、橋口五葉、高畠華宵ほか

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Artist File 注目の超絶技巧作家たち

小川信治、鷲見麿、篠田教夫、山本タカト、森淳一

近藤智美、John Hathway、葉山有樹、見附正康

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これぞ、明治のクールジャパン

2014年4月19日(土)~7月13日(日)

三井記念美術館

チラシ表面

作画:山口晃







gikou 「超絶技巧!明治工芸の粋」

これぞ、明治のクールジャパン

2014年4月19日(土)~7月13日(日)

三井記念美術館

チラシ裏面

作画:山口晃





吉田修一原作・沖田修一監督「横道世之介」を観た!

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吉田修一原作・沖田修一監督「横道世之介」をTUTAYAで借りたDVDで観ました。ちょうど1年前くらいでしょうか、この映画が公開されたのは。その時は見逃してしまいましたが、ずっと気になっていた映画でした。なにしろ吉田修一の原作ですから・・・。吉田修一と言えば、「悪人」は朝日新聞に連載され、この「横道世之介」は毎日新聞に連載されたものです。どちらも映画化されて、大ヒットしました。最近では「さよなら渓谷」も映画化されて、大ヒットでした。

吉田修一の「横道世之介」を読んだ!


この映画は桜の咲く4月、世之介が大学へ進学するために九州から上京してきて、新宿東口の駅前広場を歩いているところから始まります。ほぼ吉田修一の原作通りに進行します。横道世之介を取り巻く人物は、ほぼ下記の通りです。

地方出身者の大学生の典型的な例ですが、都会生活を始めるとはいえ、独り暮らしのはじめは、都心ではなく、埼玉県に近い西武新宿線の花小金井、住所は東久留米というところの、エアコンのないワンルームマンションです。早速知り合ったのは隣人で、シチューをご馳走してくれたヨガのインストラクター。入学式で知り合った同じ学部の倉持一平。倉持と一緒に入ったサンバサークルの阿久津唯。人違いで仲良くなった、実は同性愛者だった加藤。高級娼婦らしい片瀬千春。そして自動車教習所で出会ったお嬢様、与謝野祥子。流れのままに世之介は多くの人と出会います。


主演は高良健吾と吉高由里子、この二人、なんと金原ひとみ原作、蜷川幸雄監督の「蛇にピアス」で共演しているんですね。いや、驚きました。その二人が「普通の学生」と「お嬢様」を演じているのですから・・・。彼らの個性にあった役どころでしたね。好感を持ちました。なぜか僕は高良健吾の作品、けっこうたくさん観ています。

蜷川幸雄監督の「蛇にピアス」を観た!


物語は、上京したての一人の大学生の「なんてことない」一年間を、事細かに描き出しています。でも吉田修一、ただでは終わらない。世之介は事故で亡くなります。J・WEVEのDJが、事故のニュースをそれとなく伝えます。そのモデルとなったのは、JR大久保駅で線路に転落した人を助けようと、カメラマンと韓国人留学生が亡くなった事件でした。世之介は誰からも愛されました。世之介の母から祥子への手紙で、この物語は終わります。母は世之介が撮った最後の写真を郵送し、手紙には「世之介が自分の子どもで、幸せだった」と結んでいます。最後にちょこっと、隣室のカメラマン役で井浦新が出ていました。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:『パレード』『悪人』の原作者として知られる吉田修一が毎日新聞で連載していた作品を映画化。長崎から上京してきたお人よしの主人公の青年と周囲の人々のエピソードが描かれる。主人公とヒロインには、『蛇にピアス』で共演を果たした高良健吾と吉高由里子がふんし、メガホンを『南極料理人』『キツツキと雨』の沖田修一が取る。サンバサークルで披露する太陽の格好をした主人公の姿など、さまざまな要素で楽しませてくれる青春ストーリーに引き込まれる。

ストーリー:長崎県の港町で生まれ育った横道世之介(高良健吾)は、大学に進むために東京へと向かう。周囲の人間を引き付ける魅力を持ち、頼まれたことは何でも引き受けてしまう性格である世之介は、祥子(吉高由里子)から一方的に好かれてしまう。しかし彼は、年上で魅力的な千春(伊藤歩)にぞっこんで……。


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「横道世之介」公式サイト


八王子夢美術館で「前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち」を観た!

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八王子夢美術館で「前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち」を観てきました。観に行ったのは1月24日、是非とも観ておきたいと思っていた展覧会、会期末が迫っていたのでちょっと無理して八王子まで行ってきたのですが、2月2日までの展覧会、観て安心してしまったのか、ブログに書くことをすっかり忘れていました。


今年、八王子市夢美術館は開館10周年、小島善太郎は生誕120年を迎えたという。小島善太郎は半生を八王子で、最晩年を日野に過ごした、多摩を代表する洋画家です。その小島善太郎と滞欧時代に親交を結んだ画友、前田寛治を中心に、昭和初期の画壇に新風を吹き込んだ「1930年協会」の創立メンバーの作品が紹介されていました。展覧会の見どころが、以下のように3点あげられていました。


展覧会の見どころ その1
前田寛治の作品がまとまって紹介されるのは、東京では1988年の渋谷区立松濤美術館以来の25年ぶり、関東圏でも1999年の茨城県近代美術館以来14年ぶりとなります。八王子では初紹介。

展覧会の見どころ その2
鳥取県立博物館に所蔵される小島善太郎の「テレサの像(青い帽子)」が出品されます。この作品は小島がパリ時代に描いた作品ですが、そのモデルと恋仲にあったことを小島が自著で記しており、生誕100年に八王子そごうで展示されて以来、八王子へは20年ぶりに戻ってきます。当館初展示。

展覧会の見どころ その3
小島の初期代表作「ナポリの老婆」が青梅市立美術館より出品されます。このモデルは前述の「テレサ」の母であり、これも20年ぶりに母娘の像が並びます。


展覧会の構成は以下の通りです。


第1章 前田寛治、小島善太郎 それぞれのパリ

第2章 パリから東京へ 前田寛治と1930年協会

第3章 1930年以降の小島善太郎 人と芸術


第1章 前田寛治、小島善太郎 それぞれのパリ

1922年11月14日、一ヶ月半の船旅を経て小島善太郎が憧れのパリの地に立った。翌年1月9日、追いかけるように前田寛治もパリに到着する。小島が29歳、前田は26歳であった。留学前の二人は面識こそあれ徳に交流を持たなかったが、パリでは親しく交際する。留学時代の制作態度は両者とも極めて勤勉で、前田は規則正しい生活を送り、風景も描いたが優れた裸婦、婦人像を多くものにした。セザンヌ、マネ、クールベといったフランスの先達に多くを学び、特にクールベのレアリスムに傾倒し、一時期、マルクス主義の影響もあって、目に見える現在を描くという姿勢から労働者や工場を描いている。一方、小島はパリ留学中でなければ出来ない学習として、ルーブル美術館に通い、古典の模写に取り組んだ。レンブラント模写は不調に終わったが、ティントレットの大作「スザンナと長老たち」に挑み、2年を費やして完成させている。途中、関東大震災の影響で前田への日本からの送金が途切れたり、小島にあってはモデルとの苦しい恋愛も経験した。波乱はあったが、留学は実りある成果をあげて、1925年3月に小島が、次いで7月に前田が帰国の途についた。パリは多くのものを二人に与えた。

前田寛治




小島善太郎


第2章 パリから東京へ 前田寛治と1930年協会
1926年5月、東京、京橋で第1回1930年協会洋画展覧会が開催された。出品は木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治の5名、いずれもパリ留学を終えて間もない若き画家たちである。歳年長が33歳の小島善太郎、最年少は佐伯祐三で28歳を迎えたばかりだった。会の名称はフランスのコロー、ミレーらの1830年派にちなみ、また、来るべき1930年への意気込みを込めて命名された。1929年、第4回展は東京、大阪で開催、その勢いは絶頂を迎える。しかし、6月に前田が発病、10月に大作「海」で帝国美術院賞を得るも、病床にありながらの出品であり、暮れには創立会員の里見を含め会員3名が二科展に推挙され脱退する。これには協会の勢力拡大を恐れた二科側の切り崩しという見方もあった。前年に佐伯が二度目の渡仏中に客死しており、協会の先行きに陰りが見え始めてもいた。1930年4月、前田寛治死去、34歳の若さであった。以降、1930年協会の活動はなく、奇しくも、名称とした1930年に協会は事実上消滅した。


佐伯祐三


木下孝則

里見勝蔵

小島善太郎

前田寛治


第3章 1930年以降の小島善太郎 人と芸術
「独立美術協会」は、1930年協会の多くの会員を含め発足した。命名には様々な意が込められ、既存の巨大団体への決別を示すのに恰好の名称であった。小島善太郎はこの会の結成にあたっても中心的な役割を果たした。独立美術協会は1931年1月に第1回展を華々しく開催し、大成功であった。以降、現在に至るまで画壇に大きな位置を占める団体に成長する。翌年、小島善太郎は南多摩郡加住村に転居してアトリエを構えた。現在の八王子市舟木町である。当時の都会の風潮であった享楽的で退廃的な生活を嫌い、武蔵野の自然を求め、画家としての世俗的な評価や地位よりも、素朴で純情な心の在りどころを選んだのである。小島は、知略や軽薄さがはびこる都会での生活は耐え難く、智慧と深みのある生活を田舎に求めた。当時の新聞紙上に次のような展覧会評を寄せている。「単なる興味やデカダンはいきづまりが待っているように思う。人の心を打つものは素朴な純情であり、正直であり、智慧と深さである」。





前田寛治:略歴
1896年 鳥取県に生まれる
1916年 葵橋洋画研究所で学ぶ
      東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)入学
1921年 二科展、帝展に入選
1923年 渡欧(前年末に船出)
1925年 帰国
1926年 1930年協会結成
1927年 帝展特選
1929年 発病
      帝国美術院賞受賞
1930年 4月16日 死去


小島善太郎:略歴
1892年 東京都に生まれる
1911年 太平洋画研究所、
      葵橋洋画研究所等で学ぶ
1918年 二科展入選
1922年 渡欧
1925年 帰国
1926年 1930年協会結成
1927年 二科賞受賞
1930年 独立美術協会創立
1932年 八王子市に転居
1971年 日野市に転居
1984年 8月14日 死去

八王子市夢美術館開館10周年 小島善太郎生誕120年
前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち

第一次世界大戦後、芸術の都パリはエコール・ド・パリと呼ばれる文化が花咲き、世界中から芸術家や若者が集まります。日本からも多くの留学生が海を渡りました。小島善太郎、前田寛治も志を抱いて同時期にパリで学び、彼らが仲間たちと帰国後の1926年に結成したグループが「1930年協会」です。創立メンバーは木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治の5人でした。既存の美術団体の枠にはまらない、この新しいグループの活動は展覧会にとどまらず、講演会や執筆、研究所での後進の指導を積極的に行い、多くの若者に影響を与えました。しかし、1928年に佐伯祐三が2度目の渡仏中に客死、その翌年には里見勝蔵が脱会、1930年には前田寛治も34歳の若さで亡くなると、創立メンバーの内3人を失った協会は求心力を失い、同年に立ち上がった「独立美術協会」へと発展解消することになっていきます。結成からわずか5年、奇しくもグループの名称とした1930年が活動の最後となりました。本展覧会は前田寛治の故郷にある鳥取県立博物館の全面的な協力のもと、夭折の画家、前田寛治の画業を紹介するとともに、小島善太郎美術館を併設する青梅市立美術館と日野市立小島善太郎記念館「百草画荘」の協力を得て、多摩における小島善太郎の業績を伝えます。


「八王子夢美術館」ホームページ

yume1 前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち

編集:川俣高人(八王子市夢美術館)

    深田万里子(八王子市夢美術館)
編集協力:林野雅人(鳥取県立博物館)

発行:公益財団法人八王子市学園都市文化ふれあい財団
©2013





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小山田浩子の芥川賞受賞作「穴」を読んだ!

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小山田浩子の芥川賞受賞作「穴」を読みました。「私は夫とこの街に引っ越してきた」という書き出しで、この物語は始まります。


夫に転勤命令が出、異動先は県境に近い田舎の営業所、営業所のある市が夫の実家のある土地で、手頃な物件でも知らないかと夫が姑に電話をかけると、「じゃあうちの隣に住めば? うちの借家があるじゃない。ついこの間空いたのよ」と、姑は言います。家賃はと聞くと「田舎だもん、5万2千円」と言う。「5万円台なら、今よりだいぶ安いし」と言うと、「家賃なんて要らない。その分貯金しときなさい、将来のために」と姑は言う。夫はどうする、と目で言ったが、私に異論のあろうはずがなかった、ありがたい以外の何物でもない。


夫は「助かるよ。あさひも仕事辞めるし、家賃が浮くのはすごくありがたい」、姑は「え? あさちゃん辞めちゃうの」と、姑が少し声を小さくした。姑はずっと働いてきた職場で、来年だか再来年だかに定年を迎えるそうだ。「そういや、職場にもう辞めるって言ったの?」と夫。「うん、今日」「引きとめられた?」「全然」。夫は携帯を触る手を止めることなく「あんだけこき使っといて、そんなもんかね」と言った。「そんなもんだよ、だって調整弁だもん、非正規なんて。でもあっちに引っ越したら、それこそパートさんみたいな仕事しかないだろうね。もう今年30だし」、「次の仕事もさ、家賃ただなら急いで探すこともないんじゃないの」、「あっ、そうか」と私は笑った。


引っ越し当日は大雨の日曜日だった。当日朝一番にやってきた引っ越し業者は気の毒そうな顔をしたが、私はそれ以上に、雨の中を大型の家具を運ぶ彼らが気の毒だった。荷物がトラックに積まれ、私と夫は車に乗った。夫は音楽をかけたが、私は気がつくと眠っていた。目覚めるとそこはもう夫の実家の前で、姑が玄関のひさしの中に立っていた。引っ越し作業の陣頭指揮は姑が取った。「人生に何回もないような引っ越しの日に、大雨洪水警報が出るのが俺の人生なんだよなあ」と夫は笑った。雨脚は寝るまで弱まらなかったが、翌朝目が覚めると、2階の窓から白く乾いた空が見えた。今までより早起きしたのに、もう太陽の光が満ち始めていた。私は一瞬、とても遠い、今までとは一日や四季のリズムから異なるような場所に引っ越した気がした。


家から少し歩いたところに大きな川がある。川の気配のようなものは川が見えなくてもそこらに漂っていて、蒸されたような草いきれや、淀んだ水の匂いで私に感知された。川と反対側には山もあり、見上げるとその中腹まで灰色の家でびっしりと覆われている。比較的新しい分譲地なのだそうだ。夫は車を通勤に使うので、私の移動手段は徒歩かバスということになるが、バスは通勤時間以外は1時間に1本あるかないかで、それに乗ってもJRの駅まで40分近くかかる。いきおい私は家にいることが多くなった。私は夫を送り出して自分の朝食を食べ、歩いてスーパーへ行き、洗濯なり掃除なりをしてあとは特にすることがない。一週間で飽きる、と思ったが実際は一日で飽きた。一度飽きてしまえば、それは普通になった。


ソファでうつらうつらしていた私の携帯に、姑から電話がある。今日の日付を勘違いしていて、お金を振込票と一緒に用意していたのに家に忘れたので、コンビニでいいから振り込んで欲しいという依頼でした。姑からの電話を切ると、私は借家の隣に建っている、夫の実家に行った。庭では義祖父が水を撒いていた。門をくぐった私に気づき、語祖父はにっこり笑って片手をあげた。玄関の引き戸を開けた。靴箱の上に封筒はなかった。仏間に入ると、座卓の上に茶封筒があった。中を見ると振込票と紙幣があった。コンビニの場所は知っているが、引っ越してから今まで行ったことがない。スーパーの方がより近いし、コンビニでなくては手に入らないものが欲しかったことはない。


向かう道筋は川沿いの遊歩道で、季節が良ければ素晴らしい散歩コースになるだろう。冬には渡り鳥が飛来するので観察するとよいという看板も立っていた。ただ、今は夏だ。野天の舗装道を歩くのはしんどいし、暑い。風もない。蝉の声が空気の粘度を増している。川土手は繁茂した草に覆われていて、遊歩道から見下ろすと水面さえほとんど隠れそうになっている箇所もあった。大きな茶色いイナゴが土手の草むらから飛び出した。私と対峙するようにイナゴは数歩こちらに歩いてから、急に翅を広げて飛んで行ってしまった。向かった先に視線を向けると、黒い獣が歩いていた。


暑さのせいで目が変になったのかと思ったが、何度見てもそれは生きもの、明らかに哺乳類の何かの尻から脚にかけてだった。黒い毛が生えていて、大きさは中型の犬くらい、いやもっと大きいか。それはトコトコと先を急いでいた。人も犬猫も小鳥もカラスも見当たらない路上で、ただ獣だけが歩いていた。私を先導するかのようにさっさと歩いている。私はそれを追って歩いた。獣はすっと土手の方に曲がった。繁茂している草がそこだけ、何度も踏まれた獣道のようになぎ倒されていた。獣は土手を降り始めた。私は思わず同じように土手に足を踏み入れた。獣のシリが草の間に隠れようとした。私は脚を踏み出した。そこに地面はなかった。


私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。私の体はどこも痛くない。穴は胸くらいの高さで、ということは深さが1メートルかそこらあるのだろう。私の体がすっぽり落ち込んで、身体の周囲にはあまり余裕がない。まるで私の多目に誂えた落とし穴のようだった。穴の中の居心地は悪くなかった。妙に清々しい空気が穴の中に満ちていて、私の体を浸しているような気がした。はまり心地はいいのだが、出るとなれば少し苦労しそうだった。私は早く穴から出なければと思った。「大丈夫?」後から声がした。振り返ると、そこには白いスカートをはいた脚があった。


女性は屈み込んで私に手を伸ばした。かなり年上のようだったが、姑や私の実母よりは下だろう。「サン、ニ、イチ」と女性は言い、ぐっと私の手を引っ張った。私は引っ張り上げられ、腰を草の上に投げ出した。「ねえねえ、あなたこの前引っ越してきたお嫁さんでしょう」、私は「へ」と応えて女性の顔を見た。「私ね、松浦さんのお隣に、あなたたちが住んでるのとは反対側の隣に住んでる、世羅っていうの」、夫の実家の反対隣には大きな立派な家がある。挨拶はしないでいいと姑に言われていた。それはその家だけではなく周囲の家もだ。


「ねえ、お嫁さんは今、道に迷っているわけじゃないのよね?」、「え、はい、あの、道はわかります、コンビニはあっちです」、「そうよ、あっち」。お嫁さん、と呼ばれる度に妙な気がした。私はお嫁さんになったのだ。とっくになっていたのに気づかなかったのだ。「ねえ、お嫁さん。松浦さん、いい人よ、いい人がお舅さんでよかったわね」、「そうですか、そうですね」私はうなずいた。土手を登ってしばらく歩き、橋を渡ると、渡ったすぐ先の思った通りの場所にコンビニがあった。


引っ越しの日以来ほとんど2ヶ月近くぶりに雨が降った。2階にある西を向いた窓から、義祖父が見えた。義祖父は庭に立っていた。合羽を着ている。私はしばらく義祖父を見下ろしていた。そしてがく然とした。義祖父は、ホースを手に、庭に水を撒いていた。玄関のチャイムが鳴り、出ると、世羅さんの奥さんが立っていた。雨脚は強まっていた。「ねえムネちゃんお元気?」、この人からすると、姑が松浦さんで、舅はご主人で、夫はムネちゃん、そして私はお嫁さんなのだ。「お嫁さは、お仕事されてないの?おうちで何をしているの?」「今は、仕事はしてないです。探してるんですけど、なかなか」、「じゃあお嫁さん暇なのね。暇なのはしんどいわね。人生の夏休みね」、私はうなずきそして、覚えず涙が出そうになった。


必死で探せば、職は絶対に何かあるはずなのだ。ただ、私はそこまでして、働きたい、働かねばと思ってはいない。その思ってはいないということが一番こたえていた。別に私が働かなくても暮らしていける。家賃はかからない。私が今までしていた、非正規とはいえフルタイムの仕事は、実は、家賃がただになり、その他の諸経費が安くなれば別に絶対必要ではないものだったのだ。そのことに、私は徒労を感じていた。人生の夏休み、もしかしたらそれは終わりが来ないかもしれないのだ。


私は夫を送り出してから夫の実家に行った。義祖父はやはり、私が目覚めて見てから既に数時間は経っているのにまだ、当たり前のように水を撒いていた。姑はもう出勤していた。「いつまで水撒くんですか?」大声で言ってみたが、義祖父は無反応で、私が仕方なく数歩庭に入っていくと、振り返り、片手をあげて歯を出して笑った。もはや笑顔にさえ見えないが、それが笑みだと信じなければしょうがない。地面はもうどろどろだった。


私が立ちつくしていると、門からあの黒い獣がとことこと歩いて入ってきた。それが私をぎろりと見た。この前見た時よりも毛が柔らかそうに見えた。尾も短く見えた。獣は確信ある足取りで庭を横切り、母屋の裏へと入って行った。私は獣を追いかけた。母屋と隣家の境にはブロック塀があった。ブロック塀と母屋との間に人一人がやっと通れるような隙間があった。陽が入らないらしいそこは暗かった。その隙間の向こうに、動物の後ろ脚と尾がちらりと見え、角を曲がったように消えた。獣の姿はなかった。


代わりにそこには中年の男の人がいた。私は硬直した。その男の人は私を見た。髪の毛が黒くて細身で、白い開襟シャツを着ていた。男の人は笑いながら「こんにちはっ!どちらさまですかっ」と言った。「この家の、隣に住んでいる、この家の・・・」「ああ、お嫁さんだ、少し前越してきたんでしょう」、男の人は気さくに言った。「僕はね、この家の長男で、宗明の兄ですよ。宗明とは歳がかなり離れているんだ僕ぁ」、「は?」私は口を開けた。「あなたの義兄ですよ、お嫁さん。どうもこんにちわ」。


夫は一人っ子で長男のはずだ。兄?「その顔は知らなかったんでしょう。それも道理だ。これは一種の悲劇なんです。僕ぁね、このね、掘立小屋、物置ね」と言いながらプレハブを指さした。「ここで一人暮らしをしているんです。もう20年近く」「20年?」私がぎょっとして聞き返すと、「今風に言うとヒキコモリとかニートとかそういう類ですよ」。夫に兄?義兄?どうして誰もかれも私のことを知っているのに、私は向こうのことを何も知らないんだろう。


「じゃあさて、あなたは誰で、どうしてここへ?」「え?何か今、黒い動物が見えて・・・」「ああこれ」男の人は地面を指さした。そこには丸い穴が開いており、上に格子状の金属の蓋がはまっていた。「その中にいます」、「この穴はうちの古い井戸でね、この家は割合水っぽいところに建っているんだ。その穴が、こいつが掘る巣穴と似ているんでしょうね、それで、いつの間にか入り込んでこうやって寝たりするんだ」。私はこわごわその格子の上に足を載せた。口径は私の体より一回りくらい大きい。見た目は川原で私が落ち込んだ穴とそっくりだった。


「私こないだこんな風な穴に落ちたんです。川原で、この、黒い動物がいて、追いかけていたら落ちたんです」と言った。「へえ。馬鹿だね」言葉は吐き捨てられた。「僕なら絶対そんなことはしませんね。何だい、お嫁さんは不思議の国のアリスなの?なんだっけ、ウサギちゃんを追いかけていたら穴に落ちて大冒険が始まるんだ」、男の人は肩をすくめた。私ははっとした。そのすくめ方は姑にそっくりだった。いよいよこの人は本当に夫の兄で姑の息子なのだと思った。兄弟を、しかも結婚相手に隠しておくことなどあるだろうか。本当に義兄なのか、どうして今まで黙っていたのか、これからもずっと彼が裏庭の掘立小屋で暮らすのと共存していくつもりなのか、老いたらどうするのか・・・夫に、あるいは姑にそれを尋ねる言葉を考えるだに暗い気持ちになった。


「あいつはね。ほとんど人には懐かない。ほとんどというか僕の知る限り皆無だね。どういう経緯でここに住んでいるのかもわからないし。一匹オオカミ。もちろん「オオカミじゃないけどさ」義兄は喋り続けていた。「何年も仲間もいないまま穴を掘っているんだ。悲劇的でしょう。何せもう何年も、成長したり痩せたりしたのを見たことがないよ。一匹こっきりで世代交代もないだろうし、寿命がどれだけあるか知らないけど、ずっと一人で太りも痩せもせず穴を掘って穴に入ってまた出て歩き回ってさ。まるで僕みたいじゃないか。僕はそれなりに老けてはいるけど・・・でも基本的に20年前に隠遁してから何一つ変わっていない」。


私は義兄に尋ねた。「どうして家を出たいと思ったんですか」義兄は悲しそうな顔をしてみせてからすぐ破顔一笑した。「家族と合わなかったんだなあ!」と叫んだ。夜中、まだ真っ暗な窓の外でかすかな音がした。ベッドから出て外を見た。人影が門のところを歩いて出て行くのが、見えた。義祖父に見えた。私はそっと寝室を出、急いで階段を降り、外に出た。義祖父の背中を探した。急に誰かの背中が現れた。「お嫁さん?」義兄だった。「あ・・・今」「ジイさんでしょ」白いシャツを着た義兄が指さした先に、大股で歩く義祖父の背中があった。義祖父の足は速い。私はあまり速足になるのが怖いような気がしたが、それでもついて行った。義祖父は川沿いの遊歩道に入った。私たちもそうした。


義祖父は土手を降りているらしかった。そして姿を消した。「穴だ」義兄は言い、そこに立ちつくした。「穴ですか」私は聞き返したが、義兄は何も言わなかった。川原に開いた大きな穴から義祖父の頭だけがとび出していた。私はその傍らに開いていた穴に入った。柔らかいものを踏んだ。何か目が瞬きながら私を見上げていた。獣だった。「宗明がさ」上の方から義兄の声がした。「帰ってくるとは思わなかったんだ。嫌がってると思ったから」「何を?」「僕がいる、いた、この家をさ」義祖父は天を仰いでいるように見えた。「お嫁さん。僕のことを隠していたからって彼らを悪く思わないでやってください。悪いのは僕ですからね」。


私の足元で獣は寝息を立てていた。私は穴から出ようとしたが、湿った土に手がめりこむばかりでうまくいかなかった。すると私の市の下に獣が鼻面を突っ込み、そしてぐいと持ちあげた。身体全体が浮き上がり、私は転げるようにして穴から出た。私は傍らの穴にいる義祖父に手を伸ばして「帰りましょう」と言った。義祖父は天を仰いでいた視線をこちらに向けた。初めて義祖父と目が合った気がした。義祖父はフウンと唸りながら私の手を握った。義兄は「僕ぁもう少しここにいるよ。だっていい月だよ。そら」と言った。


私は母屋の玄関を開け「すいません」と言った。姑はすぐに出てきた。舅も出てきた。舅を見るのは久しぶりだった。二人は私たちを見て目を丸くした。「あの、お義祖父さんが今、外に出てどこかに行こうとしてらして、気づいたので追いかけて、戻ってきたんです」「寒かったんじゃないの。どこに、お祖父ちゃん・・・」義祖父は黙って、眠たそうな顔をしていた。姑は「ありがとう、私全然気づかなかった・・・」と呟いた。私は「私も、気づいたの、たまたまです」と答えた。そして義祖父は熱を出して寝込み、肺炎になって入院しすぐに亡くなった。


芥川賞選考委員の島田雅彦は、芥川賞に決まった小山田浩子の「穴」について「技術的に高評価。日常の描写から始まるが、リズムがあり、ひきこまれる」と述べた、という。


本の帯には、以下のようにあります。

仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ夏。見たことのない黒い獣の後を追ううちに、私は得体の知れない穴に落ちる。夫の家族や隣人たちも、何かがおかしい。平凡な日常の中にときおり顔を覗かせる異界。『工場』で新潮新人賞・織田作之助賞をダブル受賞した著者による待望の第二作品集。芥川賞を受賞した表題作ほか二篇を収録。


小山田浩子:略歴

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞受賞。2013年、初の著書『工場』が第26回三島由紀夫賞候補となる。同書で第30回織田作之助賞受賞。「穴」で第150回芥川龍之介賞受賞。


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小山田浩子の「工場」を読んだ!



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モーパッサン原作「ベラミ 愛を弄ぶ男」を観た!

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「われわれ作家、彫刻家、建築家、画家、これまで無傷に保たれてきたパリの美の熱烈な愛好者たちは、わが首都の真っただ中に、無益にして醜悪なるエッフェル塔が建設されることに対し、無視されたフランスの趣味の名において、危機に瀕したフランスの芸術と歴史の名において、あらんかぎりの力をこめ、あらんかぎりの憤りをこめ、ここに抗議するものである。」


これは「芸術家たちの反対請願書」の書き出し部分で、署名者の中にギー・ド・モーパッサンの名が見えます。モーパッサンは、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食をとったが、しかし彼はこの塔が好きだったわけではない。「ここはエッフェル塔が見えないパリの唯一の場所だからだ」と彼は言っていた。実際、パリで、エッフェル塔を見ないようにするためには、無限の多くの注意を払わなければならない。(ロラン・バルト「エッフェル塔」より)


モーパッサンの小説については、中学生か高校生に成り立ての頃、古本屋で買った一冊の本で読んだ記憶があります。その本は手元にないので、思いだすままに書いていますが、世界文学全集の中の一冊だったのか、あるいはモーパッサン全集一巻本(または三巻本の一冊)だったのか、今では知るよしもありません。


いずれにせよ、モーパッサンの小説は、「女の一生」「ベラミ」「脂肪の塊」等々、読んでいました。若い頃に読んだので、もちろん、内容はほとんど覚えていませんが・・・。ただ「ベラミ」だけは、貧乏だが野心家の青年が、社交界のご婦人を渡り歩きのし上がっていくというストーリーは印象fが強く、よく覚えていました。主人公のジョルジュ・デュロアという名前も覚えていました。タイトルのBel-Amiは「美しい男友達」の意で、映画の中では愛人の娘がベラミさんと呼んでいました。同種のものとしては、少し後でしたが、スタンダールの「赤と黒」も夢中になって読みました。


ジョルジュは、『ラ・ヴィ・フランセーズ』紙の政治部長フォレスチエの美しい妻マドレーヌ・フォレスチエ(ユマ・サーマン)、マドレーヌの友人で可憐な人妻クロチルド・ド・マレル(クリスティーナ・リッチ)、そして、『ラ・ヴィ・フランセーズ』紙の社長ルセ(コルム・ミーニー)の夫人で清楚で上品なヴィルジニ・ルセ(クリスティン・スコット・トーマス)という3人の美しい女性たちと次々に出会い、征服してゆきます。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:『トワイライト』シリーズのロバート・パティンソンを主演に迎え、文豪ギイ・ド・モーパッサンの長編小説「ベラミ」を映画化。19世紀、パリのブルジョア社会を舞台に、恵まれた容姿を武器にのし上がって行く青年のな野心を描く。タイプの違う貴婦人を演じるのはユマ・サーマン、クリスティン・スコット・トーマス、クリスティナ・リッチ。美女たちに愛されながらも満たされない主人公の陰のある表情にぞくりとする。

ストーリー:1890年のパリ、アルジェリア帰還兵のジョルジュ(ロバート・パティンソン)は鉄道会社に職を得たものの薄給で貧乏のどん底にいた。ある日、彼は騎兵隊時代の友人シャルル(フィリップ・グレニスター)と酒場で再会する。ジョルジュは新聞社勤務で金回りが良いシャルルに招かれ夕食に行き、才色兼備なシャルルの妻マドレーヌ(ユマ・サーマン)とかわいらしいド・マレル夫人(クリスティナ・リッチ)に出会う。


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「ベラミ愛を弄ぶ男」公式サイト




松岡美術館で「理想郷 古代中国―いのりのかたち」を観た!

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どうして達磨と凧が飾ってあるのか?  それは観に行ったのがお正月、1月8日のことだったからです。前期の終了が迫っているので、大慌てで、以下に載せておきます。


以前、出光美術館で「ユートピア」展を観たことがあります。

出光美術館で「ユートピア 描かれし夢と楽園」展(前期)を観た!

ユートピア 【Utopia】 とは何か?辞書によると、以下のようにあります。

《ギリシャ語からの造語で、どこにもない場所の意》
トマス=モアの長編小説。1516年刊。原文はラテン語。架空の国ユートピアの見聞録というかたちで、

当時のヨーロッパ社会を批判、自由平等な共産主義的社会、宗教の寛容を説く。
(utopia)《から転じて》空想された理想的な社会。理想郷。理想の国。無可有郷(むかうのさと)。


松岡美術館で「理想郷 古代中国―いのりのかたち」を観てきました。チラシには、「神々の住む世界、神々との交信、そして、いつかたずねたい場所・・・日常とは異なる『理想郷―Utopia』」とあります。ここでは展示室④の「古代中国―いのりのかたち」を取り上げて載せておきます。


古代中国――いのりのかたち

命あるものには必ず終焉の時が訪れます。肉体に永遠は存在しません。終焉のその先には何があるのか。人類にとって、その見えない世界は古来から大きな「恐怖」でした。それを克服するため人類は偉大なチカラを求めました。いつしかそれは「神」と呼ばれるようになりヒトが散らばった先々で「神」が生まれました。やがて、多くの神々と、人間たちとのかかわりは「理想郷―Utopia」を創りだします。


2014年は、松岡清次郎生誕120年の年にあたります。95年の生涯をかけて蒐集したコレクションの中でも最も力を注いだのが中国古美術だったと言えるでしょう。展示室4では、中国の文化のはじまりから清時代に至るまで数千年の歴史の中ではぐくまれてきた神々との関わり「いのちのおかたち」を通して「理想郷」を見つめます。


憧れの暮らし――神仙世界
世界の初めは混沌として、形も色も味もない、それを「道(タオ)」と呼ぶ。この道は、万物の根源。一つに集まると「気」となり、ちりぢりになると「天地」となる。(太上妙始経) 道教は、中国固有の宗教です。「三精」と呼ばれる三人の最高神を掲げ、そのもとに多くの仙人や神々が、さまざまな働きをなしています。仙人や神々の住む憧れの世界―神仙世界。それは、「山水画」となり、「道」の教えと共に、世界中に広まっていくことになります。


思想の花々―諸子百家

周が滅びると勢力の拮抗した諸侯たちによる戦いが始まります。戦国時代の到来です。偉大な王によってとられていた統率が乱れ、混沌とした世の中で人びとが求めたのは、新しい「秩序―おしえ」でした。孔子、老子、墨子、韓非子・・・思想家を「子」と呼び、それぞれの集団を「家」と呼びました。「諸子百家」と言われるほどに、多くの思想家が生まれた時代です。人として生きた思想家たちは、いつしか「神」となり崇められ、その教えは、人びとの生きる糧となっていきました。それぞれのいのりは、言葉や文字だけでなく、「かたち」を伴い伝えられました。



五彩壺・盤



楼閣

青銅器・鐘

はじめのいのり――青銅器文化:黄河中流域にうまれた中原の国、中国。高い文化をもつ人びとはやがて大きな部族となり、各地に集落を築いていきました。夏から商(殷)、そして周へ。大きなチカラが歴史を刻みました。国を治める王は、「神」と密接に結びついていました。王の願いは民の願い。それを神に知らせるために、また、神から告げられた事柄を民に知らせ、王の権威を示すために「文字」が生まれました。はじめ、それらは動物の肩甲骨や亀の甲羅に刻まれました。


甲骨文字です。石器時代から行われていた「骨占い」がそのはじめのかたちと言われています。あらゆる「まつりごと」を、王は神にゆだね、民はその神の声を待ちました。歌い、躍り、たくさんの食物や酒を神に捧げました。青銅器は、神への供物を入れるための祭器でした。そこに刻まれた文様や文字は、有力な士族の存在を明らかにしています。はるかなときを超えて響く、中国の人々の魂の声に、しばし耳を傾けてください。







金銅仏

ほとけのかたち:後漢の初めごろ、インドから新しい「おしえ」が中国に伝わりました。「仏教」です。ヘレニズム文化を受け継ぐ美しい像を伴い伝えられたその「おしえ」は、やがて中国全土にそして海を越え、日本にも伝わりました。ここに紹介するのは三十二相のひとつ「金色相」をあらわしたとされる金銅仏の数々。金色に輝くおすがたに人びとは魅了され熱心にいのりをささげたことでしょう。手の中に収まるほどの「いのりのかたち」。そこにこめられた感謝と願い。今に生きる私たちの想いともどこかつうじているのではないでしょうか。




「理想郷 松岡コレクション」

作家たちが思い描いた理想の世界。それは太古の昔から、人びとがさまざまな願いを込めて、あらゆる工芸や絵画の上に表現してきたものです。神々の住む世界、神々との交信、そして、いつかたずねたい場所・・・日常とは異なる「理想郷―Utopia」を松岡コレクションからご覧いただきます。

前期2014年1月8日(水)~2月23日(日)
後期2014年2月25日(火)~4月13日(日)
展示室4,5にて絵画作品の展示替えがあります。


展示室4 古代中国―いのりのかたち
展示室5 理想郷1
展示室6 理想郷2


「松岡美術館」ホームページ


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大倉集古館で「大倉コレクションの精華Ⅲ―工芸品物語 美と技が語るもの―」を観た!

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大倉集古館で「大倉コレクションの精華Ⅲ―工芸品物語 美と技が語るもの―」を観てきました。観に行ったのは1月23日。今回で「大倉コレクションの精華」Ⅰ~Ⅲまで観たことになります。が、しかし、今回はタイトルに「工芸品物語 美と技が語るもの」の「作品リスト」には前・後期通して83点が載ってはいますが、能装束・能面・能道具などが圧倒的に多く、僕の興味を惹くような展示品は「自在置物」以外には少なく、ちょっと残念でした。お正月プレゼント、ということで、「曼荼羅の世界―玉重コレクション チベット仏教美術―」と題された絵葉書を8枚いただきましたので、それを載せておきます。


「大倉コレクションの精華Ⅲ―工芸品物語 美と技が語るもの―」

主な展示品

銹絵寿老図六角皿 江戸時代

長生殿蒔絵手箱 鎌倉時代

短刀 銘 則重 鎌倉時代

菊桐蒔絵二重箱 桃山時代

柳螺鈿手箪笥 江戸時代

木内喜八 萩虫螺鈿象嵌火鉢 明治30年

赤塚自得 乾漆飾壺 昭和5年

能装束 紅地籠目ボタン模様唐織 江戸時代

能装束 白地石畳菊唐草模様唐織 江戸時代

能装束 紅白段檜垣蒲公英模様唐織 江戸時代

自在置物 蝶 江戸・宝暦3年

自在置物 鯉 江戸時代


展示品







曼荼羅の世界

―玉重コレクション チベット仏教美術―





「大倉コレクションの精華Ⅲ―工芸品物語 美と技が語るもの―」

大倉集古館の所蔵品は、その分野が広範に亘っていることが特徴の一つにあげられます。コレクション展第3段の本展では「工芸」を取り上げ、展観を行うこととしました。それらのうち染織品の大半にあたり、コレクションの重要な位置をも占める備前池田家伝来の能装束をはじめ、漆工品、金工品、刀剣、陶磁器など、様々に取り合わせながらその形や意匠に潜む豊かな感性、また技巧の妙を通し彩り鮮やかに伝統の諸相をご鑑賞いただける展覧会となるよう試みております。日本の誇る工芸品の数々が星のように降りそそぐ、新春の一時をお楽しみいただければ幸いです。


「大倉集古館」ホームページ


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今日の駒沢公園!

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雪はまだまだ降り続きそうです。

駒沢公園-2

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雪はまだ、思ったほど積もっていません。
でも、寒い!

泉屋博古館分館で「木島櫻谷―京都日本画の俊英―」を観た!

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泉屋博古館分館で「木島櫻谷(このしま おうこく)―京都日本画の俊英―」を観てきました。観に行ったのは、1月23日のことです。


まず順路の通り展示室2に入ると、目に入ったのが木島櫻谷の「雪中梅花」でした。三井記念美術館で毎年お正月に展示される、あの円山応挙の「国宝 雪松図屏風」を思わせるような作品です。雪の中、梅の大木が左右から伸びています。紅梅はまだ多くがつぼみで、春を告げる咲き始めの頃の情景であろう。上質な金地に顔料の発色も美しく、よどみない運筆で描かれた屏風です。


実は家に帰るまで木島櫻谷の名前は初耳で、京都には凄い画家がいたんだと驚いていました。ところが調べてみると、もう何度となく泉屋博古館分館で、櫻谷の屏風を観ていたことがわかりました。なにしろ僕が初めて泉屋博古館分館を訪れた2009年2月に、開催していた展覧会が「近代の屏風絵―煌めきの空間―」でした。そこで初めて櫻谷の「竹林白鶴」に出会い、屏風の持つ素晴らしさを実感したというわけです。今回、櫻谷の作品をまとまって観ることができたのは、僕にとっては素晴らしい経験でした。


大正元年の作品「寒月」、図録によると、以下のようにあります。一面雪に覆われた夜の竹林を、下弦の月が明るく照らします。雪の重みに倒れた細竹、広葉樹の茂み、花を残す下草、すべてがシルエットになったモノクロームの世界に、一頭の狐が現れます。周囲に気を配りながら一歩一歩雪に足をうずめて進みます。冴え渡る静寂な空気と、それを破る鋭い目に孤独な生命。その対比は言葉を越えて、深い印象を与えます。


この「寒月」という作品を、夏目漱石は嫌ったという。漱石は櫻谷の「若葉の山」という作品の鹿を気持ちが悪くなるとして、「『寒月』も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹とそれから狐だかなんだか動物が1匹いる。その月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。ところが動物は昼間ですと答えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と、酷評しています。(野地攻一郎「漱石先生、そんなに櫻谷の絵はお嫌いですか?」より)


野地は次のように言う。技巧を超えた気韻ある表現を求めたヘタウマな絵が好みの漱石にとって、櫻谷のような技巧に技巧を重ねたような写実的な絵はウマヘタなものとして腐したかったのだろう。だが、意に反してこの櫻谷の「寒月」は最高の二等賞となった。審査員側、つまりは国として現代の、それも「新しい日本画」を表象するものとして推奨を受けたことになる。こうした事態を漱石は、「してみると自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らないようでもある。また解るようでもある」と結んでいる。と。


「震(振)威八荒」とは支配者の意向が世界にあまねく及ぶことをいう。鳥類の王である鷲鷹に天皇を仮託する好画題として、特に明治以降くり返し描かれてきました。櫻谷の「震威八荒図」、ここでは湾曲した松の幹に鋭い爪をたて、足下をにらむ熊鷹をとらえる。羽毛の模様などの精密な描写は見事だが、鷹の表情がどこか優しい。背景の一部にかすかな金泥を刷き、蝋色塗の縁やいぶし銀の金具も相まって、品格ある大衝立となっています。


こんなものをテーマに採り上げるのかと驚いたのが、二つ。ひとつは、明治42年に描いた「和楽」、右に農家の軒先でくつろぐ家族や仔牛、左に家路の農婦と迎える子どもを描いています。労働前後の和みの時であろう。もうひとつは、大正11年に描いた「行路難」です。大きな荷物を抱え疲れ果てた一行。旅の途中か、はたまた夜逃げか、ともかく「行く道難し」の状況である。右には繁茂する柳、視点の高さも異なり、まったく脈絡がありません。衰退と繁栄を左右で暗示的に対比しています。


今回の図録、解説が素晴らしい。実方葉子(泉屋博古館学芸課主査)の「画三昧への道―木島櫻谷の生涯」は、1.生い立ち、2.景年時代、3.龍池時代、4.衣笠時代前期(大正の頃)、5.衣笠時代後期(昭和の頃)、6.櫻谷の芸術観、として、(まだ十分に読みこなしていませんが)詳細に書かれています。僕がもっとも興味をもったのは、清水重敦(京都工芸繊維大学准教授)の「山中の市居―旧木島櫻谷邸の建築」でした。うろ覚えでしたが、「衣笠邸」あるいは「衣笠の住居」という言葉が、どういうつながりからかは分かりませんが、なぜか僕の耳に残っていました。


旧木島櫻谷邸は、衣笠小松原の地(現在は等持院東町)にありました。この地に開発の手がおよんだのは明治末年のことです。綿織物業で財をなした藤村岩次郎によって住宅地「衣笠園」の開発が行われたのが一つの契機となりました。志賀直哉も一時住んだという。この地に注目したのが日本画家たちでした。木島櫻谷の他に、菊池芳文、契月親子、土田麦僊、村上華岳などが移り住んだという。衣笠に移住した画家たちには共通点があった。文展に対抗して国画創作協会を起こした中心人物はいずれも衣笠移住組でした。衣笠の地は、京都画壇に新風を送り込む場という新しい意味をおびていました。


清水によると、旧櫻谷邸の主屋は内部意匠だけを採り上げれば、いかにも近代京都の典型的邸宅のように見えるが、その平面は農家の多の字形であり、平面の田舎風と内部意匠の洗練された京風とが、折り重ねられているのである、という。櫻谷邸の建築は、不思議な折衷に溢れている。そのどこにも、大工の工夫というよりは、櫻谷自身の好みがあらわれている、と続けます。


ここでの櫻谷の暮らしは、京都洛中の暮らしに求められた「市中の山居」を反転するような、いうなれば「山中の市居」とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。市中の暮らしを郊外の里山に持ち込み、それでいて土地に溶け込むような暮らし。そんな櫻谷の志向が、櫻谷邸の建物のそこかしこからじわりと伝わってくると、結んでいます。
















「木島櫻谷―京都日本画の俊英―」

どこまでも優しいまなざし、からみつく柔らかな毛並み――透徹した自然観察と詩情の調和した品格ある日本画で、明治から昭和の京都画壇の第一人者とされた木島櫻谷(1877-1938)。ことにその動物画は、いまなお私たちをひきつけてやみません。京都三条室町に生まれ、まるやや四条派の流れをくむ今尾景年のもとでいち早く才能を開花させた櫻谷は、明治後半から大正には人物画や花鳥画で文展の花形として活躍、続く帝展では審査員を務めるなど多忙な日々を送りました。しかし50歳頃からは次第に画壇と距離をとり、郊外の自邸での書物に囲まれた文雅生活のなか、瀟洒な南画風の境地にいたりました。徹底した写生、卓越した筆技、呉服の町育ちのデザイン感覚、そして生涯保ち続けた文人の精神。そこにかもし出される清潔で華奢な情趣は、京都文化の上澄みとでもいえるでしょうか。本展は各時期の代表作を中心に、公益財団法人櫻谷文庫の未公開資料もあわせ、櫻谷の多彩な画業を振り返るものです。


「泉屋博古館分館」ホームページ


oukoku1 「木島櫻谷―京都日本画の俊英―」

図録

平成25年10月26日発行

編集・発行:公益財団法人泉屋博古館







kono4 「櫻谷文庫」

財団法人櫻谷文庫は、明治から大正にかけて活躍、注目された日本画科木島桜谷の遺作、習作やスケッチ帖、桜谷の収集した絵画、書、漢籍、典籍、儒学などの書籍1万点以上を収蔵、それらを生理研究並びに美術、芸術、文化振興のために昭和15年に設立されました。櫻谷文庫は、大正初期に建築された和館、洋館、画室の3棟からなり、いずれも国登録有形文化財に指定されています。




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