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藤野可織の「爪と目」を読んだ!

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藤野可織の「爪と目」(新潮社:2013年7月25日発行)を読みました。


いま、本屋さんでかけてくれたカバーを外してみると、表紙にはうつろな目がアップされている装画が使われています。この装画は町田久美の「みずうみ」(2011)、協力:西村画廊とあります。町田久美の名前は、2011年1月の「DOMZNI・明日展2010」で初めて知りました。「DOMANI・明日展2010」は、若手芸術家を支援する制度、「新進芸術家海外研修制度」で派遣された12名の作家の成果発表の場で、そのなかにデンマークに派遣された町田久美がいました。

国立新美術館で「DOMZNI・明日展2010」を観た!


もちろん、この本の帯には大きく「芥川賞受賞」とあり、また、「あなた」のすべてを「わたし」は見ている――衝撃の第149回とあります。帯の裏側はこうです。


娘と継母。父。喪われた母――。

家族、には少し足りない集団に横たわる

嫌悪と快感を、

律動的な文体で描ききった

戦慄の純文学的恐怖作(ホラー)。


「あなた」のわるい目が

コンタクトレンズ越しに見ている世界。

それを「わたし」の目とギザギザの爪で、

正しいものに、変えてもいいですか?


え~~っ、純文学的恐怖作(ホラー)かよ!

ちょっと違うようだけど、まあ、それでもいいや・・・


藤野可織は、1980年京都府生まれ。同志社大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了(文春の略歴には修士課程修了とある)。2006年、「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞受賞。同作を収録した「いやしい鳥」(文藝春秋)を2008年に刊行する。他の著書に「パトロネ」(集英社)がある。2009年「いけにえ」で第141回芥川賞候補に。2013年「爪と目」で第149回芥川龍之介賞を受賞。


「小説は最初の一行で決まる」と誰かが言っていましたが、まあ、それはあてにはなりませんが、芥川賞受賞時に多くのメディアが、必ずと言っていいほど取り上げていたのが、「爪と目」の最初の部分です。


はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。父は心底すまなさそうに、自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた「はあ」と言った。そんなことはあなたにはどうでもいいことだった。


この冒頭の部分で、「爪と目」の読者は最初から混乱します。いや、作者は意図的に読者を混乱させようとします。早い話が幼い女の子の「わたし」が、「あなた」、つまり父の愛人のことを書いているのです。こういう小説を「二人称小説」と言うのだそうです。しかも、例外的にうまくいってる成功例だという。登場人物は「娘」と「継母」、そして「父」と亡くなった「母」の4人です。これさえ分かれば、話は簡単、どんどん読み進めます。と思いきや、そうは一筋縄ではいきません。「わたしは3歳の女の子だった」、あれ、これは過去形です。娘が3歳の時に書いているのか、いや、娘が成長してから思い出して書いているのか、この辺も落とし穴です。


「爪と目」のタイトル、これは分かり易い。まずは「爪」、母親の死をきっかけに、「わたし」は爪を噛むようになります。しょっちゅう、ぴち、ぴち、と爪をかみ切る音がして、指先は睡液のせいで四六時中冷たい。医者は無理にやめさせようとするのは逆効果で、まずは心の不安を取り除くことだ、と言います。母親の死、これが問題です。自殺なのか、他殺なのか、はたまた? まさにホラーと言われる由縁です。


「目」の方、「あなた」はコンタクトレンズを入れています。中学生の頃からハードレンズを愛用しています。睫毛から落ちたマスカラの粉が目に入り込み、コンタクトレンズと接触し、まばたきをしても痛みが取れません。そういうときは慣れた動作でコンタクトレンズを外し、舌の先で一舐めして装着し直します。あなたと父は、眼科で知り合います。あなたはコンタクトレンズを長時間装用しすぎで眼球に傷をつくっていたこと、父は季節性アレルギー性結膜炎にかかっていたことで、眼科通いをしていました。


何度か眼科のエレベーターで乗り合わせるうちに、二人とも意識しあうようになります。あなたの容姿は取り立てて優れたものではなかったが、あなたには、男性が自分に向けるほんのほのかな性的関心も、鋭敏に感知する才能がありました。それを取りこぼさずに拾い集める才能もありました。手に入るものを淡々と、ただ手に入るままに得ては、手放した。決して面倒くさがらず、また決して無駄な暴走をすることもなかった。そういった事情から、父と関係を持ちはじめてからも、あなたはそれを誰にも悟らせませんでした。


父から妻子がいることを打ち分けられたが、ほんとうは、子供がいようがいましが私には関係ない、とあなたは言いたかったのでした。しかし、1年半が経ち、事情が変わって父が結婚を持ちかけたときには、あなたは彼に小さな子供が一人いることをうれしく思います。20代の半ばにさしかかり、少し子どもが欲しくなってきたからです。しかし妊娠はいかにも面倒くさそうでした。今、妊娠するのは気乗りがしないので、すでに産んである子どもは好都合でした。


わたしの母は事故死でした。少なくとも表向きはそういうことになっていました。父は単身赴任をしており、2週間に一度新幹線に2時間座ってわたしたち母娘の待つマンションに帰る、という生活をしていました。しかし、赴任先で知り合ったあなたと過ごすために、帰宅の約束を反故にし、そのたびに母に電話をし、適当な理由を告げていました。あなたは父の妻に無関心でした。父の子供にも無関心でした。それどころか、父にも無関心でした。


母の遺体を発見したのは、父でした。その週末、父は休日出勤を理由に、帰宅しない予定でしたが、あなたが高校時代の友人の結婚式に出るために、実家に戻っていました。思いがけず予定がなくなったので、連絡もせずに新幹線に乗りました。母が余計な疑いを抱かないよう、帰れるときには帰っておくのが父の方針でした。マンションに着いたのは昼近くでした。寝室では、わたしが両親のダブルベッドでうつぶせになって眠っていました。母がいなかったので、母の携帯に電話すると、すぐそばで着信音が鳴り響きました。見ると、携帯電話は食卓の上にありました。


母の遺体は、父がなんとなしにベランダの窓を開けるまで、固くつめたく強ばって横たわっていました。警察が来て指紋が採られたが、家族3人分のものしか検出されませんでした。わたしの証言は、要領を得なかった。母の死は、事故として処理されました。あなたの母親は、わたしの母が夫の不実を苦に自殺したのではないかと疑っていました。「だって奥さんは私たちのことは知らなかったに」と、あなたはかんたんに言い放ちました。あなたの母親は、残された子どものことも心配でした。


真相がどうであれ、わたしは、ふつうの子どもではなかった。不吉な傷を負ってしまった子どもでした。わたしは、たしかに母の死によって心に傷を負ったのでした。警察に事情聴取されたときの興奮が去ると、わたしはベランダには絶対に近づかなくなっていました。父の死んだ妻は、家事が得意でした。あなたはそうではなかった。父の死んだ妻は、一汁三菜をこころがけていました。あなたの出す料理は大皿に一品と、ひとつかみの生サラダでした。


しかし、父はあなたを手放すわけにはいかなかった。父は、できるだけ早くあなたを妊娠させるつもりだったが、うまくいかなかった。母が死んでから、父は性行為をさいごまでとり行うことができなくなっていた。それだけぼくは傷ついたんだ、と父は言います。父は、自分の能力を確かめるために、別の女性と関係し、不能になったわけではないと知りほっとしました。ただあなたとはできないだけでした。あなたは、父が浮気をしていることにすぐに勘付きました。父はときどき性交を試み、うまくいかないのはあなたの問題であり、父の問題ではないとでもいうような態度でした。


あなたは、いっそ気が樂でした。父が今までの生き方を変えない以上、あなただって今までの生き方を変える必要がないのだから。あなたは、私に飽きてきました。この子は一生こうやっていい子でいるのかな、とあなたは考えました。そして、未来のことを考えました。あなたは若かった。いつでもこのマンションを出て実家に帰ることもできます。男と出会い、結婚することもできます。


あなたは、ほどなくして愛人をつくりました。きっかけは、本でした。父が突然「本を処分しよう」と言いました。インターネットで近所の古書店を検索しました。本を引き取りに来た男は、あなたと年が変わらないように見えました。古本屋は「なんかおしゃれな家っすね」と言った。わたしが幼稚園に行ってる間に、あなたたちは週に二度三度、彼のアパートで会うようになります。あなたは古本屋に言われてはじめて、父が旧居から持ち込んだ家具が、行き当たりばったりに買いそろえられたものではないことに気がつきます。ネット上で部屋の設えについて検索するうちに、父の死んだ妻が選んだウォールナットの家具類は、ネットの向こうでもてはやされている価値観と合致していました。


この2ヶ月で、あなたのパソコンには数多のブックマークが登録されました。新しく設置され、あるいは更新を止めたものも、管理者が死んだものもありました。少なくとも、一つはそうです。私の母のブログで、あなたのお気に入りのブログです。「透きとおる日々」と題されたブログです。そこに写されている家具と、身の回りに置かれた家具を見比べました。管理者の名前はhina*mamaでした。私の名前は陽奈(ひな)でした。更新は昨年の秋で途絶えていました。最後に記事には「ベランダから見える空が好き。ウンベラータが欲しいな。」という記述がありました。


古本屋が突然訪ねて来たとき、わたしは幼稚園から帰っていました。あなたはまる1ヶ月も古本屋からのメールを無視していました。「え、ごめん、でも急に、困る」とあなたは言った。あなたはわたしの両肩をそっと押して、すばやく窓を開けると、「すぐだから。5分くらい」と言って、わたしをベランダに押し出し、錠をかけ、カーテンを引きました。「なんでメールの返信をしないんだ」と古本屋は言います。「いそがしくて」とあなたは答えます。がん、と音が立った。「もう会わないんならそれでもいい、でも明日さいごにもう一回ゆっくりはなしをしよう」と言い、あなたを振り返りながら出ていきました。あなたがカーテンを開け、錠を外すあいだも、わたしはてのひらを窓に叩き付けていました。


翌朝、わたしはいつもどおりに幼稚園へ送られていきます。あなたは古本屋との約束を守り、古本屋のアパートを訪ね「これでさいご」と言いました。古本屋はあなたをベッドに寝かせ、おおいかぶさってくると、あなたの右のまぶたを舌で押しあげ、、眼球の上に載ったコンタクトレンズを器用に舐めとりました。左目のまぶたもこじあけられて、左目のレンズも舐めとります。「これから、子どもを幼稚園に迎えに行かなくちゃ行けないのに」とあなたは言います。コンタクトレンズもメガネもなしに外を歩くのは小学生以来のことでした。見慣れた幼稚園も、ほんものらしくなかった。あなたは幼児の声と大人の声の混じるなかを、水中を進むようにふわふわと歩きます。


「傷跡が残ったらどうするつもりなんですか」「もう少しで目だったんです、もし目に当たっていたら、大変なことに」と言います。あれはほんとうに起こったことだったんだと、あなたは思いました。わたしが暴れて何人かの園児を負傷させたのだということが、あなたにもわかってきました。「陽奈ちゃんは、噛んでぎざぎざになった爪で、みんなを引っ掻いちゃったんです」と先生はあなたに報告しました。「陽奈ちゃんは、ごめんなさいもいわないんです。いつもはそんな子じゃないのに。陽奈ちゃん、どうしたの?」「すみません」とあなたは言いました。


あなたはドラッグストアに寄って、透明のマニキュアと爪やすりを買いました。マンションに帰り着くと、あなたは眼鏡をかけて、わたしを食卓の椅子に座らせ、わたしの爪にやすりをかけ、マニキュアを塗りました。「マニキュアを塗ってあげるから、もう噛んじゃだめ」と、あなたはおだやかに言いました。まぶたにおおわれたあなたの目の奥は、じくじくと痛んでいます。新しい眼医者を探そうとあなたは思った。眠りながら、あなたはひとの気配を感じていました。やがてその気配はあなたの顔におおいかぶさってきました。あなたの片方のまぶたが、こじあけられました。次いで、磨りガラスのように不透明で、いびつな円形のものが眼球に押しあてられ、凄まじい痛みがやってきます。


胸の上にわたしが乗り上がって、膝であなたの肘を押さえています。わたしは、あなたのもう片方のまぶたも押し上げます。そして、さきほどと同じものを眼球に載せました。あなたはその異物を魚のうろこかなにかだと思ったが、それはちがう。わたしが、よく訓練された歯を使って、左右の親指から剥がしとったマニキュアの薄片でした。「これでよく見えるようになった?」、あなたは答えなかった。あなたには意味すをなすものはなにも見えなかった。光だけがあった。あなたの体から、あなたの過去と未来が同じ平明さをもって水平にぐんぐん伸びていくような気がした。ただあなたが過ごしてきた時間とこれからあなたが過ごすであろう時間が、1枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた。


今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くにやってきているのが見えている。わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ。


選考委員の小川洋子は選評で、次のように書いています。「爪と目」が恐ろしいのは、3歳の女の子が、あなたについて語っているという錯覚を、読み手に植えつける点である。しかも語り口が、報告書のような無表情なのだ。弱者であるはずのわたしは、少しずつあなたを上回る不気味さで彼女を支配しはじまる。2人がラスト、あとはだいたい、おなじの一行で一つに重なり合う瞬間、瑣末な日常に走る亀裂に触れたような、快感を覚えた。広く世界へ拡散するのでもなく、情緒を掘り下げて行くのでもない方向にさえ、物語が存在するのを証明してみせた小説である。


とんとん・にっき-bunsyu 「文藝春秋(平成25年9月号)」

平成25年9月1日発行

発行所:株式会社文藝春秋


大倉集古館で「大倉コレクションの精華Ⅱ―近代日本画名品選―」を観た!

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大倉集古館で「大倉コレクションの精華Ⅱ―近代日本画名品選―」を観てきました。


今回の展覧会は大倉集古館の、いわゆる「館蔵品展」です。4月に「大倉コレクションの精華Ⅰ―中世・近世の絵画―」が開催されました。「大倉コレクションの精華Ⅱ―近代日本画名品選―」は第2弾という位置づけで、また来年の1月からは「大倉コレクションの精華Ⅲ―工芸品物語 美と技が語るもの―」と続きます。


やはり今回の展覧会で特徴的なのは、昭和5(1930)年に大倉喜七郎男爵が支援して実現させた「羅馬開催日本美術展」に出された作品についてでしょう。先日も山種美術館の山崎妙子館長の講演会でも、「羅馬日本美術展覧会」のことが話題になっていました。それにあわせて横山大観夫妻、速水御舟、大智勝観たちが、美術特使として渡欧しました。速水御舟はその後、単身で10か月間もの長い期間、ヨーロッパ各国を歴訪しました。


僕がはじめて「羅馬展」について知ったのは、2008年5月、日本橋三越で開催された「今、甦るローマ開催・日本美術展」でした。そこで観た横山大観の「夜桜」と、前田青邨の「洞窟の頼朝」には、圧倒されました。次の年、2009年2月には、始めて行った大倉集古館で「追憶の羅馬展」を観ることができました。大倉集古館と言えば、僕の中では「羅馬展」、そして大観と青邨の作品を思い浮かべます。


日本橋三越本店で「今、甦るローマ開催・日本美術展」を観た!
大倉集古館で「追憶の羅馬展」を観た!







「大倉コレクションの精華Ⅱ―近代日本画名品選―」

大倉財閥を継いだ長男・喜七郎は、父の残した蒐集品に更なる息吹を加えました。同時代の新しい画家たちを擁護し、その発展に尽力を続ける中で、昭和5年に実現させた「羅馬開催日本美術展」は喜七郎による芸術支援の白眉となりました。本展では“ローマ展”に出品され世界に向けて日本の美術を印象づけた近代絵画の優品を中心に、明治から昭和にかけての日本がコレクションを紹介します。


「大倉集古館」ホームページ


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大倉集古館で「追憶の羅馬展」を観た!


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サルバドール・ダリ(諸橋近代美術館の思い出)!

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福島県の裏磐梯五色沼入口にある「諸橋近代美術館」には、もう何度も行っています。平成11年(1999年)6月に開館した美術館で、スペインのサルバドール・ダリの作品や、セザンヌやピカソなどの作品を中心に構成されています。特にダリの彫刻、絵画、版画塔、約350点も所蔵している、他に類を見ないコレクション数です。美術館の開催期間は4月中旬から11月下旬まで、冬の間は休館です。今回の「だまし絵展」に出展されていた「アン・ウッドワード夫人の肖像」は、諸橋近代美術館で初めて観ました。

「だまし絵展」に関連した書籍・図録などを


先日、損保ジャパン東郷青児美術館で観た「〈遊ぶ〉シュルレアリスム―不思議な出会いが人生を変える―」を観ました。展覧会場に足を踏み入れると、真っ先に目に付いたのが、サルバドール・ダリの「回顧的女性胸像」でした。これは観たことがあると思ったら、やっぱり裏磐梯にある諸橋近代美術館の所蔵品でした。諸橋近代美術館には車で行ったり、バスで行ったり、上に書いたように何度か行ってます。


最近、テレビでコマーシャルが流れたりもしています。懐かしいと思い、図録を探したら、50ページ弱の黒い表紙の小冊子が出てきました。「諸橋近代美術館ギャラリーガイド」です。


2006年9月から翌年1月まで、上野の森美術館で「生誕100年記念ダリ回顧展」が開催されました。これはすごい展覧会でした。ほかにはまとまった「ダリ展」は、ほとんど開催されません。ダリの作品を観るには、横浜美術館に纏まってある以外は、シュルレアリスム展の際にダリの作品が少々取り上げられたりもしますが、ダリの作品を数多く所蔵している諸橋近代美術館ということになってしまいます。


そんなわけで、諸橋近代美術館ギャラリーガイドから抜き出した画像を、下に載せておきます。









「諸橋近代美術館」ホームページ


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諸橋近代美術館ギャラリーガイド

発行日:2000年4月1日

発行:財団法人諸橋近代美術館

編集・制作:財団法人諸橋近代美術館










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「ダリ回顧展」を観る!
ダリ回顧展、9月23日から東京・上野で開催


桜木紫乃の「ホテルローヤル」を読んだ!

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桜木紫乃の第149回直木賞受賞作「ホテルローヤル」(集英社:2013年1月10日第1刷発行、2013年7月30日第4刷発行)を読みました。7月末には読み終わっていたのですが、書くのが遅くなってしまいました。ちなみに第149回芥川賞受賞作、藤野可織の「爪と目」(新潮社:2013年7月25日発行)も、7月末には読み終わっていました。


ウィキペディアには、以下のようにあります。

桜木紫乃(1965年4月 - )は、日本の小説家、詩人。北海道釧路市生まれ。釧路東高校卒業。江別市在住。中学生の時に原田康子の『挽歌』に出会い文学に目覚める。高校時代は文芸クラブに所属。裁判所でタイピストとして勤めたあと結婚し専業主婦になる。原田康子も所属した文芸誌「北海文学」の同人として活動。2007年に『氷平線』で単行本デビュー。金澤伊代名義で詩人としても活動しており、詩集も刊行している。ゴールデンボンバーのファンとしても知られており、直木三十五賞の授賞式では鬼龍院翔が愛用しているタミヤロゴ入りTシャツを着用したほどである。


単行本の末尾の略歴には、以下のようにあります。

1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール読物新人賞を受賞。07年、初の単行本「水平線」が書評トウデ絶賛される。12年、「LOVE LESS(ラブレス)」で第146回直木賞候補となる。他の著書に「風葬」「凍原」「恋肌」「硝子の葦」「ワン・モア」「起終点駅(ターミナル)」など。


「ホテルローヤル」は、「シャッターチャンス」「本日開店」「えっち屋」「バブルバス」「せんせぇ」「星を見ていた」「ギフト」という、釧路郊外のラブホテルで生起する様々な境の人たちの人生模様を描いた7つの短編からできています。北国の湿った土地に建つホテルローヤルの栄枯盛衰は、地方経済の様子を象徴しています。廃墟になったホテル、ホテルを廃業する、ホテルが建ってからのこと、そしてホテルが建つ前のことと、溯っていきます。最初、目次の順に読みましたが、二度目は、後から逆に前へと読みました。時系列的には、後から読んでいくと分かりやすい。物語はそれぞれがバラバラでなく、ほんの少しずつ重なり合います。



「シャッターチャンス」、挫折という言葉をやたら口にする元アイスホッケー選手の恋人と、廃墟となったラブホテルに潜り込み、ヌード写真のモデルを務める美幸。写真雑誌の投稿撮影が「やっと見つけた目標だ」という男の廃墟のイメージは、彼の中で美幸とどう繋がっているのか。恋人から突然「そろそろお互いの実家に顔出しておいたほうがいいかな」と言われて、答える言葉が思い浮かばない。今まで決して親と会おうと言わなかった男が、今日にかぎってそんな言葉を吐いたことに驚きます。男の言葉は、遠いところで煙っているようだ。


「本日開店」、幹子は元看護助手、見合で貧乏寺の住職の妻となりますが、夫は人格者だが不能でした。支えてくれる檀家がいなければ寺の存続は難しい。幹子は4人の老檀家の相手をつとめて3万円のお布施をもらうようになるが、佐野は水産会社を起こした父親を亡くして50で家督を継ぎます。夫の西教は、佐野からのものだけは受け取りません。檀家の代替わりが幹子にもたらした快楽に気付いているのだ。「本日開店」と言って亡くなった、引き取り手のない田中大吉の遺骨を寺で供養します。


「えっち屋」、雅代の父、田中大吉が身籠もった愛人とはじめたラブホテル、ここ半年閑古鳥が鳴いていた。営業は、昨日で終えている。雅代は29歳、10年間ここで寝起きしてきた。廃業するので、アダルト玩具の在庫を引き取ってもらう。担当の宮川は一昔前の銀行員という印象。雅代は宮川に「これ使って遊ぼう」と言う。宮川は「ここですか、例の」と言う。その部屋は心中事件のあった部屋だ。


「バブルバス」、お盆で墓の前で夫と住職が来るのを待っていた恵。来ないのでお寺に電話すると、住職は他へ行っていたので、今回はキャンセルします。用意してあったのし袋に5000円が入っています。出る予定のお金が浮いたことを素直に喜ぶ恵。墓地の駐車場を出るとラブホテルの看板が見えた。舅との同居で、肌を合わせる時間がない夫婦。「あそこ、入ろう」と恵。ホテル、のし袋、「2時間4000円」。


「せんせぇ」、単身木古内へ赴任中の高校教師。明日から三連休、妻の里沙は夫が不意に家に戻ったことを喜ぶだろうか。彼女は高校時代の担任と20年にわたり関係を続けている。当時の勤務校の校長から、紹介したい女性がいると言われ結婚した。木古内の駅で「せんせぇ」と繰り返す声は佐倉まりあ、「あたし今日からホームレス女子高生」という。札幌の自宅マンションの前に行くと、タクシーから降りたのは里沙と校長。「見ちゃったんだ、女房と上司の不倫現場」と、まりあに言う。釧路行きの乗車券を2枚買った。


「星を見ていた」、ホテルローヤルでもう5年も働く、ミコという60過ぎのパートの掃除婦。朝から夜中まで握り飯三つで働いて月に10万弱。ミコの夫は10歳年下、喧嘩が元で右足を痛めてから、ここ10年はどこへも働きに出ない。二人の間には24歳の長男、22歳の次男、20歳の長女がいるが、みな中学を卒業してすぐ家を出た。音沙汰があるのは左官職人に弟子入りして、自力で夜間高校を出た次男坊だけだ。職場宛に次男から手紙がきた。中には便箋に包まれた1万円札が三枚出てきた。同僚の和歌子が「山田次郎って、ミコちゃんのところの次男坊じゃなかったかい」と新聞を指さします。


「ギフト」、40過ぎの看板屋の田中大吉、家に帰れば大吉と同い年の女房、小学校6年生の息子がいるが、年が自分の半分しかない、るり子という団子屋の売り子に惚れ込んでしまいます。大吉は外仕事のある日は団子屋に寄り、食べ物を届け、彼女を抱く。女房に反対されているラブホテル経営の夢を、るり子にならば思う存分話すことができる。子どもができたというのに、女房と別れろとも言わない。「るり子、お前ラブホテルの女将にならないか」、「ホテルローヤル、どうだ、なんと格調高いだろう」。


ネットで調べたら、17日夜、築地の新喜楽で、直木賞選考委員の阿刀田高(78)が会見し、少しお酒が入った上機嫌の様子で選考の経過について説明していましたので、下に載せておきます。。


今回は難しい選考になるのかと思っていましたが、比較的早い段階で桜木さんの作品がいいんじゃないかという声が高かった。まず文章が非常によい。そして、ところどころに素晴らしい表現がある。「ホテルローヤル」という、どこがローヤルだと言いたくなるような(笑)ラブホテルを舞台にしながら、決して豊かではない、だが日本人の中にたくさんいるに違いない人たちの、色々な喜びや悲しみ、どうしようもない生きざまみたいなものが表現された作品です。わたしも短編連作をよく書いているから非常によく分かるのですが、ラブホテルを舞台として、いくつかの短編を全部趣向を変えながら、しかしホテルというものに集約されるようなストーリーを作っている。これは本当に見事なことです。連作短篇集は中心となるアイデアからあまり離れてもいけないし、みんな同じ小説になってもつまらない。その辺のあんばいを非常にうまく計算して作られた小説かなと思いました。つらい小説で、読んでいても明日が明るくなる感じではありませんが、これだけきちんとした文章でこれだけのストーリーを作り、連作短篇集として仕上げた以上、直木賞は当然だろうなというのは選考委員会の基本的な考えでした。




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「第35回たまがわ花火大会・世田谷物語」を観た!

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「第35回たまがわ花火大会・世田谷物語」を観た!

と言っても、FM世田谷を聞きながら、

ウチのベランダから遠くに上がる花火を見ただけですが・・・。

同時に見えた川崎の花火の方が派手でしたね。

世田谷は完全に負けてました。


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「世田谷区たまがわ花火大会」ベランダ観戦!
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第31回世田谷区「たまがわ花火大会」を観に行く!
たまがわ花火大会(携帯から)



渋谷・公園通り「たばこと塩の博物館物語」を観た!その1ベスト5とたばこ資料編

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tonton3が独断と偏見で選ぶ

「たばこと塩の博物館」展覧会ベスト5


第1位  とんとん・にっき-tab16「近世初期風俗画 躍動と快楽」
















第2位 「煙に寄せたメッセージ」 とんとん・にっき-tab15















第3位  「小林礫斎 手のひらの中の美 技を極めた 繊巧美術」とんとん・にっき-tab14















第4位 「浮世絵百華―平木コレクションのすべて―」 とんとん・にっき-tab13















第5位 「たくみのたくらみ」 とんとん・にっき-tab12
















たばこ資料編







35年の感謝をこめて 渋谷・公園通り
「たばこと塩の博物館物語」

たばこと塩の博物館は、1978年(昭和53)11月3日に渋谷区神南に誕生しました。以来、35年間この地で皆さまをお迎えしてきましたが、本年9月1日(日)をもって休館し、墨田区横川へ移転することになりました。「渋谷・公園通りにある博物館」として最後となる本展覧会は、ご愛顧いただいた皆さまへの感謝をこめて、当館の多彩なコレクションを見ていただけるように企画したものです。当館のコレクションは、「きせる」「たばこ盆」「たばこ入れ」などの伝統的な喫煙具や、江戸時代の喫煙風俗を描いた浮世絵版画等の絵画・版本類を中核としていますが、これらは1932年(昭和7)に当時の大蔵省専売局によって始められた収集事業で集められたものです。この事業は「史料館設立構想」として、たばこ関係資料を後世に伝えるとともに、社会に公開する計画に発展しました。その後この事業は、収集してきた資料とともに、戦争という危機を乗り越え、大蔵省専売局から日本専売公社(現日本たばこ産業株式会社)へと引き継がれ、当館の設立として実を結びました。この間、現在までに収集された資料は、約4万点に及びます。本展覧会では、こうした資料収集の歴史や特色あるコレクションを展示しつつ、当館の開館以来の足跡を皆さまとふり返りたいと思います。そして、墨田区にて新たに開館する新博物館の構想についても一部ご紹介いたします。


「たばこと塩の博物館」ホームページ


とんとん・にっき-taba2 35年の感謝をこめて 渋谷・公園通り

「たばこと塩の博物館物語」

図録

2013年7月26日発行

編集/発行:たばこと塩の博物館











過去の関連記事:

たばこと塩の博物館で「煙に寄せたメッセージ」を観た!
たばこと塩の博物館で「館蔵浮世絵に見る さくらいろいろ」を観た!
たばこと塩の博物館で「たくみのたくらみ」展を観た!
たばこと塩の博物館で「江戸の判じ絵」を観た!
たばこと塩の博物館で「林忠彦写真展 ~紫煙と文士たち~」を観た!
たばこと塩の博物館で「華麗なる日本の輸出工芸」展を観た!
たばこと塩の博物館で「役者に首ったけ!」展を観た!
たばこと塩の博物館で「小林礫斎 手のひらの中の美 技を極めた 繊巧美術」展を観た!

たばこと塩の博物館で「浮世絵百華―平木コレクションのすべて―」(後期)を観た!
たばこと塩の博物館で「平木コレクションのすべて 浮世絵百華」(前期)を観た!

たばこと塩の博物館で「やすらぎのオーストリア」展を観た!
たばこと塩の博物館で「近世初期風俗画 躍動と快楽」展を観た!

たばこと塩の博物館で「幕末の浮世絵と絵師たち」展を観る!
たばこと塩の博物館で「昭和30年代物語」展を観る!








渋谷・公園通り「たばこと塩の博物館物語」を観た!その2浮世絵編

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浮世絵編










35年の感謝をこめて 渋谷・公園通り

「たばこと塩の博物館物語」

たばこと塩の博物館は、1978年(昭和53)11月3日に渋谷区神南に誕生しました。以来、35年間この地で皆さまをお迎えしてきましたが、本年9月1日(日)をもって休館し、墨田区横川へ移転することになりました。「渋谷・公園通りにある博物館」として最後となる本展覧会は、ご愛顧いただいた皆さまへの感謝をこめて、当館の多彩なコレクションを見ていただけるように企画したものです。当館のコレクションは、「きせる」「たばこ盆」「たばこ入れ」などの伝統的な喫煙具や、江戸時代の喫煙風俗を描いた浮世絵版画等の絵画・版本類を中核としていますが、これらは1932年(昭和7)に当時の大蔵省専売局によって始められた収集事業で集められたものです。この事業は「史料館設立構想」として、たばこ関係資料を後世に伝えるとともに、社会に公開する計画に発展しました。その後この事業は、収集してきた資料とともに、戦争という危機を乗り越え、大蔵省専売局から日本専売公社(現日本たばこ産業株式会社)へと引き継がれ、当館の設立として実を結びました。この間、現在までに収集された資料は、約4万点に及びます。本展覧会では、こうした資料収集の歴史や特色あるコレクションを展示しつつ、当館の開館以来の足跡を皆さまとふり返りたいと思います。そして、墨田区にて新たに開館する新博物館の構想についても一部ご紹介いたします。


「たばこと塩の博物館」ホームページ


とんとん・にっき-taba2 35年の感謝をこめて 渋谷・公園通り

「たばこと塩の博物館物語」

図録

2013年7月26日発行

編集/発行:たばこと塩の博物館











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たばこと塩の博物館で「浮世絵百華―平木コレクションのすべて―」(後期)を観た!
たばこと塩の博物館で「平木コレクションのすべて 浮世絵百華」(前期)を観た!

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中見真理の「柳宗悦―『複合の美』の思想」を読んだ!

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とんとん・にっき-yana

中見真理の「柳宗悦―『複合の美』の思想」(岩波新書:2013年7月19日第1刷発行)を読みました。柳宗悦足跡を考えると、どうしてもウィリアム・モリスと比較してみたくなります。柳はモリスと比較されるのを厭がり、強く反撥していたようですが・・・。小野二郎の「ウィリアムモリス ラディカル・デザインの思想」と中見真理のこの本は、それぞれの「思想」を浮き彫りにするという意味では、同じような印象を持ちました。読もうと思って購入しておいた本、大内秀明の「ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動を支えた思想」(平凡社新書:2012年6月15日初版第1刷)は、帯に「マルクスの正統な後継者は、ウィリアム・モリスである」とあるので、読むのは棚上げになっています。あまり「思想」の側から攻められても、読解力のない僕は辟易するだけです。


中見真理の「柳宗悦―『複合の美』の思想」も、帯にはややセンセーショナルに、以下のようにあります。
暴力連鎖の現代社会に必要な思想とは?
文化の多様性、非暴力を重んじた生涯を浮き彫りにする


「まえがき」には、以下のようにあります。
柳は人であれ、地域、民族であれ、それぞれがもてる資質を最大限に発揮し、互いが互いを活かすことによって世界全体がより豊かになるよう願いながら、社会通念と闘い続けた思想家であった。そのような人物として、近現代日本の思想史上独自の位置に立ち、しかもその独自性によって、現代の問題に対しても多くの示唆を与えてくれる。暴力連鎖のやまない世界の現状から抜け出す方法を模索したいと考えるとき、あるいは人心の荒廃した現代社会のなかで、質の良い人間関係を取り戻したいと願うとき、柳の生涯から学べることは、きわめて多いのではないか。


もちろん、柳の生涯、民芸の活動についても多くのことが書かれていますが、いままで「民芸の柳」として語られることの多かった柳宗悦を、民芸を超えて多様な活動をした人物として、「複合の美」を求めた平和思想家として、著者は描きだそうとしています。「複合の美」の平和思想については、やや分かりづらいのですが、著者は柳の次のようなことばを紹介しています。「野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである」と記しています。各国の特色をなくして「一色」を目指すような「国際主義」に反対し、各々の独創に活き、お互いが寄与し合ってこそ世界の文化は進む、と説いていました。


柳は、「日本の国宝」の多くが朝鮮や中国のもの、もしくはそれらの模倣だと認識し、日本の美の独自性について疑問を持つようになります。柳宗悦といえば、木喰仏を偶然発見したこと。木喰上人は1000体以上の仏像を彫ったとされ、現在600体以上が残されており、柳は短期間の内に約350体を見つけ出したという。木喰を著書にまとめ、木喰の展覧会を開催したのは、柳が木喰仏を日本から生まれた日本固有の仏教芸術ととらえたからだという。柳は陶芸家の河井寛次郎や浜田庄司とともに民衆的工芸を略した「民芸」という言葉をつくりだし、無名の工人の作った健康な美を示す日曜雑器を民芸と呼ぶことにしました。


興味深かったのは「パッシヴ・レジスタンス」という言葉です。太陽光の利用の際、太陽熱を取り込むのに、動力を使って機械的に行うシステムを「アクティヴ・ソーラーシステム」と言い、機械を使わない方式を「パッシヴ・ソーラーシステム」と言います。「パッシヴ・レジスタンス」は非暴力的抵抗の意味。柳はブレイクやラッセル、そしてクエーカーの思想に学んだという。「無抵抗主義」は、何もしないことではなく、非暴力による抵抗を意味するのだと、柳は明確に認識していたという。その延長上で、カンディーの「無抵抗主義」=非暴力不服従運動に極めて高い評価を与えています。


朝鮮や中国の他にも、柳は沖縄をはじめ、東北、アイヌ、台湾の文化など、周辺地域の文化にも目を向けます。次第に柳は、浄土真宗へ積極的な関心を示します。一遍上人と妙好人の研究も進めます。そして「無対辞思想」に到達します。




著者紹介
中見真理(なかみ・まり)1949年東京生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程(外交史・国際関係論)単位取得退学。現在、清泉女子大学文学部教授。専攻は、国際関係思想史。著書に、『柳宗悦 時代と思想』(東京大学出版会、2003年:同韓国語版、金順姫訳『柳宗悦 評伝:美学的アナキスト』ソウル:暁享出版社、 2005年)、 In Pursuit of Composite Beauty: Yanagi Soetsu,His Aesthetics and Aspiration for Peace (Trans Pacific Press & University of Tokyo Press,2011)主要論文に、「清沢冽の外交思想」(『みすず』19-7、1977年7月)、「太平洋問題調査会と日本の知識人」(『思想』728、1985年2月)、「日本外交思想史の研究領域を考える―戦後日本の平和論を問題にしつつ」(『年報近代日本研究』10、1988年)、「ジーン・シャープの戦略的非暴力論」(『清泉女子大学紀要』57、2009年)。


目次
まえがき―柳宗悦を「民芸」から解き放つ
序章  いまなぜ柳思想に目を向けるのか
第1章  生涯の素描
第2章  相互扶助思想の受容と民芸の位置
第3章  朝鮮への想い
第4章  独自の平和思想の形成
第5章  「周辺」文化へのまなざし
第6章  開かれた宗教観
終章  柳思想の何を継承するのか
あとがき
主要参考文献
略年譜
索引


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日本橋高島屋で「バーナード・リーチ展」を観た!
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「日本民芸館」を観る!
日本民芸館で「日本の民画 大津絵と泥絵」展を観た!




出雲大社

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夏休み、どこへ行っても暑いでしょうが、

ちょこっと2泊3日の旅に出ます。


目玉は中日に行く、

新しく建った本殿に

御神体がお還りになったばかりの

出雲大社、かな?

または、

定番の足立美術館か?



*3日間、いない間の予定稿として、

  カルロスカルパのブリオン=ヴェガ墓地を

  載せておきます。

カルロ・スカルパ「ブリオン家墓地」、その1 エントランス・パヴィリオン

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1990年の夏、あるデザイン関係の仲間と15日間のイタリアとパリへ旅行をしました。たしか、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、パリ、それぞれ3日間ずつ同じホテルに滞在するというものでした。1日はみんなで見て回り、あとの2日は自由行動でした。ヴェネツィアに泊まったときの自由行動は、1日は同室だったあるカメラマンと一緒にヴィチェンツァへ行ってパラーディオの建築を見て、もう1日は建築家でパース屋、そしてCADの専門家のKさんとスカルオアの「ブリオン=ヴェガ」を見に行こうということで、ヴェネツィアのサンタルチアの駅から汽車に乗りました。


手掛かりは建築雑誌にあった「トレヴィゾ近郊」という、駅名というか地名だけでした。とりあえず行ってみるか、というのがスタートですから、どうなることやら、先がまったく見えません。いま、その雑誌を見てみると「トレヴィゾ近郊、サン・ヴィトー・ダルティヴォレ」とあります。ここまで分かっていれば、あんなに苦労しなくても行けたのに、と今さらながら思います。


なにしろブリオン=ヴェガへ着くまでは聞くも涙、語るも涙の大変な珍道中でした。なんとか悪戦苦闘してトレヴィゾから乗ったバスの終着駅まで着いたのですが、そこからが大変、炎天下の中、二人で畑の中の一本道を延々歩き、途中で音を上げて入った小さなレストランのおじさんの計らいで、そこの息子さんにブリオン=ヴェガまで車で送ってもらいました。


ブリオン=ヴェガに着いたら、偶然にも門番のおじさんがいて、鍵を開けて墓地の中に入れてくれました。おじさんがいなかったら墓地の中に入れなかったことを思うと、背筋に汗が流れました。後からやって来たドイツの学生さん2人組も、一緒に見て回りました広い墓地の中、見学者は僕たち二人と彼らが二人、ゆったりと観て回ることができました。帰りは彼らの車で、バス停まで送ってもらったりもしました。


カルロ・スカルパ(1906-1978)

イタリアの建築家。ヴェニスに生まれ、ヴェネト地方の豊かな文化の中で古い建物の改修を中心に活動。コンクリートやスタッコ、金属などの材料を使いながら、一貫して環境やそれを構成する物質に対する繊細でシャープな感覚によって、タイムレスな新しさを持つデザインを行った。その場のコンテクストを現代的に展開させる方法は深い洞察に基づいており、ライトやカーンといった人々とも交流を持ち、日本にもフォロワーが多い。

(「20世紀の現代建築を検証する」2013年7月25日発行、エーディーエー・エディタ・トーキョーより)


ブリオン=ヴェガ墓地

イタリアの工業界で財を成したブリオン家一族のための廟。それまで改修や展示、増築の仕事の多かったスカルパだが、この作品では経費の面でも建物の機能の面でもほとんど拘束を受けなかった。内側に傾いた塀で囲まれたL字形の敷地の中には、ちょうど要の位置にブリオン夫妻の墓が軸線を45度振って配置されているほか、双子円をくりぬいた壁のエントランス棟、池の中に浮かぶパヴィリオン、家族の墓、礼拝堂などがあり、その構成には日本の回遊式庭園からの影響がうかがえる。空間構成、ディテールはいずれも極めて技巧的で、さまざまな独自の建築言語が、過剰と思えるほどに織り込まれている。それらはまた職人の手仕事の技術を十分に生かしたものでもある。随所に石や金属、木が効果的に使われている。息子トビア・スカルパのデザインによるカルロ・スカルパの墓もこの一角にある。

(新建築1991年6月臨時増刊創刊65周年記念号「建築20世紀PART2」より)




エントランス、廻廊、あずまや








とんとん・にっき-ga GAグローバル・アーキテクチュア

〈カルロ・スカルパ〉

ブリオン=ヴェガ墓地1970-72

企画・撮影:二川幸夫

文:パオロ・ポルトゲージ

デザイン:細谷巌



とんとん・にっき-sca3 a+u建築と都市
1985年10月臨時増刊号

発行日:1985年10月3日

編集者:中村敏男

発行所:株式会社エー・アンド・ユー








とんとん・にっき-sca2

《現代の建築家》カルロ・スカルパ
編著:SD編集部

発行:昭和53年5月15日
発行所:鹿島出版会





とんとん・にっき-sca1 「カルロ・スカルパ」

SD選書207

発行:1989年2月20日

編者:アーダ・フランチェスカ・マルチャノ

訳者:濱口オサミ

発行所:鹿島出版会





カルロ・スカルパ「ブリオン=ヴェガ墓地」、その2 ブリオン夫妻の墓

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1990年の夏、あるデザイン関係の仲間と15日間のイタリアとパリへ旅行をしました。たしか、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、パリ、それぞれ3日間ずつ同じホテルに滞在するというものでした。1日はみんなで見て回り、あとの2日は自由行動でした。ヴェネツィアに泊まったときの自由行動は、1日は同室だったあるカメラマンと一緒にヴィチェンツァへ行ってパラーディオの建築を見て、もう1日は建築家でパース屋、そしてCADの専門家のKさんとスカルオアの「ブリオン=ヴェガ」を見に行こうということで、ヴェネツィアのサンタルチアの駅から汽車に乗りました。



手掛かりは建築雑誌にあった「トレヴィゾ近郊」という、駅名というか地名だけでした。とりあえず行ってみるか、というのがスタートですから、どうなることやら、先がまったく見えません。いま、その雑誌を見てみると「トレヴィゾ近郊、サン・ヴィトー・ダルティヴォレ」とあります。ここまで分かっていれば、あんなに苦労しなくても行けたのに、と今さらながら思います。



なにしろブリオン=ヴェガへ着くまでは聞くも涙、語るも涙の大変な珍道中でした。なんとか悪戦苦闘してトレヴィゾから乗ったバスの終着駅まで着いたのですが、そこからが大変、炎天下の中、二人で畑の中の一本道を延々歩き、途中で音を上げて入った小さなレストランのおじさんの計らいで、そこの息子さんにブリオン=ヴェガまで車で送ってもらいました。



ブリオン=ヴェガに着いたら、偶然にも門番のおじさんがいて、鍵を開けて墓地の中に入れてくれました。おじさんがいなかったら墓地の中に入れなかったことを思うと、背筋に汗が流れました。後からやって来たドイツの学生さん2人組も、一緒に見て回りました広い墓地の中、見学者は僕たち二人と彼らが二人、ゆったりと観て回ることができました。帰りは彼らの車で、バス停まで送ってもらったりもしました。


カルロ・スカルパ(1906-1978)

イタリアの建築家。ヴェニスに生まれ、ヴェネト地方の豊かな文化の中で古い建物の改修を中心に活動。コンクリートやスタッコ、金属などの材料を使いながら、一貫して環境やそれを構成する物質に対する繊細でシャープな感覚によって、タイムレスな新しさを持つデザインを行った。その場のコンテクストを現代的に展開させる方法は深い洞察に基づいており、ライトやカーンといった人々とも交流を持ち、日本にもフォロワーが多い。

(「20世紀の現代建築を検証する」2013年7月25日発行、エーディーエー・エディタ・トーキョーより)


ブリオン=ヴェガ墓地

イタリアの工業界で財を成したブリオン家一族のための廟。それまで改修や展示、増築の仕事の多かったスカルパだが、この作品では経費の面でも建物の機能の面でもほとんど拘束を受けなかった。内側に傾いた塀で囲まれたL字形の敷地の中には、ちょうど要の位置にブリオン夫妻の墓が軸線を45度振って配置されているほか、双子円をくりぬいた壁のエントランス棟、池の中に浮かぶパヴィリオン、家族の墓、礼拝堂などがあり、その構成には日本の回遊式庭園からの影響がうかがえる。空間構成、ディテールはいずれも極めて技巧的で、さまざまな独自の建築言語が、過剰と思えるほどに織り込まれている。それらはまた職人の手仕事の技術を十分に生かしたものでもある。随所に石や金属、木が効果的に使われている。息子トビア・スカルパのデザインによるカルロ・スカルパの墓もこの一角にある。

(新建築1991年6月臨時増刊創刊65周年記念号「建築20世紀PART2」より)





ブリオン夫妻の墓、家族の墓







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〈カルロ・スカルパ〉

ブリオン=ヴェガ墓地1970-72

企画・撮影:二川幸夫

文:パオロ・ポルトゲージ

デザイン:細谷巌



とんとん・にっき-sca3 a+u建築と都市

1985年10月臨時増刊号

発行日:1985年10月3日

編集者:中村敏男

発行所:株式会社エー・アンド・ユー








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《現代の建築家》カルロ・スカルパ
編著:SD編集部

発行:昭和53年5月15日
発行所:鹿島出版会





とんとん・にっき-sca1 「カルロ・スカルパ」

SD選書207

発行:1989年2月20日

編者:アーダ・フランチェスカ・マルチャノ

訳者:濱口オサミ

発行所:鹿島出版会





カルロ・スカルパ「ブリオン=ヴェガ墓地」、その3 礼拝堂

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1990年の夏、あるデザイン関係の仲間と15日間のイタリアとパリへ旅行をしました。たしか、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、パリ、それぞれ3日間ずつ同じホテルに滞在するというものでした。1日はみんなで見て回り、あとの2日は自由行動でした。ヴェネツィアに泊まったときの自由行動は、1日は同室だったあるカメラマンと一緒にヴィチェンツァへ行ってパラーディオの建築を見て、もう1日は建築家でパース屋、そしてCADの専門家のKさんとスカルオアの「ブリオン=ヴェガ」を見に行こうということで、ヴェネツィアのサンタルチアの駅から汽車に乗りました。



手掛かりは建築雑誌にあった「トレヴィゾ近郊」という、駅名というか地名だけでした。とりあえず行ってみるか、というのがスタートですから、どうなることやら、先がまったく見えません。いま、その雑誌を見てみると「トレヴィゾ近郊、サン・ヴィトー・ダルティヴォレ」とあります。ここまで分かっていれば、あんなに苦労しなくても行けたのに、と今さらながら思います。



なにしろブリオン=ヴェガへ着くまでは聞くも涙、語るも涙の大変な珍道中でした。なんとか悪戦苦闘してトレヴィゾから乗ったバスの終着駅まで着いたのですが、そこからが大変、炎天下の中、二人で畑の中の一本道を延々歩き、途中で音を上げて入った小さなレストランのおじさんの計らいで、そこの息子さんにブリオン=ヴェガまで車で送ってもらいました。



ブリオン=ヴェガに着いたら、偶然にも門番のおじさんがいて、鍵を開けて墓地の中に入れてくれました。おじさんがいなかったら墓地の中に入れなかったことを思うと、背筋に汗が流れました。後からやって来たドイツの学生さん2人組も、一緒に見て回りました広い墓地の中、見学者は僕たち二人と彼らが二人、ゆったりと観て回ることができました。帰りは彼らの車で、バス停まで送ってもらったりもしました。


カルロ・スカルパ(1906-1978)

イタリアの建築家。ヴェニスに生まれ、ヴェネト地方の豊かな文化の中で古い建物の改修を中心に活動。コンクリートやスタッコ、金属などの材料を使いながら、一貫して環境やそれを構成する物質に対する繊細でシャープな感覚によって、タイムレスな新しさを持つデザインを行った。その場のコンテクストを現代的に展開させる方法は深い洞察に基づいており、ライトやカーンといった人々とも交流を持ち、日本にもフォロワーが多い。

(「20世紀の現代建築を検証する」2013年7月25日発行、エーディーエー・エディタ・トーキョーより)


ブリオン=ヴェガ墓地

イタリアの工業界で財を成したブリオン家一族のための廟。それまで改修や展示、増築の仕事の多かったスカルパだが、この作品では経費の面でも建物の機能の面でもほとんど拘束を受けなかった。内側に傾いた塀で囲まれたL字形の敷地の中には、ちょうど要の位置にブリオン夫妻の墓が軸線を45度振って配置されているほか、双子円をくりぬいた壁のエントランス棟、池の中に浮かぶパヴィリオン、家族の墓、礼拝堂などがあり、その構成には日本の回遊式庭園からの影響がうかがえる。空間構成、ディテールはいずれも極めて技巧的で、さまざまな独自の建築言語が、過剰と思えるほどに織り込まれている。それらはまた職人の手仕事の技術を十分に生かしたものでもある。随所に石や金属、木が効果的に使われている。息子トビア・スカルパのデザインによるカルロ・スカルパの墓もこの一角にある。

(新建築1991年6月臨時増刊創刊65周年記念号「建築20世紀PART2」より)





礼拝堂









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〈カルロ・スカルパ〉

ブリオン=ヴェガ墓地1970-72

企画・撮影:二川幸夫

文:パオロ・ポルトゲージ

デザイン:細谷巌



とんとん・にっき-sca3 a+u建築と都市
1985年10月臨時増刊号

発行日:1985年10月3日

編集者:中村敏男

発行所:株式会社エー・アンド・ユー








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《現代の建築家》カルロ・スカルパ
編著:SD編集部

発行:昭和53年5月15日
発行所:鹿島出版会





とんとん・にっき-sca1 「カルロ・スカルパ」

SD選書207

発行:1989年2月20日

編者:アーダ・フランチェスカ・マルチャノ

訳者:濱口オサミ

発行所:鹿島出版会





北斎美術館・建築予算増で再入札!

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しばらく話題に出なかった妹島和代の「すみだ北斎美術館」、今朝の新聞によると、工事業者が「難度が高くて採算が合わない」と辞退し、入札が不調になっていたことが分かりました。区は予定価格を増額するため、9月の定例議会へ補正予算案を提出、建築工事費は計画から40%以上増の約25億5千万円に膨らむようです。


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朝日新聞デジタルによる完成予想図

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プロポーザル時に提出された案
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過去の関連記事:

東京・墨田の「北斎館」、妹島和世案が選定される!


格安ツアー2泊3日 旅行日程

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第1日

羽田07時00分発

伊丹08時10分着


神戸・北野観光

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岡山・後楽園
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岡山城
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倉敷美観地区
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倉敷泊


第2日

足立美術館

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出雲大社
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松江城
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大山温泉泊


第3日

鳥取砂丘

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天橋立
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伊丹20時20分発

羽田21時35分着

菊竹清訓の「出雲大社庁の舎」を観た!

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出雲大社へ行きたいと長年思っていたのは、実は菊竹さんの初期の傑作でもある「出雲大社庁の舎」(1963年)を観たかったからにほかなりません。もう一つの傑作「ホテル東光園」(1964年)の方は、今回、観ることができませんでした。 現在は「庁の舎」の本殿寄りに建物が建っていて、全景は残念ながら観ることができません。また、建設当初の主要な機能である「宝物展示」は、真向かいに菊竹さんが設計した「神祜殿(しんこでん)」に移り、現在、「庁の舎」は賓客を迎える場所として使われているようです。


伊東豊雄は「建築家・菊竹清訓さんを悼む」(朝日新聞:2012年1月9日)で、以下のように書いています。

私にとって菊竹氏の建築の最大の魅力は、モダニズム全盛の時代にありながら、日本の伝統的建築のモチーフを実に見事に取り入れていた点にある。例えば初期の代表作である「出雲大社庁の舎」では刈り取った稲を架ける「稲掛け」が、「ホテル東光園」では「大鳥居」がモチーフになっている。続けて、モダニズムの建築が初期の革新性を失って繊細な美しさのみを追求している昨今、菊竹氏の初期建築が示す力強い象徴性はきわめて示唆的と言えよう、と。


菊竹は言う。「庁の舎」を何に使うのか。どんな機能を持たせたらいいのか、分からない。そこで考えたのは、機能にこだわる必要はない、と。機能はは何十年、何百年の時間の流れの中に入れると、消えていく。施主が必要と言っていた機能が、30年経って必要とされるかは分からない、と。当初の機能は、現在では変わっています。


古代社会を組み立てていたものは何か? 出雲大社本殿は一体何か? 古代出雲を支えていたのは稲作文化です。大社の本殿は古代の住宅に由来するという説が有力ですが、僕は直感的に米蔵だと思ったのです。本殿が蔵ですから、庁の舎は稲掛けをモチーフにしたのです。米は、蔵に納める前に、稲を天日で乾燥させます。遊廓気になると出雲平野には一面、稲を吊して干すための高さ約5mくらいの稲掛けが作られます。稲作文化の「かたち」が庁の舎なのだ、と菊竹は言います。


出雲大社庁の舎(1963年)

出雲大社の社務所および宝物殿に相当する施設。建物を特徴づけているのは、その明快でダイナミックな構造形式の表現である。長さが50mに及ぶ2本のPS(プロストレス)コンクリート梁は、建物両端のマッシヴな箱(階段室)の間に架け渡され、梁にはPC(プレキャスト)コンクリートの方立が寄せ架けられ、さらにその間にPCコンクリートの横桟がはめ込まれている。その明確な秩序づけられた部材構成には、古代的な秩序を持った木造建築(出雲大社本殿)との対比が見られる。同時に単なる日本的表現ではなく、形態システムの再構築に向けての意志が込められている。

(新建築1991年6月臨時増刊「建築20世紀PART2」より)


菊竹清訓(1928-2012)

1960年代、建築評論家の川添登らとともに、メタボリズムを提唱。「海上都市案」などを発表し、常に新しい時代の、来るべき建築の姿を構想した。1959年の自邸・通称「スカイハウス」に始まり、1975年の沖縄海洋博パヴィリオン「アクアポリス」、1993年「東京都江戸博物館」と、建築空間の新しさを過剰なまでに求めるその姿は、戦後建築界でもひときわ際立っているように見える。また、伊東豊雄を始め、菊竹に直接・関節に学んだ次世代の建築家は数多い。建築構想のダイナミックさ、後進に与えた影響などの点で、丹下健三にも比肩しうる建築家である。


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参考画像:



とんとん・にっき-meta16 「代謝建築論―菊竹請訓 か・かた・かたち」

著者:菊竹請訓

発行:1969年1月

出版社:彰国社











過去の関連記事:

伊東豊雄の「建築家・菊竹清訓さんを悼む」
菊竹清訓さん死去 建築家「エキスポタワー」



Bunkamuraザ・ミュージアム「レオナール・フジタ―ポーラ美術館コレクション」!

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Bunkamuraザ・ミュージアムで「レオナール・フジタ―ポーラ美術館コレクションを中心に」を観てきました。


ポーラ美術館は2002年9月に箱根町仙石原に開館、コレクションのほとんどがポーラ創業家2代目の鈴木常司(1930-2000)が一代で40年かけて収集した9500点におよぶ美術品からなっています。その中核は、19世紀フランス印象派やエコール・ド・パリなどの西洋絵画400点。他に、日本の洋絵、日本絵、東洋陶磁、ガラス工芸など、幅広いコレクションです。記念すべきコレクション第一号は、1958年春にフジタがパリで制作した「誕生日」だったという。この作品は、奇しくも今回の展覧会の目玉となっています。鈴木は早い時期からフジタ・コレクションをポーラ美術館の目玉のひとつとして考えていたという。開館から9年が過ぎた2011年、個人コレクターより106点のフジタ作品の寄託を受け、ポーラ美術館は172点のフジタ作品を収蔵することになったという。


箱根のポーラ美術館へは、2004年11月に観に行ってます。その時に開催されていた展示会は「コレクションにみる子どもの世界 フジタ、ピカソを中心に」というものでした。当然のことながらフジタ作品に関しては、そのほとんどが今回展示されたものと重なっています。レオナール・フジタ、藤田嗣治ですけど、目と口に特徴がある子ども、最初は誇張が強くてマンガチックに見えましたが、あれだけ数が集まると丹念に描かれているので、観るものを圧倒します。職人に扮した子どもをユーモラスに描いた油彩画の連作「小さな職人たち」、一つ一つ観るとけっこう面白い。「しがない職業と少ない稼ぎ」とあったのには、思わず苦笑しました。


2009年1月に上野の森美術館で開催された「レオナール・フジタ展」、図録を見てみると、今回と同じ作品、いわゆる乳白色の作品、「座る女性と猫」「仰臥裸婦」「猫」などもありましたが、展覧会の目玉は、パリの倉庫で見つかったという縦横3mの大作4点と、「ラ・メゾン=アトリエ・フジタ」の内部の公開、晩年に建立した「シャペル・フジタ」の全貌と宗教画の公開でした。今回の展覧会は、子どもをテーマに描かれたものや、フジタの日常生活をとらえた土門拳や阿部徹雄の写真がありましたが、両者を比較すると、上野の「レオナール・フジタ展」の方が、子どもを描いた作品は抜け落ちているものの、フジタの世界を幅広く、かなりまとまって紹介していた展覧会だったという印象です。


まあ、それはそれとして、今回の展覧会は子どもがテーマです。Ⅱ章の「フジタの子どもたち―アトリエのなかの物語」、Ⅲ章の「小さな職人たち―フランス讃歌」の展示されていた作品群は、特にⅢ章は、数が多いこともさることながら、そのテーマというかモチーフが撰び抜かれていること、細かいところまで描かれていることで、なかなか見応えのある展覧会でした。


ここでは取り上げませんが、Ⅰ章の「モンパルナスのフジタ」関連で、ジュール・パスキン、アメデオ・モジリアーニ、シャイム・スーティンの作品も展示されていました。


展覧会の構成は、以下の通りです。


Ⅰ モンパルナスのフジタ―「素晴らしき乳白色」の誕生

第一次世界大戦の前年、1913年に始めて渡仏したフジタは、まもなくピカソと出会い、彼のアトリエで目にしたルソーの絵画に衝撃を受けます。パリ画壇で注目を集めていた画家たちとの交流を通して、彼らとは異なる独自の芸術を追究したフジタが到達した「素晴らしき乳白色」の成り立ちとその後の展開を追います。


Ⅱ フジタの子どもたち―アトリエのなかの物語

戦争画を描いたことで戦後、戦争協力の責任を取る形で日本を離れパリへ戻ったフジタは、子どもを主題とした絵画を数多く制作。国籍不明で、無表情、思考も感情もないような子どもたちの姿に日本とフランスの間で揺れ動く複雑な心境がみえます。理想のアトリエを舞台に描かれた空想上の子どもたちとともに暮らしたフジタと、そのアトリエに注目します。


Ⅲ 小さな職人たち―フランスへの讃歌

フジタは1958年から翌年にかけて、子どもの「職人尽くし」ともいえるタイル画の連作「小さな職人たち」を制作。これらは、かつてパリで見られた手仕事を生業とする人たちをはじめ、仏蘭西社会のなかで活きるプティ・メティエ(しがない職業)の人々を子どもに託して、小さな正方形の画面に表現したものです。フジタの空想によって生まれた「小さな職人たち」計95点のほか、彼のアトリエの扉を装飾するために制作されたパネルが37点をご紹介します。


フジタと二人の写真家―土門拳と阿部徹雄

1941年―土門拳がとらえた戦時下のフジタ

1952年―阿部徹雄がとらえたパリのフジタ



Ⅰ モンパルナスのフジタ―「素晴らしき乳白色」の誕生




Ⅱ フジタの子どもたち―アトリエのなかの物語



「誕生日」1958年

大きな円卓を囲んだ11人の少女たち。正面奥に座り手を組んでいる少女は頭に花飾りをつけ、目の前にはプレゼントの包みがあります。窓の外には席につけなかった子どもたちが顔を覗かせ、ごちそうを給仕するメイドも同世代の少女のようです。この作品はフジタが71歳のときの傑作です。子どもたちの表情や動きはどこかバラバラで、フジタが観察する個人主義のフランス社会の特徴が描かれているようです。ポーラ美術館の創業家2代目鈴木常司が築いた9500点に及ぶコレクションの記念すべき第一号がこの作品です。




Ⅲ 小さな職人たち―フランスへの讃歌

フジタは1958年秋から、フランスとりわけパリを舞台として様々な仕事に従事する子どもの姿を数多く描くようになる。翌年の春にかけて断続的に制作されたこれら一連の作品は「小さな職人たち」と呼ばれる。モティーフとなっているのは、「左官」や「指物師」、「椅子職人」のような手先の技術によって物を製作する人々ばかりではなく、古くからパリの路上でみられた「馬車の御者」や「ガラス売り」のほか、「コンシェルジュ(アパートの管理人)」や「掃除夫」などさまざまな職種の人々である。描かれた子どもたちは、それぞれの仕事に真剣に取り組んでいるものの、そのしぐさにはどことなくユーモアが感じられる。フジタの空想によって生まれた子どもたちは、それぞれ15cm四方のタイル状の小さなパネルに描かれ、フジタのアトリエの壁一面に飾られた。






フジタと二人の写真家―土門拳と阿部徹雄



「レオナール・フジタ―ポーラ美術館コレクションを中心に」

「乳白色の肌」で人々を魅了する画家レオナール・フジタ(藤田嗣治、1886-1968)。「レオナール」 という名は、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチのフランス語名にあやかって命名された洗礼名です。エコール・ド・パリの画家として活躍した1920年代、フジタは裸婦のほか自画像や猫を主題とした作品で、当時のパリの画壇で最も有名な画家の一人になりました。その後、第二次世界大戦中を日本で過ごし、戦後ペリに戻ると、子どもを主なテーマとして創作活動を再開しました。本展は、フジタ作品の国内最大級のコレクションを有するポーラ美術館の収蔵作品を中心に、国内の美術館、個人蔵の油彩画や素描、最晩年に暮らしたフランス、エソンヌ県のメゾン=アトリエ・フジタに保管されているマケット(建築模型)や、アトリエで制作するフジタの姿を撮影した写真家、土門拳と阿部徹雄の写真など総数約200点を通して、フジタの人物像と多彩な創作活動にあらためて焦点を当てるものです。


「Bunkamuraザ・ミュージアム」ホームページ


とんとん・にっき-leo3 「レオナール・フジタ」
ポーラ美術館コレクションを中心に

図録

監修:

木島俊介(Bunkamuraザ・ミュージアム プロデューサー)

内呂博之(公益財団法人ポーラ美術振興財団ポーラ美術館 学芸員)

編集:

Bunkamuraザ・ミュージアム

公益財団法人ポーラ美術振興財団ポーラ美術館

発行:TBSテレビ



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神戸・北野界隈を歩く!

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伊丹空港から直行し、北野異人館街を散策しました。


神戸には安藤忠雄の建築を見るために何度か足を運びました。もちろん、北野異人館街にも2度ほど行ってます。また、大学時代の友人も神戸で設計事務所をやっていて、行くと車で案内してくれたりもしました。「OLD/NEW六甲」や「六甲の集合住宅Ⅰ・Ⅱ」にも行きました。阪神淡路大震災以降は、一度も神戸に行っていません。


そんなわけで、安藤忠雄の北野にある初期の作品をいくつか見て回りました。「ローズガーデン」「北野アレイ」は、今でも店舗として使われていました。異人館には「北野町広場」まで行っただけで、登りがきついので、その辺りで引き返しました。北野の街中で見かけた「小さなアトリエ」が気に入っています。あまりにも暑いので、ツタの絡まる「にしむら珈琲店」で、アイスコーヒーを飲みながら一休みしました。


異人館:国指定重要文化財



街で見かけた小さなアトリエ


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安藤忠雄の建築:再訪

1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。(ウィキペディアによる)




にしむら珈琲店

オーナー故川瀬喜代子が戦時中に暮らした上海の洋館をモチーフにした煉瓦造りの洋館。1974年にくつろぎを求めるお客さまにお応えして、日本初の会員制珈琲店としてスタートしました。1995年の阪神淡路大震災の被災・半解を機に会員制を廃止、カフェレストランとして再スタートしました。






三菱一号館美術館で「浮世絵Floating World」第1期を観た!

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三菱一号館美術館で「浮世絵Floating World」第1期を観てきました。といっても、観に行ったのは7月の始め頃のことでした。


三菱一号館美術館で浮世絵を主にした展覧会は初めてのことです。最初は三菱一号館美術館で浮世絵かと、奇異な感じがしましたが、考えてみれば、浮世絵の歴史も明治時代に入ってからも続いていたわけですから、明治時代に建った三菱一号館で展示しても、おかしくないのかもしれません。チラシには「浮わりと生きませう」、そして「浮世絵の楽しさ全部みせます!」と、期待できそうなキャッチが・・・。


今回三菱一号館美術館で展示される浮世絵は、川崎・砂子の里資料館長の齋藤文夫氏の浮世絵コレクションです。斎藤氏は長年にわたる浮世絵蒐集を元に平成13年(2001)、旧東海道沿いに川崎・砂子の里資料館を開館されました。以前から、その名前はよく聞いていたのですが、どのようなコレクターなのか、まったく分かりませんでした。


齋藤コレクションは、浮世絵版画の名品のみならず、貴重な肉筆浮世絵が多数含まれていることも大きな特徴です。今回、三菱一号館美術館で展示されるのは、浮世絵500点という膨大な量、3期に渡って分割して展示されます。


僕がこのブログを始めてから7年半、その間に美術館で開催された浮世絵関連の展覧会がどの位あるのか、ちょっと調べてみました。僕が観に行った回数です。なんと20回ほどありました。今回のように前期後期とかは数えずに、1回と数えての回数です。年に3回ほどは、浮世絵関連の展覧会に観に行っていたというわけです。それだけ多くの人に浮世絵は支持されている、という結果でもあります。


今回も三菱一号館美術館へ3回、足を運びました。ブログにはまだ書いていませんが。もちろん、今まで見たことのある浮世絵がほとんどですが、それでもまったく始めて観る、という浮世絵も次々と出てくるから不思議です。いや、それだけ浮世絵は奥が深い、ということなのでしょう。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第Ⅰ期 浮世絵の黄金期―江戸のグラビア

第Ⅱ期 北斎・広重の登場―ツーリズムの発展

第Ⅲ期 うつりゆく江戸から東京―ジャーナリスティック、ノスタルジックな視線




浮世絵の黄金期―江戸のグラビア






肉筆浮世絵



浮世絵Floating World これぞ浮世絵!

「はかない世の中であるならば、せめて浮かれて暮らしたい」という江戸の人々の気分を反映した浮世絵。現実とも享楽の世界とも思える“Floating World”を鮮やかに描いた浮世絵は、好奇心のまま最先端の風俗や事象を捉え、江戸の人に留まらず、19世紀には欧米の人々を魅了し、さらに現代の私たちの心をも浮き立たせる華やかな光景に溢れています。本展は、会期中2度の展示替えを行い、3期に分けて江戸から明治まで、浮世絵の誕生から爛熟に至る全貌を500点を超える作品によりご紹介します。川崎・砂子の里資料館長・齋藤文夫氏の膨大な浮世絵コレクションから、連作などの他に類例を見ない稀少性の高い浮世絵版画、肉筆画の名品を展示するとともに、浮世絵の影響を受けたロートレックをはじめとする当館所蔵ヨーロッパ近代版画を対比させ、時代や地域を越えた浮世絵の普遍的な魅力に迫ります。明治期の建物を復元した当館において、西洋建築空間で浮世絵をご覧頂くことで、19世紀欧米人が幸代絵を飾っていた室内を追体験するかのような展示空間もお楽しみ下さい。


「三菱一号館美術館」ホームページ


とんとん・にっき-uki7 浮世絵

珠玉の齋藤コレクション

Floating World

図録

発行日:2013年6月22日

発行:三菱一号館美術館








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