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東京鉄道遺産を歩く!

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日時:7月27日(土)午前10時JR御茶ノ水駅西口集合
案内:小野田滋さん(鉄道総合技術研究所)
行程:御茶ノ水駅西口から中央線・総武線に沿って両国駅まで

(今後、少しずつ書き足します)


小野田滋の「東京鉄道遺産」を読んだ!


お茶の水~秋葉原










   



秋葉原~浅草橋






浅草橋~両国







とんとん・にっき-tetu 「東京鉄道遺産」

「鉄道技術の歴史」をめぐる
ブルーバックス

2013年5月20日第1刷発行

著者:小野田滋

発行所:株式会社講談社



藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」を読んだ!

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とんとん・にっき-syuutyuu


藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」(淡交社:平成25年8月6日初版発行)を読みました。7月30日(火)の新宿・紀伊國屋サザンシアターで開催される、刊行記念トークイベント藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」反省会、の前に、なんとか読み終わることができました。


先生役に路上観察眼をもつ建築家・藤森輝信氏、

聞き手に平成の絵師・山口晃氏。

その二人がニッポン各地の名建築13件を見学して

あれやこれやを発見したり、

建築の魅力を語り合う対談&エッセイ漫画

脱線上等?! 愉快な妄想も暴走?!

時に大マジメに、時にユーモアたっぷりに、

目のつけどころが違う二人が伝統建築の魅力を再発見!


目次

第一回 法隆寺

第二回 日吉大社

第三回 旧岩崎家住宅

第四回 投入堂

第五回 聴く竹居

第六回 待庵

第七回 修学院離宮

第八回 旧閑谷学校

第九回 箱木千年家

第十回 角屋

第十一回 松本城

第十二回 三渓園

補講 西本願寺

休み時間

①山口画伯の見たかった建築

  二笑亭奇譚

②はじめての藤森邸

  タンポポハウス探訪

あとがき

藤森輝信

山口晃


「日本建築集中講義」に取り上げられている「名建築13件」に関連した記事を、藤森輝信関連として、以下に載せておきます。国宝「三徳山三仏寺投入堂」を観に行ったこと、藤森の故郷茅野市での「藤森輝信展」や「高過庵」を観たことは、特筆されます。また、山口晃関連としては、数が少なく、たったの2件ですが、併せて載せておきます。


過去の関連記事:藤森輝信関連
世界最古の木造建築「法隆寺」を観た!
旧岩崎邸庭園でのガーデンコンサート
旧岩崎邸庭園
「国宝・三徳山三仏寺投入堂」へ行ってきました!
国宝「松本城」を観た!
横浜・三渓園の重要文化財建造物を見る!
茅野市美術館で「藤森照信展」を観た!
フジモリ建築「神長官守矢史料館」を観た!
フジモリ建築「高過庵」を観た!


過去の関連記事:山口晃関連
メゾンエルメス8階フォーラムで「望郷 山口晃展」を観た!
銀座三越で「山口晃展 東京旅ノ介」を観た!



芸術新潮で「磯崎新が読み解く知られざる丹下健三」を読んだ!

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丹下健三といえば、僕が建築を学び始めたころは、もう世界の建築をリードする大建築家でした。都内にある丹下建築は、もちろんほとんど見ていますが、香川県庁舎を見るためにわざわざ四国まで行ったこともありました。丹下健三ご夫妻を一度だけ見かけたことがあります。竣工間もない赤坂プリンスホテルの、床や壁が白い大理石でおおわれた、白いピアノが置いてあるロビーで、「あっ、丹下さんだ!」と思った瞬間、丹下ご夫妻は僕の横を過ぎ去りました。バブル時代の象徴とも言われた「アカプリ」、赤坂プリンスホテルもつい最近、解体されました。


僕の友人数人も、丹下健三にあこがれ、丹下事務所に入所しました。その数人は、どういうわけが少しずつ丹下事務所時代がずれいました。ある時、友人のひとりを訪ねて草月会館にあった丹下事務所に行ったところ、鈴木俊一が何期目だったか都知事に当選したときで、ほとんどの所員は選挙結果報道のテレビに釘付けで、事務所内が騒然としていたことを覚えています。その時、丹下健三と森英恵は、鈴木陣営の選挙本部長でした。その後、東京都庁のコンペで丹下案が当選する、とういうわけです。


芸術新潮2013年8月号で「生誕100年記念大特集 磯崎新が読み解く知られざる丹下健三」を読みました。


国立代々木競技場、大阪万国博会場、新旧ふたつの東京都庁舎・・・時代を画した数々の名建築を生み出し、「世界のタンゲ」と呼ばれたニッポン最大の建築家・丹下健三(1913-2005)。その未発表史料が、ついに誌上初公開! 新進気鋭の建築家として活躍し始める1940年代から、タンゲ建築がひとつの頂点をなした1970年までの、書簡類、スケッチ、本人撮影の写真など、膨大な新史料をもとに、タンゲの弟子として共に活動した磯崎新が、巨匠の実像を浮かび上がらせます。


今回の特集の導入部は上のように書かれていて、「東京計画-1960」の模型の前に立つ蝶ネクタイ姿の丹下健三が映っています。続いて巻頭の5つの作品、「国立代々木競技場」「成城の家(自邸)」「広島ピースセンター」「東京カトデラル聖マリア大聖堂」、そして「大阪万国博覧会」の見開き2ページの画像です。これだけを見ても時代を画した数々の名建築であり、それを生み出した天才建築家・丹下健三の力量がよく分かります。「こういう時代に生きてきたんだな」と、ひしひしと伝わってきました。なぜか「大阪万博」以後の作品は、この特集では話題に上ってきません。





磯崎新が読み解く知られざる丹下健三



丹下健三が生まれて100年目にあたる今年、建築家としてのキャリアの前半にあたる部分、つまり1970年の大阪万博以前の史料が公開されることになりました。何十冊もの写真アルバム、書簡の量も半端ではない。海外への手紙のコピーもあります。海外や旅先から家族にあてた手紙や絵葉書。手帖に描かれたスケッチ類。太田がこの史料の存在を知ったのは、8年前、メタボリズムの本を作っていたときのこと。1950-60年代の丹下に近いところにいた数名に話を伺い、そのひとりが丹下の最初の夫人だったという。


この新史料を「芸術新潮」誌上で紹介するにあたり、建築家の磯崎新にすべてを見てもらい、話を伺うというのが最良の方法であると、太田は考えます。丹下と磯崎は東大の建築学科では先生と教え子、大学院修了後は研究(設計)室のボスとスタッフ。独立後は、建築・都市計画のパートナーとして、1950年代半ばから約20年間、ごく近い関係にありました。僕の記憶のなかでは「スコピエ計画」が印象に残っています。大阪万博では磯崎はお祭り広場の共同設計者でした。しかしそれを境に磯崎は都市から撤退し、ファインアートを標榜するようになります。さらに20年後、丹下と磯崎は奇しくも新都庁舎のコンペで競合相手となります。磯崎は丹下の弔辞を読んだし、丹下を師と仰ぐ気持ちは、揺らぐことがないように見える、と太田はいう。


対談のなかで興味深い箇所や、面白い箇所は幾つもありますが、ここにすべてを書くわけにはいきません。
僕が目に付いた箇所について、以下の載せておきます。丹下が戦中・戦後に書いた「二つの論文」、そのひとつ、「MICHELANGELO頌」は「日本建築宣言文集」(彰国社:昭和48年11月10日第1刷発行)に入っていたので読みました。「大東亜建設記念営造計画」は、手元にないのですが、中真己の「丹下健三序論」で読みました。対談に出てくる丹下の「イタリア紀行」、ローマのカンピドリオ広場、パラッツオ・ファルネーゼ、パンテオンは観に行きましたが、フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館は修理中では入れませんでした。丹下も実際に見ていたかどうか、磯崎は留保しています。



圧巻はその2に出てくる自邸「成城の家」に集まる「アーティストとの交流」です。美術界やデザイン界のそうそうたる人物がやってきて酒を酌み交わし交流を深めていたようです。なかでも岡本太郎との関係が面白い。要は丹下も岡本も互いに対立のまま繋がっていたという磯崎の話には納得させられます。丹下の「成城の家」と清家清の「森於菟邸」、共に和風のモダニズムで高床です。しかし丹下は住宅といえども都市性を持つべきだと言っていたという。ただし、あの開放性には家族は迷惑されたかもしれないけど、友人を招き入れるには理想的なモデルだったようです。


まだ会ったことのないサーリネンから手紙が届きます。「あなたの作品は時々雑誌で見ているけれど、僕たちの間には共通する何かがあると思う。じつは来月日本に行くからぜひ夕食を一緒にどうか」と。磯崎によると、1950年代の後半は、サーリネン事務所と丹下研は互いに追っかけあってるような具合。サーリネンは毎回違うデザインをやっていた。丹下のやり方もそれに近かったので、お互い関心を持ったのだと思う、と。サーリネンが亡くなったのは1961年で、東京に来たのが1959年、手紙を見ると丹下がMITに教えに行った時にサーリネンにもう一度会っています。


ドキシアディスの主催する異色の国際会議「デロス会議」、丹下も呼ばれ、フラーやトインビーも参加していた。「アテネ憲章」を採択した1933年のCIAMの30年後のヴァージョン。毎年、船で地中海をクルーズしながら最先端の議論を戦わせていた。その6年後、1972年にローマクラブが「成長の限界」を提言、丹下はその報告を知って衝撃を受け、資料を取り寄せてスタッフに読むように指示したという。僕が「成長の限界」を知ったのは、カリフォルニア大学バークレーから帰ったばかりの江平完爾さんから聞いたのが最初でした。


丹下が1970年代以降に大活躍する中近東を初めて訪れたのは1965年の夏です。こうして丹下はグローバル・アーキテクトの先駆けになっていきます。サウジ国王、ケネディ家、電通の吉田秀雄社長といって、国内外のVIPに丹下は気に入られていきます。サウジアラビアを起点に、1970年代以降の丹下は、クウェート、イラン、シリア、アルジェリア、ヨルダンと、中近東各地、等々、世界40ヶ国でオフィシャルな大型プロジェクトを任されます。ところが大阪万博以後、国内での大きな仕事がこなくなった時期がありました。磯崎はそれを「海外への亡命」と言う。しかし、イタリアやシンガポールでの大躍進が続きます。


丹下の都市と建築の壮大なイマジネーションは、彼の時代に起こった世界的規模の近代化、グローバル化の中で実現されます。1950年代に国際デビューした建築家が、20世紀の後半に近代国家ができあがっていく過程でナショナルアイコンを作っていった。世界の変化のなかで、丹下は建築家としての「構想力」を一本の軸線を引き続けるようにかたちにしていった、といえるのではないかと、磯崎は結んでいます。

とんとん・にっき-tan6 「建築と都市―デザインおぼえがき」
昭和45年9月10日第1版発行
著者:丹下健三

発行所:彰国社


とんとん・にっき-tan5 「人間と建築―デザインおぼえがき」

昭和45年9月10日第1版発行

著者:丹下健三

発行所:彰国社










過去の関連記事:
新日曜美術館で「丹下健三」を見た!その1
新日曜美術館で「丹下健三」を見た!その2
丹下健三の業績
丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード

藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」反省会を聞く!

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藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」反省会に行ってきました。予想していた通り、藤森輝信の独壇場で、山口晃の出番は、藤森からふられたことにちょっと答えるだけで、ほとんどありませんでした。ということで、メモしてきたものを、以下に簡単にまとめてみました。


刊行記念トークイベント

藤森輝信×山口晃

「日本建築集中講義」反省会

日時:2013年7月30日(火)

    19:00開演(18:30開場)

会場:紀伊国屋サザンシアター

    (紀伊國屋書店新宿南店7F)

料金:1000円(税込・全席指定)

共催:淡交社 紀伊國屋書店


藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」反省会

藤森:いちばん面白かったのは、名建築で案内している方が、けっこうキャラが立っていた。

山口:自虐的なキャラも。例えば角屋の中川清生さん。

藤森:角屋は京都の遊廓の中にありますが、遊女がいたわけではないと、しきりに強調していました。角屋は食事をするところで、「揚屋(あげや)」という。自分ちに遊女がいたわけではないと、中川さんはいう。角屋に遊女がいたと書いた人を訴えた。裁判になり、最高裁までいって負けた。中川さんは独特の使命感を持った方です。

山口:藤森さんは、中川さんは小さい頃虐められたんじゃないかと言ったが、すごく上品な人でした。

藤森:解説を聞くのが嫌で、学校を思い出してた。山口さんは、よく聞いていました。

山口:先生が聞かない文、自分はちゃんと聞きました。

藤森:山口さんは美術に詳しい人だ。絵描きなのに詳しい。

山口:私は知った風に言っているだけです。知っていることだけに答えます。あまりウンチクを言っているようでは負けです。開始15分、建築の話は一切なし(笑)。期待していたのは「聴竹居」、数寄屋を想像していたがアール・デコで、キッチリしていました。

藤森:期待はずれだったの?あれは数寄屋を幾何学的にしたもの。本人は大金持ちで、文人的な生活をしていた。極めて文化性の高い生活をしていた。食事は吉兆から取り寄せた。タウトが感動していました。古い友達の松隈章が管理しています。行くと細かく案内してくれます。この建物、本当に隅々までデザインしています。松隈の解説は、聞くたびに息苦しくなる。先日、松隈から「天皇ご夫妻が来ることになった」と、メールがありました。ご夫妻が「美の壺」を見て、「あれは行きたい」と言ったそうです。30分いたそうですが、松隈があの調子で説明したならば、宮内庁の人も驚いたでしょう。あんなに建築を熱心に説明する人はいない。

山口:ネジ山が縦に揃うようになっているとか。

藤森:名建築家はある部分、そういうところがある。丹下さんは、コンペの時、室名を書くと、それを直す。所員はなぜ直すのか分からない。丹下さんは部屋を歩くときに邪魔になる、と。山口さん、よかったのは?

山口:やはり待庵。

藤森:「なごみ」の力を思い知らされた。僕は不安があった。一間四方、隅に炉が切ってある。一間四方はダ・ヴィンチの人体。利休はルネサンスの人と重なる。待庵で寝てみた。私の仮説は確かめられた。

山口:躙り口を閉めてみた。茶室の中を感じてみた。表面のざらつきが消えて、影が消えた。

藤森:建築家たちは、しばらくいると広く見える、という説明をする。本願寺は、照明は昔のぼんぼりだった。山口さんが、えらくいい、いいと言った。

山口:光の入射角が関係している。下からの照明だと「箔」が明るくなる。奥行きがすごく出ます。荷物を置いてくださいと言われたなんでもない部屋、何でもなくない部屋で、金粉と竹の描き方。竹が前へ出たりで、約束事の遠近法です。

藤森:二条城へ行ったら、ひどい扱いを受けた。

山口:ワッペンをもらって写真をバチバチ撮っていたら、「ちょっと、すみません」と係の人が言ってきた。

藤森:本願寺へ行ったら、僕の本や山口さんのことを知っていて、そうとう自由度が効いた。お坊さんたちは説明が上手でした。

山口:ギシギシと床が鳴ってなんと言うか、ウグイス張り、ここは腐っているだけ(笑)。こちらが言う前から「飛雲閣は覗かれますか?」と言ってきた。

藤森:金箔と山口さん、と言えば、横浜の三渓園へ行ったら、「この金箔がすごい!」と言った。ガイドの方が素晴らしい。

山口:しばらく見ていると、タイミングよく説明してくれる。

藤森:山口さんが見ていると、「それは複製です」と(笑)。聞いたら、一枚100万円もする、すごい値段だった。

山口:複製で印刷されても、箔まで刷ってしまうとまずい。墨と金は別々にする。

藤森:岩崎邸は私はあまり・・・。松本城は子どもの頃から見ているので、もういいわ、と。その点、松隈は素晴らしい。何回見ても「毎回発見がある」と。岩崎邸の和室の床の間、正面に富士山、その下に船・・・。

山口:掛け軸の擦れた跡。

藤森:僕は明治以降の建築の専門家ですが、最近、ちゃんとした日本建築を見てみたいと思い始めた。岩崎邸の和室は、三間×三間、「九間(ここのま)」です。この形式は室町時代に成立したもので、歌の会とか、お茶とかに使った。日本間は、「九間」と「四畳半」しかない。「九間」を四つ割りにすると「四畳半」、「四畳半」は小さい方の基準で、足利将軍の部屋も四畳半でした。岩崎邸の和室は、無駄がなく、モダンな感じです。明らかに江戸時代のものではない。コンドルについて。ヨーロッパを溯っていく、エジプトはやらずにギリシャへ行く。東洋へ行ってイスラムと出会う。そういう時代の人。初めて日本は来ます。リバイバルのネタがなくなっていく、そのような時代の人です。イギリスの様式はエリザベスとジャコビアン、その後本格的なルネサンスが入ってくる。そういう時代の人だから、様式的に五月蠅い。ボアンベリは英語はフランス訛り、日本を馬鹿にしていた。コンドルは正しい英語で、日本を愛していた。自分の家で、素人歌舞伎をやっていた。奥さんは、日本舞踊の出稽古に来ていた人。私は、コンドルのことは好きだったが、岩崎邸はどうも・・・。しかし岩崎邸は実物でたどれる最古の建築です。



司会:この本を一言で言えば?

藤森:一言で言うと「名著」。

山口:「名画入り名著」→「おちゃめ画」。


藤森:山口さんの行動は細かいところを見ている。世間的には言葉尻をとらえる、と言う。

山口:骨子は藤森さん、やることがないので、道中記も含めて、言葉尻をとらえた。

藤森:東大出版会の本に山口さんが書いている「すずしろ日記」は大人気です。

山口:三仏寺、私ら2人だけが入山チェックではねられ、草鞋に履き替えた。藤森さんは通過してすぐにスニーカーに履き替えた。

藤森:昔は知り合いがいたので、上まで昇った。当日、山伏の大会があった。日常的には、山伏はいないですけど・・・。


会場からの質問:今回の建築を選んだ判断基準は?

藤森:茶室は「なごみ」なので取り上げた。普通は出てこない「日吉神社」、あんなに環境的な建築、夢のようなところだった。

山口:なんとなく通史になるように選んだ。

藤森:「閑谷(しずたに)学校」、岡山藩主の学校。石垣が廻っていて、孔子廟があって、不思議な感じの建築でした。論語を読んだという「床」が素晴らしい。案内の人が気合いが入っていた。が、案内は要りませんと断った。「桃源郷」のような雰囲気が素晴らしかった。

会場からの質問:今回廻られて素晴らしかった絵は?

山口:角屋の内装がよかった。応挙もいたし。日本建築のいろんな写しが見られて、ミニテーマパークのようで、面白かった。

会場からの質問:「フジモリ建築」についての感想を?

山口:先生は畳と正二が嫌いで、プリミティヴな素材を使われている方です。子どもが砂場で、手でこねて作ったように見える。タンポポハウス、初めて来た感じがなく、懐かしくて、無理のない気分のいい建築でした。タンポポが熱に弱くて頓挫したところが誤算。なべて、こうなったらしょうがないという考え。高過庵は揺れました。夢のなかで感じる揺れのようでした。三仏寺、若者たちが大騒ぎで鐘を鳴らしていた。藤森さんは、あの音が静まるまでここにいましょう、と言った。一番良い状態で見たいのだと思った。食べ物については何も言わない。私ももっと大らかにならなければいけないと、藤森さんを見て思いました。


とんとん・にっき-syuutyuu 藤森輝信×山口晃

「日本建築集中講義」

平成25年8月6日初版発行

著者:藤森輝信 山口晃

発行所:株式会社淡交社










過去の関連記事:
藤森輝信×山口晃「日本建築集中講義」を読んだ!




ポスターが

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京王線千歳烏山の駅のポスターがすごい!

岩手のお土産、達磨・・・

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こうして画像を載せると、静嘉堂文庫の曜変天目(稲葉天目)のような希有の名品のように見えます。達磨の茶碗、名器です。家宝ものです。まあ、お土産ものですからたかがしれてますが、息子が岩手に行った時のほとんど冗談のようなお土産茶碗です。


毎年今ごろになると、世田谷・太子堂の子供たちが「パルパル交流」と称して、岩手県一関市千厩町小梨にキャンプに行きます。その付き添いを息子が長年やっていて、毎年岩手に行ってる、というわけです。今年は「農事組合法人 こがねファーム」で、子供たちが農業体験としてスイートコーンの収穫を行ったらしく、髭の長いスイートコーンを5本いただいてきました。食べるのが楽しみです。もちろん東日本大震災や、その前の震災の現場を訪れたりもしているようです。


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こちらは僕の集めている達磨、自分では「こけし達磨」と呼んでますが、左が6cmくらい、右が8cmくらいの木製の達磨です。下の達磨はちょっと大きくて10cmほどのものです。これは岩手の方からいただいたものです。大事にしたいと思っています。あらかた集め尽くしてしまったので、最近は自分ではなかなか集めることが難しくなっています。が、ぽつり、ぽつりと数が増えてはいますが・・・。


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ささやかな達磨コレクション(2007年12月22日時点)

これから少しは増えていますが・・・


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サントリー美術館で「谷文晁」展を観た!

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江戸東京博物館で開催されていた「ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡」のなかで、ひときわ目立ったのが谷文晁の「秋夜名月図」でした。横幅が170cm近い大画面に、円い大きな月が浮かび、右下方から葦が伸び上がっています。すべて水墨で描かれています。「文晁圖書」と刻した巨大な印章が目を引きました。東京国立博物館の総合文化展(常設展)でもいつ頃だったか、文晁の山水画を観た記憶があります。僕が谷文晁を最初に知ったのは、たぶん板橋区立美術館だったのではないかと思いますが、その記憶も薄れています。


最近、板橋区立美術館の館長、安村敏信の「江戸絵画の非常識―近世絵画の定説をくつがえす」(敬文舎:2013年3月23日第1版第1刷発行)を読みました。そのなかで常識その八、「上方で大成した南画は、谷文晁によって江戸にひろめられた。」という章がありました。今回の「谷文晁」展の“企画協力”者でもある、河野元昭の説に真っ向から疑問を提出しています。


話はこうである。谷文晁は「多数の門弟を擁して江戸絵画の指導者となり、関東南画を確立した」と、河野元昭が書いたことに、安村は、私が違和感を感じているのは、文晁の絵が、北宗を主体にして南宗や洋風などを折衷した諸派混合でありながらも、「南画」を確立した、という点にです。「上方で南画を大成した池大雅や与謝蕪村は、南宗を主体に北宗を折衷していたのに対し、文晁では南北が逆転する。それでも北宗といわずに南画というのはなぜか、という単純な疑問」だと安村は言います。言葉の定義に始まり、文晁の作品を検討し、また文晁一門の作品の特徴をみて、「谷文晁が江戸に南画を広めた、というのは正しくない。正しくは、江戸に中国の北宗画を広めた、ということだ」と安村は語っています。


面倒な話はさておき、安村は文晁画を大きく二期に分けています。寛政年間(1789~1801)の「寛政文晁」(27~39歳)と、文化年間(1804~1818)後半以降の「烏文晁」の時代です。烏文晁とは、文晁の署名の「文」字が烏のかたちに似ていることから名付けられたもの。また、文晁20代のなかば前後は習作期で「山東谷文晁」と署名するものが多く、この時期を山東文晁時代と呼ぶこともある。山東文晁期は、版元をとおして中国画を学び、また中国画の実物を見て試行錯誤する時代である。寛政文晁期は鋭角をもつ力強い輪郭線によって整然と構築された山水図で、北宗画学習が前面に押し出されている。烏文晁期は墨痕荒々しい筆使いの、ダイナミックな作品が増えてくる。


どのような展覧会でも、展覧会の「目玉」はなにか、という話が必ず出てきます。国語辞書によると、《客が目玉をむいて驚く意から》多くの売り物の中で特に注目される物、とあったりします。今回の「谷文晁」展の目玉はなにか?展覧会会場の「序章」の解説にもありましたが、「あれっ」と思いました。江戸時代後期の絵師・谷文晁と聞いて、これぞ彼の代表作という一点が思い浮かぶ人がどれだけいるでしょうか?文晁の画風には、貪欲なまでの学習態度が反映されており、彼の作画様式を一つに定義することは容易ではありません。それはまさに「様式のカオス」とでも呼べる様相です、と。要するに今回の展覧会は「目玉」がないのである。あるいは、逆に全部が「目玉」?


展覧会の構成は、以下の通りです。


序章 様式のカオス

第1章 画業のはじまり

第2章 松平定信と「集古十種」―旅と写生

第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」

第4章 文晁をめぐるネットワーク―蒹葭堂・抱一・南畝・京伝



序章 様式のカオス

各画法を折衷した文晁の画風には、「八宗兼学(はっしゅうけんがく)」とよばれる貪欲なまでの学習態度が反映されており、彼の画風を定義することは容易ではありません。それはまさに〈様式のカオス〉とでも呼ぶべき様相です。本章では、多種多様な画風を吸収する意欲に満ちた、文晁の作画エネルギーをご覧いただきます。



第1章 画業のはじまり

文晁は10歳の頃、加藤文麗(ぶんれい)(1706-1782)に入門します。文麗は木挽町(こびきちょう)狩野家三代周信(ちかのぶ)の門人で、正統な狩野派の流れを汲む絵師でした。文麗の画風は、当時の江戸狩野派によく見られる荒々しい運筆を特徴とし、文晁の初期作にも影響を与えています。そして、17、18歳頃には中山高陽門下の渡辺玄対(げんたい)(1749-1822)に師事します。玄対は南蘋派(なんぴんは)や南宗画・北宗画の折衷様式を学んでおり、文晁が描く南蘋派風の花鳥画や、南北折衷的な山水画の基礎は、玄対によって築かれたといえます。画業の草創期に様々な画風に触れたことが、後に文晁の幅広い画域を形成していくことになります。



第2章 松平定信と「集古十種」―旅と写生

天明8年(1788)、文晁は田安徳川家に奥詰見習として五人扶持を受けて出仕し、寛政4年(1792)、老中松平定信(1758-1829)に認められて近習となります。定信は八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の子で、白河藩主・松平定邦の養子となり、白河藩主を継いだ後、老中首座を勤めました。寛政5年(1793)、文晁は定信の江戸湾岸巡視に同行し、各地の風景の写生を担当します。この時の写生をもとに制作された風景画には、正確な遠近表現や立体感を示す彩色法が用いられ、西洋画学習の成果がうかがえます。また、寛政8年(1796)、文晁は定信の命を受け、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を調査します。この調査時の模写と記録は、全85巻の刊本『集古十種』として刊行されました。多くの名品を模写したことは、文晁の画業に大きな影響を与えました。



第3章 文晁と「石山寺縁起絵巻」

松平定信は、古文化財の保存・整理分類からさらに一歩進めて、過去に失われた作品の復元に着手します。「石山寺縁起絵巻」は正中年間(1324-26)に七巻本として企画されましたが、江戸時代に至るまで、巻六・七は詞書のみが存在し、絵を欠いていました。文化2年(1805)、石山寺座主尊賢(そんけん)の強い願いに定信が応え、お抱え絵師の文晁によって補完されました。近年、重要文化財「石山寺縁起絵巻」(石山寺蔵)を文晁が写した模本が当館所蔵となりました。本章ではサントリー美術館本「石山寺縁起絵巻」を修復後初公開するとともに、一切の私意を加えず古様に従い補完の構想を練った文晁の挑戦をご覧いただきます。




第4章 文晁をめぐるネットワーク―蒹葭堂・抱一・南畝・京伝

文晁を語る上で欠かせない要素の一つに、幅広い人脈があります。『集古十種』編纂のために訪れた大坂では、当時の文化ネットワークの中心人物であった木村蒹葭堂と出会います。文晁は後に蒹葭堂の肖像を描いており、親しい交流は蒹葭堂が没するまで続きました。また、絵師の酒井抱一、狂歌師・戯作者の大田南畝(なんぽ)、戯作者の山東京伝とも親しく交わり、様々な合作を残しています。加えて、文晁は教育者としても優れており、渡辺崋山など、多くの門人たちを育てました。文晁をめぐる多様な交友関係の広がりは、文晁という人物の魅力を伝えています。



「生誕250年 谷文晁」展

谷文晁(1763~1840)は、江戸時代後期の関東が団で中心的役割を担った絵師です。文晁といえば関東南画の大成者として知られていますが、狩野派や円山四条派、土佐派、洋風画をも学ぶなど、各画法の折衷に努めて一家を成した巨匠の一人です。しかし、文晁の多作さと多岐にわたる様式は、彼の活躍ぶりを伝えると同時に実像の把握を困難にしているとも言えるでしょう。一方、文晁は松平定信や木村蒹葭堂など当代一流の文化人たちと親しく交わり、渡辺崋山をはじめとする多くの門人を育てました。その人脈の広さは当時の画壇でも際立つものであり、知識人・教養人としても群を抜く、文晁という人物の魅力を物語っています。本展では、文晁の生誕250周年を記念し、文晁と人々との交流を軸に、彼の画業と功績をたどります。加えて、近年当館の所蔵となった谷文晁筆「石山寺縁起絵巻」を修復後初公開します。文晁の多彩な交流関係から生まれた名画の数々をぜひご覧ください。


「サントリー美術館」ホームページ


とんとん・にっき-zuro 「生誕250周年 谷文晁」展

図録

企画・構成:池田芙美/上野友愛(サントリー美術館)

企画協力:河野元昭(秋田県立近代美術館館長・尚美学園大学大学院教授)

編集:池田芙美/上野友愛/丹羽理恵子/井垣万里子(サントリー美術館)
発行:サントリー美術館

発行年月日:2013年7月3日



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日向寺太郎監督の「爆心 長崎の空」を観た!

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長崎の人は、60年以上いろんなモンば背負うて生きてきた。そうやって繋いだ命ば、絶やさんようにとだけ考えてきたと。そいけん、こん街でこれからも生きて生きたか。


チラシには上のようにありました。日向寺太郎監督の「爆心 長崎の空」を観てきました。この映画の原作である青来有一の「爆心」を読んだのは、5年半ほど前のことです。その時、以下のように書きました。


「爆心」は、「釘」「石」「虫」「蜜」「貝」「鳥」という6つの作品からなる連作短篇小説です。「爆心」と言うタイトルは、広島と並ぶ長崎の原爆を意識したものであることは言うまでもありません。「釘」や「石」など、作品の一文字のタイトルも、直接間接に意味があります。作品は、長崎の爆心地周辺で生きる人々と、その日常をしみじみと描き出します。ひとつひとつはテーマも主人公も異なりますが、作品の底流には、縦糸には直接間接の被爆体験、横糸にはカトリック信仰という長崎の先祖伝来の宗教、これらがきめ細かくていねいに紡ぎ出されています。登場人物は鬱屈した秘めた思いを、長崎の方言で訥々と語ります。


さて、映画の方ですが、たくさんの命が失われた長崎爆心地周辺の街で、今を生きる人がめぐりあい、それぞれの過去を受け入れて、新しい一歩を踏み出す、という物語です。細部は原作に拠っているものの、映画では大きく二つの物語が、二人のヒロイン、一人は清水(北乃きい)、もう一人は砂織(稲森いずみ)、それぞれに進行し、そして交差します。


清水(きよみ)は、坂の上の団地に住む大学生の女の子、陸上部で汗を流し、医大生の彼氏とデートを楽しむ、何の不安もない日々を送っていますが、突然母親が心臓発作で亡くなります。しかもその日は母親と喧嘩して家を出て、彼氏とホテルのベットで行為の最中に母から電話がありました。母からの電話に出なかった後に母が亡くなったので、その時電話に出ていれば母は助かったかもしれないという、罪悪感で押し潰されそうな日々を送っています。留守電には「今日の夕飯はカレーです」との母からのメッセージが入っていました。


砂織は、娘を亡くして一周忌を迎える母親、一人娘を失った悲しみを癒すことができないでいます。ある日、彼女の妊娠が発覚します。また子供を失うのではないかという恐怖と、生みたいという思いで、彼女の気持ちは揺れ動き混乱します。夫はやり直そうと励ましてくれるが、彼女はなぜ娘を失ったのかという思いに支配されていきます。彼女の実家は、300年続くカトリックの家で、父も母も孫の死を「神様の思し召し」として、その試練を乗り越えようとしてきました。砂織の夫は新聞記者で、原爆の取材を行っています。娘の命日は8月10日、砂織は取材に奔走する夫に「娘の命日より、9日の方が大事なのか」と。


そうした不幸を抱える二人が、浦上天主堂の近くで、神に導かれるように出会うことになります。二人は共に大切な人を亡くしたことを知り、互いに心を通わせ、未来へと向かうことになります。また別の流れとして、自転車屋でアルバイトをしている青年と、東京から帰ってきている妹がいます。この二人も、心に深い傷を負っています。最後に清水が長崎の街を見下ろしながら、次のように語ります。「一歩上がれば景色が変わる。見えんかったものが見え始めて、見えとったものが見えんくなる」。北乃きいも稲森いずみも素晴らしいが、脇役がまたいい。柳樂優弥、佐野史郎、杉本哲多、宮下順子、池脇千鶴、石橋蓮司、等々。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:長崎原爆資料館館長も務め、「聖水」で芥川賞を受賞した青来有一の連作短編集「爆心」を、『誰がために』『火垂るの墓』の日向寺太郎監督が映画化。キリスト教と深い関係がある被爆地・長崎を舞台に、母を亡くした少女と娘を亡くした母親が巡り合い、悲しみを共有しながら希望を見いだす姿を描く。導かれるように心を通わせていく2人の女性には、北乃きいと稲森いずみ。そのほか『すべては海になる』などの柳楽優弥、ベテラン石橋蓮司ら多彩な顔ぶれがそろう。

ストーリー:ごく普通だが幸せな生活を送っていた女子大生・門田清水(北乃きい)。ある日、何の前触れもなく母が他界してしまう。ちょっとしたことでけんかをしてしまい、そのことを謝罪できなかった彼女は後悔の念にかられ、母が亡くなったことを受け止められずにいた。一方、娘の一周忌が間近に迫る高森砂織(稲森いずみ)は、娘が亡くなってから悲しみに暮れていた。さらに自身が妊娠していることを知り、パニックになってしまう。やがて清水と砂織は、浦上天主堂周辺で巡り合い……。


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「爆心 長崎の空」公式サイト

過去の関連記事:
青来有一の「爆心」を読んだ!

とんとん・にっき-bakushin1 「爆心」
2006年11月25日第1刷発行
著者:青来有一
発行所:株式会社文藝春秋

横浜美術館コレクション展その3 日本画部門

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横浜美術館の収蔵作品には、個人が旧蔵した特徴あるコレクションや、篤志家からの寄付によって収集した作品が、数多く含まれているという。今年度は特に、個人コレクターや支援者の活動の活動の一端を、コレクション展を通して紹介しています。今期の展示は、7つの個人コレクションに着目しています。


ここに載せた画像は、横浜美術館で撮影したものですが、作品の全体を写すとガラスの反射があるため、ここでは作品の部分に限って撮影したものです。作者の本意とは違った、部分のみを載せてあります。









「横浜美術館」ホームページ

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ギャラリーコスモスで「戦後10年目の1956年と2012年の夏」を観た!

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下目黒のギャラリーコスモスで「戦後10年目の1956年と2012年の夏」を観てきました。実は7月30日のオープニングパーティーにも誘われていたし、8月3日の座談会「8月15日の想い」には是非とも行きたかったのですが、残年ながら行くことができませんでした。結局、8月4日の最終日に観に行ってきたというわけです。


1956年の8月15日を当時の写真家たちが撮った写真集「八月十五日」は岩波写真文庫で刊行されました。それにあわせて、協同組合日本写真家ユニオンの人たちが、2012年8月15日をそれぞれの視点で撮りました。戦後11年の日本と戦後67年の日本、どう変わったでしょうか、また、変わらないものはあるのでしょうか。それぞれの時代の写真を対照しながら、今年の8月15日を考えてみるいい機会でした。


「岩波写真文庫と写真家ユニオンの8月15日」

岩波写真文庫

―戦後10年目の1956年と2012年の夏―

日本写真家ユニオン


2013年7月30日(木)~8月4日(日)

11:00~18:30

ギャラリーコスモス

GALLERY COSMOS

目黒区下目黒2-1-22谷本ビル3階


写真家ユニオン10周年の事業として8月15日を撮る。全国から集められた写真は現在の世相を映し出していた。又、岩波映画製作所の岩波写真文庫の中に8月15日の本があったことを思い出し、現在の所有者岩波書店に交渉し岩波写真文庫と写真家ユニオンとの「8月15日」のコラボレーションを行う事になりました。「戦後10年、もう戦後ではない、の言葉がしきりに使われている。1600枚の応募作品の大部分は戦争及び終戦記念日に関係ないもので、月遅れの盆の行事が多かったのが面白かった」と編集文に書かれている。写真家ユニオンの写真も地方の盆の行事があり、靖国神社を参拝している現総理大臣も記録できている貴重な写真が展示されています。多くの見学者にとって、それぞれの8月15日を考える良い機会になるのではないかと思います。

写真家ユニオン 専務理事 岩尾克治





1956年撮影




2012年撮影












イサベル・コイシェ監督の「あなたになら言える秘密のこと」を観た!

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7月13日(土)NHKBSプレミアムで放映されたものを、内容も知らずに録画していたものです。スペイン生まれの女性監督イザベル・コイシュ、調べてみたら、大学教授とその教え子、歳の差は30歳、生まれも育ちも社会的な立場も違う2人が恋の落ちるという、ペネロペ・クルス主演の「エレジー」を観ていたことが判明しました。


さて、「あなたになら言える秘密のこと」、タイトルから想像して軽い恋愛ものかと思っていたら、まったく外れました。かなり奥が深くそして重い作品でした。工場で働くハンナ(サラ・ポリー)は、働き者ではあるが誰とも口を利かず、孤独な毎日を送っていました。まったく休みを取らないハンナを見た上司から、ある日強制的に休暇を取るように命じられます。職場と自宅を往復するだけの生活を送た彼女は、意を決して旅に出ます。滞在先の食堂で食事をしていると、至急看護婦が欲しいと携帯電話で話している男を見かけ、自分は看護婦だと告げます。


海底油田掘削所で火傷を負った従業員ジョセフ(ティム・ロビンズ)の看護を引き受けることになり、ハンナはすぐにヘリコプターで掘削所に向かいます。彼女が看護するジョセフは、一時的に失明状態に陥っています。ジョセフとのことが原因で、妻との不倫を知った親友に目の前で死なれた男です。周りを海に囲まれた海底油田掘削所は、心を閉ざしているハンナにとっても好都合の場所です。耳が不自由な彼女は、ライスと鶏肉、半分に切ったリンゴの食事を一人孤独に続けます。


油田掘削所には、皆の食べたいものを創意工夫で作り出す料理人のサイモンや、マッチョな採掘人からバカにされる海洋学者など、他にもそれぞれに孤独を抱え込んだ男たちがいます。ハンナは黙々とジョセフを看護します。ジョセフはハンナには、自らの苦い過去を語りながら、ハンナ自身のことを聞き出そうとします。そして互いに心を開き合い、ジョセフは彼女を少しずつ再生させていきます。

何も語らず、何も感じていないかのようなハンナの反応は、実は過去の人に言えない強烈な体験から来ているものでした。ハンナは、ボスニア内戦中の民族浄化という政策の被害者でもあるのです。今から僅か10数年前の出来事です。過去の出来事と葬り去ってはいけない問題です。序盤では少女の語りでハンナを紹介するという構成をとっています。イザベル・コイシェ監督の手腕が光ります。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:心に深い傷を負い、誰にも言えない秘密を抱えて生きる孤独な女性の再生のドラマ。『死ぬまでにしたい10のこと』で演技に開眼したサラ・ポーリーとイサベル・コイシェ監督が再び手を組み、ただ黙々と生きていた女性が少しずつ生きる喜びを思い出していくまでを丁寧につづる。ほとんどをベッドに寝たきり状態のキャラクターを演じた、オスカー俳優ティム・ロビンスによる迫真の演技は一見の価値あり。過酷な現実の中に見える一条の光に胸を揺さぶられる。

ストーリー:工場で働くハンナ(サラ・ポーリー)は、ある日、働き過ぎを理由に工場長から強引に1か月の休暇を言い渡される。小旅行に出かけた彼女は看護師を探していた男(エディー・マーサン)に声をかけ、2週間の油田掘削所での仕事を引き受ける。彼女の仕事は事故で火傷を負い、重傷の男(ティム・ロビンス)の世話をすることだった。


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過去の関連記事:

イサベル・コイシェ監督の「エレジー」を観た!



田口ランディの「被爆のマリア」を読んだ!

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田口ランディの「被爆のマリア」(文春文庫:2009年7月10日第1刷)を読みました。この文庫本には「永遠の火」「時の川」「イワガミ」「被爆のマリア」の短編4篇が入っています。初出は、文學界2005年8月号~11月号、単行本は、2006年5月文藝春秋刊です。僕が田口ランディの「被爆のマリア」を知ったのは、中野サンプラザで開催されたフォーラム「アール・ブリュット―生(き)の芸術―」に参加した時のことでした。小柄なオバサンで、マイクを持って黒板に書き出し、迫力のあるしゃべり口に圧倒されました。


その後、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」(ちくまプリマー新書:2011年9月10日初版第1刷発行)を出していたので、読んでみました。かなり熱心に原子力のことを勉強していたので、驚きました。この本については、世界で唯一、原爆を落とされた国が、なぜ原発大国になったのだろう? ヒロシマ・ナガサキとフクシマは、見えない糸でつながっている。そのつながりを、歴史を振り返り、圧倒的な創造力で描き出していく。これからの「核」の話をはじめるための、最初の一冊、とあります。


田口ランディは1959年東京生まれ、広島の原爆を取材した短編小説「被爆のマリア」では、「戦後世代にとって原爆とは何か?」を問題提起しました。被爆マリアについては、僕は2005年8月に、「長崎原爆忌・安置された被爆マリア像」という新聞記事で初めて知りました。左下にその画像を載せておきます。


この本に収録された4つの短編は、すべてが何らかの意味で原爆や戦争と平和の問題を扱っています。作者の分身とも言える広島を取材する作家、羽鳥よう子を描いた「イワガミ」、娘のキャンドルサービスに、受け継いだ原爆の火を用いたいと願う父親を描いた「永遠の火」、被爆者のミツコと、小児ガン成長の遅れた中学生が交差する「時の川」。ここでは原爆によって生み出された悲惨な像を背景に自分を重ねた佐藤さんを描いた「被爆マリア」を取り上げます。なぜかだいぶ昔に読んだ遠藤周作の「おバカさん」に出てくるガストンを思い出しました。


それはさており、「被爆のマリア」の主人公、レンタルビデオ店に勤める佐藤さん、なんとかかろうじて毎日を生きのびています。レンタルビデオ店は、人とは関わらずに済みます。最初の職場は健康食品の通販会社、佐藤さんは配送係でした。先輩達に気に入られようと必死で、「佐藤さん若いのに、つきあいがいいわね」と言われたりします。同僚のゆっこからは「1万円貸してくれない?」と言われて、気がついたらゆっこの借金は5万円にも膨らんでいました。すぐに給料だけでは足りなくなって、消費者金融に行ってお金を借りるようになります。平気で嘘をつくとか、ドタキャンが多いとか言われ、気がつくとみんなから無視されるようになっていました。


佐藤さんは、お金を返すために夜のバイトを始めます。収入は増えたけど、眠る時間がなくなり、朝起きられなくて、ドンドン遅刻が増えました。ますます社内で気まずくなり、無断欠勤が増え、会社へは行けなくなりました。会社の配慮で都合退職にして貰い、失業保険はもらえることになりました。スナックで働きつつ、ローン会社に借金を返し続けました。水商売は楽だったが、お客の誘いを断れなくて、イヤとは言えない。イヤなんだけど、好きと言われるとうれしかった。そして「あんたみたいにだらしない子は困るのよ」とママに言われてその店もクビになります。


明け方4時過ぎにはさすがにレンタルビデオ店は、お客がいません。学生アルバイトの森くんは「真面目ですねえ、佐藤さん」と声をかけてきます。さらに突然「あなた、アダルト・チルドレンでしょう?」と言う。「僕ね、大学で心理学勉強してるんです」と自慢げに言います。「アダルト・チルドレンって、どういうことですか?」と聞くと、森くんは「大人になっても傷ついた子供の心を抱えて生きている人の事ですよ。幼児期に受けた心的外傷、つまりトラウマによって、生きがたさを感じている」と言う。


部屋に戻ると、佐藤さんの万年床に母が寝ていました。口元が切れて血が滲んでいました。また父に殴られたようです。父は長いこと鉄工所に勤めていたが、バブルがはじけて失職し、定職もなく日雇いで食いつないでいます。起きた母は「悪いんだけど、お金、ある?」と言う。財布を確認すると2万円しかない。しかたなく、2万円を母に渡しました。あ、そうだ、カメノスケにエサをあげるの忘れていたと気がつきます。商店街の熱帯魚ショップが閉店するときに安く買ったもの。「カメはいいですよ、鳴かないし、臭くないし、世話が簡単、キャベツだけで30年は生きますよ」と、店員は言った。


階下から大家さんの怒った声がします。昨日の昼間、変な男がウロウロしていたとか、若いうちから乱れた生活をしているとロクなことないよ、とか言われました。森くんは、「佐藤さん、なにか困っているんですか?」と言うが、佐藤さんはさすがにお金を貸してとは言えません。「僕は将来、臨床心理士になりたいんです。真理カウンセラーですね。人間の心の病を治療する仕事です」と、まるでえらいお医者さんのように自信たっぷりに彼は言います。「だいじょうぶなんです。あたしには、救いがありますから・・・」。「佐藤さんにとっての救いとは何ですか?」と聞く森くん。「マ、マリア様です。あたしにはマリア様がついています」と、佐藤さんは答えます。


ほら、長崎に原爆が落ちたでしょう。長崎にはキリスト教の信者の人たちが30年もかけて作った礼拝堂があったそうです。その礼拝堂が原爆によって吹き飛ばされたんです。礼拝堂にはマリア像がありました。マリア様の上に原爆が落ちたのです。あたしは被爆したマリア様の写真を見たんです。体は吹き飛び粉々に砕けたけれど、奇跡的に頭だけが残りました。美しい顔は真っ黒く焼け焦げ、目は空洞で悲しげでした。この受難のマリア様を被爆のマリアと呼ぶのだそうです。あたしは一目見て、被爆のマリア様を忘れられなくなりました。


昔の作業服を着た父がカウンターの中に入ってきて、レジから2万円を持って店から出て行きます。森くんは警察に通報します。警官がやってきて被害届が出されます。父はあっけなく逮捕され、留置場に入れられます。店長は佐藤さんに同情して、告訴しなかった。「店長のお母さんが寝たきりになって、介護が大変」とか、「どうやら奥さん、介護がイヤで家でしたらしい」とか、森くんは言います。店長は寝たきりの婆さんと二人で住んでいる、とか。アパートへ戻ると、部屋は父の爆撃を受けていました。カメノスケのダンボールを広げてみると、中にカメノスケがいました。生きていました。


ある日、ゆっこから電話がかかってきました。「あなたからお金借りていたでしょう。それを返したいの」と。「お金返すからわたしの部屋に遊びに来て」とゆっこ言う。殺風景な部屋に沢山の人がいた。「わたしの同志たち。みんな仲間よ」と、勝ち誇ったように言う。皆が頷いた。ビデオ上映会があるという。「ほんとに仕事があるので」と言って、ようやく帰してもらえた。森くんは「主教ですよ。佐藤さん、やられますよ、カモにされますよ」と言った。部屋に戻るとまた鍵が開いていた。


布団に母が寝ていた。カメノスケの声がした。「死んでるぞう」。枕元に座り、頬に触れてみた。ぞっとするほど冷たかった。急性心不全、死亡診断書にはそう書かれ、密葬の後、遺体は火葬場に送られてガスで焼かれた。焼却炉から出てきた母の骸骨は、被爆のマリアを思わせた。三日ほど休みをとり、久し振りに店に出ると、店長が「森は辞めた」と言った。あいつは変態だ。履歴も全部詐称。高卒のストーカーだ。訴えられて、いま警察にいる。森くんは悪い人ではなかった。あたしにはいい人だったのにと、佐藤さんは思います。


閉店時間前なのに、店長はシャッターを閉め始めた。「一緒にどこかへ行かないか?」とレジのお金を抜き取った。「一緒に行こう。おまえだってやり直したいだろう。人生リセットだ」。過去を捨てて、知らない土地へ行く」と店長は言う。ふと、被爆のマリア様の顔が浮かんだ。「長崎とか・・・」。カメノスケを取りに部屋まで戻り、待ち合わせた公園に行くと、店長はいなかった。カメノスケが「ハハヲタノム」と言った。そば屋の横の路地を入っていくと、小さな一軒家があった。狭い四畳半におばあさんが寝ていた。「店長から頼まれてきました」、佐藤さんは骨に皮が張り付いているだけの手を握った。「だいじょうぶです。朝まで少し眠りましょう」、さすがに佐藤さんも疲れて、添い寝するように横になった。


「マリア様、今日もなんとか生きました。もう寝ます。明日もまた、生きて目が覚めますように」。


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原爆で空洞化した目の

「被爆マリア像」

長崎・浦上天主堂










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損保ジャパン東郷青児美術館で「〈遊ぶ〉シュルレアリスム」展を観た!

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損保ジャパン東郷青児美術館で「〈遊ぶ〉シュルレアリスム―不思議な出会いが人生を変える―」展を観てきました。展覧会のタイトルにも〈遊ぶ〉が入っており、夏休み中なので子どもに向けて優しく、楽しい展覧会にしてありました。「シュルレアリスム」というと、作品そのものはウィットやユーモアに富んだものも数多いのですが、その内容は意外に難解であり、敬遠されがちなところがあります。


実は、酒井健の「シュルレアリスム 終わりなき革命」(中公新書:2011年1月25日発行)を発売と同時に購入し、読み始めたのですが、Ⅰ章Ⅱ章まで読み終わったところで挫折し、Ⅲ章Ⅳ章は未読のままでした。それではならじと、現在少しずつ読み進めていますが・・・。酒井健はバタイユの専門家らしく、シュルレアリスムとバタイユを絡められるとわけが分からなくなり、挫折したわけです。日付からいうと、国立新美術館で開催された「シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―」の副読本のようなものだったようです。


今回の「〈遊ぶ〉シュルレアリスム―不思議な出会いが人生を変える―」展、展示されている作品のほとんどが、日本各地の美術館の所蔵作品でした。以前からうすうすは気付いてはいたのですが、各地の美術館の所蔵作品展を観ると、そこには必ず何点かはシュルレアリスムに分類される作品が所蔵されていたりします。例えば姫路市立美術館には、デルヴォーやマグリットなどベルギーを中心とするコレクションが充実しています。徳島県立近代美術館からは、今回、ブルトンの」雑誌類をはじめ、ヂュシャンやダリの作品が出されていました。マン・レイの写真は、福岡市美術館の所蔵作品が目に付きました。


今回、シュルレアリスム理解のために「ジュニア版ブックレット」を購入しました。これがなかなかの優れもので、もちろん子ども向けなので、シュルレアリスムについてたいへん分かり易く解説しています。その中から一部を下に載せておきます。


シュルレアリスムって何?

シュルレアリスムとは、第一次世界大戦後にフランスのパリで始まり、やがて世界中に広まった20世紀最大の芸術運動のことです。この運動に参加した詩人や画家などの芸術家のことをシュルレアリストといいます。


合理主義に反対したシュルレアリスム

理屈を重んじ、物事の道理に従って考え行動することを合理主義といいます。20世紀の初めに科学や技術が発達し、機械による生産で生活が豊かになった背景には、合理主義があります。しかし、この機械文明が生んだ新しい平気によって多くの人が亡くなった第一次世界大戦をきっかけに、粋すぎた合理主義に疑問をいだく運動が起こりました。その運動の一つがシュルレアリスムです。


生き方の革命

シュルレアリストたちは理屈では割り切れない物、普段は意識していなくても心の奥深くにある物など、これまであまり重んじられなかった物に目を向け、新しい生き方を探りました。シュルレアリスムの運動は新しい芸術運動である前に、生き方の革命でした。


シュルレアリスムの〈遊び〉の世界

・シュルレアリストたちは、〈遊び〉という活動を通じて、自由な人生を送ろうとしたこと。
・トランプやビリヤード、チェスなどのゲームを楽しみ、ゲームをテーマにした作品を制作した。

・数人で出し合ったバラバラの言葉や図を集め、自然にできあがる一つの詩や恵の面白さを引き出した。


不思議は美しい!

「不思議は美しい、どのような不思議も美しい・・・」(ブルトン著「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」より)

意識しないで描く!~オートマティスム~

・自動デッサン

・フロッタージュ(こすり絵)

・デカルコマニー(うつし絵)

不思議な出会い!~デペイズマン~

・コラージュ(はり絵)

・オブジェ(物)

不思議な人体を風景


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展覧会の構成は、以下の通りです。


第1室 友人たちとの集い

第2室 オブジェと言葉の遊び

第3室 コラージュと偶然の出会い

第4室 写真の超現実

第5室 人体とメタモルフォーズ

第6室 不思議な風景

第7質 驚異と自然のコレクション



第1室 友人たちとの集い



第2室 オブジェと言葉の遊び



第3室 コラージュと偶然の出会い


第4室 写真の超現実


第5室 人体とメタモルフォーズ



第6室 不思議な風景



第7質 驚異と自然のコレクション




〈遊ぶ〉シュルレアリスム―不思議な出会いが人生を変える―

シュルレアリスムとは、第一次世界大戦後のフランスに始まり、やがて国際的に広まっていった20世紀最大の芸術運動です。夢や無意識、非合理の世界に目を向けることで、現実の新しい見方や生き方を探り、伝統の枠から自由な芸術表現をめざしました。そのためにシュルレアリストたちは、偶然のもたらす驚異や、たがいに無関係なイメージの結びつきによる意外性などに「不思議の美」を見いだし、「遊び」にも似た手作業を通じて、斬新な作品をつくりつづけました。またオブジェ、コラージュ、フロッタージュなどの新しい身近な方法によっても、伝統や慣習にしばられない「遊び」の精神と、人生のあるべき姿を具体化しました。本展覧会では、そうしたシュルレアリスムの軽やかでユニークな「遊び」の諸相に焦点をあてます。国内外のコレクションから、多彩な作家の絵画、写真、彫刻、オブジェのほか、雑誌・書籍などの資料をふくむ約200点を一堂に展示し、不思議な出会いにみちたシュルレアリスムの魅力に迫ります。


「損保ジャパン東郷青児美術館」ホームページ

とんとん・にっき-syu2〈遊ぶ〉シュルレアリスム
―不思議な出会いが人生を変える―
ジュニア版ブックレット
執筆:江川均(損保ジャパン東郷青児美術館)

編集:小林昌子(損保ジャパン東郷青児美術館)

イラスト:中島啓子(損保ジャパン東郷青児美術館)
発行:損保ジャパン東郷青児美術館
制作:求龍堂
発行日:2013年7月9日



過去の関連記事:
国立新美術館で「シュルレアリスム展」を観た!




武澤秀一の「伊勢神宮と天皇の謎」を読んだ!

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最初から脱線ですが、先日「東京鉄道遺産めぐり」で御茶ノ水から両国へ歩く途中、秋葉原で1時間の昼食タイムがあり、ちょうど昼食時でもあり、20数名全員が同じ店に入ることは不可能なので、適当にバラバラになり、昼食をとることになりました。サイゼリアへ行こうと言い出した人に連れられて10人がエレベーターに乗り、たまたま中年組6人が、実はお酒飲み組でしたが、同じテーブルに着きました。生ビールを飲み、デカンタワインを飲み、そうとうに酔いが回ってきたところ、対角線上にいたカメラマンのIさんが、最近読んだ本として出雲大社の話とか、邪馬台国の話をし出しました。岩波新書の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」という本のことでした。


Iさんと同じ時期に、僕もその本を読んでいました。僕は本の題名を忘れていて、Iさんは著者名を覚えていなくて、席が遠いこともあり、話がやや噛み合いませんでした。ブログに読んだ本のことを書いても、ほとんどは天に唾するようなもの、ほとんど反応がないのですが、同じ本を読んでいたことを知っただけでも嬉しくなりました。たまたま僕が竹内まりあの実家は出雲大社の参道の旅館だという話を出すと、みんなは島根県出身ということは知っていても、出社の前の旅館の娘だということは知らなかったようです。そして竹内まりあの名曲「駅」の駅は、最近廃止された東横線の渋谷駅だったことを僕が話すと、東横線が地下化されたこともあり、まあ皆さん酔いも回っていたこともあるのでしょうが、感心することしきりでした。


と、まあ、それとは関係なく、武澤秀一の「伊勢神宮と天皇の謎」(文春文庫:2013年3月20日第1刷発行)を読みました。この本を読んだのは、武澤秀一という名前が聞き覚えがあったこと、「式年遷宮1300年、その神話と精粋を解き明かす」と、センセーショナルなタイトルだったことに拠ります。武澤の前著、「伊勢神宮の謎を解く―アマテラスと天皇の『発明』」(ちくま新書:2011年3月10日第1刷発行)も、勢いで購入してしまいました。


武澤秀一とはどんな人か? 武澤は僕と同年代、たしか「用強美・建築都市設計」という事務所だったと思います。建築関連の重要な本の翻訳も行っています。最近は設計よりも、執筆活動に忙しいようです。略歴には以下のようにあります。


著述家・一級建築士/博士(東京大学9。1947年、群馬県前橋市生まれ。東大工学部・同大学院を経て東大助手を務めた後、建築設計事務所を主宰。東大、法政大学、武蔵野美術大学、放送大学で非常勤講師を歴任。建築が政治史・宗教史・文化史を牽引し、また舞台ともなってきたことに注目して歴史と世界観の見直しをおこなっている。著書に「法隆寺の謎を解く」「伊勢神宮の謎を解く」(以上、ちくま新書)、「神社霊場ルーツをめぐる」(光文社新書)、「マンダラの謎を解く」(講談社現代新書)、「空海 塔のコスモロジー」(春秋社)などがある。


「伊勢神宮と天皇の謎」として、その内容が本のカバーに書かれていました。

2013年はお伊勢さまで62回目の「式年遷宮」が挙行される。690年に始まる歴史をつぶさに見ると、女帝の執念や120余年の中断期、社殿の変化、神仏習合の波、近代国家建設の影響、万世一系の思惑など、様々な変転が見てとれる。歴史に通暁した建築家が描き出す、真の伊勢神宮の姿とは?


目次

はじめに

序 伊勢神宮は古代のままか

  その名は「神宮」 神宮は霊廟か 樹林は太古の昔から?

  現代の伊勢神宮「神話」 「寸分の違いなく」は、ほんとうか?

Ⅰ 式年遷宮から何が見えるか

  伊勢神宮だけではなかった 「十九年に一度」から「二十年に一度」へ

  〈常若〉〈中今〉 「歴代」遷宮の終息

Ⅱ 反目していた内宮と外宮

  二つの大神宮 神仏習合の波 アマテラスは大日如来 

  物議をかもした皇字論争 瑞垣内で流血が・・・

Ⅲ 伊勢神宮の今と昔

  明治の大転換 排除されたリアルな「復古」 不都合な茅葺き

  千木に舞い降りた「ピタゴラス」 外宮「わが闘争」の成果

Ⅳ 天皇の伊勢神宮

  女帝の執念 アマテラスと化す持統 文武の即位宣命と明治維新

  「万世一系」理念の標榜 偶然か意図的か 明治天皇の意志

むすび―歴史の「目盛」、あるいは「窓」

引用・参考文献

あとがき


僕が驚いたのは、最終章の「天皇の伊勢神宮」の項でした。明治は、王政復古からはじまり、祭政一致の布告、版籍奉還への流れのなかに始まります。当時15歳の明治天皇が下した王政復古の沙汰書には、明治維新は神武創業になぞらえたという。人民告諭には「天子様は天照皇太神宮様の御子孫様にて・・・」とあり、神武に代えてアマテラスが登場します。また「万世一系」は大日本帝国憲法第一条に掲げられているが、明治二年の岩倉具視の意見書が初出だという。


そうした動きの中で、明治天皇の伊勢神宮参拝がありました。なんと明治憲法が発布されたのは、明治に入って二度目の式年遷宮の年である明治22年であった。これは偶然の一致か、あるいは周到に仕組まれたのか?式年遷宮の年に憲法を発布するという大方針がまずあり、次いで、催行日は神武即位の日、つまり紀元節と決まった。それが明治22年2月11日であった。式年遷宮は20年に一度の、神宮にとって最大の祭。憲法の発布は立県国家の出発を祝う最大のイベント。武澤は、内容と儀礼の見事なまでの一致、だと言います。


「引用・参考文献」を見ただけでも、よくぞここまで細かいところまで調べ上げたものだと感心します。実は、井上章一の「伊勢神宮と日本美」(講談社学術文庫:2013年4月10日第1刷発行)が出てすぐに購入してあったのですが、あまりにも分厚いので、読むのを後回しにしてありました。武澤の「引用・参考文献」を見ると井上章一の「伊勢神宮 魅惑の日本建築」(講談社:2009年)が載っていました。あれっと思いよく見てみると、文庫化にあたり題名が「伊勢神宮と日本美」に変えられていただけで、内容は以前読んだ「伊勢神宮 魅惑の日本建築」が原本だったことが分かりました。


とんとん・にっき-ise3 「伊勢神宮と日本美」

講談社学術文庫

2013年4月10日第1刷発行

著者:井上章一

発行所:株式会社講談社









過去の関連記事:

井上章一の「伊勢神宮」を読んだ!
日本橋高島屋で「伊勢神宮に捧ぐ 近・現代の美」展を観た!

泉屋博古館分館で「テーマにみる近代日本画―その豊かな世界―」を観た!

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泉屋博古館分館で「テーマにみる近代日本画―その豊かな世界―」を観てきました。上田耕甫「蘆辺群鶴」、深田直城「海辺群鶴」、望月玉渓「梅に鴛鴦」、山口玲凞「冠鶴」の諸作は、初公開となる作品、とあります。どれだけ所蔵品があるのか、驚き隠せません。今回は、大向こうを唸らせる、これぞといった目玉作品はありませんが、出されているものすべてが「優品」ぞろいです。小林古径の「人形」、原田西湖の「乾坤再明」、東山魁夷の「スオミ」などは、今までに観たことがありますが、その他の作品は初めて観るものばかりでした。


ここに画像はないのですが、第一室に出されている故事山水(故事人物)・道釈人物画・歴史画の4点は、見事なものばかりでした。特に最初に出てくる村田香谷の「青緑西園雅集図」は、さすがは関西南画の重鎮だけあって、素晴らしい作品でした。画像は下を」クリックすると観られます。

http://www.sen-oku.or.jp/collection/col06/002.html


上島鳳山の「十二月美人」、12点揃って並べられると、圧倒されます。円山派系の美人画家ですが、花鳥・道釈人物・能などの画題や仏画も手がけたという。狩野芳崖の「寿老人」、何度か観たことがありますが、太い筆で描かれたダイナミックな絵でした。狩野派の古法に縛られることを潔しとせず、法外に出る意味で芳崖と号したという。唯一の屏風、望月玉渓の「白令毛孔雀」、典型的な花鳥画、孔雀図です。望月派の画風に四条派と岸派とを折衷した先代に軽妙洒脱な写実を加味し、蘆雁図を得意としたという。「令毛」の文字がパソコンで出ません。


平福百穂の「堅田の一休」、ほとんど墨の濃淡だけの作品です。写生的な自然な描写を得意とするだけあって、静粛のの中に敬虔な気持ちにさせる、見事の作品です。他に「夏景山水」という作品も出ていました。目玉はというと、やはり小林古径の「人形」でしょうか。墨の濃淡だけで人形のドレスを表現しています。モデルの仏蘭西人形も展示してありましたが、モデルの方がややスリムでした。


展覧会の構成は、以下の通りです。


故事山水(故事人物)・道釈人物画・歴史画

美人画・道釈人物画

故事人物画・道釈人物画・歴史画

花鳥画・静物画

山水画・風景画

花鳥画



美人画・道釈人物画





故事人物画・道釈人物画・歴史画




花鳥画・静物画




山水画・風景画




「テーマにみる近代日本画―その豊かな世界―」

日本画は「絵画」の一ジャンルですが、「絵」には、「五彩を会(あつ)めたる繍(ぬひとり)なり」の意味があり、五色の刺繍による絵模様をいいます。一方、「画」は、「方形の盾に彫飾あるいは彩飾を施す」ことを意味しています。共通することは、平面上に色彩、線描などによって何らかの視覚的な形象を表現することになりますが、中国においては、墨という優れた表現材質が生み出され、墨の濃淡、筆猫のかすれによるモノトーンの特有の水墨画が生まれ、日本に伝搬しました。近代日本画は画題、素材、表具、表現方法によって多くの区分が行われますが、今展では、所蔵品によってその多彩な絵画世界の一端をご覧いただきたいと思います。展示作品は、大きく分けますと水墨画と着彩画に区分され、画題からは、人物画(道釈人物画・美人画)、花鳥画(翎毛画・静物画)、山水画(風景画)、故実画に細分されます。水墨画と着彩画、山水画と風景画、花鳥画と静物画という対比を行うなど、柔軟な視点からの展示を試み、そこから新たな絵画の見方が見出されればと思います。なお、今回展示する上田耕甫「蘆辺群鶴」、深田直城「海辺群鶴」、望月玉渓「梅に鴛鴦」、山口玲凞「冠鶴」の諸作は、初公開となる作品であり、また、小林古径「人形」のモデルとなった仏蘭西の古人形を展示します。


「泉屋博古館分館」ホームページ


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山種美術館で「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」を観た!

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山種美術館で「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」を観てきました。山種美術館は、以前は千代田区三番町にありましたが、渋谷区広尾に建設された新美術館に移転しました。それが現在の山種美術館で、2009年10月のことです。その記念すべき第一回目の展覧会が、「速水御舟展」でした。その時アップした記事を見直してみると、御舟に関してはそのまま通用するといっても言い過ぎではありません。もちろん今回は御舟だけでなく、再興院展100年記念「日本美術院の精鋭たち」として、院展の画家たちも数多く取り上げられています。


速水御舟に関しては、以下にあります。

山種美術館で「速水御舟―日本画への挑戦―」展を観た!

また、美術院の画家については、以下にあります。

山種美術館で「日本美術院の画家たち―横山大観から平山郁夫まで」展を観た!

いま、思い出しました。2009年11月に栃木県立美術館で「再興院展」を観ていました。
栃木県立美術館で「大正期、再興院展の輝き」を観た!

明治以降の日本美術を語るとき、知っておかなければならないこと。

岡倉天心の発案で、東京美術学校を卒業した横山大観、菱田春草、たちが帝国博物館の模写事業に参加。1898(明治31)年日本美術院を創立、主幹・橋本雅邦、評議員長・岡倉天心、正員・横山大観、下村観山、菱田春草らが参加。大観や春草が試みた描法が「朦朧体」と呼ばれたこと。岡倉天心がボストン美術館所蔵の日本美術コレクションの調査と目録作成のために渡米。大観と春草は天心に随行し、ニューヨークやボストンで作品展を開催、それが意外にも好評を得ます。日本美術院は財政難のため?五浦に移転。


1914(大正3)年、再興日本美術院が開院、発起人は横山大観、下村観山、安田靫彦、今村紫紅ら。再興第1回展が開催されます。速水御舟は院友に推挙されます。今村紫紅を中心に赤曜会結成。速水御舟、小茂田青樹、富取風堂、小山大月らが参加。1923(大正12)9月1日、再興第10回院展初日、関東大震災が起きます。1930(昭和5)年、イタリア政府主催・大倉喜七郎男爵後援「ローマ日本美術展覧会」がローマで開催されます。横山大観夫妻、速水御舟たちが美術特使として渡欧。2013(平成25)年9月、日本美術院再興第98回展覧会が開催される(予定)。


今回の「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」の見どころは、大きく二つ。一つは、再興院展画家の作品が60点あまり、観ることができます。そしてもう一つは、速水御舟の作品約30点を観ることができます。また、御舟の傑作、重要文化財「炎舞」が1年半ぶりに展示されます。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 再興日本美術院の誕生

第2章 速水御舟と再興院展の精鋭たち

第3章 山種美術館と院展の画家たち



第1章 再興日本美術院の誕生




第2章 速水御舟と再興院展の精鋭たち













第3章 山種美術館と院展の画家たち


「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」

山種美術館では、近代・現代の日本画を中心に、とりわけ日本美術院(院展)の画家たちの作品を数多く所蔵しています。2014年に院展が再興100年を迎えることを記念し、当館に縁の深い院展画家たち、そしてコレクションの中でも最も重要な院展画家の一人・速水御舟(1894~1935)に焦点をあてた展覧会を開催します。院展は岡倉天心の精神を引き継いだ横山大観らを中心に1914(大正3)年に再興されました。当時の日本画家たちは押し寄せる西洋画に相並ぶ、清時代の日本画を探求し、再興院展は官展とともに中心的な役割を果たしていました。そのなかでも御舟は第一回目から再興院展に出品し、常に新しい日本画に挑み続けた画家です。御舟の約40年という短い人生における画業は、新たな画風を築いては壊す連続であり、そうした作画活動は、型に捉われない作品を描き続けた、画家の意欲の表れでしょう。本展では、当館の誇る御舟コレクションから、「翠苔緑芝」(再興院展出品作)や「炎舞」(重要文化財)をはじめとする御舟の代表作をご紹介します。くわえて御舟と関係の深い院展画家たちの作品とともにご覧いただきます。本展を通じ大正期から日本画壇の中心であり続ける再興院展の芸術の神髄に迫ります。


「山種美術館」ホームページ


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山崎妙子の講演会「速水御舟と院展の画家たち」を聞いた!

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「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」展

関連講演会「速水御舟と院展の画家たち」
講師:山崎妙子(山種美術館館長)

日時:2013年8月10日(土)17:00~18:30

会場:國學院大學 院友会館


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以下、山崎妙子、講演要旨


今回の展覧会は「速水御舟」展ではなく、「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」展です。山種美術館の日本美術の所蔵品は約1800点、そのうち奥村土牛が135点、速水御舟が120点、所蔵しています。川合玉堂は70点、横山大観の作品は61点、所蔵しています。横山大観の「心神」は、美術館を作るなら、という条件で購入を許されました。「山崎さん、お金儲けもいいけど・・・」と、大観に言われたという。小林古径の代表作「清姫」もやはり、将来美術館を作るのならと、譲り受けました。


「山種美術館」の書は、安田靫彦が美術館竣工記念展のために書いていただいたものです。他にも何人かの画家に描いてもらっていますが、それらは第2展示室に展示しています。私の父、山崎富治も画家との交友が深い。富治が感じとなって、横山操、加山又造、平山郁夫という当時有望な画家と、年に数回「四方山会」という懇親会を開催しました。富治も含めて4人の名前に「山」が付くことから名付けられました。4人で新潟へ花火を見に行ったこともありました。


岡倉天心は、画家ではなく、思想的なリーダーでした。横山大観、下村観山、菱田春草は、院展の第一世代でした。小林古径や安田靫彦は第二世代、速水御舟は第三世代になります。「日本には素晴らしい古美術がある」という天心からの教えに従い、東京美術学校を卒業した横山大観、菱田春草たちは、帝国博物館の模写事業に参画します。大観は「孔雀明王」を1895(明治28)年に模写します。


自分(山崎妙子)としては、それまで大観は好きではなかった。この模写を観たときに、あまりにも素晴らしかったので好きになりました。牧谿(もっけい)の「観音猿鶴図」(大徳寺)の影響が強いことは明らかですが。観山もラファエロとかミレイの西洋画を模写しています。春草も「一字金輪像」(東京国立博物館)を模写しています。春草は色を出すのが上手い画家です。春草の「釣帰」1901(明治34)年は、最も朦朧体の特徴が出ています。


横山大観は、次のように言ってます。

私や菱田君が岡倉先生の考えに従って絵画制作の手法上に一つの新しい変化を求め、空刷毛(からばけ)を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢えてしたことが、当時の鑑賞界に容れられず、所謂朦朧派として罵倒を受けるに至ったもので、此特殊な形容詞は当時の新聞社諸君の命名したものであった。(横川毅一郎「大観自叙伝」中央美術社 大正15年)


それまで日本画は空気を描くということがなかった。いわゆる朦朧派として罵倒を受けます。朦朧体には一種ターナーの空気感があります。当時としては革新的でした。春草の「月下牧童」の頃になると、多少輪郭線が戻ってきています。大観の「菜の花歌意」は最も朦朧体です。観山の「不動明王」、人体表現が素晴らしい。天心がアメリカへ行きます。ボストン美術館所蔵の日本美術コレクションの調査と目録作成のためです。大観や春草も共に行きます。ニューヨークやボストンで展覧会を開きます。絵を売っています。アメリカでも見直されるようになった。その後、五浦に移ります。大正2年に岡倉天心は亡くなりましたが、大正3年に再興院展が開催されます。


大観の「喜撰山」1919(大正8)年、群青とか緑青をたくさん使っています。全体に青と緑ですが、金を刷り込んだ紙を使っています。大観の「木菟」1926(大正15)年も出ています。御舟は昭和5年、35歳の時にヨーロッパへ行きます。イタリア政府が主催した「ローマ日本美術展覧会」が開催されたことにあわせて、御舟は単身で渡欧します。その後10ヶ月間ヨーロッパ各国を歴訪し、建築や美術を観て回ります。20年前に御舟の奥様にお会いできました。ヨーロッパを回った時の写真や手紙を見せていただきました。御舟は家では絵は描かず、サラリーマンのように通っていました。子供を可愛がりました。奥様や娘さんが資料を整理してあったので、当館でも展示させていただきました。


奥様の話では、御舟はエル・グレコを観たいと言っていた。たくさんグレコの写真を持ち帰っています。御舟は人物画はほとんど描いていません。今村紫紅の「早春」1916(大正5)年が出ています。田園風景を大胆な構図と落ち着いた色彩で描いています。早くに亡くなったので、ヨーロッパへは行っていない。古径や青邨はヨーロッパへ行ったことで日本的に、細かい輪郭線を描くようになります。御舟はヨーロッパへ行ったことで、逆に洋風になります。みんな画塾で学んだ人たちで、人体デッサンはやったことがなかった。白樺派の雑誌などから西洋の影響を受けながら、風景をトリミングして描きました。「新南画」と言われ、狩野派のようではなく、情緒的な風景画を描きました。


御舟の「錦木」1913(大正2)年の作品、琳派的なものを意識して、白いところだけ胡粉を使い、こだわって描いた。「山科秋」1917(大正6)年は、新南画風ですが、色にこだわって描いています。小茂田青樹「丘に沿える道」1920(大正9)年、明治以降、厚塗りのように見えますが、山水画から風景画になっています。小茂田は御舟とは仲が良かった。今村紫紅を中心に「赤曜会」が結成されます。速水御舟、小茂田青樹、富取風堂、小山大月らが参加しました。


今村紫紅は、以下のように述べています。

日本画なんてこんなに固まってしまったんでは仕方がありあしない。兎に角派カウするんだな。出来上がってしまったものは、どうしても一度打ち壊さなくちゃ駄目だ。そすと誰かが又建設するだろう。僕は壊すから、君達建設してくれ給え。(神崎憲一「塔影」11巻5号 昭和10年)



御舟の「桃花」1923(大正12)年、長女の初節句のために描かれたものです。長女は、聖心女子大学の母体であるカトリック聖心会の東洋管区長であられた「シスター速水彌生」さんです。皇后様が当館へ来たときに、この絵を熱心にご覧になっていました。御舟は舞妓さんの絵も描いていました。奥様に帰ってくるまでに破いておくように、と言いつけて出かけたら、奥様は細かく切り刻んでしまったという。舞妓を描くのであれば御舟を辞めさせてしまえと大観は怒ったという。古径はそれならば自分の辞めると言って、御舟は助かりました。それほど御舟と古径は仲が良かった。


目黒の家で2時間も3時間も絵の話をしていて、奥様はなんの話をしているのだろうと、不思議に思ったという。御舟はデューラーなど、北方ルネサンスを意識していました。御舟の絵としては珍しい「灰燼」1923(大正12)年は、関東大震災の様子が描かれています。人はまったくいません。手前の瓦礫はキュビスムでしょう。「春昼」1924(大正13)年、茅葺きの民家を描いたもので、人はまったくいない静かな絵です。家の中に梯子が見えます。「百舌巣」1925(大正14)年、羽に金泥を使っている可愛らしい作品。12世紀の猿を描いた絵から学んでいます。


「炎舞」1925(大正14)年教科書や切手でよく知られています。奥様から聞いた話では、これは軽井沢に滞在しているときに描いた。御舟は毎晩焚き火をしてその炎をじっと眺めていたという。平安(鎌倉?)時代の「不動明王二童子像(青不動)」から炎を学んでいます。意図的にすべての蛾が正面を向いて、螺旋形に上に昇っています。バックの闇は非常に深い紫です。御舟はもう一度描けと言われても、もう描けないと言ったという。御舟は「昆虫写生図巻」1925(大正14)年を描いています。「昆虫二題 葉陰魔手・粧蛾舞戯」1926(大正15)もあります。


山種美術館45周年の時に一般の人にアンケートをとったら、1位が「斑猫」、2位が「炎舞」でした。専門家になると逆転し、1位が「炎舞」、「斑猫」は3位でした。


速水御舟の言葉。

梯子の頂上に登る勇気は貴い、サラにそこから降りてきて、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。大抵は一度登ればそれで安心してしまう。そこで腰を据えてしまう者が多い。登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把握者である。(「美術評論」4巻3号 昭和10年)


御舟は今までのスタイルを捨てて、一からやり直します。これは勇気のあることです。スタイルが決まってしまうと、画商がいたりして、そこから抜け出ることができなくなってしまいます。御舟は奥様に「これからは売れない絵を描くから、覚悟しておけ」と言ったという。家族が住んでいたのでは描きたい絵が描けないので、最初は小笠原に住まいを移すと思ったが、家族がもう少し近いところにと言ったので、西伊豆に決めて切符まで買ったが、急に亡くなってしまいます。


「翠苔緑芝」1928(昭和3)年、シスター速水彌生さんが言うには、彌生さんの結婚式の時に屏風として使いたいと言っていたが、彌生さんは一生独身でした。紫陽花の感じを出すのに、いろいろな薬を取り寄せていたと、奥様は言いました。「紅梅・白梅」1929(昭和4)年、当時は今ほど琳派は知られていなかった。大観も御舟も、琳派風の絵を描くようになります。私は御舟には他の画家にはない怖いものがあると感じて、御舟の研究をするようになりました。「豆花」1931(昭和6)年、森村泰昌さんが当館に来たときに、アール・ヌーボーの感じがすると言っていました。紫の色が綺麗です。


今回の展覧会で最初に出したのは「牡丹花(墨牡丹)」1934(昭和9)年です。逆転の発想です。花を敢えて墨にして、葉に色をつけています。花の部分だけ、滲ませています。御舟のコレクターに武智鉄二さんがいます。今回は出ていませんが、「秋茄子」が素晴らしいと絶賛しています。後年、絵が早く出来過ぎて困る、と御舟は言っていました。最晩年の作品に、未完の絶筆「盆栽梅」1935年があります。構想の過程がうかがえるスケッチや原稿類があります。


戦後の院展出品作

前田青邨の「大物浦」1968(昭和43)年は大きな作品で、琳派的なものを意識しています。青邨は「腑分」1970(昭和45)年もあります。小倉遊亀の「舞う(舞妓)」、「舞う(芸者)」1971、72(昭和46、47)年、床の間に飾る作品ではなく、展覧会の会場で映えるように、次第に作品が大きくなっていきます。日本画が変わっているのが、院展を観ただけでも分かります。


次回は「古径・土牛」です。来年1月3日からは「かわいい日本画」展、副題は「若冲、栖鳳、松園から熊谷守一まで」です。来年は50周年、「速水御舟展」を企画しています。出品作家の生没年一覧を見ただけでも、早死にした人と、長生きした人が分かります。日本絵の具は天然のミネラルが入っているので、それが良かったのか?長生きした方が作品も多く残っています。皆さまも長生きするように願っています。



池上英洋の「神のごときミケランジェロ」を読んだ!

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ミケランジェロに関する纏まった本を読んだのは、羽仁五郎の岩波新書の「ミケルアンヂェ口」でした。最初に「ミケルアンヂェ口は、いま、生きている。うたがうひとは、"ダヴィデ"を見よ」と書かれていました。かなり力の入った本なので、その頃は僕にはこの本はやや難しく、何度も挫折しながら読み進みました。当時、羽仁五郎の「都市のの論理」は超ベストセラーで、こちらの方は比較的やさしく書かれていて、読みやすかったのを覚えています。


そして丹下健三の「ミケランジェロ論」です。先日、以下のように書きました。

「MICHELANGELO頌」は「日本建築宣言文集」(彰国社:昭和48年11月10日第1刷発行)に入っていたので読みました。・・・対談に出てくる丹下の「イタリア紀行」、ローマのカンピドリオ広場、パラッツオ・ファルネーゼ、パンテオンは観に行きましたが、フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館は修理中では入れませんでした。丹下も実際に見ていたかどうか、磯崎は留保しています。

芸術新潮で「磯崎新が読み解く知られざる丹下健三」を読んだ!


すぐ近くまで行って、見られなかったもの。まあ、今までいろいろとトンチンカンなことをしてきましたが、ミケランジェロに関しても幾つかあります。上に書いたフィレンツェにあるラウレンツィアーナ図書館に入れなかったこと。その前にサン・ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂のミケランジェロが設計した「新聖具室」は見たのですが、すぐ隣にあるブルネッレスキの「旧聖具室」と、ミケランジェロのラウレンツィアーナ図書館を見逃していたので、次にフィレンツェへ行った時に見に行きました。「旧聖具室」は見られたのですが、ラウレンツィアーナ図書館が修理中だった、というわけです。


そうそう、ミケランジェロの傑作中の傑作、ダヴィデ像、ヴェッキオ宮殿の前にあるのは見たのですが、今あるのは忠実なレプリカで、本物はアカデミア美術館にあり、そちらは見ていません。すぐ近くまで行っていたのですが・・・。もう一つ、ミラノには3回行ってますが、スフォルツァの城にある「ロンダニーニのピエタ」、一度は見逃し、二度目も見逃し、三度目に壁一つそばまで行ったのですが、なぜか引き返して来ちゃいました。返す返すも残念でたまりません。


キャロル・リード監督の「華麗なる激情」(1964年)という映画を観たことを思い出しました。主役のミケランジェロを演じるのはチャールトン・ヘストン、システィーナ礼拝堂天井画を題材にしたミケランジェロと教皇ユリウス二世の人間ドラマでした。


システィーナ礼拝堂と言えば、システィーナ礼拝堂の修復ドキュメントをわかりやすい読み物として出された「修復視とミケランジェロとシスティーナの闇」(青木昭:2001年4月20日初版発行)という本を、以前読みました。日本テレビが13年、24億円をかけた修復事業をやっていたので、その関連の本でした。写真が多く、しかも綺麗で、こと細かく書かれており、読みやすい本でした。




本のカバーには、以下のようにあります。


これほど巨大な彼のことを、私たちはまだ十分に知らない。(「はじめに」より)

《ダヴィデ》《最後の審判》《サン・ピエトロ大聖堂クーポラ》

── 彫刻、絵画、建築のすべてで空前絶後の作品群を創りだし、

同時代人ヴァザーリに「神のごとき」と称された、

西洋美術史上最大の巨人ミケランジェロ(1475-1564)。

ルネサンスを代表する芸術家でありながら、

マニエリスムやバロックなど後代の様式の先駆者でもありました。

その並外れた業績は芸術にとどまらず、

ぶっbが九や軍事などの幅広い分野におよびます。

教皇や領主、レオナルドやラファエッロらと渡りあった

89年の波瀾の生涯と、変化と深化を続けた作品の背景をていねいに解説。

最新の知見をもとに全容をひもとく、待望の入門書。


目次

はじめに

私たちは彼のことをまだ知らない

彫刻―マニエリスムの創始者

絵画―絵画嫌いの大画家

建築―バロックの先駆者

生涯と作品

1 父の反対を押し切って―『ケンタウロスの戦い』

2 逃げる―『燭台の天使』他/

3 詐欺とデビュー―『サン・ピエトロのピエタ』

4 共和国のシンボル―『ダヴィデ』

5 レオナルドとの因縁―『カッシーナの戦い』のための習作

6 教皇の気まぐれ―『ユリウス2世廟』

7 孤独な苦行―『システィーナ礼拝堂天井画』

8 空間プロデューサーとして―『メディチ家礼拝堂』

9 革命軍の軍事技師になる―『要塞建築計画』

10 愛と悪評―『最後の審判』

11 偉大な建築家―『サン・ピエトロ大聖堂クーボラ』

12 ミケランジェロとは何者か―『ロンダニーニのピエタ』

年譜 ミケランジェロの生涯

地図 ミケランジェロ散歩

池上英洋:略歴

美術史家。東京造形大学准教授。イタリアを中心に西洋美術史、文化史を研究。1967年広島県生れ。東京藝術大学卒業、同大学院修士課程修了。海外での研究活動の後、恵泉女学園大学准教授、國學院大学准教授を経て現職。著書に「Due Volti dell'Anamorfosi」(Clueb,ITALIA)、『西洋絵画の巨匠8 レオナルド・ダ・ヴィンチ」(小学館)、『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』(東京堂出版)、『もっと知りたいラファエッロ 生涯と作品』(東京美術)、『恋する西洋美術史』『イタリア 24の都市の物語』『ルネサンス 歴史と芸術の物語』(いずれも光文社新書)、『西洋美術史入門』(ちくまプリマ一新書)など。



ミケランジェロに関する手持ちの本

とんとん・にっき-mi3 「イタリア ルネサンスの旅」
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、

ラファエッロ 美術三国志

著者:田中穣

発行:1996年12月1日初版発行

発行所:JTB日本交通公社出版事業局







とんとん・にっき-mi2 建築巡礼5「ミケランジェロのローマ」

昭和63年8月30日発行

著者:長尾重武

発行所:丸善株式会社




とんとん・にっき-mi1 「ミケランジェロの建築」

著者:ジェームズ・S・アッカーマン

翻訳者:中森義宗

発行:昭和51年8月10日第1版発行

発行所:株式会社彰国社








過去の関連記事:池上英洋

<池上英洋編著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を読んだ!
池上英洋の「西洋美術史入門」を読んだ!
池上英洋の「血みどろの西洋史 狂気の1000年」を読んだ!


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