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ワン・ビン(王兵)監督の「三姉妹~雲南の子」を観た!

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ワン・ビン(王兵)監督のドキュメンタリー映画「三姉妹~雲南の子」を、「シアター・イメージフォーラム」で観てきました。ワン・ビン(王兵)監督の作品は、一昨年、1960年代のゴビ砂漠の収容所の実態を描いた「無言歌」を観ました。そこには、絶望のどん底にありながら、なんとか最小限でも人間らしさを保とうとする人々が描かれていました。


「三姉妹~雲南の子」、チラシに書かれているタイトルと、その写真を観ただけでも、おおよそこの映画の言わんとするところはわかります。が、それにしても、映画というものは、映像が主役だということを、改めて思い知らされました。「脚本だ、なんだ」といくら言っても、その映像とその音声の迫力には到底かないません。


チラシには、「中国最貧困と言われる雲南地方の村。三人だけで暮らす幼い姉妹がいた。びゅうびゅうと風は吹き続け、その風にいのちが拮抗する」とあります。三姉妹は、長女のインイン(10)、次女のチェンチェン(6)、三女のフェンフェン(4)の三人です。服は着の身着のまま、穴蔵のように薄暗い家で、麺をゆで、じゃがいもにかぶりつきます。長女は、豚や羊、鶏などの世話をし、畑仕事を手伝います。家の中で勉強しているインインに、祖父は「勉強よりも、家の仕事が大事」と言います。姉は妹のしらみ退治に熱中します。


中国で最も貧しいと言われている雲南省の奥地、標高3200メートルにある、約80戸が暮らす小さな村がこの映画の舞台です。ワン・ビンは、余計な解説はせず、ただ中国寒村の現実と、貧困の底辺を映し出します。出稼ぎに出ていた父が帰ってきます。父は、もう何年も洗ってない長女の手を丁寧に洗ってやります。祖父は、麺をゆでながら「嫁は戻らないのか?」と聞きます。父は「行方知れずさ」と答えます。


父は妹二人を連れて、再び出稼ぎに行きます。祖父は「インインはわしと一緒に残ればいい」と言います。インインに祖父は、「お前はわしと一緒にこの村で暮らそう」と言います。「寂しいな」という父にインインは「平気だよ」と答えます。残されたインインは、ひとり、じゃがいもをほおばります。インインはよく咳をしますが、重い病でなければいいのですが、気になります。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:『鉄西区』『無言歌』のワン・ビン監督が、中国で最も貧しいとされる雲南地方の寒村に暮らす幼い3姉妹の日常を追ったドキュメンタリー。近所に親戚がいるものの両親が不在で、長女10歳、次女6歳、三女4歳という幼い彼女たちが農作業と家畜の世話を行い、子どもだけで生活している様子を映し出す。貧しく過酷な環境の中たくましく生きる少女の姿を通し、中国の現状を捉えた本作は、ベネチア国際映画祭をはじめ数多くの映画祭で絶賛された。

ストーリー:標高3,200メートルに位置し、中国国内で一番貧しい地区といわれる雲南地方の山村に暮らす幼い3姉妹。母親は家を去り父親も出稼ぎで不在なため、10歳の長女インインが妹たちの世話をしつつ家畜の管理や畑仕事に明け暮れ、子どもたちだけで暮らしている。やがて父が戻り娘たちを町に連れて行くことにするが、金銭面の問題で長女がそのまま残ることになり……。


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「三姉妹~雲南の子」公式サイト


過去の関連記事:
ワン・ビン監督の「無言歌」を観た!





清水徹の「ヴァレリー・知性と感性の相剋」を読んだ!

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清水徹の「ヴァレリー・知性と感性の相剋」(岩波新書:2010年3月19日第1刷発行)を読みました。


ヴァレリーについては2冊の本を持っています。ずいぶん昔の本ですが・・・。ひとつは、森田慶一の「建築論」、このh0音の最後に「ポール=ヴァレリ エウパリノスまたは建築家」という論文が載っています。ソクラテスとパイドロスの対談形式で、読んだ記憶はありますが、内容まではまったく憶えていません。


もう一つはずばり加藤邦男の「ヴァレリーの建築論」です。「ヴァレリーの建築論」となっていますが、建築に限らずヴァレリーの作品全般を取り上げて論評しています。森田慶一の「建築論」の他にも、田辺元の「ヴァレリーの芸術哲学」も取り上げて詳細に分析しています。僕にはちょっと難しすぎますが・・・。そうそう、この本のカットは、すべてヴァレリー自筆のデッサンによっています。


2010年、世田谷文学館で開催された講演シリーズ「知の巨匠―加藤周一ウィーク」の最後は、山崎剛太郎と清水徹の対談「加藤周一の肖像―青春から晩年まで」でした。清水徹は、もちろん対等に話してはいましたが、強いて言えば対談の進行役、山崎の話の聞き出し役のような感じでした。そこで初めて清水徹がどういう人なのかを知りました。たまたま昨日の朝日新聞夕刊に海老坂武の「加藤周一」(岩波新書)を取り上げた記事が載っていたので、下に載せておきます。


その後清水が、岩波新書からヴァレリーの本を出していると知り、購入しておいたのですが、なかなか読むことができませんでした。清水の略歴をみると、デュラス「愛人」や、ヴァレリー「エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話」などを訳していて、僕はそれらの本を持っていました。なかなか読めなかった本、ところが昨日、一晩で、と言ったら言い過ぎですが、読み出したら止まらず、一気に読み終わってしまいました。海老坂武の「加藤周一」を読んだ時にも書きましたが、2年以上も読めなかった本でしたが・・・。


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本の帯には、「この狂おしい情愛の深みの痛み」―《ムッシュー・テスト》を理想とした《知性のひと》の四つの恋、とあります。それはどういうことなのか? 帯の後を見ると、次のようにあります。


わたしは愛し―そして愛されることなしには、もういられない。わたしはなにもかもうんざりだし、あれがなければ、なにもかもわたしに重くのしかかってくる―(…)これがわたしの「自我」のありようです。(ルネ・ヴォーティエ宛書簡より)


本の案内は、以下のようにあります。

20世紀前半のフランスで最高の知性とされた詩人・批評家,ポール・ヴァレリー(1871-1945)。しかし鋭敏で明晰な《知性のひと》は、同時に強烈な《感性のひと》でもあった。生涯に少なくとも四度の大恋愛に耽溺し、熱烈に女性の愛を乞いつづけた、その感性と知性の相剋に本質をみさだめ、創作に新たな光を当てる、魅惑的な伝記。


1870年を中心としてその前後に生まれた四人の作家たち、劇作家ポール・クローデル、小説家アンドレ・ジッド、小説家マルセル・プルースト、そして詩人であり批評家でもあるポール・ヴァレリーは、」いずれも程度の差はあれ、象徴派の詩人ステファヌ・マラルメから強い影響を受け、19世紀的なリアリズム・自然主義とはまったく離れた、内面性と精神性の深い作品を創造して、まさしく「20世紀文学」を確立しました。


清水徹はこの本で、この輝かしい時代に主要著作を発表した一人であるポール・ヴァレリーを取り上げています。その理由は、《知性のひと》と見られていたヴァレリーの像をくつがえしたいからと、「序」で述べています。ヴァレリーは女好きで、ときには狂おしいまでに心を痛める恋愛を生涯に四度も経験しています。彼は愛人たちに、おそらく3000通以上の恋文を送っているという。そのたびに悦びまた悶え苦しみ、そういう恋愛を乗り越えて「精神の平和」を求めて、幾つもの優れた作品を書きました。清水は、「伝記批評」のかたちで、彼の女たちとの、ドラマチックな交渉の側から見つめて書いて行こうと思う、と述べています。


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まず最初は、ヴァレリーが17歳の時に恋い焦がれた、海水浴への行き帰りに電車で乗り合わせた「伯爵夫人さん」こと、20歳も年上のロヴィラ夫人。彼は恋文を3通書きますが、すべて出さずじまい。年の差がありすぎました。ここからが本題、ヴァレリー49歳の時、裕福な外科医で、社交界の名士だった人の娘、聡明で、エキセントリックなまでに意志が強く、語学もそして哲学や神学までも勉強し、知的に深く極めたカトリーヌ・ポッジ。二人は互いに相手を認め合い、ほとんど知的二卵性双生児のようでした。しかし彼女は結核に冒されていました。そしてあまりの階級差があり、私設秘書だったヴァレリーとは上手く歩調を合わせることができませんでした。


次に若い女流彫刻家ルネ・ヴォーティエ。ルネは当時33歳、優雅でほっそりした美貌の持ち主で、顔立ちはキリリとして、どこか幼さを残していました。ヴァレリーの胸像をつくるため、仕事に熱中する彼女をヴァレリーは真剣に見つめるようになります。ヴァレリーの愛を彼女が受け入れないのは、彼女にも熱愛して報われない男性がいたからでした。ヴァレリーは自分の60歳という年齢と、ルネの若さとの歳を痛感しました。ルネのつくったヴァレリーの胸像は、ヴァレリーの国葬が行われたトロカデロ講演にひっそりと置かれています。


そして、ベルギーの高校で教鞭をとっていたエミリー・ヌーレ。ある雑誌に50ページもの長いヴァレリー論を書いたという知性の持ち主です。清水によると「ヴァレリーはエミリーの据え膳を喰ったかたちであった」という。そして最後の愛人は、「現代最後のロマネスクな女性」であるジャンヌ・ロヴィトンです。ジャンヌはヴァレリーより30歳年下でした。美貌で才能に恵まれた彼女は、ヴァレリーからなんと1000通にも及ぶほどの恋文をもらいます。美貌で才気に溢れ、気力と優しさ、豪奢と明晰、理知と夢想という風に、多角的な性質を合わせ持ちしかもつねに世間に対しても男性に対しても自分が得をするように行動します。


ときにヴァレリーは66歳。ジャンヌは単なる愛人を超えて、ヴァレリーにとってミューズでもありました。しかしジャンヌとも別れが待っていました。ヴァレリーとジャンヌは毎週日曜日に愛のくつろぎの時間を持っていましたが、ジャンヌはわざわざそんな日曜日を選んで、彼女にとっては幸福な結婚を告げるのでした。ジャンヌのこの言葉にヴァレリーは絶望のどん底に突き落とされます。


《知性のひと》だったのか《感性のひと》、《知性》と《感性》のどちらが勝利を挙げたのか、ヴァレリーの生涯を見てゆくと、いずれとも決めがたい、と清水は言います。そうした知性と感性の交錯と相剋のうちに、ヴァレリーは1945年7月20日、この世を去りました。


最後に「エウパリノス」について書かれた箇所を、以下に載せておきます。

(ヴァレリーは)「建築」という名の雑誌に頼まれ、図版などのためあらかじめ字数まで定められているという困難な条件下にあった「エウパリノス」が、プラトンの対話篇「饗宴」にならってソクラテスとパイドロスとの対話というかたちで1921年に書かれた。これはプラトンとパイドロスのふたりが、パイドロスの友人である建築家エウパリノスの業績について優雅な口調で語る作品だが、そこでは思索者プラトンが若き日に建築家でもありえたことを告白したあとで、みずからなりえた「アンチ・プラトン」としての建築家という夢想を繰り広げている。対話というかたちで「知る」ことと「作る」ことが対比されているのだ。そのようなかたちで、ここにヴァレリーの芸術論の展開を眺めることができるという意味においても、これは注目すべき作品である。


清水徹:略歴
1931年東京生まれ。1956年東京大学大学院フランス文学科修士課程修了。明治学院大学教授、同図書館長を経て、現在、明治学院大学名誉教授。専攻は、フランス文学、文芸評論。
著書─「廃墟について」(河出書房新社)、「書物の夢 夢の書物」(筑摩書房)、「書物について―その形而下学と形而上学」(岩波書店、藤村記念歴程賞・読売文学賞・芸術選奨文部科学大臣賞受賞)ほか多数。
訳書─ビュトール「時間割」(中央公論社、クローデル賞受賞)、デュラス「愛人」(河出書房新社)、「マラルメ全集」(編集・分担訳、筑摩書房)、「ヴァレリー全集」(編集・分担訳、筑摩書房)、ヴァレリー「ムッシュー・テスト」(岩波文庫)、ヴァレリー「エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話」(岩波文庫)ほか多数。


目次
序 ―《感性のひと》の側面
1 最初の危機―ロヴィラ夫人をめぐって
2 レオナルド論とムッシュー・テスト
3 ロンドンと『方法的制覇』
4 詩作の再開と第一次世界大戦
5 愛欲の葛藤―カトリーヌとの出会い
6 胸像彫刻にはじまって―ルネ・ヴォーティエと『固定観念』
7 崇拝者からの愛―エミリー・ヌーレの場合
8 最後の愛―『わがファウスト』と『コロナ』と『天使』
略年譜/あとがき


とんとん・にっき-morita 「建築論」

1978年2月22日第1版第1刷発行

著者:森田慶一
発行所:東海大学出版会








とんとん・にっき-katou 「ヴァレリーの建築論」

昭和54年5月10日発行

著者:加藤邦男

発行所:鹿島出版会









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吉田修一の「愛に乱暴」を読んだ!

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吉田修一の「愛に乱暴」を読みました。本書は2011年9月から2012年9月にわたって、長崎新聞、沖縄タイムスほかに連載された「愛の乱暴」を改題し、改稿したものです、と末尾に但し書きがありました。ここのところ、吉田修一の作品は、まず始めに新聞小説が多いようです。


吉田修一原作の映画「さよなら渓谷」(2013年)が公開されました。2008年7月にこのブログに書いた、吉田修一の「さよなら渓谷」を読む! が、ここ1ヶ月ほどの間、毎日とんでもないアクセス数を数えています。昨年は、やはり映画化された吉田修一原作の「横道世之介」は、1980年代に長崎の港町から大学進学のため上京した青年・横道世之介を中心とした青春時代を描いた作品でした。「悪人」は、「大化け」していまの吉田修一の作家としての方向性を決定づけた作品で、映画化もされ大ヒットしました。「愛に乱暴」は、本の帯にセンセーショナルな言葉がちりばめられています。


妻も、読者も、騙される!「悪人」の作家が踏み込んだ、〈夫婦〉の闇の果て。
これは私の、私たちの愛のはずだった――。夫の不実を疑い、姑の視線に耐えられなくなった時、桃子は誰にも言えぬ激しい衝動に身を委ねるのだが……。夫婦とは何か、愛人とは何か、〈家〉とは何か、妻が欲した言葉とは何か。デビュー以来一貫して、「ひとが誰かと繋がること」を突き詰めてきた吉田修一が、かつてない強度で描く女の業火。狂乱の純愛。本当に騙したのは、どちらなのだろう?主人公・桃子は、あの「ボヴァリー夫人」のように、愚かで、健気で、孤独で、美しい。


まずは不倫相手の三宅奈央から。もちろん初瀬さんには何度もお願いしていた。初瀬さんはちゃんと話すからと言うくせに結局自分からは動いてくれなかった。でも初瀬さんが悪いんじゃない。悪いのは初瀬さんの奥さんだ。どうしてあの女が、もう愛のなくなった結婚生活に執着するのか本当に分からない。・・・もうあなたには何もない。そう言ってやりたい。唯一あるとすれば、妻という立場だろうが、きっとそれを意地になって奪われまいとしているのだと思う。


「一度、彼女と会ってほしいんだ。もちろん俺も含めて三人で」、真守の話はそこで終わった。説明も謝罪も種明かしも何もない。「私、会う気ないから」と桃子は言った。・・・あれ以来、真守から例の話は一切出ていない。「私、会うから」と真守に言った時の気持ちが、自分でもよく分からない。彼がなぜ私とその女を会わせたがっているのかは分かる。きっと自分ではもうどうにもできなくなっているのだ。私に対して「ちゃんと話をするから」と言っているように、おそらく向こうにも「きちんと話をするから」と同じことを言っているのだ。要するに現状を変えたくないだけで、ならばその時点で妻である私の勝ちなのだ。


今、私のおなかで新しい命が育っている。・・・初瀬さんに連絡を入れると、すぐに向かうと言ってくれたが、とにかく病院に電話をしたら「すぐに来て下さい」ということだったので、タクシーを呼んだ。・・・病院に着き、担当の先生の顔を見ると、かなり落ち着いた。エコーで赤ちゃんの姿が見えた瞬間、涙が出た。診察室を出ると、ベンチに初瀬さんの姿があった。二人で家へ戻ると、驚くことが起きた。初瀬さんが、「今夜、泊まっていくよ」と言ったのだ。・・・結局、これまで初瀬さんに泊まってほしかったのは寂しかったからじゃなくて、不安だったからなのだと思う。その不安が今日の夜、消えたのだと思う。


今日、葉月が遊びに来てくれた。・・・私の状況についてはほとんどを葉月に話している。おなかでは初瀬さんとの赤ちゃんが育っていること。初瀬さんは私との結婚を望んでいること。現在、今の奥さんが体調を崩して精神的に不安定なため、とにかく回復を待って、子供のこと、離婚のことをはっきりと告げ、もしも承諾してくれないようであれば、私を含めた三人で会い、きちんと今後のことを相談すること。葉月は、「一番大切な時期に一人きりで心細くないの?」と言ってくれる。・・・たしかに初瀬さんとはまだ一緒に暮らせないけど、まったくひとりぼっちだという気がしない。もっと言えば、私はこれからずっと赤ちゃんと一緒だし、もう少し待てば、必ずそこに初瀬さんが加わるのだという確固とした安心感もある。


桃子は言う。「浅尾くんって浮気したことある?」。あまりにも猪突だったせいか、浅尾が目を泳がせている。「浮気にも状況として二通りあるじゃないですか?」、「二通り?」、「たとえば彼女がいたとして、その彼女のことを好きなのに別の子と関係持っちゃうっていうパターンと、彼女との関係は冷えてる状態で、別の子と始まっちゃうっていう。この場合、彼女のことをまだ好きなら浮気だろうけど、もうそうじゃない場合って浮気って呼べないような気がするんですよね」。浅尾は続けて「自分のことをもう好きじゃない彼女とまだ一緒にいたいかって言われたら俺は無理だなー。諦めますね」と。


いよいよ今度の日曜日、向こうの奥さんを含めて三人で会うことになった。頭に浮かんでくるのは、とても静かな場面で、どちらかと言えば、私の方が冷静で、奥さんが悲嘆にくれている。もしかすると修羅場と呼ばれるものよりも更にたちが悪いのかもしれない。・・・そう、初瀬さんが言う通り、私は堂々としていればいいのだ。初瀬さんは一緒に来る奥さんではなく、一人で待っている私を愛している。そして私のおなかには二人の赤ちゃんがいる。そのことを冷静に、そしてはっきりと向こうの奥さんに伝えればいい。


「その人っていくつなの?」、「ああ、二十六」、「あなたと十六も違うじゃない」。「その人、おなかに子供がいるんだ」と真守は言う。「そんなの嘘に決まってるじゃない。その女の嘘、大嘘。ちゃんと検査結果みせてもらった? 証拠あるわけ?」と、桃子は笑い出しました。・・・桃子は改めて女に目を向けた。本当に特徴のない女だった。「私と真守は夫婦なの。あなたが入り込む余地はないの。うちの人は意気地がないところがあって、あなたとの関係を自分できちんと終わらせることができないみたいなの。・・・ぐだぐだ話しても時間の無駄でしょ? とにかく今後二度と真守に連絡しないで」と、桃子は一気にそこまで言った。


「奈央のおなかには子供がいる。俺は奈央と、そのおなかの子と、これからの人生を送りたいと思っている」、とても小さな真守の声だった。「え? 何っ?」と、桃子は場違いな大声を出した。「申し訳ありません。本当に申し訳ありません!」、とつぜんスイッチが入ったように女が頭を下げる。次の瞬間、真守までが同じように頭を下げる。「何の真似よ、私、何だか分からない。とにかく帰るから」、「ねぇ、やめてよ。私が悪いみたいじゃない!」。自分では冷静になろうとしているのだが、声だけがその意志に反して大きくなってしまう。「ほら、早くしてよ」、桃子は真守の腕を取ろうとした。しかし真守は立とうとしない。「いい加減にしてよ!」と怒鳴ると、「お客さま、申し訳ありません。他のお客さまもおられますので・・・」、近寄ってきたマネージャーが桃子の耳元で囁きます。


真守が帰ってきたらさっそく話してやろうと思う。「今日会ったあの女のことだけど、騙されちゃダメよ。ああいうしおらしさを売りにする女は、絶対に嫌らしい裏の顔があるんだから」と。・・・初瀬さんの奥さんはとても冷たい感じの人だった。私自身、とても緊張していたせいで、今日のことをほとんど覚えていない。ただ、二人と向かい合った瞬間、初瀬さんと奥さんの間に何も感じなかったことだけははっきりと覚えている。何年も一緒に暮らしてきたはずなのに。・・・初瀬さんからは「もう心配ない。これからは全て順調に行く。おなかの赤ちゃんのことだけ考えてくれ」と言われている。


昨夜、真守のあとをつけ、埼玉の河口にある女の満床を突き止めた。結局、朝まで一睡もできなかった。どうせ眠れないならと、何かやりたい気持ちはあるのだが、何をやっていいのか分からない。やりたいことを見つけたのが深夜三時過ぎだった。せっかく買ったチェーンソーを使ってみたい。


産んであげられなかったおなかの子のためにも私は書く。病院で胎囊確認。妊娠証明をもらう。母子手帳をもらう。この頃つわりがなくなった。四ヶ月検診。医者より稽留流産を告げられる。エコーでは赤ちゃんを確認できず、急遽手術を行う。・・・あんなに喜んでいる初瀬さんにどう伝えていいのか分からない。やっぱり言えない。ごめんね。産んであげられなくて、本当にごめんなさい。・・・真守と不倫関係にあった頃から葉月には何かと相談していた。今の状態を話せば、彼女はなんと言うだろう。やったことはやり返されるのよとでも笑うだろうか。


(桃子の日記)初瀬さんが正式に離婚届を出したことを受けて、今日初めて初瀬さんのお母様と新宿のホテルのレストランで会った。ここ数週間、何もかも慌ただしいが、これまで私が願っていた通りに動いている。唯一おなかの赤ん坊がもういないということを除いて。・・・流産したあとすぐに言おうと思った。正式に離婚したのだからもう言ってもいいはずなのに、今は心のどこかで自分たちが正式に結婚してからの方がいいと思っている。産んであげられなかった赤ちゃんのことを考えてなく日々が続いている。悲しくて、申し訳なくて、頭がヘンになりそうだ。


「あのさ、桃子と別れるつもりなんだ」と真守の声。「もちろん上手くやっていこうと思って努力したよ。でも、やっぱり何かあると思い出すんだよ」、「思い出すって、子供のこと?」と義母の声。「そりゃ、お母さんだって・・・。新宿のホテルのレストランで初めて桃子さんに会った時、生まれてくる子供のためにもこの離れで暮らした方がいいとか、何でもお手伝いするからなんて言った自分が情けなくなることもあるわよ。ああ、あの時すでに桃子さんは流産してたくせに私達を騙していたんだなんて考えると、頭にもくるわよ」と義母。「実はさ、俺、もう別のがいるんだ」、「実はもうその相手の腹に子供がいるんだよ」、会話が途切れる。


もうこのおなかにはあかちゃんがいないということを、きちんと初瀬さんに伝えなければならないのは分かっている。そんなことは分かっているのだけれど、昨夜のようにベッドで初瀬さんにおなかを撫でられ、耳を当てられたりすると、言わなければならない言葉がうまく口から出てこない。・・・私に子供ができたことで、初瀬さんが離婚に踏み切ったのは間違いない。私に子供がいることで、初瀬さんのお母様は早く籍を入れるようにと言ってくれる。もし私が告白しても、私たちは夫婦になれる。なのに、何かが恐ろしくて告白できない。


「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。もう私とあなたの赤ちゃん、いないの。言おう言おうと思っていたの。でもどうしても言えなかった。自分でも認めたくなかった」。初瀬さんは私の背中をずっと撫でてくれた。聞かれるだろうと予想していたことを、初瀬さんは一切聞かなかった。ただ「桃子が悪いわけじゃない。謝ることない」と繰り返していたように思う。


結婚前、流産したことをなかなか真守に言えなかった時の気持ち。それをずっと根に持っていたと今になって言い出した真守や義母のこと、真守の浮気、浮気相手の女のこと、話し合いに女の家に行ったこと。階段から落ちた女を病院に連れて行ったこと。・・・六畳間の畳の向きが気になり始めたこと、そのうち一枚を上げてみたこと、そして床板の下をのぞいてみたくなったこと、駅前のスーパーで小型のチェーンソーを買ったこと、そして床板を切り抜き、スコップで掘った穴にいた時に真守と義母の話を聞いてしまったこと。


桃子が実家の軽井沢に戻っていると、真守から速達が来た。できれば協議離婚。このままだと調停離婚。二人で話し合いを。俺の気持ちは。桃子の気持ちが。お互いの。将来。いがみ合い。ここ最近のあなたの行動。母が脅えている。玄関を乱暴に叩き続ける。出てこいと母を脅したり。もう普通ではない。奥の六畳間の床下。チェーンソー。冷静に話し合いたい。しかし。無理。


まるで自分だけが我が儘を通そうとしているかのように思えてくる。自分だけが理不尽なことを言い続け、いい加減にしろと、みんなから言われているような気がする。誰もかれもが私がここから逃げ出すのを待っている。転がっていた手紙を拾い上げ、流しに向かう。引き出しからチャッカマンを取り出して、丸めた手紙に火を近づける。目をとじると、シンクで燃え上がる炎が見えた。・・・本当にもうダメなのだと。本当に終わったのだと。結局私だけが私たちの生活から追い出されるのだと。・・・どうして自分だけが全てを奪われなければならないのか。あまりにも理不尽じゃないかと。「手紙、読んでくれた?」と真守が恐る恐る訊いてくる。「私、ここから出ていく気ないから」と桃子は言った。


作者の吉田修一は、次のように言います。「愛に乱暴」は、やはり恋愛や夫婦関係がテーマではなく、いろんな方向から桃子の居場所、あるいは居場所のなさ、を書きたかったのだと思う、と。そしてもう一つ、桃子は地方出身者で、仕事を辞め、子供もおらず、夫に不倫された専業主婦として、きちんとした肩書きがなくなったことが彼女を不安定にさせたのかなとも思います。母でも妻でも娘でもない彼女は居場所がなくなってしまう、と。


吉田修一:略歴
1968(昭和43)年、長崎県生れ。法政大学経営学部卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、2010年『横道世之介』で柴田錬三郎賞を受賞。ジャンルにとらわれない幅広い作風と、若者の心情をみずみずしく描き出す筆致の確かさに定評がある。ほかに『東京湾景』『長崎乱楽坂』『女たちは二度遊ぶ』『初恋温泉』『静かな爆弾』『さよなら渓谷』『元職員』『キャンセルされた街の案内』『平成猿蟹合戦図』『太陽は動かない』など著書多数。


「吉田修一」公式サイト


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神宮前の「まい泉」で昼食を!

連続講座「書物の達人―丸谷才一」、岡野弘彦「快談・俳諧・花柳」!

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連続講座「書物の達人―丸谷才一」もはや3回目、今回は岡野弘彦の「快談・俳諧・花柳」です。

岡野弘彦:略歴

歌人、國學院大学名誉教授。1924年三重県生まれ。國學院大學を卒業。宮中の歌会始召人を務めた。主な著書に「バグダッド燃ゆ」「折口信夫の晩年」「神がみの坐」ほか。丸谷才一、大岡信と「歌仙の愉しみ」などを編み、含蓄豊かな座談を展開した。


岡村弘彦さんは丸谷さんとともに、現代に連歌を再興する見事な成果をあげられた方です。また宮中の「歌会始」の召人を務められる歌人、古典に通暁する国文学者として、丸谷さんの王朝和歌や「源氏物語」を論じた業績をめぐって、行きとどいた理解を深めてこれたと推量されます。その面での掛けがいのない最高の知己の、含蓄に富むお話がうかがえるまたとない機械となることでしょう。(菅野昭正)


館長挨拶:

岡野弘彦先生について。折口信夫の最高弟です。最近の若い折口研究者の趨勢は、岡野さんの力が多いように思います。宮中の歌会始の召人も務めています。今日の丸谷についての話は「怪談」ではなく「快談」です。丸谷と愉快な話をなさった国文学の話を聞けるのではないでしょうか。


岡野弘彦:

丸谷を存じ上げてから、もう50年を超えるつき合いになります。丸谷と知り合った頃、私が20歳終わり頃でした。今私は数えで90になり、長い付き合いだったなと思います。館長(菅野)や橋本一明、中野孝次(ドイツ文学)、川村二郎(ドイツ文学)、そして渋谷の道玄坂を巨体で登っている印象が強い篠田一士、らが思い出されます。私は国文科ですが、神主の跡を継がなきゃならないのでしたが、子供の将来を占う風習で、私は稲穂をつかんだらお前は神主を嗣ぐことが決まってるんだよ、と父が言いました。伊勢の全寮制の大学、神宮皇学館に入った。月に8万円が出た。神宮から出ているのでしょうが、当時とすれは学生は使い切れません。毎週山田の町へ出て、山田には当時本屋が3軒ありました。岩波の青色、黄色を2、3冊買ってきて、次の週までに読んでしまった。


中学を卒業したあと、東京の國學院という学校に行きたい、いい先生がいる、折口信夫という先生がいる。父親もどうせ神主になるのだからいいだろうと。私が國學院の講師になったのは昭和29年だったと思う。丸谷は鶴岡の医者の息子で、昭和28年、國學院の講師として来ていた。私は昭和28年には内弟子として折口博士の家に入っていました。折口の家にはなんとなく一生独身でいた藤井春洋、養子に入ってからは折口春洋という名になっていましたが、硫黄島で戦死しました。


学徒出陣、今年入った君たちは戦争に行くだろう。最高の教授陣、言語学金田一京助、古典学折口信夫、等々。しかし、学校は工場へ行ったりして、半年ぐらいしか行けなかった。次の年には、愛知県の工場へ行った。少し遅れて、丸谷も戦争に取られた。内弟子は7年間、先生が亡くなるまで続いた。折口は、國學院と慶應、二校で教授していました。講演を清書して、昭和28年に亡くなり、死に水を取った。次の年、折口信夫の全集をつくった。20巻でおさめようとしたが、結局25巻になった。後年、40巻とか出しましたが。編集の雑務や月報の整理などを行いました。昭和20年終わり頃に出るようになった。


その頃から、丸谷と話していると楽しいんです。そのうちに館長(菅谷)や橋本一明とか、ふわっとした感じで、話していて楽しかった。中野孝次は頑固でしたが、楽しかった。予科の頃の先生、佐藤謙三先生にいろいろ相談したり、佐藤先生は学長になり、最後の頃は僕は学生部長として学生を説得し、事務局を説得する役目でした。佐藤さんと丸谷さんは、早い頃から話が合った。


心は万葉集から始まっている。400年前から俳句が作られた。「短詩形。庶民の間で生まれた俳句と短歌、あるいは和歌というのが、簡単に決められるものではない。「イイ女やナー」「イイ男やナー」、別に万歳をやっているのではなく。、折口の関西風の言い方です。日本の和歌は、神様から始まっていて、日本の近代文学にも影響しています。古事記の会話を見ると、短歌とも俳句ともつかない表現です。例として「筑波問答」があります。日本の短詩形、古事記や万葉集のように、決定的に決められるものではない。そういうことを考えると、「勅撰和歌集」、あの伝統が切れるわけです。


そして芭蕉が出てくる。連歌か出てくる。規則の束縛されて、面白くもなんともない。「三十六歌仙」、複数で、短句と長句を交互につくっている。捨ててはならない「春夏秋冬」、6巻、春秋2巻ずつ、夏冬2巻、約束だけは守る。日本の和歌の伝統は「恋」でしょう。恋と愛とは定義は違うが、人間観から発生している。心の結晶は四季の歌、そして恋です。そして「雑歌」、これは重要です。そして「旅」の巻。とにかく勅撰集がまとめられる。これが日本文学の伝統だと。丸谷さんのように分かり易く言われた方は初めてです。

「後鳥羽院」、柿本人麻呂に次いで歌の名手です。デーモニッシュな情熱を注ぐ、和歌の上で示したのが「後鳥羽院」です。若い丸谷さんが後鳥羽院の自分の著作を書こうと思った。私は20代から30代の前半は、全集本の仕事で忙しかったので、丸谷さんと会う機会がなかった。私は折口と佐藤の言うことは全部聞きました。佐藤から丸谷が和歌を知りたがっているので、話し相手になってくれと言われた。折口は、あの春洋(ハルミ)だって、布団担いで大森の駅まで行って。恐るべき若者がいると、新聞のゴシップ欄に出た。春洋さんは丹念に家計簿をつけていた。窮屈なばかりではいられなかった。先生を茶化したりもした。岡野は大きな木の枝払いで発散した。春洋はどうして我慢できなかったのか?


折口先生亡き後、佐藤先生が丸谷を推薦する。和歌を学びたいと言っている。話し相手になれと。でも会ってみると丸谷さんは、詩の伝統についてはよく分かっていた。相談相手として身のある話はしませんでした。「後鳥羽院」の時は、年表を作ってくれと言われ、作りました。優秀な人たちが國學院に来ていました。岩波文庫でシャーロック・ホームズを訳した菊池武一、それで國學院の語学の研究室は華やかだった。私は酒が飲めない、そういう意味でも神主の資格はなかった。道玄坂をみんなして登った。國學院は経営は困難で、給料は安かった。丸谷さんは、どうしてあの頃、酒代が出たんだろうと、よく言っていました。


丸谷さんの重要な本2冊、「日本文学史早わかり」と「忠臣蔵とは何か」です。菅原道真を祀ったお社は、怨霊を治めるものでした。「岡野さん、この下は道真公の墓ですよ。亡くなってすぐは怨霊だったんですよ」と丸谷。亡くなってすぐは鬼の形相、20年、30年経つと顔が変わっていった。丸谷さんは、まだしずまらないでしょうから、と言った。


政治家は薩摩と長州です。今は長州です。江戸を守ろうとして死んだ人たち。どうして祀ってやらなかったのでしょうか。八甲田山、どうして祀ってやらなかったのでしょうか。墓の大きさに歴然としている。階級差があります。四十七士はそんなことはない。靖国神社は最初はA級戦犯を祀ることには反対でした。天皇の与り知らぬところで合祀されてしまった。あんない敬虔に祈られる天皇は歴史上いません。皇后様、膝が悪いにもかかわらず、ひざまづく。東日本大震災の被災地に行って、ひざまづかれる。歴代の天皇・皇后にはいなかった。そういうことを考えると、今の政治家の発言の不用意さが目につきます。


周恩来首相の発言は大変なものでした。前の都知事は文学者の端くれのはずだが、気がつかない。丸谷さんと大野信さんの対談は、大変だったろうと思います。大野さんも国語学者として偉大な人です。編集者にエピソードを聞かされました。丸谷さんの方が、妥協の話を出されたという。あの二人があんな風に、いかにも適切なかたちで、イイ妥協の源氏物語。一通り原文でみないとダメですが、あの本の価値が分かります。


戦後の国文学は、今は源氏は言辞、古事記は古事記と専門分化していますが、僕らの教わった先生方は、源氏から近松まで何でも答えられた。明日をも知らぬ戦中派、丸谷もそういう世代でした。僕は丸谷さんは郷里の鶴岡を好きじゃない人だと思っていました。対談に丸谷がちょっと遅れてきました。「今日は泣いてきたよ」、藤沢周平の映画を観てきて、「泣いてきたよ」と言っていました。ああ、やっぱり鶴岡の人なんだな、と思いました。


俳諧、江戸の門弟、京都の門弟、との土地土地での共同制作です。芭蕉の句がくると、ぴたっと決まり、はい次。学生の頃から伊勢、今の宇治山田ですが、伊藤整に講演を頼むと、きちっと話をする。小林秀雄は、前の日飲んだらしく)、20分ぐらいでもう話すことはないと終わってしまった。


ということで「時間がなくなった」と岡野が言うと、すかさず館長が「どうぞ、心ゆくまで」と答える。


しっかり用意してきたのにと、岡野が言い訳をする。取り出した資料は、岩波新書の「歌仙の愉しみ」から抜粋したもの。丸谷の「新々百人一首」が賞をもらった時に祝いに謡ったもの。「鞍馬天狗の巻」(2000年1月~4月)。「信」は大野信、「乙三」は岡野、「玩亭」は丸谷です。


玩亭の祝ひに

春(新年) この年は鞍馬天狗で謡初        信

春(新年) 北山あはくかすむ春風          乙三

春      子の凧に龍といふ字を大書して     玩亭

雑(ぞう)  捨猫五匹やしなってゐる         信

秋(月)   姥ひとり高笑ひする月の峡(かひ)   乙

秋      径は花野へつづく夕ぐれ         玩


丸谷は古代から現代までの文学をよく分かっておられる方でした。それほど江戸の文人について分かっていたのはほかにいません。


生前、丸谷から「墓銘碑」を書いてくれと頼まれました。鎌倉霊園に丸谷才一と奥様のお墓があります。表に「玩亭墓」、後に「丸谷才一 鶴岡の人 小説家 批評家」


丸谷は喜んでくれた。50年の付き合いで一番嬉しかった。私の母は上手に字を書いた。父はダメでしたが。納骨を終える頃、海の方が夕映えの空になってきました。丸谷は四季折々の歌を読みました。


会場からの質問:

短歌について丸谷は明治以降のものはよく読んでいられるようですが、評論はあまり書かれていないことについて。丸谷は短歌は、狂歌はつくったが、作ったことがなかっただろうと思います。塚本(?)さんは短歌をよく読んだ。朗詠、または朗読の習慣がなくなってしまった。文語の調べのある歌を作れる人がいなくなってします。これを突き破るのは「天才」が出てくる以外にない。

(終)


とんとん・にっき-okamo 「歌仙の愉しみ」

大岡信・岡野弘彦・丸谷才一

岩波新書

発売日:2008年3月19日

連続講座「書物の達人―丸谷才一」、鹿島茂「官僚的なものへの寛容な知識人」!

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「官能的なものへの寛容な知識人」

鹿島茂:

仏文学者、明治大学教授。1949年神奈川県生まれ。東京大学大学院卒業。主な著書に「馬車が買いたい!」「子供より古書が大事と思いたい」ほか。「千年紀のベスト100作品を選ぶ」「文学全集を立ちあげる」などで丸谷才一との対談、鼎談が数多い。


鹿島茂さんは文学のみならず、近代西欧文化・文明の歴史の裏表に関心をそそぎ、博大な職見を蓄えてきた評論家です。丸谷さんとの鼎談、座談の回数を重ねてきたのも、そうした蓄積があったればこそです。そんな機会に接した知識人としての丸谷さんの風貌、小説・評論を通して理解した文学者としての丸谷さんの姿勢など、この機会に鹿島さんならではの見解に耳を傾けたいと思っています。(菅野昭正)


館長・菅野昭正:

鹿島さんは大変映画を愛好されていました。映画について感想を書いていたが、落ち込んでいたので、どうしたのかと聞いたところ、ノートを無くしてしまったと言っていました。丸谷さんと親しかった篠田一士、ともにスクラップを作ることに熱心でした。スクラップを作るのに毎日がいいか、一週間ごとがいいか、論争を始めました。そういうことって、ある種の技術が必要なんですね。鹿島さんも同類項、と言っていいのか、年齢にして20歳ぐらい違いがある評論家から見た「丸谷才一論」を、今日は楽しみにしています。


鹿島茂:

今、小林秀雄論を書いています。図書館に河上徹太郎全集を借りに行ったら、その月報に、丸谷さんが書いていました。河上徹太郎の評論家の特色として、官能的な部分をしっかりと理解した人だと書いていました。私はそうだ、そうだ、丸谷さんだよ、と思って帰ってきました。しばらくすると、亡くなったという知らせが届いてビックリしました。丸谷さんの文章を最初に読んだのはいつだったか。若い頃、歯医者に通っていた時に、エッセイを読みました。初期の丸谷のエッセイでした。夕刊フジの「男のポケット」は名エッセイです。高校1、2年生の頃、図書館にあった文学雑誌で、海外の文学の紹介記事、海外の新しい作家の「事典」、私の先生の館長(菅野さん)、清水徹とかからも聞きました。僕は卒論を「クロード・シモン」をやりました。あれはすごかった、と言うと、丸谷はあれは私がやったんだ、と平然と言いました。


編集者として、才能を集めてきて、それぞれを超えたものを、上回るものを創り上げる。アンソロジストとしての文学全集を作った。20世紀の新しい作家を取り上げた。今、ああいう風のものをできる人はいません。現実に文学全集はできなくなってきています。架空であればいいだろうと、三浦、鹿島、丸谷、三人で一冊になっている「文学全集を作る」.、アンソロジストとしての丸谷の一面が出ました。いい作品でした。丸谷さんは、元気で最後まで頑張っていた。丸谷として名を上げたのは、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」でしょう。モダニスト文学としての文学として、19世紀のロマン主義からシュルレアリスムまで、それに対してアンチテーゼを唱えた文学。この世に新しいものはある。新しいものを見つけた人は勝ち。新しいものはいいものだという考え。新しいものを発見した人は偉い人だ。スペインやトルコなど、遠方志向。時代を遡った中世の発見。自然主義は現実の中に新しいものはあるんだという考えです。象徴主義は中間的です。


モダニズムの本質は、新しいものには新しいものはない。我々がリクエートするのはどこにあるか。あるものは、配置転換とアレンジメントです。パスカルも全部アレンジメントです。モダニズムの基本姿勢だ。その最たるものは言語だ。言語は他人の言葉だ。他の人が使ってきた言葉だ。言語に新しいものは存在しない。ジョイスはそういう風な技法で書いている。全部言われてしまっているから、アレンジメントしかないと。字面だけ追って通俗小説として読むことも、丸谷さんの小説を読む時は、どこに参照例があるのか、深く読んでいくと読解が可能です。丸谷さんは論話が好きだったんですね。論話は共有しないと成立しない。お互いに会話が分かる人物として認定された。もう一段階、自身のプライベートの核心に迫るものがある。「樹影譚」という小説、SFから始まります。ある時手紙を受け取ってウンヌンという小説。最低、丸谷さんの小説は、通り一遍の読み方をして、もう一編読み直して二度目読み、円環構造を描き、やっと根本的な意味に到達します。


仲間での議論を愉しむ。國學院大學、館長の菅野さんも、國學院で教えていました。僕も國學院に語学で非常勤で勤めた。國學院はお金が無く、個室の研究室が無く、共同の大部屋が研究室でした。大きな円卓があって、これがとっても楽しい経験でした。それぞれの語学の変わった「事典」を集めてきたりして愉しみました。この伝統を作ったのが丸谷さんでした。


その後丸谷さんとの個人的な関わりを述べると、毎日新聞の書評欄を全面的に変えることを、丸谷さんは新聞社から言われていました。書評の方針として、「丸谷書評三原則」を作った。書評委員会方式は止め、それぞれの書評委員が取り上げること。書評は新聞に載るものだから、書き出しの三行で決まるので、そこに重点をおけ。要約をしっかりしろと言った。書評の役割は、一ページで頭に入るように書け。私は三原則にいたく感動し、なるほどと思い、その後の自分の指標にもしました。


「現代」という雑誌の座談会に招かれました。鹿島茂のセックスを取り上げるようになったのは、私の功績であると丸谷は言いました。いつの間にか、私はこの方面の第一人者となっていた。対談で言いたいことを延々と言う人は困りますが、丸谷さんはその点上手い、ちゃんと回します。丸谷さんの会話、談話、常に他者がいて、小説なりエッセイを進めていきます。丸谷さんの敵である「私小説」は、俺が俺がで進んでしまいます。丸谷さんは本当に私小説が嫌いでした。丸谷さんはモダニズム、モダニズムはアンソロジー、対話をしながら選択が大事なんです。


一番評価していたのは「勅撰和歌集」です。選ぶということ、選んだ人を批判する人。「新古今」は丸谷が一番好きでした。新しいものはひとつもない。あるとすれば選択と配列だ。丸谷さんは、全ての面で一貫していた人だなと思った。丸谷さんはグルメだった。食道楽は、丸谷的方法の全てだった。選択と配列そのものだった。食べる時は、話し相手があって、会話とリンクさせたから、丸谷的なものをリンクさせていく。丸谷は一時的レベル、通俗的、第二次レベル、第三次的レベル、自己表現。全てがそうでした。


どの辺にあるのか、おそらく早い時代に自己を完成させていたのではないか。そういう少年にとって、何が嫌だったのか。性的なものに対する非寛容だったのではないか。人間的なものにとっての最後の砦、守るべきものはそこのところにある。官能的なものを肯定するか否定するかであって、そこを侵略されたら抵抗する。最終的に文化の砦としての官能的なもの。


次になにを書くのか、丸谷さんに聞いたことがある。「今度は僕は警察に捕まるかもしれない」と言ったが、実現しなかった。病院での苦痛は食事だろうと思ったので、知り合いの料亭で作ってもらったものを持っていったら、喜ばれました。丸谷さんは、折口信夫が好きだった。特に「死者の書」は僕には全然分からなかった。官能的なものを軍国時代に評価したからだと思った。「新古今」、官能的なもの。武家社会になって、それでも止めないで最後の砦となったのが「新古今」だった。丸谷は、官能的なものを評価した。鹿島の、丸谷から引き出された才能、エロチックなもの。今週も週刊誌2誌から「老人のセックス」についてコメントを書いた。丸谷の最後の小説「樹影譚」、最終的にルーツを辿った。


今後、丸谷さんの研究が進んでいくと思いますが、丸谷さんが愛した作家は共通している。自分を出したい、自分を隠したい、そのせめぎ合いの中から生まれてくるものが好きだった。それが折口信夫だった。河上徹太郎はマル、小林秀雄はバツ。基本的には小林秀雄は、丸谷が一番嫌いな私小説家だった。「人生斫断(しゃくだん)」、それがランボーだった。小林秀雄は一気に到達したい、その性急さが若い人に人気のものだったが、丸谷さんの最も嫌いなところだった。小林秀雄のファンは、仏文学者と左翼、そして右翼だった。「人生斫断(いきなり)」。「人生、いきなりとはないんだよ」と丸谷は言う。アンチシャクダン。この元は鶴岡にあるんじゃないかと思う。それにしても「人生斫断」にならなかったのは、よくわからない。


一つあるとすれば翻訳の世界。アラン・シリトーの「長距離ランナーの孤独」の中にこういう一節がある。「奴らはずるい」。しかし考えてみると「俺も負けずにずるい」と。私はそれに感化されてしまった。丸谷はイギリス文学から多くを学んだ。丸谷さんは若い頃から一貫して変わらない人だった。座談が好きでしたが、受け渡していくということで、自分も賢くなっていく。私は丸谷からいろいろ影響を受けたが、「寛容である」ということ、そこを第一に認めること。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の最後にある「モーリーの告白」がそうです。丸谷さんの想い出が次々と思い出される。よく手紙をいただきました。僕は返事の代わりに、旅へ出た時必ず「おみやげ」をあげました。僕はこれを「おみやげコミュニケーション」と読んでいます。ある時、これを君にあげるよと、堀口大学の色紙をいただきました。「官能的なものがんばれ」というメッセージだと思って受け取りました。


会場からの質問その1:

丸谷はエッセイで阿部貞を書いているが?

阿部貞事件は昭和11年、2.26事件のあった年です。丸谷の中に阿部貞事件が刷り込まれていたんじゃないか。そっちへ行かないためにも、カウンターとして書いたのではないか?

会場からの質問2:

丸谷は美食随筆が多いが、ある時から書かなくなってしまったのはなぜか?

丸谷は食べ物に関して非常にレベルの高い人でした。神田の「いもや」で天ぷらを食べると、君は「いもや」かと馬鹿にされた。味もセックスも言葉にならない。言葉にならないものを書く。永井荷風に対して異常に対抗意識を持っていた。永井は「四畳半襖の下張り」を一つ書いています。丸谷も、究極のエロ本を書きたかったのかもしれません。

会場から突然、「東京の海苔問屋の事務員をしていた頃、海苔がまずいと書いていたので、私はそれに抗議して手紙を書きました。それが書かなくなった原因かも?」と。

「食通知ったかぶり」に酒田の「ポトフ」は美味しいとあったので行って食べたら美味しかった。酒田と鶴岡は敵対していたのですが…。

(終わり)


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「ふたりのイームズ 建築家チャールズと画家レイ」を観た!

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建築家のエーロ・サーリネンとチャールズ・イームズは親友でした。初期の家具はほとんど二人の共同作業から生まれました。1941年、ニューヨーク近代美術館は「家具の有機的なデザイン」というコンペを行います。結果、イームズとエーロのデザインした椅子とシステム収納家具は見事1等を獲得します。僕は、イームズが家具のデザイナーで、「イームズチェア」をデザインしたということは知っていましたが、その他の活動については「ふたりのイームズ」を観るまで全く知りませんでした。


僕が勤務していた設計事務所のロビーにおかれていたのがイームズチェアでした。正確にはオリジナルではなくて、ハーマンミラーの椅子ですが・・・。20数脚はあったでしょうか。来客との打ち合わせ用です。昭和40年代の初め頃でしたから、その椅子はたしかブルーでしたが、ティーラウンジのようで、設計事務所のロビーとしては斬新な印象でした。


初期の「イームズ・チェア」は、合板成形で、安価で、軽くて、スタッキングできるという特徴を持っていました。この成形技術は、軍事用品に応用されたというから面白い。骨折治療のための添え木をこの合板でデザインしたのでした。太平洋を見下ろす「イームズ・ハウス(ケース・スタディ・ハウス)」は、鉄骨造で、プレハブで、軽くて、オープンなシステムで、気候のいいカリフォルニア・デザインの典型といった感じです。


イームズ夫妻については、デザイン業界ではまさにアメリカン・ドリームを獲得した成功者と言っていいでしょう。中盤にはアメリカという国とイームズ映画の関係が濃密に描かれます。いろんな人がいろんな立場からイームズ夫妻をこれでもかというほどこき下ろす、最後にはチャールズの愛人登場があったりして、けっこう楽しめる映画です。


サーリネンは独立後、わずか11年間の建築家活動の後に、1961年他界します。残された多くの未完のプロジェクトはケビン・ローチの事務所が引き継ぎ、完成させました。


ケビン・ローチは1922年ダブリン生まれ。アイルランド国立大学を卒業後、アメリカ合衆国に移民。イリノイ工科大学に入学し、建築学科の主任教授だったミース・ファン・デル・ローエの下で学ぶも学費不足で中退。その後、チャールズ・イームズの親友だったエーロ・サーリネンの下で働くことになり、イームズ夫妻と交流を持つようになる。(映画のカタログより)


「ふたりのイームズ」を観て、ケビン・ローチが何回かインタビューに答えてコメントしているのは、すぐに分かりました。


大学の先生の案内で研究室の仲間とアメリカ建築の視察旅行に行ったのは1972年でした。思い出すままに僕が観たケビン・ローチの作品を挙げてみます。

オークランドにある「オークランド美術館」1961-68

ニューヨークにある「フォード財団本部」1963-68

ニューヘブンにある「ナイツ・オブ・コロンバス本社」1965-69

ほかに、「ナイツオブコロンバス」のお隣の「ジムナジウム」

ニューヘブンの「リチャード・リー高等学校」等々


ケビン・ローチのコメント

チャールズが何者なのか、われわれは誰もよくわかっていなかった。建築家なのか、デザイナーなのか、それとも映画監督なのか。とにかく、みんなが彼になりたいと願っていた。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:世界中で親しまれているイームズ・チェアの生みの親として知られるチャールズ、レイ・イームズ夫妻の軌跡を追ったドキュメンタリー。時代に翻弄(ほんろう)されながらも家具や建築など多岐にわたって作品を生み出し、20世紀に興隆したミッドセンチュリー・モダンをけん引した彼らを追う。多くの手紙や写真、数々の作品群、そして関係者へのインタビューを通じ、イームズ夫妻の知られざる素顔から目が離せない。

ストーリー:画家志望のレイ・カイザーと建築家チャールズ・イームズは、自分たちの才能を生かすべくイームズ・オフィスを設立。戦争や急激な近代化など時代に振り回されながらも、家具や建築など多くの作品を世に送り出し、当時のデザイン界をリードした。手紙や写真をはじめ、イームズ・オフィスの元スタッフや家族へのインタビューを通じ、イームズ夫妻に迫る。


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「ふたりのイームズ 建築家チャールズと画家レイ」公式サイト





安村敏信の「江戸絵画の非常識 近世絵画の定説をくつがえす」を読んだ!

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安村敏信の「江戸絵画の非常識 近世絵画の定説をくつがえす」を読みました。著者の安村敏信とはどんな人か?


安村敏信:略歴

1953年、富山県生まれ。東北大学大学院修士課程(日本美術史)終了。1979年より板橋区立美術館に勤務。同館館長。江戸狩野派の研究と作品の発掘に携わり、「江戸狩野派の変貌」「宋紫石とその時代」「我ら明清親衛隊」など、江戸絵画の魅力を伝えるユニークな展覧会を数多く企画している。主な著書に、「美術館商売 美術なんて・・・と思う前に」(勉誠出版、2004年)、「もっと知りたい狩野派―探幽と江戸狩野派」(東京美術、2006年)ほか多数。共編著に、「広重と歩こう 東海道五十三次」(小学館、2000年)、「狩野一信五百羅漢図」(小学館、2011年)ほか。


2011年5月に江戸東京博物館で開催された「五百羅漢 幕末の絵師狩野一信」展の関連企画として、シンポジウム「知られざる幕末の絵師 狩野一信」に参加し、安村敏信の風貌に僕は初めて接しました。安村と山下裕二と丁々発止の議論は、満員の会場を唸らせるものがありました。

僕の狩野一信の「五百羅漢」体験は、1回目は、初めて観たことになりますが、平成21年秋、栃木県立博物館で開催された「狩野派―400年の栄華―」展でした。出されていたのは第55幅「神通」と、第60幅「神通」の2幅でした。2回目は平成22年秋、板橋区立美術館で開催された「諸国畸人伝」展で出されていたのは第50幅「十二頭陀 露地常座」と、第55幅「神通」、そして第71幅「龍供」の3幅でした。「仏画の世界に妖しげな陰影法を持ち込み、奇想天外な地獄界や神仏・羅漢の世界を活写したこの100幅は、江戸仏画史上の一大金字塔として今後脚光を浴びることになるだろう」と、安村敏信(板橋区立美術館館長)は解説していました。


今回の「江戸絵画の非常識・・・」でも「常識その十二 五百羅漢図」で、かなり大きく取り上げています。展覧会で統一されていた名は狩野一信でしたが、22歳の時易者逸見に会い、大望を抱く異相があるとして家へ連れて行かれ、長女やすと妻合わせて逸見姓の名乗らせたという。一信を「狩野一信」と記したものはなく、法橋・法眼の宣旨の宛名はすべて「逸見一信」であるという。もう一つ、「五百羅漢図」は安村の見るところ、第八十幅以後がまったく異なるとして、八十一幅からは一信の許可がないままに進められたのではないかと疑い始めた、と記しています。これについてはシンポジウムの時も同様の意見を述べていました。


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安村敏信は、略歴にも書いた通り、板橋区立美術館の館長です。大学で美術史を学び、美術館に勤め、江戸絵画史と格闘してきて、江戸絵画史自体が研究史の浅いジャンルだと気づきはじめたという。それなのに、常識だけはさまざまなところに存在した。その常識がおかしいのではないかと疑ったという。その美術史学の常識を問い直す時期に来ているのではないか、というのは、この本の執筆の目的だったと、安村はいう。「十三の常識」の項目は安村が板橋区立美術館で開催してきた特別展の題名と重なり合うという。


数少ないですが、僕が板橋区立美術館へ行って観た展覧会を下に載せておきます。東武東上線・東京メトロ有楽町線成増駅北口よりバスに乗って、やや遠いのが玉にきず。催し物が安村敏信館長の個性を反映してか、なかなか一風変わっていて毎回独特のものがあります。マニア垂涎の美術館、といったら言い過ぎか? と、以前、書いたことがあります。「明清親衛隊」とか「諸国畸人伝」とか「実況中継EDO」といわれても、これが展覧会の題目なのか、毎回迷うところがあります。府中市美術館の「江戸絵画シリーズ」と板橋の企画もの、なかなかの好敵手です。


僕が最初に板橋に行ったのは「一蝶リターンズ」でした。そこで初めて英一蝶を知りました。沈南蘋も、宋紫石も、板橋で知りました。手元にある「諸国畸人伝」の図録を開いてみると、菅井梅関、林十江、佐竹蓬平、加藤信清、狩野一信、白隠、曾我簫白、祇園井特、中村芳中、絵金、と、10人の画家が取り上げられています。そのうち「江戸絵画の非常識」には「常識十一 奇想派はあった」のなかに、林十江、土佐絵金、中村芳中、佐竹蓬平らが取り上げられて、詳細に解説されています。河鍋暁斎についても、数ヶ所で取り上げられています。


「常識その十錦絵」の項で安村は、次のように言います。肉筆浮世絵の作品のみ目を向けて浮世絵を語ると、どういう風になるだろうかという誘惑にかられている。そのためあえてこの項を立てて、肉筆浮世絵師なるものを叙述してみたいと思う。として、岩佐又兵衞、菱川師宣から始まり、安度・長春・祐信らの肉筆画、鈴木春信、勝川春章らの錦絵、淸長・歌麿・栄之の美人画、俊満と北斎・広重の美人図、国芳・暁斎・芳年・清親、等々、怒濤の肉筆浮世絵の歴史を、さすがに美術史家らしくクールに書き出しています。



目次

はじめに

常識その一

 俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は、晩年に描かれた傑作である。

常識その二

 光琳は宗達を乗り越えようとして、琳派を大成した。

常識その三

 江戸狩野派は粉本主義によって疲弊し、探幽・常信以降は見るべきものがない。

常識その四

 応挙が出て京都画壇は一変した。

常識その五

 長崎に渡来した沈南蘋は、三都に強い影響を与えた。

常識その六

 秋田蘭画は秋田で描かれた。

常識その七

 封建社会の江戸では、閨秀画家の場は少なかった。

常識その八

 上方で大成した南画は、谷文晁によって江戸に広められた。

常識その九

 浮世絵は江戸庶民に芸術であり、浮世絵師になったのも庶民である。

常識その十

 浮世絵は後に錦絵といわれるように、版画が主流である。

常識その十一

 奇想派があった。

常識その十二

 東京芝・増上寺の「五百羅漢図」100幅は、狩野一信によって描かれた。

常識その十三

 油絵は明治になってから描かれた。

資料

 将来の美術史へ向けての基礎的事実

おわりに

 参考文献

 所蔵先一覧

 索引


「板橋区立美術館」ホームページ


シンポジウム「知られざる幕末の絵師 狩野一信」を聞く!


過去の関連記事:板橋区立美術館

板橋区立美術館で「我ら明清親衛隊」を観た!

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板橋区立美術館で「諸国畸人伝」展を観た!
板橋区立美術館で「浮世絵の死角」展を観た!その1
板橋区立美術館で「浮世絵の死角」を観た!その2
板橋区立美術館で「一蝶リターンズ」を観た!





松岡美術館で「松岡コレクション 印象派とその時代」展を観た!

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松岡美術館で「松岡コレクション 印象派とその時代」展を観てきました。


今回の「印象派とその時代」展は、印象派の誕生から約100年を経て、西洋絵画に目覚めた松岡清次郎のコレクションの中から展示されます。いつもながら、次々と出てくるそのコレクションの幅の広さには驚かされます。


松岡コレクションには、ブーダンからモネやピサロも、しっかり揃っています。印象派の流れをつかむのに最適なコレクションです。。ピエール=オーギュスト・ルノワールの「リュシアン・ドーデの肖像」や「ローヌの腕に飛び込むソーヌ」、ジョン・エヴァレット・ミレイの「聖テレジアの少女時代」やチャールズ・エドワード・ペルジーニの「束の間の喜び」は、いつ観ても心を癒してくれます。エドワード・ジョン・ポインターの「小さな災難」も、僕の好きな作品です。こうしてみると、風景じゃないものが好きなようですが・・・。


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展示室5
ブーダン、モネ、ルノワール、シズレー、ピサロ、ギヨマンなど、第一回印象派展に参加した作家と、ロワゾー、モレ、プティシャンといった印象派の流れをくむ作家たちの作品を26点展示。・・・印象派の世界

展示室6
一方、同時代にサロンで活躍したフランスのブーグローや、イギリスでラファエル前派兄弟団を設立したメンバーの一人でもあるJ・E・ミレイ、風景画を数多く描いたリーダーなどを15点展示。・・・美しき伝統












「松岡コレクション 印象派とその時代」展
1874年4月15日パリの街角で始まったひとつの展覧会が、絵画世界の新しい扉を開きました。『印象派』の誕生です。一人の批評家が辛辣に批判した若い芸術家グループが、これ以降、世界中の洋画ファンを魅了し、また世界中の画家たちに影響を及ぼすことになると、このとき誰が想像したでしょう。それから20年後の1894年、日本に生まれた松岡清次郎も、後に彼らの絵画に出会いファンとなった一人でした。『印象派』の誕生から約100年を経て西洋絵画の蒐集を始めた松岡のコレクションから、本年はブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、などからギヨマン、ロワゾー、モレなどの作品と、同時代にイギリスやフランスなどで描かれた作家の作品をご紹介します。


「松岡美術館」ホームページ


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松岡美術館で「松岡コレクション うつわのかたち」展を観た!

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松岡美術館で「松岡コレクション うつわのかたち」展を観てきました。


手と耳と植物にちなんだかたちに注目した、中国や日本などの東洋陶磁器のほか、古代ギリシャ陶器、古代ガラス、ペルシャ陶器、中国清朝玉器など、約50点が展示されていました。とはいえ、この分野はまったくの素人、何回観てもよく分かりません。が、しかし、数を観ること以外に、いい手はありません。また整理の仕方もよく分かりません。従って、毎度のことですが、会場に展示してあった解説文に従って、以下の文章を書きました。


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手のあるうつわ

私たちが生活する上で欠かせない水や油、酒や茶といった液体を容れて、キッチンや食卓で使用するうつわには、把手(はしゅ・とって)が付けられています。ここで紹介するのは、紀元前6世紀~19世紀というおよそ2500年という永い年月の間に作られた手のあるうつわですが、いずれも美しさと実用性を兼ね備えています。



黑絵式陶器:

人物を黒いシルエットで表す古代ギリシャ陶器のスタイルのひとつ。顔や着衣のドレープなどの白い細線は、黒く塗った上から針のような先の尖った道具で引っ掻くようにして描かれています。黒絵式陶器では女性は肌を四六塗られています。このオイノコエの両面中央が女性で、アテネの守護神であるアテナ。向かって右は酒神ヂュオニソス、左は伝令神ヘルメスです。






耳のあるうつわ

こちらでは耳のあるうつわをご紹介します。耳とは、壺などの肩に付けられた両手で持つための把手や、壺の蓋を固定するための紐や縄を通すリング状の部分などを指します。本来は実用的な役目を果たす耳ですが、純粋に飾りとしてデザインされる場合もあります。壺の両肩にひとつずつ付いていると「双耳」、もっと多い場合はその数によって「八耳」、「多耳」などと呼びます。装飾としての耳には、龍の姿をした「龍耳」、花が付けられた「花耳」などさまざまなかたちがあります。




植物のかたち

千変万化な姿をみせる植物は、自然がもたらしたデザインの宝庫といえるでしょう。遙か古の時代から洋の東西を越えて、建築や工芸など人間がつくり出してきた数多くの造形に、そのかたちは反映されてきました。水柱や瓶に象られた瓢箪や白菜、瓶の口や盤に写し取られた美しく咲く花々。ここでは、わたしたち現代人にとっても身近な、くだものや野菜、花など植物のかたちを表現したうつわをご紹介します。


柑子口瓶:

柑子とはミカンのこと。ふくらんだ口のかたちをミカンに見立てて日本では柑子口瓶と呼んでいます。中国での名称は蒜頭瓶(さんとうへい)、ニンニクの頭をした瓶という意味です。もともとは漢時代の青銅器で、お酒を注ぐうつわでした。



花咲くうつわ:

花はさまざまなかたちでうつわにデザインされています。

チューリップがが咲いたような「ラスター彩花鳥文花口瓶」
うつわそのものが花の姿の「ラスター彩花文輪花鉢」

口もとに咲く花「正寺彫花花文杯」「白磁百合口瓶」




「松岡コレクション うつわのかたち」展
松岡コレクションには、世界中のさまざまな地域、さまざまな時代に製作された、多種多様なうつわが収蔵されています。日々のくらしで利用する道具としてのうつわには、地域や時代を越えて共通するかたちがみられます。また、鑑賞するためにつくられたうつわには美しい装飾が施され、わたしたちの目を楽しませてくれます。本展は手と耳と植物にちなんだかたちに注目して、中国や日本などの東洋陶磁器のほか、古代ギリシア陶器、古代ガラス、ペルシア陶器、中国清朝玉器など約50件で構成いたします。

「松岡美術館」ホームページ


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窪島誠一郎の「父 水上勉」を読んだ!

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窪島誠一郎の「父 水上勉」を読んだ!


窪島誠一郎のことを最初に知ったのは、もちろん「無言館」でした。それが「日曜美術館」が先だったのか、「無言館ノオト」(集英社新書:2001年7月22日第1刷発行)が先だったのか、はっきりしませんが、それはどっちでもいいことです。「信濃デッサン館」と「無言館」を見に行ったのは、秋も深まり、林檎がたわわに実る2009年11月のことでした。若き日の自伝的な作品「明大前」物語を読んで、同じ世田谷区の住民として妙な親近感を抱きました。今でも明大前には時々行き、「キッド・アイラック・ホール」の前も通ります。「キッド・アイラック」とは、「喜怒哀楽」から来ていることは言うまでもありません。


水上勉の作品は、小説では直木賞を受賞した「雁の寺」を始め、「越前竹人形」、「はなれ瞽女おりん」、「五番町夕霧楼」、だいぶ後になってから伝記文学として「良寛」、「一休」を読みました。他に初期の自伝的なエッセイ「わが六道の闇夜」や、日本経済新聞に連載していた「私の履歴書」、朝日新聞に連載していたもの(題名は忘れたが「私版東京図絵」だったか?)、等々、読みました。いま、題名を観ると映画化された作品も多いし、またパルコ劇場で舞台化されていた「越前竹人形」他何本かは観に行きました。今でも覚えています。開演前に劇場のロビーで見かけた背は高くはないが恰幅のいい水上勉のことを・・・。


1961年(昭和36年)上期の第45回直木賞を受賞した「雁の寺」は、水上勉の声価を決定的なものにした重要な作品です。僕は父の本棚にあった「文藝春秋」で読んだ記憶があるのですが、直木賞だから「オール読物」だったのかもしれません。なにしろ僕がまだ中学生か、高校生だった頃のことです。水上の僧侶時代の経験を下敷きにした作品で、貧困家庭から出家した少年僧が、和尚の乱れた荒淫生活、階級重視、女性蔑視の日々を告発、やがて和尚を殺害するという筋立てです。


「父 水上勉」の第1章ともいうべき「虚(うそ)と実(ほんと)」には、以下のように書かれています。

わたしは戦時中に2歳と9日のときに父親と離別し、その後養父母のもとに実子として貰いうけられ育てられた子で、戦後30余年も経ってから父と再会したのである。すでに人気作家の頂点にあった父親と、一介の小さな画廊の経営者だったわたしの対面は、当時のマスコミに「奇跡の再会」とか「事実は小説より奇なり」などと取り上げられ、わたしが約20年間も親をさがしてあるいた「物語」は、NHKの連続ドラマにまでなった。再開時、父は58歳で、子どものわたしは35歳であった。


そういう自分が、実父である水上勉を書くにあたって肝に銘じたことはなにか。「人間、そうかんたんに自分の本当の姿がわかるものではない。自分のことがわからないくらいだから、他人のこととなれば尚更である」と言った父親の水上勉の言葉だという。父水上勉のことを、その人の真実などとても分からないだろうと思いながら、書き始めているのである、という。


とはいえ、エピソード満載のこのエッセイは、まったく飽きさせることがなく、最後まで面白可笑しく、時には涙しながら読ませる文章で埋め尽くされています。なんだんだ、この面白さは!事実は小説より奇なり、を突き抜けると、八方破れも面白さがあります。登場人物も一人一人が、本来なら深刻にならなければならない時でも、生き生きして楽天的です。1961年、直木賞受賞作「雁の寺」が文藝春秋から完工された翌月の9月、次女直子がうまれます。直子は先天性の脊椎破裂症をもった子でした。昭和38年2月に中央公論に発表した直訴文「拝啓池田総理大臣殿」が面白い。水上の郷里は若狭、そこにある福祉センターは原子力発電所建設の見返りに、莫大な助成金で建てたもの。水上が書いたエッセイは、あまりにも予言的で、示唆的だ窪島はいう。


もちろんこの本「父水上勉」の主人公は父・水上勉と、その子・窪島誠一郎です。よく似てるんだ、これが・・・。


ほぼ最終章に近い章に「ふたたび、血とは何か」がある。窪島は「父に負けないくらい、私も女好きのほうである」と告白しています。が、その他にも、「虚言癖」「放浪癖」「普請癖」「女好き」「血縁ギライ」、父から譲られた血は色々あるが、結局のところ、それらはすべて、私たち父子がもつのっぴきならない「孤独感」「独りぼっち感」から来ているように思われると、窪島は言う。それは要するに、自分以外の人間を信じることができず、常に人の心を疑い、人から与えられる愛情を秤にかけ、その結果、にっちもさっちもゆかない孤独の底に置かれてしまうという自業自得の症状だ、と分析しています。


最後に「母の自死」という章があるが、これは悲しい。「水上勉との間に私をもうけた生母の加瀬益子が、東京田無の自宅で首を吊って自殺したのは1999年6月11日のことである。・・・あと半月ほどで82歳になるところだった」。窪島が母の死を知ったのは、益子が死んで5年後の平成16年の5月上旬のことだったという。母の郷里は千葉県、益子の家では獲れなかったが、周りには落花生の生産農家が多く、収穫期になると送ってよこした。父がホテルでカンヅメになっていたとき、二人で皮を散らかしながら食べたという。病床の父には、母が自殺したことは知らせなかった。平成11年の6月に益子が死んだのを告げたときにも父は興味なさそうだったという。もう60年以上も前の戦争中のことだ。「落花生を送ってきた人なんだけど・・・」、臨終の夜、窪島が呼びかけても、高イビキの父は何も答えなかった。


窪島誠一郎:略歴
1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て1964年、小劇場の草分け「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。
1979年、長野県上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設。
1997年、隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
2005年、「無言館」の活動により第53回菊池寛賞受賞。
主な著書に「「無言館」ものがたり」(第46回産経児童出版文化賞)、「鼎と槐多」(第14回地方出版文化功労賞)、「無言館への旅」、「祖餐礼讃 私の『戦後』食卓日記」など。



[目次]
虚(うそ)と実(ほんと)
生家の風景
出家と還俗
寺の裏表(うらおもて)
放浪、発病
冬の光景
三枚の写真
結婚、応召
「八月十五日」
文学愛(いと)し
堕胎二夜
血とは何か
薄日の道
文壇漂流
今に見ていろ
「雁の寺」から
直子誕生
飢餓海峡
邂逅の時
成城、軽井沢
こわい父
「血縁」ギライ
京都、百万遍
一滴の里
女優泥棒
竹紙と骨壷
ふたたび、血とは何か
北御牧ぐらし
病床十尺
母の自死


過去の関連記事:

「『戦争』が生んだ絵、奪った絵」を読んだ!

「信濃デッサン館」「無言館」「無言館第2展示館」:建築編
窪島誠一郎の「私の『母子像』」を読んだ!
窪島誠一郎の「明大前」物語を読む!
「無言館ノオト――戦没画学生へのレクイエム」

連続講座「書物の達人―丸谷才一」、関容子「『忠臣蔵とは何か』について」!

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丸谷才一:略歴

小説家、文芸評論家、英文学翻訳家。1925年山形県生まれ。東京大学英文科卒業。日本の私小説的な文学を批判し、古今東西の文学についての深い教養を背景に、知的で軽妙な作品を書いた。「笹まくら」「年の残り」「たった一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」などの小説の他に、「忠臣蔵とは何か」「文章読本」「新々百人一首」などの評論、随筆、ジョイスの「ユリシーズ」などの翻訳と幅広い分野で活躍した。書評を文芸の一つとして位置づけることにも取り組んだ。2011年文化勲章受章。2012年永眠。

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「忠臣蔵とは何か」について

関容子:略歴

エッセイスト。1935年東京生まれ。日本女子大学卒業。「日本の鶯―堀口大学聞き書き書」は大学と丸谷の対談に構成者として同席したことがきっかけで生まれた。ほかに「花の脇役」「芸づくし忠臣蔵」「海老蔵そして團十郎」「新しい勘三郎―楽屋の顔」などがある。


「忠臣蔵とは何か」は、丸谷さんの評論活動のなかでも特異な重要さを占める著作です。関容子さんは忠臣蔵に関する著作をお持ちになるばかりでなく、歌舞伎の世界の現場の事情も知悉しておられる演劇通です。「忠臣蔵とは何か」に展開される議論の機微を深めるのに、打ってつけの方といえます。丸谷さんの独自の創見がどのようなものになるのか。改めて解きほぐされるに違いがありません。(菅野昭正館長)


関容子:

丸谷先生の「忠臣蔵とは何か」という本はどういう本か、「あとがき」に次のようにあります。


これは忠臣蔵といふ事件と芝居を江戸時代の現実のなかに据ゑながら、しかも、古代から伝わるわが信仰と関連づけ、さらには、もつと普遍的な(全世界的と言ってもいいかもしれない)太古の祭とのゆかりを明らかにした本である。


書き出しは、芥川龍之介と徳富蘇峯の座談会での発言です。芥川の亡くなるちょっと前の発言です。まず芥川の発言。「元禄の四十七士の仇討の服装といふのは、あれは元禄でなければ無い華美な服装なものですね。あの派手な服装は如何なる時代にもなかってやうですね。前時代から生き残った古侍があの服装を見たらさぞ苦々しく思ったでせう」。徳富蘇峯が上機嫌で次のように言います。「彼等はなかなか遊戯気分でやってゐるんです」と。座談会の常として、話題はすぐ別のことに転じてしまい、忠臣蔵論はこれだけでした。しかし丸谷先生は、「これだけでも重文に値打ちがある」と続けています。


この時36歳の小説家と、65歳の歴史家とは、忠臣蔵を解明するための最上に手がかりを、つい口にしてしまった。他の忠臣蔵論のなによりも、遙かに洞察に富んでいるように、あるいは少なくとも刺激的であるように思われてならない、と丸谷さんはいう。このとき芥川の念頭にあったのがどういう服装だったのか、史実のほうの衣装なのか、芝居のそれなのか、一概には決しにくい難しい問題である。赤穂浪士はあの夜、芝居で見るあのいでたち、左の選りに元禄十五年極月十四日、右の襟には播州赤穂浅野内匠頭家来何のなにがしと書いた白布をつけ、黒と白の山形模様(三角鱗形)を袖に染めた小袖、という服装で討ち入りしたのではなかった。揃いの火事衣装で敵の邸を襲うのは歌舞伎と人形浄瑠璃の工夫で、史実とは異なるのである、と丸谷先生は言います。


丸谷先生は、幾つかの例をあげて火事装束でなかったことの傍証としています。どうやら一体に、機能性を重んじながら、しかも華美で贅沢な服装だったらしい。彼等はいわば華麗な夜盗のいでたちで吉良の邸に乱入します。蘇峯が評して、「これを見ても元禄武士の何者であるかが、想像せらるるのみでなく、また元禄時代そのものが、躍如として活現せらるる感がある」と言うのは、この派手好みに喝采しているのであると、丸谷先生は言います。そして蘇峯の「彼等はなかなか遊戯気分でやっているんです」という台詞は、史実の討ち入り装束がてんでんばらばらでありながら華美でしかも機能性に富むよりはむしろ、ユニフォームになっている芝居の衣装のほうに一層ふさわしいような気がしてならないと、丸谷先生は別のところで言います。


日本人は300年の間、殊にこの100年間はなおさら、赤穂の浪士を武士の鑑と見なし、彼等の仇討ちは武士道の精華であると考えた。あるいは、そういう考え方を何となく受け入れて、別に疑おうともしなかった。どうやら、君主の敵を討ったから忠義であり、そして忠義は武士の徳目の最たるものだからあれは武士道というわけらしい。だが、四十六人がどんなに忠節の士であっても、怨恨が猛威をふるうことをもし彼等が信じていなかったならば、あの仇討ちは起こりえなかったであろう。(「忠臣蔵とは何か」本文より)


「3 劇的な事件」で、江戸時代は鎌倉時代に兄事していた。鎌倉時代を直接のように見なして、これに学ぼうとする気持ちが強かった、と丸谷先生はいう。江戸時代は、曾我兄弟の仇討ちに共感を持っていました。元禄16年、関東に大地震が起こります。これは浪士たちの怨霊だ。綱吉の悪政に悩まされていた。曾我ものを元禄元年、江戸の中村座、市村座、山村座の三坐揃って上演しました。曾我兄弟の怨霊。富士山の噴火、干ばつ、綱吉が10日に亡くなり、11日から雨が降り出す。本当にみんなが幸せになったので、正月の公演は、必ず曾我もの語りをやる。縁起がいいということで演じられている。今でもたくさんの曾我ものが上演されている。


歌舞伎は怨霊をおさめるもの。小栗判官、義経、道真、歌舞伎の人たちは敬って恐れていた。丸谷が出すまでは、特にそうは言われていなかった。丸谷は「カーニバル」と言った。判官は美男子、短慮、さっさと腹を切ってします。カーニバルのキャラクター。横恋慕の悲劇性。三代目菊五郎は立っているのが一番良い。昔の團十郎型は地味な演出でした。丸谷先生の「忠臣蔵とは何か」は、今まで漠然として見ていた忠臣蔵を、がらっと変えた大きな発見であると思います。先日亡くなった勘三郎が、この本を愛読していました。


勘平お軽ではなく、お軽勘平である、という書き出しで「6 祭りとしての反乱」は始まります。勘平のあつかいで作者の腕が最もよく発揮されているのは、彼が極めてて面的な登場人物だと言うことである、として、勘平のいろいろな局面を並べています。


まず靖年であり、次に大名に仕える武士であり、第三に腰元の恋人である。第四に駈落者であり、それゆえ第五に浪人であり、第六に「大事の場にも居り合わさぬ不忠者だが、それにもかかわらず第七に忠臣であり、第八にそのことを証明して復讐の仲間に加えてもらおうと努力する律儀な男である。第九に猟師であり、第十に百姓家の娘の夫であり、第十一に百姓夫婦の婿であり、第十二に金策に困り抜いている貧乏人であり、第十三に遊女の夫である。ここから話は厄介になるが、第十四に過失致死及び窃盗の犯人であり、第十五に過失致死及び窃盗の主観的な容疑者であり、第十六に殺人および強盗の客観的な容疑者であり、第十七に自殺者であり、第十八に殺人強盗の冤罪の張れた青天白日の身の男であり、第十九に姑の仇を討った孝子であり、第二十に討ち入りに参加する亡霊である。(「忠臣蔵とは何か」本文より)


丸谷先生は、普通はこんなこと考えないよね、と勘三郎さんと話していました。血で濡れた財布、それがもとで勘平が腹を切ることになったのを悔やんでいました。財布の焼香は、丸谷が気にいっていました。綺麗な結末が付くこと、大団円の結末が付くこと。平成中村座でやるときは、丸谷が勘三郎に頼んでいました。丸谷が書いた本が歌舞伎役者に大変刺激になっています。仁左右衛門が今度は北野天満宮でやりたいと言っていた。勘三郎は喧嘩っ早いところを受け継いでいるのでといったら、丸谷はそれはよくないから、評論家が何を言っても僕に言ってもらえば、代わりに代筆してあげるよと言っていました。穏やかにやってあげると、意気投合していました。


丸谷と勘三郎と関、三人で新年会をやっていました。しかし、勘三郎さんも丸谷さんもお亡くなりになりました。去年、二人ともお亡くなりになったのはたいへん残念です。


会場からの質疑1:

この本に対する歌舞伎界の反応はどうだったか?

開場からの質疑2:

歌舞伎はバロック演劇の影響を受けているとの説もあるが?




「連続講座 書物の達人 丸谷才一」

丸谷才一氏の文学の仕事は、振り幅がまことに大きくひろがっていました。長篇小説と短編小説。「源氏物語」と王朝和歌をはじめ、日本文学の伝統を新しく考え直す論考。明治以降の近代文学をめぐる新鮮な創見。イギリス文学を中心とする西欧の古今の文学にむけた、独自の卓見。とくにジェイムズ・ジョイスの研究および翻訳。豊かな学識を知的なユーモアを溶けあわせた随筆。丸谷氏は連歌、俳句の実作にも成果をあげました。対談あり鼎談あり各種の座談の名手でしたし、さらに会合や儀式の挨拶を掌編文学とでもいうべき佳品に、結晶させてしまう妙手でもありました。それほど幅ひろい卓越した業績すべてに亙って、隅々まで総合的に俯瞰し、そして筋道を通すのは決して易しい試みではありません。私ども世田谷文学館ではその難問に挑むべく、このたび講演シリーズを開催することにいたしました。丸谷氏の文業に親しく接してこられた方々を講師にお招きして、豊富な文学的遺産を総覧する充実した催しにしたいと願っております。丸谷才一氏の仕事を通して、日本文学の現在と未来をあらためて熟考する機会になるものと信じ、多数の方々のご来館を期待しております。

世田谷文学館 館長 菅野昭正


「世田谷文学館」ホームページ


とんとん・にっき-tyuushin 「忠臣蔵とは何か」

講談社文芸文庫

著者:丸谷才一

1988年2月10日第1刷発行
2011年7月1日第13刷発行

発行所:講談社

アルフレッド・ヒチコックの「めまい」を観た!

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アルフレッド・ヒチコック作品「めまい」について


昨年でしたが、2012年「世界の偉大なる映画」のNO1になったというニュースが・・・。

過去50年間、NO1に君臨していたのはオーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」。

「めまい」は10年おきの名作選で徐々にランクを上げていました。

1982年は7位、92年は4位、2002年は2位に、そして2012年には1位に・・・。


また、2012年の新作「ヒチコック」、ヒチコックの名作「サイコ」の制作模様を映画化。

試練の連続だったその逆境を支えたのは、優れた映画編集者にして、

ひらめきにみちた脚本家であり、ヒチコックの生涯のただ一人の妻アルマでした。

アンソニー・ホプキンスやスカーレット・ヨハンセンが出るものの、

なぜか観たいとは思いませんでした。


そして、2013年のカンヌ映画祭、その主賓は「めまい」の主役を務めたキム・ノバック。

1958年に撮影された「めまい」は、さまざまな解釈があるものの、

数あるヒチコック作品のなかでは(僕の中では)NO1の作品です。


そんなこんなで録画してあったヒチコックの作品を見てみようと思い立ちました。

「サイコ」はDVDに撮ってあることは知っていましたが、あまり見たくない。

次善の策として、ヒチコックの「裏窓」撮っておいたので観ようと思ったら、

ちゃんと録画できていなかった。どうもDVDに移し替えたときに消えてしまったらしい。

「めまい」、テレビで放映していたものをDVDレコーダーに取っておいたと思い探しかけれど、

いくら探しても見つからない。ところがなんとDVDにしっかり残っていました。


どうでもいい話をぐだぐだと並べ立てましたが、なんとか「めまい」を、

それもヒチコック作品のなかで、僕のなかではNO1の作品を観ることができました。

とはいえ、この「めまい」は、もう何度も観ているのです。

最初に観たのは、いわゆる二番館、名画座というヤツです。

飯田橋の「佳作座」だったように思います。若い頃、よく通いましたから・・・。

その後、レンタルビデオが出て、時代はDVD、そしてブルーレイの時代です。


なかなか「めまい」の本論に入っていけません。

今まで言い尽くされた感がある「めまい」ですが、人によって解釈はまちまちです。

疑問点も多々ありますが、いろんな解釈があるから、映画は面白いのです。


まあ、僕はやはりこれは純愛もの、ラブストーリーだと思います。


物語のなかほど・・・。

まだ自分を取り戻すことができないまま、町をさまよっていると、

なんとマデリンに瓜二つの店員の女性を発見します。

彼はいつしか彼女の面倒をみてやることになっていきました。

次第に化粧や服装をマデリンと同じにさせようとし、彼女はそれを嫌います。

この辺りで二人の愛が芽生えることになります。

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東京ステーションギャラリーで「エミール・クラウスとベルギーの印象派」を観た!

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東京ステーションギャラリーで「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展を観てきました。


2010年9月4日から10月24日に、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「フランダースの光~ベルギーの美しき村を描いて」は、古都ゲント近郊の村、シント・マルテンス・ラーテムという芸術家村に移り住んだ芸術家たちの作品を時代順に、象徴主義、印象主義、表現主義という三つに分けて紹介した展覧会でした。また、この地にゆかりのある日本人画家である太田喜二郎と児島虎次郎の作品もあわせて展示されていました。

Bunkamuraザ・ミュージアムで「フランダースの光」展を観た!


今回の「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展と重なり合うところは、エミール・クラウスを取り上げた第2章の「移ろいゆく光を追い求めて」でした。そこでの目玉はチラシにもなったエミール・クラウスの「刈草干し」(今回は出品されていません)でした。画面中央に刈り取った草を肩に担ぐ女性が、逆光の中、つまり女性の背後から強い光があたり、手前に影を落としています。今回の展覧会でその時と同じ作品が出されていました。それは、エミール・クラウスの作品、今回のチラシにも取り上げられた「野の少女たち」、「レイエ川の水飲み場」、そして「フランダース地方の収穫」です。


ざっと数えてみると、エミール・クラウスの作品は11点もありました。今回のエミール・クラウスの作品は29点ですから確かに多いことは多い。がしかし、それだけでチラシにある「ベルギー印象派の画家、エミール・クラウスについての日本初の展覧会」とは言えないのではないでしょうか。もちろん、展覧会の切り口が双方異なっていることは確かなことです。一方はラーテム芸術家村の画家たちの作品、しかも年代順に象徴主義、印象主義、表現主義という分類をしています。もう一方は、印象主義、新印象主義というくくりでまとめられています。いずれにしても二つの展覧会を併せて観ることにより、ベルギーの画家エミール・クラウスとその「ルミニスム(光輝主義)」についての理解が深まることは言うまでもありません。


「ルミニスム(光輝主義)」とは何か?ゲント美術館のヨハン・ド・スメットは図録の巻頭論文「エミール・クラウスとベルギーのルミニスム(1890-1914)」のなかで、次のように述べています。「1890年初頭から、クラウスの受容した印象主義は『ルミニスム(光輝主義)』という言葉で言い換えられた。・・・筆者はこの語を、フランス印象主義に影響を受け、自由で粗い筆遣いと明るい色彩を組み合わせたあらゆるベルギー美術を集合的に指すものとして使用したい」と。もちろん、クラウスのルミニスムは様々な影響を受けて発展しました。モネを出発点として、シニャックを経て、ピサロの影響は1900年頃に様式を確立する上で特に大きな役割を果たしました。「クラウス的」作品の特性は、後により自由な様式に取って代わられ、第一次世界大戦中のクラウスは再びモネの作風に近づいている、とスメットは言います。


1882年にゲント近郊を流れるレイエ川沿いのアステヌを訪れたクラウスは、その後「陽光(ゾンヌスヘイン)荘」と命名した小屋をアトリエに構えて、この地の農民たちの姿や農村風景を描くようになります。1889年から数年間、冬期のみパリに滞在し、ここで目にしたフランスの印象派、特にモネに大きな影響を受けたことが一つの転機となりました。以後、彼の作品は急激に明るさを増し、逆光の中に対象をとらえ、画面はまばゆいばかりの光にあふれるようになります。1904年には、クラウスは「生と光」というグループを結成します。その名の通り「光」(ルミエール)も探求を掲げたメンバー達の作品の傾向は、「ルミニスム」と呼ばれ、日本語では「光輝主義」とも訳されます。クラウスはその中心人物として、ルミニスムを牽引し、第一次世界大戦以前のベルギー美術に大きな影響を与えました。


作品について何かを書くという力は僕にはありませんが、以下に簡単に感想だけを書いておきます。まず驚かされたのはエミール・クラウスの「タチアオイ」でした。まさしく日本人好み、日本的な美意識、酒井抱一の「立葵図」ですよ、これは!驚きました。今回の展覧会、目玉はと言われると、この2点、エミール・クラウスの「昼休み」と「野の少女たち」でしょう。「昼休み」は戸外で農作業をする人々が題材。スカートの裾を縛りあげ、籠と荷物を手に提げた女性が、作業の手を休める仲間のもとへ草花のなかを歩いて行きます。背を向けた女性の表情は分からないが、陽はまだ高く、眩しい日差しを顔に受けているのでしょう。逆光の中、草花の描写は写実的でもあります。


エミール・クラウスの「野の少女たち」、これも逆光、午後の強い日差しを背中に受け、家路へと急ぐ子どもたちは裸足で、その表情はなぜか不安げでもあります。エミール・クラウスの「昼休み」と「野の少女たち」、この2点を観れば、今回の展覧会の大方の目的は達したと言えるでしょう。草花の描写がアンドリュー・ワイエスと似通っているという指摘もあります。農作業を終えて家路を急ぐ老夫婦を描いた「仕事を終えて」を観ると、ワイエスと通底したものを感じることができます。真冬の寒さで凍りついた川で遊ぶ子どもたちを描いた、まさに題名通りの作品「そり遊びをする子どもたち」、光を追求するクラウスにとっての絶好の題材です。遠景の空と、曲がりくねったレイエ川の蛇行線を境に、奥から左手は岸辺の雪面、右手から手前にかけてのひろい部分は凍りついた川面、という構図で描かれています。全体を一様な白ではなく、ピンク、黄、グレーで塗り分けています。この微妙な色合いは、実際に近くで観なければ分かりません。


展覧会の構成は、以下の通りです。

第1章 エミール・クラウスのルミニスム

第2章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニスム

第3章 フランスの印象派:ベルギー印象派の起源

第4章 ベルギーの印象派 日本での受容



エミール・クラウス(1849-1924)

フランドル西部ワレヘムの小さな村で食料品店を営む家庭に生まれる。1869年、アントワープの美術アカデミーに進学し、在学中の1874年、アカデミーのコンクールで二等に入選する。アントワープ時代は、主に肖像画、風景画、風俗画などをアカデミックな写実で描いた。1882年、「フランス芸術家協会」に出品し、以降、頻繁にパリを訪れるようになった。ベルギーの作家カミーユ・ルモニエを通じて、アンリ・ル・シダネルやフランスの印象派画家に出会い、特にモネの印象主義に影響を受ける。h雁の探求という理想のもと、1904年、ルミニスムのグループ「生と光」をブリュッセルで結成。戸外の光を強く意識しながら描くことに没頭していった。イギリスに逃れていた第一次世界大戦中の1914年から1919年までの間を除き、1883年以降、歿するまでゲント近郊レイエ河畔のアステヌに住み、「陽光荘」と名付けた自宅兼アトリエで数々の秀作を描いた。徹底した田園賛美と光にあふれる表現は国際的な評価を得て、ルミニスムの指導者と呼ばれるようになった。(図録「作家解説」より)


第1章 エミール・クラウスのルミニスム





第2章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニスム


第3章 フランスの印象派:ベルギー印象派の起源



第4章 ベルギーの印象派 日本での受容



「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展

ベルギー印象派の画家、エミール・クラウスについての日本初の展覧会を開催します。1849年に生まれたエミール・クラウスは、フランス印象派などから影響を受け、独自のルミニスム(光輝主義)といわれるスタイルで、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍しました。太田喜二郎、児島虎次郎という2人の日本人画家がクラウスに教えを受けたことでも知られています。ベルギー近代美術史の展開を考えるうえで、また印象主義の国際的な伝播という観点から見たときに、そして日本への影響という意味でも、非常に重要な画家であるにもかかわらず、これまで日本ではクラウスをテーマにした展覧会は開かれてきませんでした。本展は、フランス、ベルギー、日本の印象派の作品とともにクラウスの代表作、あわせて計65点を展示し、国際的な印象主義の展開の中にこの画家を位置づけ、陽光あふれる田園の情景や、自然の中で暮らす人々の姿をいきいきと描き出したクラウスの魅力に迫ります。


「東京ステーションギャラリー」ホームページ

とんとん・にっき-cla2 「エミール・クラウスとベルギーの印象派」

図録

監修:

ヨハン・ド・スメット(ゲント美術館 ヨーロッパ絵画専門学芸員)

冨田章(東京ステーションギャラリー館長)

発行:神戸新聞社


とんとん・にっき-cla1 「フランダースの光」

図録

監修:

ロベール・ホーゼー(ゲント美術館館長)

宮澤政男(Bunkamuraザ・ミュージアム チーフキュレーター)

企画:

Bunkamuraザ・ミュージアム

毎日新聞社

ゲント美術館

発行:毎日新聞社©2010-2011



祐天寺の「ナイヤガラ」でカレーを食べる!

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模型の機関車がカレーを運んでくることで知られる目黒区祐天寺のカレー専門店「ナイヤガラ」が、移転してリニューアルした。店内は、機関車のナンバープレートや列車のヘッドマーク、全国の駅長からの色紙などで埋め尽くされる。マスターの鉄道への憧れがつまった店だ。


上のような書き出しで始まる朝日新聞の記事が出たのが2013年4月5日のことです。僕が知っているのは、祐天寺のすぐ駅前だった頃からです。その後、ちょっと奥に引っ込んだところで長らく営業を続けてきましたが、今回、更に300mほど入ったところに引っ越したとのこと、新聞の記事を読むとそこが創業時の場所だったとか、それは知りませんでした。


なにしろ子どもが小さい頃は、「ナイヤガラ」にはよく行ったものです。店の前にはトレードマークの遮断機もありますし、店に一歩入れば鉄道関連のものがところ狭しと飾ってあります。始めに、食券の代わりに切符を購入します。極めつけは「発車しま~す」のかけ声と共に、模型の機関車がカレーを運んできます。子どもたちにとっては、こんな楽しいことはありません。


店長ではなく、ここでは帽子を被った駅長さんですが、愛想よく注文をとりに来てくれます。「夏は、カレーが一番ですよ!」と話しかけてくれます。帰るときは、店の外で記念撮影に応じてくれました。週末やお昼時は避けて、お客が少なそうな時に行くのがポイントです。ん?カレーの味?それは美味しいに決まっていますよ!







*朝日新聞2013年4月5日の記事

 祐天寺「ナイヤガラ」新装

 カレー乗せて再び発射しまーす

とんとん・にっき-nai20


「カレーステーション ナイヤガラ」ホームページ


過去の関連記事:
祐天寺「ナイヤガラ」のカレーを食べた



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「映画もいいかも」、2013年上半期(1月~12月)のまとめ!

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「映画もいいかも」、2013年上半期(1月~12月)のまとめ!


1月は1本、3月は7本、というように、月によって波があります。

また、「再び」印が多いのも、上半期の特徴です。

つまり新作もので観たいものが少なかったこと、

旧作ものでまた観たいと思いものが数多くあったこと、

によるものです。

観た本数とすれば、例年通りでしょうか。


「マグダラのマリア」関連で、「マレーナ」、「マグダレンの祈り」、

「パッション」を、まとめてみたのは収穫でした。


6月に入り、キム・ギドク「嘆きのピエタ」、大森立嗣「さよなら渓谷」と、

追っかけていた監督の作品を観られたことも嬉しいことでした。


実はTSUTAYAで借りてきてみた旧作、例えば、

「嘆きのテレーズ」、「甘い生活」、「グランドホテル」、「突然炎のごとく」、

「柔らかい肌」、「アメリカの夜」、「歓楽通り」、「めざめ」、「ルイーサ」等々、

観てはいるのですが、ブログにアップしていません。


また、テレビで放映していた作品でDVDに撮ってあって、

いつになったら観られるのか、まだ観ていないものも多々あります。

観るのが追いつかず、たまる一方です。


そうそう、アクセス解析を見ると、モニカ・ベルッチの「ダニエラという女」を

見に来る人が、異常に多いのが目立ちました。


2013年

1月
「映画もいいかも」、2011年(1月~12月)のまとめ!
クリスティアン・ペッツォルト監督・脚本「東ベルリンから来た女」を観た!


2月
トルナトーレ監督、モニカ・ベルッチ主演の「マレーナ」を(再び)観た!
ジェームズ・アイヴォリー監督「眺めのいい部屋」を(再び)観た!
ピーター・ミュラン監督の「マグダレンの祈り」を(再び)観た!


3月
マルグリット・デュラス原作「愛人/ラマン」を(再び)観た!
リンゼイ・アンダーソン監督の「八月の鯨」を観た!
ミヒャエル・ハネケ監督・脚本「愛、アムール」を観た!
西川美和監督の「夢売るふたり」を観た!
ナンニ・モレッティ監督の「ローマ法王の休日」を観た!
ミヒャエル・ハネケ監督の「隠された記憶」を観た!
中上健次原作、若松孝二監督の「千年の愉楽」を観た!


4月
映画「ダメージ」を(再び)観た!
黒澤明監督の「羅生門」(デジタル完全版)を観た!
メル・ギブソン監督の「パッション」を(再び)観た!
ヴィセンテ・アモリン監督の「善き人」を観た!


5月
シドニー・ポワチエ主演「野のユリ」を観た!
ロドリゴ・ガルシア監督の「彼女を見ればわかること」を観た!
イングリット・バーグマン主演の「ガス燈」を観た!


6月
是枝裕和監督の「誰も知らない」を観た!
キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」を観た!
大森立嗣監督の「さよなら渓谷」を観た!
ワン・ビン(王兵)監督の「三姉妹~雲南の子」を観た!

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