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Bunkamuraザ・ミュージアムで「アントニオ・ロペス展」を観た!

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スペインの「リアリズム(写実主義)」というと、2011年、練馬区立美術館で開催された「磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」展がありました。磯江は、大阪市立工芸高校を卒業後、単身スペインへ渡り、プラド美術館で模写をして画家としての力をつけます。スペインには30年余の長きにわたり、スペイン滞在の間に油彩による写実絵画を追求しました。「裸婦(シーツの上の裸婦)」や「深い眠り」、「新聞紙の上の裸婦」は、スペインで、マドリード・リアリズムの画家グスタボ・イソエとして、高く評価されたという。アントニオ・ロペスとは、同時期にマドリードにいたと思われますが、磯江とロペスが接触があったかどうかは分かりません。


マドリードへは一度、行ったことがあります。スペインを代表する美術館である「プラド美術館」と、ピカソの大作「ゲルニカ」のある「ソフィア王妃芸術センター」へ行きました。20世紀初頭にパリやニューヨークを模倣してつくられた大通り「グラン・ビア」は記憶にないのですが、近接する「スペイン広場」には行った記憶があります。「ドン・キホーテの像」があることで有名なので・・・。


さて今回、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展」、観に行ってきました。2枚の展覧会のチラシが印象的です。もうこれだけで十分です、アントニオ・ロペスを理解するには・・・。アントニオ・ロペスの代表作、「グラン・ビア」と「マリアの肖像」です。


マドリード随一の繁華街であるグラン・ビア大通り、この繁華街の車道の中央分離帯にロペスはイーゼルを立てて、夜明けの時間の20分間だけ「グラン・ビア」を描き、この作品に7年の歳月をかけたという。一方、「マリアの肖像」では、ロペスの長女マリアが緊張した面持ちでこちらを観ています。少女の浮かべる表情には、疑うことを知らない素直さとともに、寂しさや不安などさまざまな気持ちが入り混じっています。マリア9歳のときの肖像です。


僕はアントニオ・ロペスについては、まったくのところ何も知りませんでした。展覧会は、第1章、第2章、などとはつけずに、ただ単にグルーピングして、例えば「故郷」「家族」「静物」といった区分けをしています。作品はキャンバスや板に油彩が多いが、それだけではなく、鉛筆によるスケッチなど、リトグラフやコラージュなどの手法もあります。そして「食品貯蔵室」のようにブロンズによる浮き彫り、「眠る女(夢)」のようにレリーフ状の木彫に彩色したもの、「男と女」のように木彫彫刻が、また「子供たちの顔」のように「石膏」や「石」、「銅」による作品もありました。「横たわる男」は、ブロンズでできています。


初期の作品も、ロペスらしくていい。「花嫁と花婿」はロペスが美術アカデミーを卒業する年に描き始めたもの。当初は女性二人の像として制作に取りかかったが、ある時期からそのうちの一人が男性像に変わったという。現実に味付けをしてそれを変容するという、若きロペスにとって転機となった作品です。もう一つ、「フランシスコ・カレテロ」、この作品は27年もの長い年月をかけて完成されたという。ロペスは亡くなったカレテロが他の世界から立ち現れるような「幻影」としての肖像画を意識したという。ロペスが家族以外の肖像画を描いた例は、極めて稀なことです。これらの作品や、家族を描いた作品は、ロペスの眼差しが温かい。


そしてロペスのロペスたる由縁は、マドリードの風景、つまり、都市景観を描いていることです。「グラン・ビア」ももちろん都市景観を描いていますし、まさにマドリードの街を描いた「トーレス・ブランカスからのマドリード」はその代表作品です。ロペスはさまざまな視点からマドリードを描いていますが、「ティオ・ピオの丘からのマドリード」は郊外の丘からマドリードを描いていて、空の部分を大きく描いた「マドリードの南部」とは対照的な作品です。


展覧会の構成は、以下の通りです。

故郷 Hometown

家族 Family

静物 Stil-life

植物 Plant

室内 Interiors

マドリード Madrid

人体 The Human Bodey



故郷 Hometown



家族 Family



静物 Stil-life



植物 Plant



室内 Interiors


マドリード Madrid



人体 The Human Bodey



「現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展」

アントニオ・ロペスは、現代スペイン美術を代表するアーティストであり、現代の最も重要なリアリズム芸術家であるという世界的な名声を得ているにもかかわらず、我が国においては紹介されることがなかった。これは誠に残念なことであるので、芸術家自身の全面的な協力のもとに、日本で最初のアントニオ・ロペス展としてこの展覧会が実現することとなったのである。「リアリズム(写実主義)」というと、写真のごとく正確に描写した作品と思われがちだが、ロペスの作品は実は彼の個性によってだけ可能な不思議な世界を見せてくれる。彼自身の言葉によれば、彼の作品は写真と異なる。彼は、制作に要する、ときには数年に及ぶ長い時間を、彼が見つつ描写している対象、樹木の成長、都市の姿を蜃気楼のごとく浮かび上がらせる瞬間瞬間の光の変化、家族との日々の異なる出来事、それらと共に彼自身生きて、彼自身もまた変容しつつ長時間制作している。そして、この限りない無常性のなかに、どこからか不動の真実とも言うべき光が、色彩が、形が現れてくるのだという。この、世界の無常性、人間の無常性は、リアリズム、すなわち常なるものと共にあって初めて真実を生み出すということであろう。ロペスの芸術はときに「魔術的リアリズム」と称され、「超絶的リアリズム」などと説明されてきている。この夢のごとき、幻のごとき我々の現実世界の真実を、この展覧会で観ていただきたいと思う。

Bunkamuraザ・ミュージアム

プロデューサー木島俊介


「Bunkamuraザ・ミュージアム」ホームページ


とんとん・にっき-lo16 現代スペイン・リアリズムの巨匠

アントニオ・ロペス展

図録

発行日:2013年4月27日第1刷

編集:長崎県美術館

    Bunkamuraザ・ミュージアム

    岩手県立美術館

    西日本新聞社

    美術出版社

発行:株式会社美術出版社





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三井記念美術館で「河鍋暁斎の能・狂言画」を観た!

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三井記念美術館で「河鍋暁斎の能・狂言画」を観てきました。


数年前のこと、埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」、知人が飛び込みで行ってきたという話を聞いたことがあります。館長の河鍋楠美さん、だと思いますが、妙齢の女性の方に丁寧に案内していただいたそうで、その時は羨まし思いました。それ以来、僕のなかで是非とも訪れたい美術館の一つになりましたが、残念ながら未だに実現していません。


河鍋暁斎、僕が最初に出会ったのは、東京ステーションギャラリーで開催された「国芳暁斎なんでもこいッ展だィ!」でした。まず、そのタイトルに驚かされ、そしてそこで観た「新富座妖怪引幕」には度肝を抜かれました。明治13年6月30日、酔っぱらった後の暁斎は幅17メートル、高さ4メートルの大きな引幕をわずか4時間で仕上げたそうです。人気役者を「百鬼夜行絵巻」の一場面に見立てて描かれたもので、おどろおどろしい迫力です。それ以降、「暁斎展」があると聞くと、成田山へ行ったり、三島の佐野美術館へ行ったりしました。


ジョサイア・コンドルは、明治のお雇い外国人で、工部大学校造家学科で、日本人初の本格的西洋建築家を育てました。また、工部大学校を退いてからは、三菱1号館やニコライ堂、鹿鳴館や岩崎邸等々、明治を代表する建築を設計したことで知られています。そのコンドルが、絵師川鍋暁斎に師事していました。再三入門を断られましたが、なんとか押し切って明治14(1881)年に弟子入りし、その後は熱意あふれる態度から師より「暁英」の号を受けています。明治22(1889)年の暁斎没後も、コンドルは長年かけて師の仕事をまとめ、明治44(1891)年、「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai(川鍋暁斎の絵と習作)」を出版し、広く海外へ紹介しました。


今まで暁斎の作品は、ほとんどの展覧会では「役者似顔絵」「武者絵・風景画」「戯画・風刺画・動物画」「画稿類」「美人画」などに分けられていましたが、能や狂言については、ほとんど何も知らない僕がいうのもなんですが、「能・狂言画」というくくりでは初めての展覧会ではないかと思います。暁斎は歌川国芳の画塾で学んだ後、狩野派で修行した10代の頃から能や狂言の稽古に通ったという。舞台を知り尽くした絵師ならではの着眼が堪能できるのが見どころの一つです。衣装や道具の詳細をとらえているだけでなく、演者の体のみなぎる緊張感までもが伝わってきます。


「唐人相撲図」、これは観たかったのですが、残念ながら前期展示でした。中国へ行った相撲取りがあまりにも強いので、遂に皇帝が出てきます。皇帝の体に触れるのは許されないので、皇帝は体に筵を巻いて戦うことになります。座っている相撲取りの前で、皇帝は威嚇するように踊りだします。また、暁斎は猩々(しょうじょう)をよく描いています。猩々とは、「謡曲。五番目物。庭訓抄などに取材。孝行の徳により、富貴となった唐土の高風の前に猩猩が現れ、酒をくみ交わして舞をまい、くめども尽きない酒壺を与える。」とあります。「浦島太郎」は、暁斎の弟子のジョサイア・コンドルが所蔵していたものです。


今回、展示室5では「迫真の下絵」として、20点もの下絵やスケッチが展示されていました。下絵と侮るなかれ、これが迫力があります。すぐ下に載せたのは、「高砂図」の下絵で、三島の佐野美術館で展示されたものです。「道成寺図 鐘の中」は、鐘の中で女から蛇体に変わったシテが手鑑を見ながら面を調整している図です。「末広がり図『シテ惺々暁斎』」の下絵で、扇片手に待っているのは暁斎本人だという。


展覧会の構成は、以下の通りです。


河鍋暁斎と能・狂言の関わり

河鍋暁斎の能・狂言画

河鍋暁斎の下絵、スケッチ

河鍋暁斎の錦絵、版画



河鍋暁斎と能・狂言の関わり




河鍋暁斎の能・狂言画







河鍋暁斎の下絵、スケッチ



河鍋暁斎の錦絵、版画



「河鍋暁斎の能・狂言画」

今注目の幕末~明治。このダイナミックな時代に縦横無尽に絵筆をふるった画家として、河鍋暁斎(1831-89)
の名がまず挙げられます。暁斎といえばユーモラスな妖怪画のイメージが強いのですが、実は正統の狩野派を学んだ絵師であり、傑出した画力をもって謹直名作品も多数遺しています。暁斎は能と狂言を愛好してその舞台を描きました。近代能画・狂言画を切り拓いたパイオニアと呼べるでしょう。その臨場感や人物の写実性は、劇芸術を深く理解していた暁斎ならではの特徴です。本展覧会では、暁斎の描いた屏風や掛軸と」いった完成作品はもちろん、下絵類でしか見ることのできない舞台裏を活写した図も見どころとなります。


「三井記念美術館」ホームページ


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海老坂武の「加藤周一―20世紀を問う」を読んだ!

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とんとん・にっき-katou

海老坂武の「加藤周一―20世紀を問う」(岩波新書:2013年4月19日第1刷発行)を読みました。海老坂武については、管野昭正編「知の巨匠 加藤周一」を読んで、僕は初めて知りました。その辺の事情は、過去に以下のように書きました。


菅野昭正編「知の巨匠 加藤周一」を読みました。昨年、2010年9月18日から9月26日まで、世田谷文学館で開催された「知の巨匠 加藤周一ウィーク」の講演会を取りまとめたものです。講演会は大江健三郎(9月18日)、姜尚中(9月19日)、高階秀爾(9月23日)、池澤夏樹(9月25日)、山崎剛太郎・清水徹(対談、9月26日)の計5回、僕はすべてに出席することができました。この講演会とは別に、恵比寿の日仏会館で「加藤周一記念講演会」が開催され、その第1回に海老坂武の「加藤周一とフランス」と題する講演が行われ、その講演もこの本に収載することになりました。この講演会シリーズを企画した世田谷文学館館長の菅野昭正も、一文を書くことになり、それが巻頭に「思い出すままに」として載せられています。


加藤周一:略歴

1919年、東京に生まれる。東京帝国大学医学部を卒業。医学博士。在学中より中村真一郎、福永武彦らと交友し、「1946文学的考察」「マチネ・ポエティク詩集」などを刊行。1951年に留学生としてフランスに渡り、医学研究のかたわら西欧各国の文化を吸収。その後は、東西文化に通じた旺盛な評論・創作活動を展開。カナダのブリティシュ・コロンビア大学をはじめ、ドイツ、イギリス、アメリカ、スイス、イタリアなど各地で教鞭を執る。2004年発足の「九条の会」呼びかけ人の一人。2008年12月、逝去。著書に「雑種文化」「羊の歌」「日本文学史序説」「日本 その心とかたち」「夕陽妄語」「日本文化における時間と空間」など多数。


加藤周一については、どのような人かはほとんど知らないまま、毎月1回朝日新聞に連載されていた「夕陽妄語」と題された文章を、気がついたら読んでいました。1984年5月までは「山中人閒話」と題されていたようですが、その頃のことはあまり記憶にありません。加藤周一のことをもっと知りたいと思い、2010年9月から世田谷文学館で開催された「知の巨匠 加藤周一ウィーク」という講演会に参加したというわけです。正直言ってその時は、講演会の講師の方々の方に大きな興味があった、というのが実際のところでしたが・・・。


それがきっかけで加藤周一の著作を数冊購入しましたが、ちゃんと読んだのは「羊の歌」「続羊の歌」のみで、その他の著作はほとんど途中で投げだし挫折したままでした。「日本文学史序説 上・下」にいたっては、講演の際に大江健三郎から「時間をとって一月に1章ずつ読んでいかれたらいいと思います。そのようにして全11章を1年間通してお読みになると、そしてもう一度再読されると、実に多くのことが自分に納得できます」と言われながら、未だに実行できずにいます。また、講師の一人である清水徹の「ヴァレリー―知性と感性の相克」(岩波新書:2010年3月19日第1刷発行)も中途で読むのを止めています。


そうそう、思い出しました。加藤周一の「日本の内と外」(文藝春秋:昭和44年10月1日第1刷、昭和52年7月10日第6刷)という本を持っていました。海老坂の「あとがき」で、加藤の作品は、まず新聞か雑誌に発表され、ついで単行本としてまとめられ、最後に「著作集」や「自選集」に収められる、といったケースが多い、としています。この本も幾つかの寄稿した論文を集めて単行本としたものです。第7章の「希望の灯をともす」の項で、「ウズベック・クロアチア・ケララ紀行」を取り上げています。加藤が考える三つの型の社会主義を論じているものですが、今目次を見ると「日本の内と外」にしっかりと載っていました。海老坂の取り上げた加藤の文章が、例えば「日本文化の雑種性」とか、「知識人について」や「戦争と知識人」等々、他にも載っているのに驚き、どうしてちゃんと読んでいなかったのか、今さらながら悔やんでいます。


そうこうしているうちに、海老坂武の「加藤周一―二十世紀を問う」が発売されたので、さっそく読んでみたというわけです。


この本のカバー裏には、以下のようにあります。

言葉を愛した人・加藤周一は、生涯に膨大な書物を読み、書き、そして語り続けた。それはまた、動乱の20世紀を生き抜きながら、これを深く問い、表現する生でもあった。その全体像はどのようなものであったか。同時代を生きてきた著者が、加藤の生涯をたどりつつ、我々の未来への歩みを支える力強い杖として、今ひとたび彼の言葉を読み直す。


海老坂武:略歴
1934年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、同大学院博士課程修了。一橋大学教授、関西学院大学教授を経て、現在は執筆に専念。専攻は、フランス現代文学・思想。著書に、「パリ―ボナパルト街」(晶文社、ちくま文庫)、「戦後思想の模索」(みすず書房)、「シングル・ライフ」(中公文庫)、「〈戦後〉が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月―1966~1972」、「祖国より一人の友を」(以上、岩波書店)、「サルトル―「人間」の思想の「可能性」」(岩波新書)、「戦後文学は生きている」(講談社現代新書)ほか多数。訳書に、「黒い皮膚、白い仮面」(ファノン、共訳、みすず書房)、「文学とは何か」(サルトル、共訳、人文書院)ほか多数。


海老坂は、「彼は言葉を書き続け、言葉を語り続けた。そして多くの言葉を残した」として、加藤周一を「言葉人間」と位置づけています。多くの言葉を残しただけではなく、扱ったテーマの幅の広さ、20世紀日本の言葉の歴史の中で、加藤周一ほど多岐な分野にわたって文章を書き、発言してきた物書きはいないのではないか、と問います。ではこれらの言葉によって、加藤周一は結局のところ何をなしたか。何をなし得たか。何をなし得なかったか。この本で意図したのは、こうした「言葉人間」の歩みの全体を辿ることだと、「はじめに」で解題しています。


海老坂は、加藤周一の代表作を一つあげろと言われたら、私は躊躇なく「羊の歌」をあげるだろうと述べて、当然のことながらこの本でも「羊の歌」から始めています。「羊の歌」には、加藤周一という作家を解き明かす幾つもの手がかりが与えられている、という。加藤周一は、「文学とは何か」の文学批評家であり、「運命」の小説家であり、「雑種文化論」の文明批評家であり、「日本 その心とかたち」の美術史家であり、「日本文化における時間と空間」の思想史家であり、「夕陽妄語」の時評かであり、「九条の会」の政治的行為者であり、エトセトラ、いわば多面体の存在である、としています。


28年に及んだ、総計にしておよそ2400枚という「山中人閒話」「夕陽妄語」を取り上げ、新聞で読み始めた時は、政治と文化にわたる一種の時評として面白く読んでいたが、全体を通読してみて、月1回の付き合いでは見えなかった精神の巨大な営みを感じ、その文字群に圧倒されたという。そこにあるのは衰えをしらぬ好奇心であり、鋭敏な批判精神であり、何よりも持続する志である、と述べています。


海老坂はまた、加藤周一はある意味で遠く、ある意味で近い存在だったとして、「一つの大きな事件が起きたときに、この人はどう考えているだろうと気になる人、そして同意するにせよ違和感を覚えるにせよ、確実に指標を与えてくれる人、それが同時代人としての加藤周一だった」と告白しています。


目次

はじめに―加藤周一を読むこと

第1章 〈観察者〉の誕生

第2章 戦後の出発

第3章 〈西洋見物〉の土産

第4章 雑種文化論の時代

第5章 1960年代―外からの視線

第6章 〈日本的なもの〉とは何か―〈精神の開国〉への問い

第7章 希望の灯をともす

あとがき

加藤周一略年譜


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世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」山崎剛太郎・清水徹対談編を聞く!


とんとん・にっき-tino 「知の巨匠 加藤周一」

2011年3月10日第1刷発行

編者:菅野昭正

発行所:株式会社岩波書店

定価:本体2200円+税




とんとん・にっき-bun1
「日本文学史序説 上」

ちくま学芸文庫

1999年4月8日第1刷発行

著者:加藤周一

発行所:筑摩書房






とんとん・にっき-bun2

「日本文学史序説 下」

ちくま学芸文庫

1999年4月8日第1刷発行

著者:加藤周一

発行所:筑摩書房





とんとん・にっき-hitu1 「羊の歌―わが回想―」
岩波新書

1968年8月20日第1刷発行

著者:加藤周一

発行所:株式会社岩波書店





とんとん・にっき-hitu2 「続羊の歌―わが回想―」
岩波新書

1968年9月20日第1刷発行

著者:加藤周一

発行所:株式会社岩波書店




「旧古河庭園」でバラフェスティバルを観る!

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「旧古河庭園」で「春のバラフェスティバル」を観てきました。フェスティバル最終日、残念ながらバラはだいぶ少なくなってしまいました。もちろん、まだ咲いているものもあり、まだ蕾の状態のものもありますが、全体的にはちょっと行くのが遅かったかなと感じました。


石造りの洋館(大谷美術館)

英国貴族の邸宅に倣った古典様式で、天然スレート葺き煉瓦造り。外壁は真鶴産の赤みをおびた新小松石(安山岩)で被われており、雨に濡れると落ち着いた色調をかもし出します。


洋風庭園

テラス式の庭園に植えられたバラは、春と秋に見事な大輪の花を咲かせ、洋館の風情と相俟って異国情緒を満喫させてくれます。秋篠宮家の長女・眞子様のお印・「モッコウバラ(木香茨)」が石垣をびっしりと覆っています。










「旧古河庭園」

武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かして、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、低地には日本庭園を配したのが特徴です。元々は明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、宗光の次男が古河財閥の養子になった時に、古河家の所有となりました。現在の洋館と洋風庭園の設計者は、明治から大正にかけて、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸などを手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852~1920年)です。日本庭園の作庭者は、京都の庭師・植治こと小川治兵衛(1860~1933年)です。旧古河庭園は、大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在であり、平成18(2006)年1月26日に国の名勝に指定されました。

(リーフレットより)


過去の関連記事:

バラ 今が盛り 旧古河庭園
「旧古河庭園」を見学して


「旧古河庭園」で日本庭園めぐり!

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小川治兵衞が、旧古河庭園の日本庭園にかかわっていたことを、ボクは最近になって知りました。あまりにもタイムリーに、鈴木博之の「庭師小川治兵衞とその時代」 (東京大学出版会)が発売されました。実はまだ読んではいないのですが・・・。洋館と洋風庭園は、建築家のジョサイア・コンドルだということは、以前から知っていたのですが、日本庭園の作庭者が、京都の庭師・植治こと小川治兵衞だったとは・・・。リーフレットをよく読めば分かることですが、読んでも頭に入らなかった、というわけです。


「日本庭園」

日本庭園の中心は心字池。優雅な曲線が心を癒します。大滝、枯滝、大きな雪見灯籠が周囲の緑に映えて、付近の風情をいっそう深いものにしています。

「大滝」

10数mの高所から落ちる滝。苑内のもっとも勾配の急な所をさらに削って断崖とし、濃い樹林でおおって深山渓谷の趣があります。曲折した流れから始まり、数段の小滝となり最後は深い淵に落ちるという凝った造りです。

「心字池」

「心」の字に似せて、鞍馬平石や伊予青石などで造られた池。池を眺める要となる「船着石」があり、正面には「荒磯」、雪見灯籠、枯滝、石組み、そして背後には築山が見られます。

「枯滝」

水を使わないで山水の景観を表現する「枯山水」の道具立てのひとつが枯滝。心字池の州浜の奥の渓谷に、御影石や青石、五郎太石などで造られています。














「旧古河庭園」

武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かして、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、低地には日本庭園を配したのが特徴です。元々は明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、宗光の次男が古河財閥の養子になった時に、古河家の所有となりました。現在の洋館と洋風庭園の設計者は、明治から大正にかけて、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸などを手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852~1920年)です。日本庭園の作庭者は、京都の庭師・植治こと小川治兵衛(1860~1933年)です。旧古河庭園は、大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在であり、平成18(2006)年1月26日に国の名勝に指定されました。

(リーフレットより)


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バラ 今が盛り 旧古河庭園
「旧古河庭園」を見学して


とんとん・にっき-ogawa
「庭師小川治兵衞とその時代」
著者:鈴木博之

発売日:2013年05月

発行所:東京大学出版会

小会PR誌『UP』の好評連載を加筆・再構成し,待望の書籍化! 山県有朋,西園寺公望,近衛文麿……国家の最大限の西欧化を推進しつつ,私的には伝統に縛られない和風の表現を求めた明治から昭和前期の政治家・企業家たち.彼らが愛した植治の庭を通して,日本の近代化のあり方を見つめる.建築に歴史的まなざしを注いできた著者による近代化論.



損保ジャパン東郷青児美術館で「オディロン・ルドン―夢の起源―」を観た!

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損保ジャパン東郷青児美術館で「オディロン・ルドン―夢の起源―」を観てきました。観に行ったのは4月30日、もう1ヶ月以上も前のことです。今回の展覧会はフランスのボルドー美術館と、日本における最大のルドン・コレクションを所蔵する岐阜県美術館の、油彩、パステル画を含む約150点の作品で構成されています。


河村錠一郎の「世紀末美術の楽しみ方」(とんぼの本:1998年11月20日発行)という本に、最初に出てくる序章「物語る絵、物語らぬ絵」の箇所に、「世紀末美術」を以下のように定義づけています。


世紀末絵画の定義はかなり難しいが、美術の場合、世紀末というと単に限定された時代区分というよりは、その時代に特有の際だった個性と考えられる特定部分だけを指している。ギュスターヴ・モローを世紀末といい、モネを世紀末とはいわない。その「特定の部分」とは、第一に、様式的には象徴様式であること、画家の深層心理に眠る想念や観念を揺り動かしてイメージという具象的な形を時代の明るみへ連れ出します。第二に、主題の特殊性、死を描き、エロスにこだわります。それは社会通念から逸脱した退廃的なテーマ、つまりデカダンな主題やモティーフです、と。


それに続けて、ルドンの「オフィーリア」(岐阜県美術館蔵)と共に、以下の文章が載っています。

ルドンの「オフィーリア」は冥府の闇を想わせる夜の色に包まれて死のイメージを前面に出し、足を滑らせて水に落ちるまで摘んでいた多彩な花の色が染み出たような色彩が添えられ、彼岸の世界の永遠性と現世此岸のはかなさに橋をかけている。ルドンは仏陀やキリストの図像もモティーフに使っているが、暗示するところは同じだ。また、円形や半円形の中に女の横顔を描くことが多いルドンだが、このオフィーリアも、彼にとって「女」が意味するものであり、単にシェイクスピアの戯曲「ハムレット」のヒロインではない。


ルドンの作品をまとまって観たのは、三菱一号館美術館で「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」でした。その時の展覧会のほとんどの作品は岐阜県美術館所蔵のもので、唯一、三菱一号館美術館が購入したルドンの巨大なパステルの作品、「グラン・ブーケ(大きな花束)」のお披露目をする、という展覧会だったように思います。この色鮮やかな「グラン・ブーケ」を観て、最初は「え~っ、これがあのルドンの作品なの?」と驚きました。

三菱一号館美術館で「ルドンとその周辺―夢みる世紀末」展を観た!


岐阜県美術館は、現在250点を超えるオディロン・ルドン(1840-1916)の作品を所蔵している、というから驚きです。しかも、ルドンに影響を与えたり、後継になった画家たちの作品をあわせて収集することにより、19世紀末ヨーロッパの象徴主義美術の流れを通観できる個性的なコレクションとなっているようです。


数年前に行ったオランダのクレラー・ミュラー美術館で、ルドンの作品を観たことを思い出しました。最も有名でルドンの代表作でもある、ひとつ目の巨人を描いた「キュクロプス」がありましたが、他にも数点観ています。




展覧会の構成は、以下の通りです。

第1部 幻想のふるさと、ボルドー―夢と自然の発見―

第2部 「黒」の画家―怪物たちの誕生―

第3部 色彩のファンタジー



ルドンの略歴は、以下のようになります。
1840年、フランス南西部のボルドーで生まれる。1855年(15歳)、ボルドーの画家スタニスラス・ゴランに絵を教わる。1857年(17歳)、植物学者アルマン・クラヴォーと知り合う。両親にすすめられ建築のための勉強を始める。1862年(22歳)、パリに行く。国立美術学校の建築科を受験するが失敗、ボルドーに戻る。1863年(23歳)、版画家ロドルフ・ブレスダンと知り合う。1864年(24歳)、パリに域画家ジャン=レオン・ジェロームの教室に通うが、ジェロームの教えに疑問をいだく。1865年(25歳)、ボルドーに戻り、ブレスダンに版画を教わる。1867年(27歳)、展覧会に版画「浅瀬(小さな騎馬兵のいる)」を出品する。1872年(32歳)、この頃から、冬をパリで、夏をペイルルバードで過ごす。1879年(39歳)、最初の石版画集「夢のなかで」を発表する。1880年(40歳)、カミーユ・ファルトと結婚する。1894年(54歳)、ルドンのための大きな展覧会がパリで開かれる。1903年(63歳)、レジオン・ドヌール勲章を受ける。1904年(64歳)、フランス国家がルドンの作品を買い上げる。1916年、パリの自宅で76歳で亡くなる。


第1部 幻想のふるさと、ボルドー―夢と自然の発見―



スタニスラス・ゴラン(1824-1874)

ボルドーの画家。早くから絵の才能を現したルドンは、15歳頃からゴランの美術教室に通い絵を学びました。ルドンはゴランから、ドラクロワなどフランスの優れた画家たちについて教わりました。

アルマン・クラヴォー(1828-1890)

ボルドーの植物学者。ルドンが17歳の頃知り合いました。クラヴォーを通じて、ルドンは顕微鏡でなければ観ることのできないアメーバのような小さな静物がいることを知りました。また植物学だけでなく、文学や哲学もクラヴォーから教わりました。



ロドルフ・ブレスダン(1822-1885)

独学の版画家。空想の世界のような不思議な雰囲気が小説家や詩人に人気がありました。各地を旅しながら制作し、1860年代はボルドーで暮らしていました。ルドンは1864年24歳の時に絵を学ぶため、パリに行きました。画家ジャン=レオン・ジェロームの教室に通うが、ジェロームの教えに疑問をいだき、ボルドーに戻ります。ボルドーに戻ったルドンは、ブレスダンから版画の技法を学びます。



第2部 「黒」の画家―怪物たちの誕生―

1879年39歳のルドンは、石版という版画の技法を使った作品を集めた画集、「夢のなかで」を発表しました。その名の通り、怪しい夢のような世界を、白と黒だけで表現したものでした。




第3部 色彩のファンタジー

1890年頃から、それまでの白黒の絵にかわって、ルドンは油絵の具やパステルを使って、色鮮やかな絵を描くようになりました。主題も聖書や花、神話など、親しみやすいテーマが神秘的に描かれるようになりました。





「オディロン・ルドン―夢の起源」

1886年、現代生活を描いた色鮮やかな作品がならぶ第8回印象派展の会場に、幻想的な白黒の木炭画を出品した画家がいました。フランス象徴主義を代表する画家オディロン・ルドン(1840~1916)です。外界と現実を重視した写実主義が台頭する中、内面を重視し夢の世界を描いたルドンは、やがて写実性への反動の高まりとともに注目を集め、次世代の画家や文学者、批評家たちの支持を集めていきました。しかしその一方で、ルドンは実証的な自然科学に対しても決して無関心ではなく、その影響はルドンの幻想的な作品でも見ることができます。本展覧会では、まずルドンの幻想と自然科学への関心が、生まれ故郷であるフランス南西部の都市ボルドーでつちかわれたことに注目し、青年ルドンがボルドーで何を学んだかに焦点をあてます。さらにこのボルドーでの発見が、その後の「黒」と「色彩」の作品でどのように展開し昇華したのかを探ります。本展覧会はフランスのボルドー美術館、ならびに日本における最大のルドン・コレクションを所蔵する岐阜県美術館の全面的な協力のもと、油彩、パステル画を含む約150点の作品を一堂に展示し、画家オディロン・ルドンの「夢の起源」をたどります。


「損保ジャパン東郷青児美術館」ホームページ


とんとん・にっき-red16 「オディロン・ルドン―夢の起源」

ジュニア版ブックレット

執筆:小林晶子(損保ジャパン東郷青児美術館)

発行:損保ジャパン東郷青児美術館

制作:求龍堂

発行日:2013年4月20日





とんとん・にっき-redon4 「世紀末芸術の楽しみ方」

とんぼの本

発行:1998年11月20日

著者:河村錠一郎

発行所:株式会社新潮社







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「マウリッツハウスにて フェルメール」を読んだ!

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「ディアナと妖精たち」、「デルフトの眺望」、「真珠の耳飾りの少女」、フェルメールが描いた3点の絵画は、マウリッツハウスを訪れる多くの人々の最大の楽しみです。「あの少女の絵のためだけに」デン・ハーグまで旅した人も数えきれないほどいます。僕もその中の一人です。


今朝の朝日新聞朝刊(2013年6月12日)文化欄に、昨年東京都美術館で開催された「マウリッツハイス美術館展」の1日平均来場者数が昨年の展覧会で世界最多を記録した、というニュースが載っていました。なぜ日本で受けたのか。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が目玉だったが、レンブラントの「自画像」やルーベンスの「聖母被昇天」などオランダ・フランドル絵画48点も展示されたこと。特にオランダ絵画の場合、細部にこだわる精巧さが日本人好みで、聖書などの背景知識がなくても分かりやすいテーマが多く、絵も小さく親しみやすいことも理由に挙げています。



とんとん・にっき-mau


昨年4月に王立マウリッツハイス美術館を訪れたときに、「王立絵画陳列室 マウリッツハウス」というガイドブックと、「マウリッツハウスにて フェルメール」という、2冊の本を購入してきました。「マウリッツハウスにて フェルメール」は、上にあるように印象的な表紙の、70ページほどの四角い本です。この本、数あるフェルメール本がある中でもなかなかの優れもので、朽木ゆり子が「この本があったらよかったのになあ」と言うほど、興味深い切り口でフェルメールの作品を解説しています。フェルメール解説本の極めつきです。


朽木ゆり子と福岡伸一による「深読みフェルメール」(朝日新書:2012年7月30日第1刷発行)という対談本の最初に、朽木は次のように語っています。

マウリッツハイス美術館の売店で「マウリッツハイスにて フェルメール」という日本語の本を買ってきましたが、それにも堂々と「トローニーとは何か」という解説が書かれています。この本の発売は2006年。「盗まれたフェルメール」を書いていたときにこの本があったらよかったのになあ、と思いましたね。


「マウリッツハイスにて フェルメール」は、特に目次というものがないので、項目の羅列を以下にあげておきます。


デルフトのスフィンクス

繁栄する都市/生計を立てる/(フェルメール年譜)/フェルメール芸術の四段階/インスピレーション/絵画に対する認識/見本/フェルメールのパトロン/フェルメールのアトリエ訪問客/限定された鑑賞者/国際的名声

マウリッツハウスにて

初期のフェルメール/オランダのディアナ/「到達し得る最高の段階」/プルシアンブルーノ空/フェルメールの街景画/方位確認/正確に再現されているか?/船/登場人物/鐘はどこへ?/砂の粒、斑点、カメラオブスクラについて/デルフト、今、昔/心ならずもマウリッツハウスへ/マルセル・プルースト、「デルフト」と失われた時/真珠の耳飾りの少女/「トルコ風の装い」のトローニー/比較/真珠/お買い得/オランダのモナリザ

作品資料、重要参考文献


東京都美術館で開催された「マウリッツハイス美術館展」に関連する書籍を、以下に載せておきます。


とんとん・にっき-mau2 「マウリッツハイス美術館展」

展覧会図録

編集:

マウリッツハイス美術館

東京都美術館

神戸市立博物館

朝日新聞社

発行:朝日新聞社


とんとん・にっき-mau1
AERA Mook

「マウリッツハイス美術館展」

公式ガイドブック

2012年6月20日発行

編者:朝日新聞出版

発行所:朝日新聞出版

とんとん・にっき-mau6 「マウリッツハイス美術館」

ガイドブック
編集:

クエンティン・ビューヴェロット
発行:

ハーグ、王立絵画陳列室マウリッツハウス

ハーグ、マウリッツハウス友の会

©2009






とんとん・にっき-fukaferu 「深読みフェルメール」

朝日新書

2012年7月30日第1刷発行

著者:朽木ゆり子、福岡伸一

発行所:朝日新聞出版









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ポーラミュージアムアネックスでミヤケマイ「白粉花」を観た!

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ポーラミュージアムアネックスでミヤケマイ「白粉花(おしろいばな) Little Lily-White Lie」を観てきました。ミヤケマイについては、まったく何も知りません。チラシには、「日本に伝統的な美意識に根ざし、独自な世界を展開する気鋭の若手アーティスト」とあり、「古典の物語や古くからの慣習などを題材に、ユーモラスに時にシニカルに再構築する作品」とあります。


まず、真っ先に眼に入るのは、「天は自ら助くるものを助ける」という作品です。辞書には「天は自ら助くる者を助くとは、人に頼らず自分自身で努力する者には、天が助け、幸福をもたらすということ」とあります。壁から白い陶器製の手が何本も突き出ているもので、その手にはさまざまな物を持っています。その白い手は心なしか小さい、女性の手なのでしょう。千手観音のようでもあります。この手は全部で40本、そして鑑賞者の手が2本はいると42本になるようです。この作品が何を意味しているのか、僕には分かりませんが、しかし面白いことは間違いなしです。


そして、ミヤケマイの作品は軸装されたものが多い。もちろん、軸装しただけでは「古典の物語や古くからの慣習などを題材に」したとは言えませんが、その他に「フォーカル・ポイント」と題したハニカム構造体を使った作品群、そして茶室をモチーフにしたインスタレーション作品など、約20点が展示されていました。





「『白粉花』Little Lily-White Lie」

ポーラミュージアムアネックスでは、日本の伝統的な美意識に根ざし、独自な世界を展開する気鋭の若手アーティスト、ミヤケマイ氏の展覧会「『白粉花』Little Lily-White Lie」を開催します。古典の物語や古くからの慣習などを題材に、ユーモラスに時にシニカルに再構築するミヤケ氏の作品は、思わず人が見落としてしまいそうな、たくさんの情報が込められています。作品のなかの不思議な登場人物や魅力的な動物に目を留めた時、その先にある何かを見ることができるような気がします。その戦災でリリカル、かつ独創的な作品は、現代アート好きの若い女性から日本画、骨董好きのコレクターまで、幅広く人気を集めています。今回、ミヤケ氏が絶えず探求し続ける永遠の色である「白」をテーマに、国内未発表の大型軸装の平面作品や新作ホログラフィックを組み込んだ作品を展示します。作品を通じて「白」の持つ可能性を感じていただける展覧会です。――ポーラミュージアムアネックス


生まれ落ちた時、私達は真っ白なまま世に出て来る。そしてこの世を去るときも記憶も消去され、真っ白な骨や灰になって出て行く。その間、炭に近づけば黒し、朱に交われば赤くなり、青は藍より出でて藍より青くもなる。色とは光の産む幻想にすぎない。色は思案の外とは良く言ったもの。色白は七難隠すというがその七難とはなんなのであろう。――ミヤケマイ


ミヤケマイ:略歴

日本独自の感覚に立脚しながら、物事の本質を問う作品を展開。画廊や美術館、アートフェアでの展示、エルメスなど企業とのコラボレーションなど活動は多岐にわたる。2008年奨学金を得て、パリ国立美術大学大学院に留学。最新作品集「膜迷路」(羽鳥書展2012年)、「おやすみなさい。良い夢を」(講談社)2011年に上梓。

http://www.maimiyake.com/


「ポーラミュージアムアネックス」ホームページ


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五島美術館で「近代の日本画展」を観た!

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五島美術館は、平成22年(2010)秋~平成24年(2012)秋頃の約2年間、改修工事のため休館となっていました。休館に入る最後の展覧会は「国宝源氏物語絵巻」展でした。五島美術館は僕が住んでいるところと同じ世田谷区内にありますが、同じ区内でもちょっと離れていることや、展示内容が僕の観たいものが少ないこともあり、思っていたほどには観に行ってないというのが実際のところです。改修工事後も、「源氏物語絵巻」「紫式部絵巻」「書跡」等々、所蔵品展が続いたため、足が遠のいていました。


その改修工事が終わった後から、展示室に入るところに仏像が置かれるようになったようです。「愛染明王座像」(重要文化財)です。五島美術館が所蔵しているもので、手が6本、頭の上にまた頭があり、髪の毛が逆立っています。かつては鶴岡八幡宮境内の愛染堂の本尊で、江戸時代まで運慶作とされていたそうです。と、ここまで書いて、思い出しました。鎌倉国宝館でこの「愛染明王座像」を観ていました。鎌倉に観に行ったのは、2011年11月23日、勤労感謝の日でした。なるほど、五島美術館が改修工事を行っていたため、鎌倉へ出されていた、というわけです。



さて、今回の五島美術館、「館蔵 近代の日本画展」というタイトルです。これは是非とも観ておかなくちゃと思い、5月29日のこと、観に行ってきました。案内葉書には、以下のようにあります。


五島美術館が所蔵する近代日本画コレクションから、橋本雅邦、横山大観、川合玉堂、下村観山、小林古径、安田靫彦、前田青邨、小茂田青樹など、明治から昭和にかけての近代日本を代表する日本画家の作品約40点を選び展観します。宇野雪村コレクションの文房具も同時公開。


購入した図録(小冊子)「五島美術館コレクション 近代の日本画」を見ると、平成14年(2002)4月1日発行、となっているので、あるいは10年ほど前に「五島美術館コレクション 近代の日本画」展が開催されていたのかも知れません。この図録(小冊子)は、「五島美術館コレクション」シリーズと題して、所蔵品のなかから名品を選び、分野種類別毎にまとめた図録集のようです。本棚を探したら、「五島美術館コレクション 茶道具」(平成10年12月5日初版発行)が出てきました。2010年6月から8月にかけて開催された「開館50周年記念名品展Ⅲ 陶芸の美―日本・中国・朝鮮」の時に購入したもののようです。


今回の「出品目録」を見ると、「近代の日本画」には46点が出されています。他に彫刻「愛染明王座像」、近代陶芸として、金重陶陽、加守田章二、河井寛次郎の作品が、また宇野雪村コレクションの炭・硯、印材、文房清供が約50点出されていました。


案内葉書にあげられた画家の名前を見ただけでも分かる通り、明治から昭和にかけての日本画の大家ばかりが勢揃いです。近代絵画の先駆者・狩野芳崖の、鋭く切り立つ崖に囲まれた渓谷と、力強くそびえる松樹を描いた「烟巒溪漲の図」から展覧会は始まります。今回の目玉は、川合玉堂の「焚火」でしょう。狩野派の筆法と四条派の写実を融合した、玉堂30歳の時の傑作。3人の人物の個性と存在感を描き分け、墨の濃淡を駆使して空間を演出している、と小冊子に書かれています。屏風は1点のみ。橋本関雪の六曲一双「藤に馬」、金地屏風の平面化した空間に、3頭の馬の親子の堂々とした存在感を描き出す。優れた写実力による、曲がりくねった枝や藤の花の質感も見事、と小冊子にあります。


やはり圧巻は、横山大観です。一般展示室に3点、特別室に7点が展示されていました。ほとんどが富士山を描いた作品です。「耀八紘」は縦118.8cm横178.0cm、かなり巨大な軸で、普通の家の1間の床の間には入りきれない作品です。この軸を飾るには、少なくても1間半か、あるいは2間以上の床の間が必要です。


近代の日本画







近代の日本画―横山大観



「五島美術館」ホームページ


とんとん・にっき-kami3 五島美術館コレクション

「近代の日本画」

図録(小冊子)

平成14年(2002)4月1日発行
編纂:五島美術館学芸部

編集:渡川直樹

発行:財団法人五島美術館







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ジャン=ミシェル・オトニエルの「Kin no Kokoro」!

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六本木ヒルズ、テレビ朝日前の毛利庭園、なにやらハートマークが見えています。ジャン=ミシェル・オトニエルの「Kin no Kokoro」という作品です。森美術館「LOVE展 アートにみる愛のかたち」出品作品です。池の淵に掲示されていた文章を、以下に載せておきます。


「Kin no Kokoro」は、六本木ヒルズ10周年を記念する新たなパブリック・アートとして制作されました。作品には四季折々に変化する日本の自然、そして毛利庭園という江戸時代から続く歴史的景観になじんでほしいというアーティストの願いが込められています。池に沿って歩いて行くとかたちが徐々に変化し、正面に回ると大きなハート形に見えます。


オトニエルは1964年、フランス生まれのアーティストです。1990年代からイタリアのムラーノ・ガラスを用いた装飾的な大型作品を制作し、パリの地下鉄駅入り口をカラフルなガラス玉で、幻惑的な空間に変容させた「夢遊病者のキオスク」(2000年)などで注目されています。


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「森美術館」ホームページ


「ジャン=ミシェル・オトニエル」


六本木・戦争語る「ともちゃん地蔵」!

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麻布十番の商店街から六本木ヒルズへ抜ける道の途中、ちょうど「リンコス六本木ヒルズ店」の手前の左側の小さなビルの一角に、戦争を語る「ともちゃん地蔵」はあります。もう10年も前から、この「ともちゃん地蔵」があるのは知っていました。通るたびに、マンションの玄関ホールにあるギャラリーをのぞいています。六本木ヒルズの土でつくったという「手ひねり地蔵」が、小さいですが素朴で素晴らしい。


終戦後間もなく、旧満州の収容所で死亡した男の子をモデルにしたもので、「お地蔵さんを見て、戦争とはどんなものだったのかと、若い人が関心を持ってくれれば」と、「語りつごう ともちゃんの会」の関係者は言う。「ともちゃん地蔵の碑」には、「遠い昔、中国の北の町に、そんな子供たちがいたことを忘れないでください。二度とこんな悲しみを、子供たちに負わせないでください」と書かれています。

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山種美術館で「川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―」を観た!

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山種美術館で「特別展 生誕140年記念 川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―」を観てきました。今までも玉堂の作品は、山種美術館でも何点か観てきました。山種美術館館長の山崎妙子は、山種美術館と川合玉堂の関係を、以下のように述べています。


玉堂とも、きわめて近しい間柄であった。戦時中に奥多摩に疎開していた玉堂は、この風光明媚な環境で制作することを好み、戦後も住んだ。種二は、忙しい仕事の合間に、しばしば玉堂邸を訪問していた。種二の長女の結婚祝いとして贈られた「松上双鶴」という作品も当館のコレクションになっている。現在、70点もの玉堂作品を当館が所蔵しているのも種二と玉堂の親しさゆえであろう。(「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」より)


山種美術館所蔵の代表的な玉堂作品は、例えば、「鵜飼」(明治28年)、「渓山秋趣」(明治39年)、そして今回のポスターにも取り上げられている「早乙女」(昭和20年)、この3点が「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」に取り上げられています。前の2作品は何度も観ていて、もちろん今回の展覧会のトップを飾っていますが、「研鑽の時代(青年期から壮年期へ)」に入れられている若い頃の作品なので驚かされます。実は、僕は「早乙女」は初めて観た作品で、ポスターやチラシに使われているのをみて、上の2作品とはあまりにも違うので、これが玉堂作品かと、ちょっと戸惑った覚えがありました。


つい先日、五島美術館で「近代の日本画展」を観てきました。その展覧会の目玉は、川合玉堂の「焚火」(明治36年)でした。今回の展覧会では後期に出される作品ですが、解説には「狩野派の筆法と四条派の写実を融合した、玉堂30歳の時の傑作」とありました。他に、講談社野間記念館でも玉堂作品を所蔵していて、「渓村秋晴」(明治41年)、「渓山月夜」(大正10年)、「夏山懸瀑」(大正13年)、「鵜飼」(大正15年)などがあり、また色紙に描いた「十二ヶ月図」もあり、これらは何度か観ることができました。


川合玉堂:明治6年~昭和32年(1873~1957)

愛知県に生まれる。本名芳三郎。始め京都で望月玉泉、幸野楳嶺門に入るが、明治29年、上京し橋本雅邦に師事。明治40年創設の文展では審査員をつとめ、以後官展を忠信に出品。大正4年より東京美術学校教授。昭和15年、文化勲章受章。山村や田園の自然と生活を日本的な情感をこめて描いた。



青梅市御岳の「玉堂美術館」へは、2008年夏に行きました。設計は芸大教授の吉田五十八、御獄渓谷に面して、そのせせらぎの音が聞こえる場所にこの美術館は建っています。庭園は京都・竜安寺に似た石庭です。展示作品は、玉堂15歳の頃の写生から84歳の絶筆まで、幅広く展示されていました。そこで最も驚いたのは、今回も出品されていますが、写生画巻「花鳥 15歳写生」(明治21年)でした。作品解説には、以下のようにあります。


表紙に「明治21年11月写生川合玉舟蔵」という記載がある写生帖である。玉堂は13歳で望月玉泉(1834-1913)に入門し、師の「玉」一字をもらい「玉舟」の雅号が与えられている。当時は岐阜から京都に通って教えを受けていた時期で、先生から渡される手本と粉本の模写、そして写生に明け暮れていたという。この2年後の1890年には、若干16歳にして第3回内国勧業博覧会に入選している。出品にあたり、雅号を「玉堂」に改めている。本画巻には、葡萄の葉の虫食い跡や鴛鴦の羽の詳細な写生に加え、対象物の性質や色のメモが記されている。彼の真摯な学習態度が見てとれ、写生ながら15歳とは思えぬ画力に驚かされる。元は画帖であったが、後年画巻に仕立て直されたものである。



展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 研鑽の時代(青年期から壮年期へ)

第2章 玉堂をめぐる日本の原風景

第3章 玉堂のまなざし



第1章 研鑽の時代(青年期から壮年期へ)







第2章 玉堂をめぐる日本の原風景




第3章 玉堂のまなざし






特別展 生誕140年記念

川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―

2013(平成25)年は、日本の自然や風物を詩情豊かに表現し、今も多くの人々を魅了し続ける日本画家・川合玉堂(1873-1957)の生誕140年にあたります。この節目の年に、当館所蔵の71点の玉堂作品を中心に他館からも代表的な作品を借用し、玉堂の画業全体を振り返る展覧会を開催いたします。

愛知で生まれ風光明媚な岐阜で育った玉堂は、14歳で京都の円山四条派の望月玉泉や幸野楳嶺の元で本格的に日本画を学び、早くから才能を開花させました。本展では、初期の代表作「鵜飼」(山種美術館)、上京して橋本雅邦に師事した頃の狩野派の影響の色濃い「渓山秋趣」(山種美術館)、転換期の作品といわれる「二日月」(東京国立近代美術館)、「紅白梅」(玉堂美術館)を始めとする琳派や南画等さまざまな研究を経て新たな境地を拓いた作品、そして晩年の情趣深い画境に至るまでを展観いたします。また、長らく公開されることがなく、再発見とも言うべき作品「柳蔭閑話図」をこのたび特別に展示します。初公開となる「写生帖」(玉堂美術館)と18歳の玉堂が友人と編んだ同人誌『硯友会雑誌』(玉堂美術館)など、若き玉堂の熱心な研究の足跡を垣間見ることができる資料もご覧いただきます。

1957(昭和32)年、玉堂の訃報に接した日本画家・鏑木清方は「日本の自然が、日本の山河がなくなってしまったように思う」と嘆いたと言われています。俳句や和歌を嗜み、文学にも造詣の深い玉堂が描いた穏やかな風景は、今なお見る者の郷愁を誘い、私たちの心を癒してくれます。当館の創立者・山崎種二は玉堂と親しく交流し、しばしば青梅の玉堂邸を訪れるほどの間柄でした。そのご縁により、当館は玉堂の代表作の数々を所蔵しています。本展開催にあわせて修復し初公開となる作品、書や陶器の絵付けなど、これまでほとんど紹介されていないものも加え、当館所蔵の玉堂作品全点をご紹介するのは開館以来初の試みです。日本のふるさとやこころを描き続けた玉堂の魅力を心ゆくまでご堪能ください。


「山種美術館」ホームページ


とんとん・にっき-yam1 特別展 生誕140年記念

川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―
2013年6月8日発行

監修:山下裕二

    (公益財団法人山種美術財団評議員・顧問

     /明治学院大学教授)

執筆:河野元昭

    (公益財団法人山種美術財団理事

     /秋田県立近代美術館館長/東京大学名誉教授)

三戸信恵(山種美術館特別研究員)

櫛淵豊子(山種美術館学芸課長)

塙萌衣(山種美術館学芸員)

編集:山種美術館学芸部

発行:山種美術館





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河野元昭講演「川合玉堂―伝統と創造―」を聞く!

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とんとん・にっき-yamata

特別展生誕140年記念

「川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―」

関連講演会

「川合玉堂―伝統と創造―」

講師:河野元昭氏

(東京大学名誉教授、秋田県立近代美術館館長、公益財団法人山種美術館理事)

日時:2013年6月15日(土)14:00~15:30

会場:國學院大學 院友会館



自己紹介、1943年生まれ、昭和18年生まれです。秋田県立近代美術館館長です。館員が28名いるので、頭文字をとって「AKB28」とまずは笑わせます。ホームページに「館長のつぶやき」を書いているので、ぜひ観てくださいと、しっかりと宣伝します。川合玉堂についての私見、考え方を90分間お話しします。タイトルの「伝統と創造」、川合玉堂に限らず、優秀な人はすべて「伝統と創造」は車の両輪です。


玉堂は3人の師についた。明治20年玉堂14歳で故郷の岐阜を離れて京都の画家望月玉泉に入門します。明治23年17歳で塩川文麟門下の幸野楳嶺の画塾に入門します。円山派と四条派の画家です。これを円山四条派といい、徹底的に写生を学びます。


「玉堂の言葉など」
幸野楳嶺の絵画教育法が非常な束縛主義で手本を与え、一々門人の書いたのを直し、全く自分通りに成らなければ承知せず、初の頃は他流の画を見てさえ叱った程である。これは絵画の初級教育に於ける最良法であるらしく、これだけでも一通りの画家には成る。(「川合玉堂の絵画教育法」)

運命を変える出来事が玉堂22歳の時に起きました。第4回内国勧業博覧会に出品した「鵜飼」が3等賞を受け、玉堂の方向性が見えました。そして玉堂は一大決心をします。橋本雅邦の「龍図屏風」(静嘉堂文庫美術館)を観て、玉堂は腰を抜かします。23歳で妻と子供を連れて上京します。全部投げうって橋本雅邦のところに押しかけて弟子になります。


「玉堂の言葉など」
所が例の十六羅漢の緻密なのと龍虎の豪放なものを博覧会で見せ付けられた時には、全く打たれてしまったのです。……妙に皮肉な、批評的なことを云う人もあり、色々でしたが、何と云っても皆が大きな衝動を受けたことは事実です。私などはもう打たれてしまったのです。是は飛んでもない偉い人が現在東京に生きて居ると思った。斯んな人にぶつかって行って、もう一遍叩き直さなければいかんと思ったのが私の決心ですね。練り直すより外ないと云う気持ちになったのです。(「雅邦に就く」)


雅邦に就いて、玉堂は本当の意味で画家になりました。京都では、円山応挙の模写など、「粉本主義」、いわゆる「古典主義」的でしたが、お手本に倣うというのが一般的でした。内国勧業博覧会の時には、玉堂は写生に重きをおいていませんでした。しかし玉堂は「絵の根本は写生」と考えるようになります。


「玉堂の言葉など」
写生に重きを置かないが、それをゆるがせにはされなかった。今の人のように写生万能ではなかったのだ。気分、心詩をくりかえして、正確な形、正確な色は絵画にとって余り必要な事ではない。自分の表わそうとする形、表わそうとする色で、自分が造物主になった気持で画を描かれた人である。客観的でなく主観的の人である。今申した心持気分は、写意の画という意味ではない。それは密画粗画に共通していた。(「橋本雅邦先生のこと」)


写生にとらわれてしまう風潮もありましたが、画家の主体性、主観を重視するという、「こころもち」を大事にする玉堂の画風が確立されていきました。


「玉堂の言葉など」
初歩の人には、手本も与え、粉本を摸写させ、自然の写生をさせるなどは勿論、毎月二回会を開いて、一回は歌を題にするとか、詩の意を画かせるとか、つとめて斬新な題を出して、専ら意想を練らせ、一回は竹に雀とか、達磨とか極めて平凡なあり来りのもので、技芸でなければ見られない様な題を出して、技芸の練磨をさせ、楳嶺風に悉く之を直すと云う。(「川合玉堂の絵画教育法」)


以下、スライドによる解説に入ります。


写生画巻「花鳥 15歳写生」(明治21年)

玉堂は写生を続けますが、全面的に「粉本主義」を否定しているわけではありません。


「鵜飼」明治28年

ほんとの意味での玉堂のデビュー作です。あれだけのリアリティはなかなか生まれない。この絵のテーマである自然と人間が、玉堂の一生にモチーフになります。


「小松内府図」明治32年、東京国立近代美術館(後期展示)

玉堂の歴史画ですが、極めて近代的な絵です。玉堂は人物画は少なく、珍しい例です。古い人を描くということは、時代的に社会的な要請があった。


「焚火」明治36年、五島美術館(後期展示)

橋本雅邦の影響が強く出ている絵です。焚き火という、それまであまりモチーフにならなかったもので、自然主義的な考え。玉堂は生来光の感覚を持った画家でした。元を正せば岡倉天心、光とか空気を描かなければならない、と言いました。大観たちが五浦に行ったのを、当時は「都落ち」と言われました。菱田春草ともよく似ています。輪郭線がない。もっといくと朦朧体になっていく。


「渓山秋趣」明治39年

中国的な山水画です。中国人を描くのは当たり前ですが、玉堂はその中に日本人を描きました。「人間的」とはこういうところにあります。


「二日月」明治40年、東京国立近代美術館

墨画淡彩、(十分)重文になり得る作品です。水墨による朦朧体であると思う。応挙あるいは狩野派に通じている。なほ闇とのみ思ひしに月影を雲間に見たり二日の月か(『奥多摩雑稿』)。玉堂は天才であった、しかし、新しいものにチャレンジします。北斎がプルシャンブルーで成功したように、玉堂は赤みがかった空を描きました。「二日月」は、夕方の景を描いています。日本人は、ウエットな感覚が強い。感情移入しやすい。一種のDNAか?


「行く春 小下図」大正5年

六曲一双の「行く春」(東京国立近代美術館)は長瀞の渓谷を描いたもので、その「小下図」です。玉堂の代表作で、重要文化財になっています。春を描いているとされているが、本当に春であったかどうか、調べてみたいと思っています。小下図を見ると、大変苦労している様子が分かります。行く春と惜しむ気持ち。春を惜しむ、惜春。去りゆく季節を描くのは春と秋です。文学少年だった玉堂。美術史家源豊宗は「日本美術の流れ-秋草の美学-」の中で、「私は日本と西洋と中国それぞれの美術を象徴するものとして、西洋はヴィーナス、中国は龍、そして日本は秋草をあてることができると思います」と述べたという。


「紅白梅」左隻、大正8年

尾形光琳を意識した六曲一双の作品。ハンコを見れば明らかに光琳を意識しています。玉堂は、デザイン的な要素を省いて描いています。

「柳蔭閑話図」大正11年

朝鮮の老人二人を描いています。玉堂は一度だけ海外旅行をしており、朝鮮半島を訪れています。帝展出品後は、大倉喜七郎の所有するところとなり、ローマの日本美術展に出品されたもの。有名なのは横山大観の「夜桜」ですが、玉堂はあえて朝鮮の風俗を描いたものを出しました。暫く行方不明だったが、今回出てきました。

「悠紀地方風俗屏風」昭和3年

会場からの質問に答える。この絵は宮内庁三の丸尚蔵館にあり、琵琶湖と近江を描いたもの。新嘗祭で飾るという制約のある絵画です。やまと絵の伝統的にこのような絵を描いていた。このような仕事を与えられるのは大変名誉なことで、玉堂は一生懸命にやっています。自転車?少しでもオリジナリティを出そうと頑張った。


「月五首」
なほ闇とのみ思ひしに月影を雲間に見たり二日の月か(『奥多摩雑稿』)
雲にみがき雨にあらひてまさやかにぬれたるままの月いでにけり(『多摩の草屋』一)
とりよろふ嶺はやうやくくれはてて若葉の上に月みづみづし(『多摩の草屋』二)
月はつひに雲にかくりぬ山影のやみの底には瀬音のみして(『多摩の草屋』三)
なほのこる雨だれこして雲間より水々しもよ十四目の月(『多摩の草屋』四)


全体を通して河野元昭は、川合玉堂は「文学青年」であったと、何度も言い続けました。


特別展 生誕140年記念

川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―

2013(平成25)年は、日本の自然や風物を詩情豊かに表現し、今も多くの人々を魅了し続ける日本画家・川合玉堂(1873-1957)の生誕140年にあたります。この節目の年に、当館所蔵の71点の玉堂作品を中心に他館からも代表的な作品を借用し、玉堂の画業全体を振り返る展覧会を開催いたします。

愛知で生まれ風光明媚な岐阜で育った玉堂は、14歳で京都の円山四条派の望月玉泉や幸野楳嶺の元で本格的に日本画を学び、早くから才能を開花させました。本展では、初期の代表作「鵜飼」(山種美術館)、上京して橋本雅邦に師事した頃の狩野派の影響の色濃い「渓山秋趣」(山種美術館)、転換期の作品といわれる「二日月」(東京国立近代美術館)、「紅白梅」(玉堂美術館)を始めとする琳派や南画等さまざまな研究を経て新たな境地を拓いた作品、そして晩年の情趣深い画境に至るまでを展観いたします。また、長らく公開されることがなく、再発見とも言うべき作品「柳蔭閑話図」をこのたび特別に展示します。初公開となる「写生帖」(玉堂美術館)と18歳の玉堂が友人と編んだ同人誌『硯友会雑誌』(玉堂美術館)など、若き玉堂の熱心な研究の足跡を垣間見ることができる資料もご覧いただきます。

1957(昭和32)年、玉堂の訃報に接した日本画家・鏑木清方は「日本の自然が、日本の山河がなくなってしまったように思う」と嘆いたと言われています。俳句や和歌を嗜み、文学にも造詣の深い玉堂が描いた穏やかな風景は、今なお見る者の郷愁を誘い、私たちの心を癒してくれます。当館の創立者・山崎種二は玉堂と親しく交流し、しばしば青梅の玉堂邸を訪れるほどの間柄でした。そのご縁により、当館は玉堂の代表作の数々を所蔵しています。本展開催にあわせて修復し初公開となる作品、書や陶器の絵付けなど、これまでほとんど紹介されていないものも加え、当館所蔵の玉堂作品全点をご紹介するのは開館以来初の試みです。日本のふるさとやこころを描き続けた玉堂の魅力を心ゆくまでご堪能ください。


「山種美術館」ホームページ


とんとん・にっき-yam1 特別展 生誕140年記念

川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―
2013年6月8日発行

監修:山下裕二

    (公益財団法人山種美術財団評議員・顧問

     /明治学院大学教授)

執筆:河野元昭

    (公益財団法人山種美術財団理事

     /秋田県立近代美術館館長/東京大学名誉教授)

三戸信恵(山種美術館特別研究員)

櫛淵豊子(山種美術館学芸課長)

塙萌衣(山種美術館学芸員)

編集:山種美術館学芸部

発行:山種美術館












キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」を観た!

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キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」を観てきました。韓国映画界の奇才、異端児と言われるキム・ギドク監督、制作上のトラブルから、一時は映画界に背を向けて隠遁生活をしていたようです。その辺りのキム・ギドクの暮らしぶりは、前作のセルフドキュメンタリー「アリラン」で事細かに描かれています。そのキム・ギドクが3年の沈黙を破って発案し脚本化したのは、北と南の不条理な現実を往き来する「プンサンケ(豊山犬)」と呼ばれる男を描いた作品でした。ブンサンケは、北朝鮮製の煙草名でもあります。「ブレス」などで助監督を務めたチョン・ジェホンが、キム・ギドクからの指名で監督を務めました。


キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」、タイトルにある「ピエタ」は、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことです。ミケランジェロはピエタをモチーフに4体の彫刻をつくっていますが、完成したのはサンピエトロ大聖堂にあるピエタのみです。


この映画で描かれるのは、昔は美しい川が流れていたという「清渓川(チョンゲチョン)」周辺。かつては産業の発展を支えたこの町も、今は高層ビルに囲まれ、時代に取り残された地区です。油の匂いが染みついた迷路のように入り組んだ路地の先にある小さな町工場の数々、響くのは鉄を切り裂く乾いた機械の音だけです。


主人公は、親の顔も知らず天涯孤独に生きてきた男イ・ガンド(イ・ジョンジン)。返済できない債務者に重傷を負わせ、その保険金で借金を返済させる借金取立て屋です。そんなガンドの前に、ある日突然、母親を名乗る謎の中年女(チョ・ミンス)が現れます。ガンドは信じず女を邪険に追い払うが、女は執拗にガンドの後を追い、アパートのドア前に生きたウナギを置いていきます。ウナギの首には名前と携帯電話番号が記された、1枚のカードが付けられていました。ガンドが女に電話をすると子守唄が聴こえてきます。玄関のドアを開けると、そこに涙を浮かべながら歌う女が佇んでいました。


捨てたことをしきりに謝罪し、無償の愛を注いでくれるミソンを、ガンドは徐々に母親として受け入れていきます。そしてミソンはいつの間にか、ガンドにとってかけがえのない存在となっていました。ガンドが取り立て屋から足を洗おうとした矢先、ミソンが突然姿を消します。母の身を案じるガンドに一本の電話がかかってきます。電話から聞こえるのは母の悲鳴と激しい物音。「助けて!」という叫び声で電話は切れます。自分が借金を取り立てた債務者の誰かに母は連れ去られたのだと思い至ったガンドは、債務者の家を一軒一軒回っていきます。そして予想を超えた衝撃のラストに・・・。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:独創的な作風で世界中から注目を浴びる韓国の鬼才キム・ギドク監督による、第69回ベネチア国際映画祭金獅子賞に輝いた問題作。昔ながらの町工場が並ぶソウルの清渓川周辺を舞台に、天涯孤独に生きてきた借金取りの男の前に突如母親と名乗る女性が現われ、生まれて初めて母の愛を知った男の運命を描き出す。主演はテレビドラマ「愛してる、泣かないで」のイ・ジョンジンと、ベテラン女優チョ・ミンス。二人の気迫に満ちた演技と、観る者の予想を超えたストーリー展開に圧倒される。

ストーリー:身寄りもなく、ずっと一人で生きてきたイ・ガンド(イ・ジョンジン)は、極悪非道な借金取り立て屋として債務者たちから恐れられていた。そんな彼の前に母親だと名乗る女性(チョ・ミンス)が突如現われ、当初は疑念を抱くガンドだったが、女性から注がれる愛情に次第に心を開いていく。生まれて初めて母の愛を知った彼が取り立て屋から足を洗おうとした矢先、女性の行方がわからなくなってしまい……。


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「嘆きのピエタ」公式サイト

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製作総指揮キム・ギドクの「プンサンケ」を観た!
キム・ギドク監督の「アリラン」を観た!

キム・ギドク監督の「魚と寝る女」を観た!
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キム・ギドク監督の「うつせみ」を観る!


*観たけれども、記事にしていないもの
「ワイルド・アニマル」(1997)
「悪い女~青い門~」(1998)
「リアル・フィクション」(2000)
「受取人不明」(2001)




ベルンハルト・シュリンクの「夏の嘘」を読んだ!

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ベルンハルト・シュリンクの短篇集「夏の嘘」を読みました。本の帯には、「朗読者」の著者による10年ぶりの短篇集、とあります。「朗読者」は世界各国でベストセラーになり、ケイト・ウィンスレット主演で映画化、「愛を読む人」という邦題で公開され、大ヒットしました。訳者の松永美穂によると、長編小説「週末」が映画化され、2013年4月から公開される、という。こちらも楽しみです。


ベルンハルト・シュリンク:略歴

1944年ドイツ生まれ。小説家、法律家。ハイデルベルク大学、ベルリン自由大学で法律を学び、ボン大学、フランクフルト大学などで教鞭をとる。1987年、「ゼルプの裁き」(共著)で作家デビュー。1995年刊行の「朗読者」は世界的ベストセラーとなり2008年に映画化(邦題「愛を読む人」)された。他の作品に「帰郷者」(2006)、「週末」(2008)など。現在、ベルリンおよびニューヨークに在住。


さて、シュリンクの「逃げてゆく愛」に続いて2冊目の短篇集「夏の嘘」は、以下の7つの短編で構成されています。


・シーズンオフ
・バーデンバーデンの夜
・森のなかの家
・真夜中の他人
・最後の夏
・リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ
・南への旅

シュリンクと言えば、彼の作品にはドイツ現代史が色濃く反映していることで、よく知られています。訳者の松永美穂によれば、「朗読者」はナチ時代の犯罪に対して若い世代がどのように向き合うべきかを問うた作品であり、「週末」はドイツ赤軍派の元テロリストが恩赦で釈放されてからの3日間描いた作品でした。しかし、「夏の嘘」では、ドイツやナチ、ユダヤ人といった今までのシュリンク作品のテーマは影を潜め、男女や親子の間の葛藤、それに絡む多種多様な「嘘」と「真実」のあり方がテーマになり、作者がより普遍的で哲学的な物語を目指している印象を受けた、と述べています。


以下、短篇集「夏の嘘」の概要をまとめてみます。


・シーズンオフ

オーケストラのフルート奏者(ドイツ人)がシーズンオフに、海辺のリゾート地に滞在します。レストランで知り合った女性スーザン(アメリカ人)と恋に落ち、彼女との短い期間を彼女の家で暮らします。スーザンは金持ちに見えなかったが、富豪でした。彼は元のニューヨークの安アパートでの生活に戻るが、そこでの暮らしを自分が好いているのに気がつきます。が、しかし、古い生活を捨てて、スーザンとの新しい生活を始めることを決断します。


・バーデンバーデンの夜

ドイツ人の劇作家は、初めて書いた戯曲の初演の日に、テレーゼを連れてバーデンバーデンに行くことにしました。二人は高揚した気分でホテルに帰り、ベッドに入るが、互いに背を向けて眠りにつきます。なにも起こっていない、が良心がとがめます。彼には、7年前に知り合ったアムステルダムに住む恋人アンがいます。いまだにちゃんとした共同生活の形を整えるには至ってなかった。やがてアンが尋ねます。「バーデンバーデンには誰と行ってたの?」と。「あなたは嘘つきで、裏切り者だわ。自分だけ勝手なことをして」とアンは言います。


・森のなかの家

作家の夫婦、彼らは半年前に森の中の家に引っ越してきました。夫はドイツからアメリカにやってきた作家で、妻はアメリカン人作家です。二人が知り合って以来、彼女の作家としてのキャリアは上がる一方で、彼は下がる一方でした。彼ら二人の生活はどんどん細切れになっていきます。数日後に全米図書賞の発表がある日に、妻に連絡が届かないように、幸福な生活を守ろうと、車で引っ張って松の木を倒し、電話線を切ります。


・真夜中の他人

フランクフルトまでのフライト途中、隣り合わせた男が話しかけます。クエートの外交官補の招待を受け、ブロンドの美しい髪とスタイルの素晴らしい恋人と行った時に、恋人は誘拐されてしまいます。ドイツ大使夫妻は、ヨーロッパ女性の人身売買について語ってくれました。女性が同意したならいい暮らしが待っているし、身を任せようとしなければ、持ち主が次々と変わり、最後は売春宿で一生を終える、と。恋人を誘拐したのは、あの外交官補なのか。次々と出てくる彼の話は、あまりにも猪突過ぎます。本当なのか、嘘なのか・・・。


・最後の夏

もう25年も付き合いのあるニューヨーク大学から、来春のゼミナールに彼を招待してきたが、来春はニューヨークで教えることはないだろうと、老人は思っています。老人は終末期のガンを患っています。いよいよ痛みが我慢できなくなったら安楽死をしようと決意して、一族と親友を別荘に集めます。最後に人々と一緒に味わう幸福をうまく準備できたと彼は思っていました。それはまたしても付属物の幸福のための付属物を集めただけなのだろうかと、彼は自問します。


・リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ

父と一度もちゃんと話し合ったことがなく、父のことを何も知らない息子は、父と二人でバッハ・フェスティバルに行きます。そうすれば何か話が出来るかもしれない。だが、父はバッハを語ることしかしないのだ。父は勢いよくしゃべり、自分の知識の豊富さと、息子が注意深く聞いてくれることで気をよくしていました。父は、心の中を語ることはありません。自分と父のあいだに何もなかった。この「無」が彼を悲しくさせます。


・南への旅

施設で暮らす、死を意識し始めた老境の女性。突然自分の子どもたちを愛するのをやめます。子供たちはみな優秀で、非難すべきことがあったわけではありません。誕生日には子や孫たちみなが来てくれました。翌日、彼女は高熱が出て、病気になります。孫にエミリアは、献身的に介護し、看病します。「あなたと一緒に旅行できない?私が元気になるために」、エミリアは「どこへ行きたいの?」と聞きます。「南へ」。彼女は1940年代の終わりに、自分が大学に行き始めた町に行ってみたかったのです。孫のエミリアと南へ旅行。「けっしてやらないよりは、やった方がまし」という積極的な孫の仲介で、老女は、昔自分を捨てた(と思い込んでいた)恋人に会いに行きます。彼と会って話すうちに、彼女の方が彼を捨てた、という事実が分かってきました。


山田太一は「夏の嘘」について、以下のように書いています。

誰もが小さな、あるいは大きな隠し事を持って生きている。これは長篇小説「朗読者」のモチーフでもある。その著者シュリンクが、隠し事、嘘、秘密の世界が一筋縄ではいかないことをあの手この手で語り、楽しませてくれるのがこの短篇集である。ストーリーも人物も面白い。他愛ないエピソードも二転三転させて、大真面目な大テーマにしてしまう。それが理屈や通俗に堕とすことをまぬがれているのは、全篇の底に流れている不確かさ、不安のせいだと思う。あなどれない他者、どう変わるかもしれない自分。これは不足の人生の物語である。

(裏表紙より)


「ベアハルト・シュリンク作品のページ」


過去の関連記事:

ベルンハルト・シュリンクの「週末」を読んだ!
ベルンハルト・シュリンクの「逃げてゆく愛」を読んだ!
「朗読者」再読! 




国立新美術館で「貴婦人と一角獣展」を観た!

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国立新美術館で「貴婦人と一角獣展」を観てきました。たしかに「百聞は一見にしかず」です。これらの前に立つと、その大きさに圧倒されます。素晴らしいタピスリーです。細部に至るまで計算し尽くされ、見事というほかありません。1500年頃つくられたというが、これほどまでのものをつくった「中世」とは何だったんだろう、と思わずにはいられません。


「タピスリー」とは、壁掛けなど室内装飾用の織物。羊毛や絹の横糸で絵柄を表すつづれ織り(ゴブラン織り)の技法。タペストリー。と、解説にあります。


日本も龍村織物 が緞帳を織ったりもしていますが、やはり布という感じが強く、どうもそれとは違った執念や根気が必要のようです。昨年トルコで、絨毯を織っている工場を見学しましたが、日本人の感性とは違っているように思えてなりません。また、青森県立美術館や松濤美術館でシャガールのタピスリー を観て圧倒されましたが、それとも大きく異なるようです。



このタピスリーが展示してあるクリュニー中世美術館は、天井高さはあまり高くないように見えます。国立新美術館は天井高さもあり、「貴婦人と一角獣」を展示するのに、まったくぴったりな空間、よく考えられた展示スペースでした。


フランス国立クリュニー中世美術館の至宝「貴婦人と一角獣」は、西暦1500年頃の制作とされる6面の連作タピスリーです。千花文様(ミル・フルール、複雑な花や植物が一面にあしらわれた模様)が目に鮮やかな大作のうち5面は、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と人間の五感を表していますが、残る1面「我が唯一の望み」が何を意味するかについては、“愛”“知性”“結婚”など諸説あり、いまだ謎に包まれています。


ウィキペディアには、以下のようにあります。

タペストリーの中に描かれた旗や、ユニコーンや獅子が身に着けている盾には、フランス王シャルル7世の宮廷の有力者だったジャン・ル・ヴィスト(Jean Le Viste)の紋章(三つの三日月)があり、彼がこのタペストリーを作らせた人物ではないかと見られている。ジャン・ル・ヴィストがリヨン出身であり、獅子の「lion」はリヨン「Lyon」から、一角獣は、足が速いためフランス語で「viste」(すばやい)とル・ヴィスト(Le Viste)の一致によるものと言われている。


「貴婦人と一角獣」六連作


触覚:

背筋を伸ばし堂々と立つ貴婦人が、右手で旗竿を持ちながら、左手で一角獣の角に軽く触れています。

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味覚:

貴婦人は侍女の捧げる器から右手でお菓子を取り、左手にとまるオウムに与えています。

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嗅覚:

侍女が支える皿から花を選びながら、花冠を編む貴婦人。その背後で、猿が花の香りをかいでいます。

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聴覚:

侍女がふいごを操作し、貴婦人はパイプオルガンを演奏しています。オルガンの音に耳を傾ける一角獣と獅子。

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視覚:

草地に腰を下ろす貴婦人の膝に、一角獣が前脚をのせ、憩っています。一角獣は、鏡に映る自らの姿に見入っています。

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我が唯一の望み:

青い大きな天幕の前で、宝石を手にする貴婦人。侍女が捧げ持つ小箱から、宝石を選んで身につけるところでしょうか。それとは逆に、身につけていた宝石を外し、箱に戻すところかもしれません。

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「貴婦人と一角獣」部分




大画面シアター

その他の展示



「貴婦人と一角獣展」
フランス国立クリュニー中世美術館の至宝《貴婦人と一角獣》は、西暦1500年頃の制作とされる6面の連作タピスリーです。19世紀の作家プロスペル・メリメやジョルジュ・サンドが言及したことで、一躍有名になりました。千花文様(ミルフルール)が目にも鮮やかな大作のうち5面は、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と人間の五感を表わしていますが、残る1面「我が唯一の望み」が何を意味するかについては、“愛”“知性”“結婚”など諸説あり、いまだ謎に包まれています。本作がフランス国外に貸し出されたのは過去にただ一度だけ、1974年のことで、アメリカのメトロポリタン美術館でした。 本展は、この中世ヨーロッパ美術の最高傑作の誉れ高い《貴婦人と一角獣》連作の6面すべてを日本で初めて公開するもので、タピスリーに描かれた貴婦人や動 植物などのモティーフを、関連する彫刻、装身具、ステンドグラスなどで読みといていきます。クリュニー中世美術館の珠玉のコレクションから厳選された約40点を通して、中世ヨーロッパに花開いた華麗で典雅な美の世界を紹介します。


「国立新美術館」ホームページ




連続講座「書物の達人―丸谷才一」、川本三郎「昭和史のなかの丸谷才一」!

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今日から世田谷文学館で始まった連続講座「書物の達人―丸谷才一」、5回連続のトップを飾るのは、川本三郎の「昭和史のなかの丸谷才一」です。


川本については僕はまったく何も知らず、映画評論家だろうと長い間思っていました。奥さんが亡くなって、追想記「いまも、君を想う」 を書きます。本の内容紹介には、「30余年の結婚生活、そして、足掛け3年となる闘病…。家内あっての自分だった。7歳も下の君が癌でこんなにも早く逝ってしまうとは。文芸・映画評論の第一人者が愛惜を綴る、感泣落涙の追想記」とあります。事情を知らなかった僕は、なんと女々しいヤツだと、川本のことを思いました。その後、映画「マイ・バック・ページ」の原作が、全共闘時代だった川本三郎だったことを初めて知りました。


川本三郎:

忘れていた「映画における音楽」という仕事について、管野館長の話で思い出しました。「ローマの休日」という映画で、グレゴリー・ペックの部屋に行くと、ラジオから流れていました。リストの「巡礼の年」でした。今日は丸谷才一のことを話すので、大変緊張しています。ジョイスの「ユリシーズ」を翻訳した方であり、そして古典に強い方でもあります。私にとって、こわい人でした。読売文学賞の審査員に加えていただいた時に、「声が小さい」と怒鳴られました。文壇では、開高健、井上光晴、丸谷才一の3人は、声が大きいことで有名でした。こうして前説をしないと、緊張しているので話せません。丸谷才一という人は、前説をしない人、いきなり本論に入ります。


今日は「昭和史における丸谷才一」というタイトルでお話しします。丸谷さんと戦争という話です。丸谷さんは、戦争体験の最後の世代です。丸谷文学の核心には、「自分は兵隊にとられた」ということがあります。徴兵忌避者を書いた作品に「笹まくら」(1966年)があります。丸谷は昭和20年に20歳でした。戦前まで「徴兵制」があったこと、肺病が死病だったこと、この二つの事実をみないと、戦前の作品を読む時に見誤ります。吉本隆明もそうでしたが、時代は愛国少年、軍国少年がほとんどでした。丸谷は少年の頃から戦争が嫌いでした。丸谷は山形県鶴岡の出身で、藤沢周平や大川周明がいました。


戦争の熱気の中で、町には号外が出ました。「ああ、イヤだな」と、丸谷は感じたという。これが一貫して丸谷の軍隊嫌い、兵隊嫌い、これは皮膚感覚で、生理的なものです。私が一番尊敬している人は永井荷風ですが、「四畳半襖の下張り」を書きました。「面白半分」という雑誌、野坂昭如が編集長でしたが、裁判沙汰になります。丸谷は弁護役をかって出ました。反骨精神旺盛で、反権力、国家批判、権力批判です。丸谷は、20歳で兵隊にとられ、たこつぼを掘って、米軍が上陸した時に立ち向かえと言われていた。丸谷は、そんなことをしても無駄だと思っていました。しかし、ヒステリー的な戦争批判はしませんでした。


「笹まくら」の中で、玉音放送を聞くところがあります。放送を聞いて無学な上官は理解できませんでした。上官にその内容を説明すると、上官に殴られました。丸谷の「にぎやかな街で」(1968年)は、あまり読まれていませんが、不思議な作品です。広島の郊外、在日朝鮮人の目からみた話です。広島に原爆が落ちます。日本人の映画館主と親しくなります。非常に不思議な印象を与える小説です。館主は妻を殺してしまった過去があります。後に「女ざかり」を書いた作家とは思えません。同じ頃「秘密 シークレット」という、後の「笹まくら」につながる作品です。徴兵忌避者が主人公の、当時としては珍しい小説です。8月15日が来て、命拾いします。この2作品は、重要な作品だと思います。


東北は今でも薩長が嫌いな人が多い。薩長と會津は姉妹都市にはなりません。いま「原発」で東北は大変なことになっています。永井荷風も薩長が嫌いで、悪口を書いています。ここあたりが丸谷が荷風を好きだった理由かもしれません。夏目漱石の「坊っちゃん」、坊っちゃんは江戸っ子で、山嵐は会津です。佐幕派の文学です。丸谷の書いた論文「徴兵忌避者としての夏目漱石」(1968年)。「こころ」を読む時に、先生の気持ちが理解できます。先生が乃木大将が死んで、なぜ死ななければならなかったのか。漱石は戸籍を、日本海側の北海道岩内町に移しています。岩内には顕彰する碑があります。丸谷によると、北海道の人間は徴兵制から見逃されていた。漱石が徴兵にとられていたら、日露戦争に行っていた。それが漱石の心の負い目になっていました。


いよいよ「笹まくら」です。「草枕」と同じ意味です。私は、戦前の若者たちは、心の底から本当に戦争に行きたいと思っていたのか、疑問でした。私は昭和19年の生まれです。来年は70歳です。岩波現代文庫に「あの戦争を伝えたい」という本があります。そのなかに「こんな戦争はイヤだ。家に帰りたい」というのが出てきます。建前と本音です。丸谷の「笹まくら」は、徴兵忌避で5年間も日本中を逃げ回る話です。私は一種のファンタジーだと思います。もう一人の自分を想定して小説を書いたのではないか。主人公はラジオの修理をしながら、転々と旅をし、特効の目を逃れました。


ディテールがしっかり書かれていることによって納得させられます。こういう人はそもそもアウトサイダーです。山下清は日本中を旅しました。「裸の大将」です。旅というよりは、兵隊にとられるのがイヤだったからだと思う。山中を移住していた「木地師」は、戸籍がなかった。それにしても5年間も逃げ回ることが可能なのか。私はファンタジーだと思う。最後の1年、ある年上の女性と出会い親しくなります。よくあるパターンです。宇和島の質屋の娘で、助けられて逃げます。「貴種流離譚」の型もふんでいます。


二本立て、現在と過去が表されています。戦後はどうなったのか。大学の事務局職員になります。徴兵忌避をしても主人公は心が楽しくありません。自分と同じ年齢の若者が兵隊に行っていて、自分だけが逃れている罪悪感。それらが重なり合っていきます。これは徴兵忌避のパラドックスです。小林正樹監督の映画「日本の青春」、原作は遠藤周作ですが、心が晴れることはなく、決してハッピーエンドにはなりません。


国家権力は、さまざまなものを民営化してきました。しかし、最終的に民営化できないものがあります。それは軍隊、警察、そして税務署です。安倍総理は憲法を変えようとしています。今の若者はそれでいいのか。私は公安事件で逮捕されました。小説「マイ・バック・ページ」を書きました。真っ先に褒めてくれたのは丸谷さんでした。絶賛していただきました。丸谷さんにお会いしてお礼を言うと、「君、僕は『笹まくら』の作者だよ」と言われました。


以下、川本三郎によるメモ

丸谷才一の戦争と国家にかかわる小説

 「贈り物」(1966年)

 「にぎやかな街で」(1968年)

 「笹まくら」(1966年)

 「たった一人の反乱」(1972年)

 「横しぐれ」(1974年)

 「裏声で歌え君が代」(1982年)

論文

 「徴兵忌避者としての夏目漱石」(1968年)


徴兵について考える映画

 木下恵介「陸軍」(1944年)、原作:火野葦平

 篠田正浩「あかね雲」(1967年)、原作:水上勉「あかね雲」

 小林正樹「日本の青春」(1968年)、原作:遠藤周作「どっこいしょ」

 堀川弘通「裸の大将」(1958年)

 増村保造「清作の妻」(1965年)、原作:吉田弦二郎「清作の妻」


徴兵について考える小説

 松本清張「遠い接近」(1972年)


川本三郎:略歴

1944年東京生まれ。東京大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。編集者として活躍したのち1972年に退職。以後、文学、都市、映画を中心とした評論ほか、小説、翻訳など幅広い執筆活動を行う。 1991年に「大正幻影」でサントリー学芸賞、1997年に「荷風と東京」で読売文学賞、2003年には「林芙美子の昭和」で桑原武夫学芸賞、毎日出版文化賞を受賞。著書・訳書に「郊外の文学誌」「都市の感受性」「今ひとたびの戦後日本映画」「マイ・バック・ページ」「叶えられた祈り」(トルーマン・カポーティ著)ほか多数。


過去の関連記事:

山下敦弘監督の「マイ・バック・ページ」を観た!


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連続講座「書物の達人 丸谷才一」、菅野昭正の丸谷才一論!

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講師の湯川豊が事情があって講演できない、代わって世田谷文学館館長の菅野昭正がピンチヒッターとして講演を行う、という事務局からの連絡があったのは、つい数日前のことでした。菅野昭正は、今回の連続講座「書物の達人 丸谷才一」の企画者でもあります。湯川豊さんは、喉の調子が悪くて声が出ないのだという。菅野は「豊さんのように豊かな話はできないかもしれない」と、まずは謙遜します。「ピンチヒッターですけど、三振だけはしたくない」と。


丸谷才一:略歴

小説家、文芸評論家、英文学翻訳家。1925年山形県生まれ。東京大学英文科卒業。日本の私小説的な文学を批判し、古今東西の文学についての深い教養を背景に、知的で軽妙な作品を書いた。「笹まくら」「年の残り」「たった一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」などの小説の他に、「忠臣蔵とは何か」「文章読本」「新々百人一首」などの評論、随筆、ジョイスの「ユリシーズ」などの翻訳と幅広い分野で活躍した。書評を文芸の一つとして位置づけることにも取り組んだ。2011年文化勲章受章。2012年永眠。

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菅野昭正:
1953年、私は大学を出て某大学の非常勤講師(フランス語)の職を得ました。そこに常勤講師として丸谷さんがいました。遊び友達で、よく麻雀を付き合わされました。その頃丸谷さんは、グレアム・グリーンを訳していました。英文科の篠田一士、西洋美術史の中山公男、丸谷の三人で「秩序」という季刊同人雑誌をつくっていました。丸谷と知り合って1年ぐらい経って、強制的に「君も『秩序』に入るべきだ」と、丸谷に言われます。


昭和30年頃のことです。丸谷は「エホバの顔を避けて」という小説を「秩序」に連載していました。連載のために「秩序」を出していた。「秩序」は建前としては年4回、季刊でしたが、年1回ぐらいしか出せなかった。先輩達から、季刊はうるう年と間違えているんじゃないか、と言われたりもしました。丸谷は1960年、「エホバの顔を避けて」を出版、記念会をしましたが、世間一般には知られなかったし、批評家も取り上げなかった。


これは旧約聖書のなかの「ヨナ書」を物語の基本にしています。「ヨナ書」はたった3ページぐらいしかありません。予言者は神の言葉を預かります。その頃、贋預言者がたくさんいました。預言者と名乗って、私腹を肥やした。エホバ=ヤークエ(ヘブライ語)、正しくは今はそう言いませんが。語り手=主人公ヨナに対する預言者たれ、とエホバが告げます。アッシリア王国(イラク北部)の首都ニネベを攻めよ、と。ヨナはその指名を与えられて、自分には責任が重すぎると思います。ヨナは「エホバの顔を避けて」逃れ行きます。これは聖書の中にある文章です。


ヨナは東の方へと逃げていきます。船に乗ります。神は大いに怒って嵐を起こします。「おおいなる魚」に呑み込まれます。3日3晩閉じ込められます。そして魚の口から吐き出されます。40日目にこの町は滅びます。悔い改めて、神の怒りを収めます。ヨナは怒りを覚え、町の端に小屋をつくり、町を見ます。神が植えた木(瓢・ひさご)は、一日経つと枯れてしまいます。物語の基本的な枠組みは、すべて「ヨナ書」のとおりです。「エホバの顔を避けて」は、丸谷の処女作です。


その前に丸谷はジェームス・ジョイスに入れあげていました。「若い芸術家の肖像」や「ユリシーズ」を訳しています。エリオットは「ユリシーズ 秩序 神話」を書き、丸谷が翻訳しています。その中でエリオットは、「神話を用いることで、現代と古代との間に持続的な神話を枠組みとしてつくれる」と書いています。ジョイスは、現代史という空虚と混乱に展望を秩序付け、言葉と手段を支える、としています。丸谷は「ああ、そうか」と言ってる間に、「ヨナ書」にあたったのではないでしょうか。


丸谷は声が大きい。井上光晴の声は避けたい、憲法違反だ。開高健も大きいが、都条例違反だ。丸谷はフォルテシモとピアニシモしかなく、大事なことを言う時には、小さな声になります。イスラエルのある町で靴屋をやっている一人の男が通って、「ニネベの町はどこか?」と聞きます。金10枚をやる、と。丸谷はこの男をヨナにしました。ヨナに神の声が聞こえました。小説家の工夫の一つ。古代のアッシリアの町の生活が分からないが、小説では町の生活が具体的に書かれていて、違和感なしに手に取るように読めます。その辺りに小説家の才能を感じます。


中公文庫「エホバの顔を避けて」より

エホバを恐れて旅立ち、大魚に呑み込まれた靴職人のヨナは、吐き出されて予言者となり、ニネベで町の滅亡を説く。無信仰な市民たち。王位をねらう策謀。騒然たる町に予言の日が近づいてくる。旧約聖書のヨナ書に題材をとる異色の作。


もう一つの工夫として、「恋愛話」を入れます。二重スパイ、そうして40日が過ぎます。町の人は悔い改めます。王様が出てきて、いずまいを正して神に祈ります。40日目、なにごともなく過ぎます。ヨナは贋予言者じゃないかと、追い立てられます。河原で対決します。石を投げつけられます。


資料について

資料は、上は「エホバの顔を避けて」の終章の部分です。末尾にある「東京 1959年8月」は、書き終えた日です。下は「ユリシーズ」の最後の章です。末尾に「トリエステ-チューリッヒ-パリ 1914-1921」とあります。「ユリシーズ」はダブリンを舞台にした、20世紀に開発された小説です。「考えるままに書いていく」「意識の流れ・内的独白」です。


神話を使って、なぜ現代小説を書いたのか。丸谷は徴兵制最後の世代です。この小説は戦争中の日本をあてつけています。ヨナは超越的な良心です。寓意によって書いています。松浦寿輝、私が教えた世代、は戦争のことを知らない世代ですが、新しく刊行されたものの解説を書いています。「ヨナ書」を神話に見立てて書いています。次の「笹まくら」とは、根底的につながっています。


徴兵制は、近代国家は常備軍を持つ必要があると、フランスが始めました。フランスは20年ぐらい前になくしました。日本は明治時代に始まります。貴族や長男は採られない。「代人」制があって、お金を払って代わりに行ってもらう制度があった。機能、漱石が本籍を北海道に移した話がありました。なぜ北海道か?北海道と沖縄は徴兵制がなかった。一種の矛盾です。漱石はそういう制度を利用した。


1972年、「たった一人の反乱」で丸谷の名が上がりました。主人公は丸谷と同じ45歳ぐらい、通産省のお役人です。高級官僚ですが、自衛隊に出向を命じられます。主人公は自衛隊に反対して、役所を辞めて、電気会社に就職します。再婚ですが、格好いいファッションモデルと結婚します。ゆかり夫人は亡くなった奥さんのベッドを使っていたことに対して反抗します。おばあさんは栃木の刑務所にいます。過激派の全共闘運動ばかりを撮っていたカメラマン。出所したおばあさんは機動隊に石を投げます。義理のお父さん、ゆかりのお父さんは、教授会に反対します。結局は反乱はあるけれども、空しく終わります。


「幸福論」を書いたアランは、「権力に反抗する市民」という本を書きます。市民たるもの、権力に対して批判の眼を持っていなければならない。それに通じるところがあると思いました。物語が面白くできているので、誰が読んでも面白く、分かり易く読める。この本で丸谷は、広く読者を獲得します。「裏声で歌え君が代」、陸軍にいたが画商になって台湾の独立運動にかかわります。国家と個人の関係です。でき具合は「たった一人の反乱」には及ばないと思う。


丸谷の小説の一つの特徴は、知的で素敵な女性が出てくる。男にしても、世間的なちゃんとした職業を持っています。「女ざかり」は、新聞社の女性論説委員が主人公です。映画にもなり、吉永小百合が主人公役でした。イギリスのフレイザーの未開社会の神話・呪術・信仰に関する書「金枝篇」や、折口信夫など民俗学、忠臣蔵や菅原道真なども出てきます。水子供養の民族的な団体に、政治家がかかわっていたことにより、問題が大きくなります。論説委員は大きな政党から叩かれます。女性は離婚経験のある政治家と恋愛していて、支援者がいません。


丸谷さんの一つの大きなテーマは、精神の自由、行動の自由、です。エホバはな由に行動しています。徴兵忌避は自由を求めることの裏側にある行為です。「たった一人の反乱」も、自由の意志で自由を生きるから、それで報いられます。それが大事なことです。「輝く日の宮」は、たいへん自由な国文学者の女性が主人公です。小説の方法の工夫としては、戦後の小説家として注意しなければならない。藤原定家、輝く日の宮があったという説と、なかったという説。


学会でのやり取り、論戦。主人公が中学生の時に書いた文章があります。今は心身の国文学者です。源氏物語の時代、藤原道長は、小説というのは謎がないとと言います。紫式部は「あ、そうか」と思います。丸谷の源氏論です。最後、水野会社の社長が結婚を断ります。目黒の先の自然公園を散歩します。関係があったとあります。これは必要なかったと、私は思います。大江健三郎さんも同意見です。


最後に申し上げたいことは、丸谷の小説には戦争が底流にあるということです。丸谷は、最後に4つの短編を書く予定でした。昭和20年8月15日の、ギューヅメの列車の中。その中に一人、「君は走る」、二人称で書いている、これも工夫でしょう。シュア中で女の子と知り合い、途中駅で二人で泊まります。それから10数年経ちます。旧制高校時代のなかまで文集をつくろうとします。友達の消息が書いてあります。丸谷の最後の戦争小説です。「エホバの顔を避けて」は、最初の戦争小説です。


新しい時代の風俗の中に、戦争を溶かし込んでいたのが丸谷の小説です。丸谷は生前、「精神風俗」ということを言っていました。2012年に生きている我々は、どう生きているか。丸谷が芥川賞を取った次の年、吉行淳之介と対談しています。そこで丸谷は、「イギリス風の風俗、精神風俗のような厚みのある小説を書きたいと思っている。グレアム・グリーンやジェームス・ジョイスがそうです」と言っています。こう言った時に、義之さんがどう言ったかは、興味のあるところです。



過去の関連記事:
菅野昭正編「知の巨匠 加藤周一」を読んだ!


とんとん・にっき-kanno 「知の巨匠 加藤周一」

2011年3月10日第1刷発行

編著:菅野昭正

発行所:株式会社岩波書店

大森立嗣監督の「さよなら渓谷」を観た!

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僕の家の近所、東急世田谷線が環状7号線と交わるところ、若林に「赤目製作所」という看板のかかった民家がありました。この家が荒戸源次郎監督の「赤目四十八瀧心中未遂」の制作事務所でした。大森立嗣は「赤目・・・」で助監督をやっていたと僕は思い込んでいたのですが、ウィキペディアによると「赤目・・・」の「制作・公開に携わる」とだけありました。大森立嗣監督のデビュー作、花村萬月原作の「ゲルマニウムの夜」の、製作・総指揮は荒戸源次郎でした。


大森立嗣にとって、荒戸源次郎は師となる人で、そのすべてを受け継いでいるように思われます。大森立嗣の父親は舞踏家の麿赤兒、弟は大森南朋です。大西信満は「赤目・・・」の時は、大西滝次郎の名で寺島しのぶとともに主役を演じていました。大森南朋は赤坂真理原作の「ヴェイブレータ」で、寺島しのぶと主役を演じていました。新井浩文は「ゲルマニウムの夜」では、主役の「朧」を演じていました。つまり彼らはすべて「荒戸学校」あるいは「赤目学校」の出身でもあります。


映画監督大森立嗣も、デビュー作の 「ゲルマニウムの夜」(2005年)以来、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2010年)、「まほろ駅前多田便利軒」(2011年)とヒットが続き、今回「さよなら渓谷」(2013年)が公開されました。2008年7月にこのブログに書いた、吉田修一の「さよなら渓谷」を読む! が、ここ1ヶ月ほどの間、毎日とんでもないアクセス数を数えています。映画「さよなら渓谷」の大ヒットの前触れかもしれません。


そんなこともあって、公開が待たれていた大森立嗣監督の「さよなら渓谷」を観てきました。チラシには「この切なさに、胸がうずく。」とあり、「本年度、最も衝撃的で濃密なラブストーリー」と続けています。原作者の吉田修一は「これは、壮絶な物語ではなく、壮絶な物語の中へ落ちていった男と女の姿を描いた映画なのだと思います」と語っています。以前、以下のように書きました。


どうしても前作「悪人」と比較されてしまいがちですが、それもしかたがない。読後、こんな言い方が妥当かどうか判りませんが、テーマの奥底に流れる「人間観」は同じなんだなと思いました。端的に言えば、「負」、つまりマイナスとマイナスがくっつくということが、逆にどうしようもなく「人間らしさ」を表しているように思いました。


渡辺は「女は復讐するために、憎悪する男に抱かれることができるのか」と、疑問を浮かべます。「いったい何があったのか。何が本当で、いったい何が嘘なのか?」。「私が決めることなのよね」と、かなこは呟きます。渡辺が渓流沿いに河原へ出ると、水辺に尾崎が立っていました。「彼女なら、数日前に出ていきましたよ。置き手紙がありました」と尾崎は言います。「さよならって、そう書いてありました」。「幸せになりそうだったんですよ、俺と彼女」、「だったら、なればいいじゃないですか」、「無理ですよ。一緒に不幸になるって約束したんです。そう約束したから、一緒にいられたんです」。


姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう。大きく息を吐いた尾崎は「俺は、探し出しますよ。どんなことをしても、彼女を見つけ出します。・・・彼女は、俺を許す必要なんかないんです」と尾崎は呟きます。2人で幸せになってもいいじゃありませんかとそう叫びたいのに、渡辺にはどうしてもそれが言えません。「もし、あのときに戻れるとしたら、あなたは、また彼女を・・・」、そんな質問が渡辺の口から漏れます。哀しいラストですが、希望はあります。


主演の真木よう子の、薄幸な姿が涙を誘います。大西信満の真木よう子を見る目は、あくまでも優しい。大森南朋が、この重いテーマを持った物語を、しっかりと支えています。原作者の吉田は、以下のように語っています。「運命の相手」とこれ以上ない不幸な出会い方をしてしまった男と女。言い換えれば、不幸な出会い方をしたからこそ、互いの「運命の相手」になりえた男女を描いたと言えるかもしれません、と。


素人の目でみた映画技法的な感想を一つ。あまりにも饒舌な作品が多い中、大森の「さよなら渓谷」は饒舌に陥りません。語り口はサスペンスに満ちていながら、あくまでも淡々としています。そして一瞬の間があるシーンが多い。これが効いていると思います。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:『悪人』『横道世之介』などの原作者として知られる芥川賞作家・吉田修一の小説を、『まほろ駅前多田便利軒』などの大森立嗣監督が映画化。幼児が殺害された事件をきっかけに暴かれる一組の夫婦の衝撃的な秘密を描きながら、男女の愛と絆を問う。愛と憎しみのはざまで揺れるヒロインの心情を、『ベロニカは死ぬことにした』などの真木よう子がリアルに体現。その夫役には『キャタピラー』などの大西信満がふんするほか、大森監督の実弟である大森南朋をはじめ、井浦新、新井浩文ら実力派が名を連ねる。

ストーリー:緑が生い茂る渓谷で幼児の殺害事件が発生し、容疑者として母親が逮捕される。隣の家に住んでいる尾崎俊介(大西信満)がその母親と不倫していたのではないかという疑惑が、俊介の妻かなこ(真木よう子)の証言によって浮かぶ。事件を取材する週刊誌の記者、渡辺(大森南朋)がさらに調査を進めていくうちに、尾崎夫妻をめぐる15年前の衝撃的な秘密にたどり着き……。


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「さよなら渓谷」公式サイト

過去の関連記事:

大森立嗣監督の「まほろ駅前多田便利軒」を観た!
大森立嗣監督の「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」を観た!

「ゲルマニウムの夜」を見た!
ニュース「ゲルマニウムの夜」
大森立嗣初監督作品「ゲルマニウムの夜」に期待する!
芥川賞作品「ゲルマニウムの夜」映画化


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