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出光美術館で「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」を観た!

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「光源氏の恋の遍歴を壮大なスケールでつづった王朝文学の傑作」と今回のチラシにあるのですが、「源氏物語」は、僕は今に至っても読んだことがありません。2010年11月、たぶん、五島美術館が改修工事で休館になる前の、開館50周年を記念して開催された「国宝源氏物語絵巻」展を、なんの素養もない僕にとっては猫に小判ですが、その評判を聞いて観に行ってきました。


平安時代に誕生した「源氏物語絵巻」は、鎌倉時代、室町時代にかけての行方は明らかではないそうですが、江戸時代には3巻強(10帖分)が尾張徳川家に、1巻弱(3帖分)が阿波蜂須賀家に伝わっていたという。現在、徳川家本は愛知・徳川美術館が所蔵、蜂須賀家本は五島美術館が所蔵しています。「国宝源氏物語絵巻」展は、愛知・徳川美術館と、五島美術館が所蔵する国宝「源氏物語絵巻」のすべてを集め展示するという、今思うと驚くような展覧会でした。

五島美術館で「国宝源氏物語絵巻」を観た!

「伊勢物語」は、新潮日本古典集成という全集のうちの一巻を、「古今和歌集」「新古今和歌集」とともに、いつも手元に置いて見ていたのですが、その三冊が数年前からどこへ行ったのかいくら探しても見当たりません。そんなわけで「伊勢物語」については多少は知ってはいるのですが、いかんせん僕のことですから、上っ面だけの理解のとどまっているのが実情です。


今回の出光美術館の「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」は、「源氏物語」誕生には、在原業平と目される男の一代記である「伊勢物語」が多くの着想を与えたと言われており、このような密接な関係はそれぞれの物語を描いた絵画―源氏絵と伊勢絵にもおよぶ、とチラシにあります。今年は、桃山時代、優れた源氏絵を残した土佐光吉(1539-1613)の没後400年にあたるということで、源氏絵と伊勢絵という二つの物語絵の豊かなイメージの交わるところの新鮮な魅力を探る、というのが展覧会の主旨のようです。ふと考えてみると、このような源氏絵と伊勢絵をテーマにした展覧会は、初めてのような気がします。


図録には巻頭論文が二つ載っていますが、それはここでは飛ばして、「源氏物語あらすじ」と「伊勢物語あらすじ」を見る。「源氏物語」は「源氏物語図屏風」の60の場面を配置し直し解説を付けたもの、「伊勢物語」は「伊勢物語色紙貼交屏風」の49図を配置し直し解説を付けたものです。これは物語の概要をつかむ上で、僕のようなものでも、非常に分かりやすい。


図録によれば、伝土佐光吉「源氏物語図屏風」六曲一双は、画面を金雲によって規則的に分節し、そこに「源氏物語」の各帖から取り出した場面を並列する屏風絵で、「五十四帖屏風」と呼ばれる形式です。やはり図録によれば、土佐派「伊勢物語色紙交屏風」六曲一双は、朝顔棚を描いた六曲一双の屏風の上に、「伊勢物語」に取材した複数の色紙を貼ったもので、右隻に25葉、左隻に24葉、計49の場面が貼られています。その図数は嵯峨本「伊勢物語」と一致し、各色紙に用いられた図様もほとんど一致するという。いずれにせよ源氏絵と伊勢絵の双方に土佐派の絵師が果たした役割は大きい、という。


展示会場のトップを飾るのは、岩佐又兵衛の「源氏物語野々宮図」と「在原業平図」です。「源氏物語野々宮図」は、「源氏物語」の賢木(第十帖)の場面を水墨を主体に描いたものです。周りに秋草が茂る黒木の鳥居の下、佇んで前方に視線を送る光源氏。晩秋の頃、伊勢下向をひかえたかつての恋人・六条御息所を嵯峨の野宮に訪ね、榊のように変わらない恋慕の情を伝えようとするところです。


一方、「在原業平図」は、左手に弓を握り、狩衣姿で身をよじる在原業平を描いています。全体は総じて淡彩によって仕上げられていますが、ところどころに効果的な金泥や強い絵具を加えています。画面上部に記されているのは、「伊勢物語」第八十八段にも登場する業平の和歌で、年をとった男たちが集う月見の場で、月日の計かを人間の加齢にこと寄せて読んだものです。


最後を飾るのは、酒井抱一「八ッ橋図屏風」六曲一双で、左右の画面を横断する橋の周囲に、群生するカキツバタを鮮やか野群青と緑青で描いています。尾形光琳によって手がけられた同じ主題の屏風に基づき、その際限を試みたものです。都に住みづらくなった主人公が、東国へ向けて旅をする「伊勢物語」第九段。旅の途中、男は三河の国の八橋で華やかに咲き誇るカキツバタを目にし、この花の名の五文字を各句の頭にして歌を詠みました。「からころもきつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもふ」。この絵のように登場人物の姿をいっさい描かずに物語の情景を表したものを、「留守模様」といいます。


展覧会の構成は、以下の通りです。


1.貴公子の肖像―光源氏と在原業平

2.源氏絵の恋のゆくえ―土佐派と狩野派

3.伊勢絵の展開―嵯峨本とその周辺

4.物語絵の交錯―土佐光吉の源氏絵と伊勢絵

5.イメージの拡大―いわゆる〈留守模様〉へ



1.貴公子の肖像―光源氏と在原業平



2.源氏絵の恋のゆくえ―土佐派と狩野派



3.伊勢絵の展開―嵯峨本とその周辺




4.物語絵の交錯―土佐光吉の源氏絵と伊勢絵




5.イメージの拡大―いわゆる〈留守模様〉へ




「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」

2013年は、桃山時代に源氏絵をリードした絵師・土佐光吉(1539~1613)の没後400年にあたります。そこで、この展覧会では光吉とその時代の源氏絵を、源氏絵に近接する物語絵画、とりわけ伊勢絵との比較によってとらえなおします。11世紀はじめに成立した『源氏物語』は、そこからほとんど時を経ずに絵画化されるようになったといわれます。成立からおよそ1千年を経過した今なお、金銀や極彩色によって飾られた王朝の恋模様は、多くの人々を魅了してやみません。ところで、『源氏物語』が、登場人物の設定や各帖の内容において、先行するいくつかの文学作品に着想を得ていることはよく知られます。在原業平と目される「男」の一代記『伊勢物語』も、その重要な発想源のひとつでした。それぞれの物語の主人公・光源氏と業平は、互いに天皇の血を引く生い立ちや、知性と美貌をかねそなえるところを通わせるほかにも、ヒロインの立場や恋の顛末など、物語の筋にもよく似た部分がいくつも見られます。今回は、テキストに認められる密接な関係をそれぞれの絵画にも当てはめ、光吉を中心とする17世紀の源氏絵と伊勢絵との間に、図様や表現を通わせている例を見出します。その上で、当時の公家たちの注釈理解などを手がかりに、このような交響の理由を探ります。この展覧会は、これまで別々に展示されることの多かった源氏絵と伊勢絵を一望のもとにとらえ、それぞれの新鮮な見方を紹介するものです。


「出光美術館」ホームページ

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土佐光吉没後400年記念

「源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」

平成25年4月6日発行

編集発行:公益財団法人出光美術館










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東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を観た!

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先日、酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」(岩波現代文庫:2013年4月16日第1刷発行)という本を読みました。その中の「写真術の招来」という章に、フランシス・ベーコンに関して、以下のような文章があるのを見つけました。なんと初出は「月刊百科」1983年11月号に書いたものだというから、30年も前の文章です。酒井忠康の鑑識眼の高さが分かります。


近年、その作品がはじめて組織的に日本に紹介されたイギリスの画家、フランシス・ベイコンなどは、写真をもっともたくみに利用している作家といってよい。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」のカットによった、ベイコンの仕事などは、写真と絵画だけでなく、映画も加わって、映像の再生が不断に行われていることを物語っている。(平凡社「遠い太鼓」所収、「写真と絵画」を改題)


東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を観てきました。フランシス・ベーコンについては、僕にとってまったく知らない画家でした。1983年の東京国立近代美術館などでの個展以来、日本では30年にわたり「ベーコン展」は開催されませんでした。今回の「ベーコン展」は、1940年代から亡くなる直前までの作品、30数点によって構成されています。


フランシス・ベーコン(1909-1992)は、アイルランドのダブリン生まれ、イギリスのロンドンを拠点に活躍した画家です。先日「第7回大江健三郎賞」の受賞者との公開対談の時に、大江健三郎が取り上げていましたが、同姓同名の哲学者の、傍系の子孫とも言われています。ベーコンの作品の特徴をよく言い表しているのが、次の言葉、としてチラシに取り上げています。「アーティストは、感情のバルブのロックを外すことができるんだ。そうやって、絵を眺めている人たちを、無理矢理にでも生(life)に立ち戻らせることができるんだよ。」。見る人の、いつもは閉じている「感情のバルブ」を開ける絵。本当の生を感じさせてくれる絵。それがフランシス・ベーコンの絵だと、解説では述べています。


没後20年に開催される今回の「フランシス・ベーコン展」、「ここが見どころ」には、次のようにあります。 没後の大規模な個展としては日本初。アジアでも初。回顧展であると同時に、ベーコンにとって重要な「身体」に焦点をあてたテーマ展でもある。 英国、ドイツ、アメリカ、台湾、オーストラリア、ベルギーなど世界各地から作品が集結。「 スフィンクス」をモチーフとする作品が4点集まるのは世界初。ニューヨーク近代美術館所蔵の、最後の三幅対(トリプティック)を展示。




展覧会構成は、以下の通りです。


Ⅰ 移りゆく身体 1940s-1950s
Ⅱ 捧げられた身体 1960s
Ⅲ 物語らない身体 1970s - 1992
Ⅳ エピローグ:ベーコンに基づく身体

ベーコンは1940年代の作品のほとんどを破棄しており、現存している作品は20点に満たないという。「人物像習作Ⅱ」は1945-46年頃の作品で、鮮やかなオレンジ色を背景に、動物とも人間ともつかない生き物が描かれています。1950年、ベーコンは、ベラスケスの「インノケンティウス10世の肖像」に基づく作品を描き始めました。その多くは全身を描いていますが、「叫ぶ教皇の頭部にための習作」は、頭部と叫びに焦点をあてています。鼻にかかる割れたメガネは、エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」のワンシーン、オデッサの階段で叫ぶ乳母を参照しているという。



「肖像のための習作Ⅳ」は、8点からなるシリーズのひとつです。最初は友人の美術批評家をモデルに描き始め、人物はそのうち教皇へと変わったという。暗い背景に玉座の黄色い線が浮き出て、亡霊のような人物と静謐な空間に緊張感が生まれています。1950年代前半、暗い背景に亡霊のような人物を描き続けていたベーコンは、1956年の春から翌年にかけて、ファン・ゴッホの「タラスコンへと向かう途上の画家」を参照したシリーズを描き、色彩や絵具の存在感を恢復させます。



1950年か51年のこと、ベーコンはカイロを訪れます。「スフィンクスの習作」は六角形に象られた結界の中に、スフィンクスが座しています。体は透けていますが、鮮烈な赤の色に囲まれています。「裸体」は、同性愛者だったベーコンとしては珍しく女性、しかも裸体でした。



「ジョージ・ダイアの三習作」、描かれているのはベーコンの恋人だった人物です。ベーコンはダイアをモデルとして直接描かずに、ダイアの写真を使ってそれを変形して描いています。不法侵入で前科歴のあるダイア、二人は1963年の秋に出会い、やがてつき合うようになります。しかし諍いは絶えず、1971年、ダイアは、パリでベーコンの大回顧展がオーぷっbするその日に、ホテルで自殺します。粗野で無教養だったダイアは、ここではピンクを背景にエレガントに描かれています。思っていたのとが異なり、意外と小さな作品です。



ベーコンの三幅対、事実上デビュー作と認めていたのは1944年頃の「三幅対」(テート蔵、不出品)だという。今回出されていた「三幅対」は1991年の作品で、ニューヨーク近代美術館蔵のものです。黒の矩形は、80歳を超えたベーコンが死期を感じていたことを思わせます。右のパネルの写真はベーコン自身、左は写真から取られた、ブラジルのレーシングドライバー、セナとされています。三幅対はキリスト教絵画でしばしば用いられている形式で、とりわけ中央のパネルは重要です。しかしこの作品でそこに描かれているのは、誰のものでもない、ゆえに誰のものでもあり得る「肉」の塊です。



1992年4月、ベーコンは恋人に会うためにスペインのマドリッドに赴くものの、喘息に伴う肺炎のために入院し、4月28日、心臓発作のため客死。享年82歳。遺産相続人には、長年の友人だったジョン・エドワーズが指名された。


「フランシス・ベーコン展」

アイルランドのダブリンに生まれたフランシス・ベーコン(1909-1992)は、ロンドンを拠点にして世界的に活躍した画家です。その人生が20世紀とほぼ重なるベーコンは、ピカソと並んで、20世紀を代表する画家と評されており、生誕100年となる2008年から2009年には、テート・ブリテン(英国)、プラド美術館(スペイン)、メトロポリタン美術館(アメリカ)という世界でも主要な美術館を回顧展が巡回しました。主要作品の多くが美術館に収蔵されており、個人蔵の作品はオークションで非常に高値をつけているため、ベーコンは、展覧会を開催するのが最も難しいアーティストのひとりだと言われています。そうしたこともあってか、日本では、生前の1983年に東京国立近代美術館をはじめとする3館で回顧展が開催されて以来、30年間にわたり個展が開催されてきませんでした。今回、没後20年となる時期に開催する本展は、ベーコンの「世界」を、代表作、大作を多く含むベーコン作品33点により紹介するものです。そのうち、ベーコンを象徴する作品のフォーマットである三幅対(トリプティック)も、大きなサイズが4点、小さなサイズが2点と多数含まれているので、実際にはもっと多く感じられることでしょう。企画内容は完全に日本オリジナルで、単なる回顧展ではなく、ベーコンにとって最も重要だった「身体」に着目し、その表現方法の変遷を3章構成でたどろうとするテーマ展でもあります。また、ベーコンが「同時代」のアーティストに与えた影響を確認しようとするパートも、エピローグとして用意しています。このように、日本はもとよりアジアでも没後初となるこのベーコン展は、さまざまな意味で画期的だと言えるでしょう。その趣旨に賛同する形で、日本に所蔵が確認されている5点はもちろん、テート、ニューヨーク近代美術館、ハーシュホン美術館(ワシントン)、ヴィクトリア国立美術館(オーストラリア)、ヤゲオ・ファウンデーション(台湾)など世界各地の重要なコレクションから作品が日本にやってきます。


「東京国立近代美術館」ホームページ


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追記:銘板に「この建物は、石橋正二郎氏が建設し、寄贈されたものである。」とありました。

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シドニー・ポワチエ主演「野のユリ」を観た!

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何年か前にテレビで放映されたものをたまたま録画してあったので、1963年のアメリカ映画「野のユリ」を初めて観ました。「野のユリ」はく宗教的な映画ではないかと勝手に思い、なんとなく暗い印象だったので、今まで観ることがありませんでした。1967年の黒人青年と白人女性の結婚を巡る双方の家族の葛藤を描く「招かざる客」、これは映画館で観ましたが、この辺りが僕の洋画の見始めだったと思います。


「野のユリ」(原題:Lilies of the Field)は、ウィリアム・エドマンド・バレットの1962年の小説「Lilies of the Field」を原作とする1963年公開のアメリカ合衆国の映画。主演のシドニー・ポワチエが黒人俳優として初のアカデミー主演男優賞を受賞しています。「白人が理想視する黒人を演じている」とする反感もあったようです。アカデミー賞を受賞する作品は、そのときのアメリカの国情や、世相を反映しているものが受賞する傾向があり、「野のユリ」の受賞は、ベトナム戦争や人種差別の反対運動が盛んだった60年代が背景だったからこそともいえます。僕が中学、高校の頃までは、アメリカでは白人と黒人は同じバスに乗れなかった時代でした。


監督はラルフ・ネルソン、低予算なので、自ら建設会社の社長の役を演じています。アリゾナを舞台に、気楽な旅を続けている気のいい黒人青年ホーマーと、荒地に教会を建てようとしている東ドイツから亡命して来た修道女たちの交流を描いたものです。修道女の方が意地悪で無茶苦茶の自分勝手、ホーマーの方が我慢強く真面目に働くという逆転現象も。ラストは「エンド」で終わるのではなく、「エイメン」の文字で終わります。政治的な意味合いはこの映画にはまったくなく、ほのぼのとしたよき日のアメリカ、といった感じです。


偶然、米国映画協会(AFI)で生涯功労賞を受賞したポワチエに、ハリー・ベラフォンテがお祝いに「エイメン」を歌う感動的なシーンをユーチューブで観ました。会場にはもちろんシドニー・ポアチエが、そしてモーガン・フリーマンの顔もありました。その後、このユーチューブ、探しても見つかりません


さて、タイトルの「野のユリ」について。

イエスは、マタイ6章28-30節で次のように言われました。

「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」

(「我孫子バプテスト教会 霊想」より)


「エイメン」(黒人霊歌)の歌詞:映画の字幕より
普通はアーメンですが、ここでは黒人英語で「エイメン」。

(英語がほとんどできない僕が、初めてこの歌の意味を知りました)


(「エイメン エイメン」の合唱が流れる中で:)

幼子を見よ
飼い葉おけの中

クリスマスの朝


イエスが神殿へ

長老たちと語り

知恵を授ける


ヨルダン川で

ヨハネが洗礼を施し

罪人たちを救う


湖畔のイエス

漁師に語りかけ

弟子にする


エルサレムに入場

シュロの枝の上

堂々と歩く


ゲッセマネの園で

神に祈る

苦悩に沈んで


ピラトの手に渡され

十字架に

そして復活


エイメン ハレルヤ

われらの救世主

永遠の命


エイメン ハレルヤ

われらの救世主

永遠に生きる

エイメン エイメン


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山種美術館で「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」(後期)を観た!

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山種美術館で「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」(後期)を観てきました。今回の展覧会では、「物語でたどる人と花」、「ユートピアとしての草花と鳥 」、「四季折々の花」という3つの切り口から花を描いた作品を厳選したという。ポスターやチラシになっているのは、四幅対で大画面に四季を描いたもの、荒木十畝の「四季花鳥」です。これはまさに「百花繚乱」そのもの、それがユートピア「楽園」のイメージにも重なっています。荒木十畝は中国絵画に学んだものに装飾性を加味して、「四季花鳥」に至ったという。


今回注目した作品は、前期にも出ていましたが、昭和58年に描かれた西田俊英の「華鬘」です。華鬘は仏堂内の梁や長押に懸けて堂内を飾る装身具です。華鬘といえば、中尊寺金色院にある「金銅迦陵頻伽文華鬘」です。中尊寺には金色堂所用と伝えられる華鬘が6面現存しています。そのなかでも「金銅迦陵頻伽文華鬘」がもっとも出来栄えが優れていると言われています。


迦陵頻伽とは、ヒマラヤ山中にいる想像上の鳥の名で、まだ殻にあるときに美しい声で鳴くともいい、極楽浄土にすみ、比類なき美声で鳴く想像上の鳥で、浄土曼陀羅の絵では上半身は美女、下半身は鳥の姿で描かれているという。僕は迦陵頻伽を知ったのは、車屋長吉の直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」を、荒戸源次郎が寺島しのぶ主演で映画化したものを観たときでした。寺島しのぶが女優開眼したと言われる作品で、寺島しのぶの背中には迦陵頻伽の刺青が彫られていた、というわけです。


西田俊英は「幾百の花と共に・・・黄色に燃え上がる炎を、華鬘陀羅の世界に表してみたかった」と述べている通り、この世のものではない「ユートピアとしての草花と鳥」を「華鬘」で見事に描き切ったといえます。この作品、たしか以前の「百花繚乱 桜・牡丹・菊・椿」にも出されていたようですが、僕の記憶から抜け落ちていたようです。以下、西田俊英の略歴をのせておきます。


西田俊英は、1953年三重県伊勢市生まれ。1977年武蔵野美術大学日本画科卒業。そして1983年3月華鬘」で山種美術館賞展優秀賞を30歳の若さで受賞します。翌年、東京セントラル美術館日本画大賞展にてインドの牛を描いた「聖牛」で大賞を受賞します。 その後はホームページを参照するとして、現在、日本美術院同人、評議員。武蔵野美術大学日本画学科教授。広島市立大学名誉教授。師としては、奥村土牛、塩出英雄が挙げられています。

「日本画家・西田俊英」公式ホームページ


もう一つ、挙げておきましょう。牧進の「寒庭聖雪」、四曲一双の作品です。牧進の作品は、前期に「明り障子」だ出ていましたが、やはり障子の向こうに水仙が見えるというものです。水仙の足元には雀がいます。「寒庭聖雪」は構図に驚かされます。なにしろ上の3/4はなにも描かれず、たぶん雪景色なのでしょう。下1/4に赤い実を付けた高さ10cmくらいの葉が雪を被っています。なんの葉なのか、僕には分かりません。そしてその足元には雀が・・・。昨年開催された「福田平八郎展」に出されていたようですが、残念ながら僕は観ていません。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 人と花

第2章 花のユートピア

第3章 四季折々の花


悠々たるガンジス川のほとり、幾百の花と共に一体の屍が荼毘にふされていた。無言の人々が見つめていた黄色に燃え上がる炎を、私は華鬘陀羅の世界に表してみたかった。

「今日の日本画―第7回山種美術鑑賞展―」図録、山種美術館、1983年



第1章 人と花

第2章 花のユートピア



第3章 四季折々の花






「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」

鳥が謳い、花々が色とりどりに咲き誇る春は、私たちの五感を楽しませてくれます。当館では、この季節にあわせ花の絵画で美術館を満開にする特別展「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」を開催いたします。日本における季節の草花への関心と、それを造形化しようとする意識は古くから知られています。人は花の美しさを讃え、時には自ら育てる喜びをも享受し、時代ごとに様々な花の表現を生み出してきました。四季をめぐる日本の風土の中で、花は季節を示す重要な要素です。とりわけ物語絵や風俗画には、春夏秋冬の草花を愛でる人物や、日々の生活の営みとともに描かれる豊かな花の表現がみられます。一方、花鳥画や草花図には、本来異なる季節に咲く花々を一つの画面や対の画面に同時に描く趣向の作品が少なくありません。四季花鳥図あるいは四季草花図として、日本の自然の風景や植物を織り込みながら、季節の草花や鳥を一つの情景として捉える様式が形成されたのです。こうした花鳥画や草花図の伝統は、中国から伝来し、掛軸から巻子、屏風まで様々なかたちで表現されてきました。屏風に種々の草花を自然景として配した江戸琳派の鈴木其一《四季花鳥図》(前期展示)、池田孤邨《四季草花図》(個人蔵・後期展示)、中国絵画に学んだ花鳥画に装飾性を加味した荒木十畝による大画面の4幅対《四季花鳥》は、ユートピア(楽園)のイメージとも重なります。さらに、明治以降になると、速水御舟《名樹散椿》【重要文化財】や山口蓬春《梅雨晴》のように、近世の花鳥画や草花図に内在する美意識を踏襲しながらも、斬新な構図や色彩など近代的な感覚を取り入れた新たな花の表現が模索されました。本展では、「物語でたどる人と花」、「ユートピアとしての草花と鳥 」、「四季折々の花」という3つの切り口から花を描いた作品を厳選し、花言葉や花の特徴、花を題材とした和歌や画家の言葉とともに、その魅力をご紹介します。満開に咲き誇る花の表現を通じて、美術はもちろんのこと文学や園芸の視点からも作品を読み解きながら絵画をお楽しみいただける展覧会です。


「山種美術館」ホームページ

とんとん・にっき-yama1 「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」

小冊子(図録)

2013(平成25)年4月6日発行

監修:

山下裕二(山種美術館顧問・明治学院大学教授)
編集・執筆:

山種美術館学芸部(高橋美奈子/三戸信恵/塙萌衣)
発行:

山種美術館




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山種美術館で「松岡映丘とその一門」展を観た!
山種美術館で「大正から昭和へ」展を観た






原広司の最新プロジェクトと「集落の教え100」など!

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たまたま家人が気を利かして「建築家のアスリートたち」という、BSで放映されていたものを撮っておいてくれました。30分ほどの短い番組で、建築家集団ネットワークの宣伝臭の強い番組でしたが、そこで取り上げられていた建築家が原広司で、懐かしく思いました。その番組は原さんが、自分の考えを自由に語るというもので、最近のプロジェクトが幾つか紹介されていました。その幾つかをここで紹介したいと思い、この記事を書いています。僕らが若い頃は、原広司はカリスマ建築家で、その一挙手一投足は若い建築家たちにとって憧れの的でした。


僕もその一人で、佐世保へ行った時にはアー手キュレーションを実践した「久田学園佐世保女子高等学校校」を観に行ったり、千葉へ行った時には有孔体を実践した「佐倉市立下志津小学校」を観に行ったりしました。初めて僕が原広司を知ったのは、たぶん磯崎新の「大分県立図書館」が新建築に載ったときの解説文だったと思います。その後、原の作品ができるたびに観に行きましたが、ここでは詳細は省きます。最初に読んだ原の単行本は「建築に何が可能か 建築と人間と」(学芸書林、1967年)、そして「空間〈機能から様相へ〉」(岩波書店、1987年)でした。そうそう、思い出しました。大江健三郎の故郷、「内子町立大瀬中学校」(1992年)もありました。


さて「建築家のアスリート」のなかで、原広司の最新プロジェクトが3つ取り上げられていました。一つは、中南米のインスタレーション、仮設住宅(実験住宅)です。ウルグアイのモンテビデオ、アルゼンチンのコルドバ、ボリビアのラパスでつくられました。設計はみんなの意見を聞いて原が行い、造るのは現地の学生と若い建築家たちです。背景として、中南米は家を持っていない人がたくさんいる。いわばホームレスです。その人たちのために、10年間にわたって断続的に行われてきたプロジェクトです。「ディスクリート(分散した、個別の、単独の)」、原はこの言葉に現代建築のあるべき姿を見出していました。これは集落調査から学んだ概念です。


次に、ベトナム・ハノイの「ハノイ市都市鉄道2号線駅舎」(現在進行中)と、愛媛県今治市の「今治市みなと再生事業」(現在進行中)で、模型を前に熱く語っていました。


最後に原が歩んでいく未来について語っていました。「自分の見えている未来というものは今後どうだというような預言的なことの作業というのは、これまで行ってきたんじゃないかと思っている。今まで言ってきたこと、それからやってきたことというのは、未来に対しても生き続けてくれるんじゃないかという期待を持っている。インターナショナルにいろいろ活動を始めている部分に関しては、なにかうまい終結方法を自分でとりたいと考えています」と。

「建築家のアスリートたち」BS11











とんとん・にっき-syuu2
「集落への旅」

岩波新書

1987年5月20日第1刷発行

著者:原広司

発行所:岩波書店
とんとん・にっき-syuu1
「新しい文学のために」

岩波新書

1988年1月20日第1刷発行

著者:大江健三郎

発行所:岩波書店










過去の関連記事:
「諏訪湖博物館赤彦記念館」と、藤森論文「信州の山河は、なにを?」
小説家・大江健三郎と建築家・原広司の関係

宮下規久朗の「欲望の美術史」を読んだ!

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とんとん・にっき-miyashi


宮下規久朗の「欲望の美術史」(光文社新書:2013年5月20日初版第1刷発行)を読みました。今、本棚を見たら、宮下規久朗の本で、ブログに書いていないものがありました。


「裏側からみた美術史」(日経プレミアシリーズ:2010年10月8日1刷)

「不朽の名画を読み解く 見ておきたい西洋絵画70選」(ナツメ社:2010年8月1日初版発行)


「欲望の美術史」は、2011年5月から現在まで、産経新聞夕刊(近畿地方限定)に連載している「欲望の美術史」の記事を全面的に加筆修正し、図版を増やし、新たな放しを書き下ろして加えたものである、と「あとがきにあります」。


宮下規久朗といえば、僕の中ではやはり最初に読んだ「刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ」(NHKブックス:2008年4月25日第1刷発行)が、強烈に印象に残っています。「欲望の美術史」も、美術史の裏面や暗部を扱っており、美術にまつわる「欲望」に焦点を合わせて論じてみた、と述べているが、ヌード、刺青、ムカサリ絵馬、エクス・ヴォート、戦争記録画など、宮下の偏愛する特殊なテーマが語られている点は、いつも同じです。


本のカバーには、以下のようにあります。

本書は、美術を生み出し、求めるときの様々な欲望に光を当て、美術というものをいろいろな観点から眺めたエッセイ集である。扱った作品は、世界的な名作から、通常は美術とは目されない特殊なものまで様々だが、いずれも美術史上の重要な問題につながると思っている 。(「まえがき」より) あらゆる人間の営みは欲望によって成り立っている。美術といえども例外ではない。 美術は、人間の様々な欲望を映し出す鏡でもある。「欲望とモラル」「美術の原点」「自己と他者」「信仰、破壊、創造」という四つの観点から、「美が生まれる瞬間」を探る。


目次

まえがき
第一章 欲望とモラル
第二章 美術の原点
第三章 自己と他者
第四章 信仰、破壊、創造
あとがき


宮下規久朗:著者略歴
1963年愛知県生まれ。美術史家、神戸大学大学院人文学研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ――聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞などを受賞。他の著書に、『食べる西洋美術史』『ウォーホルの芸術』(以上、光文社新書)、『カラヴァッジョへの旅』(角川選書)、『刺青とヌードの美術史』(NHKブックス)、『裏側からみた美術史』(日経プレミアシリーズ)『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』(小学館>ビジュアル新書)など多数。


過去の関連記事:

宮下規久朗の「知っておきたい 世界の名画」を読んだ!
宮下規久朗の「フェルメールの光とラ・トゥールの焰」を読んだ!
宮下規久朗の「カラヴァッジョ巡礼」を読んだ!
宮下規久朗の「刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ」を読む!

八王子夢美術館で「坂本一成 住宅めぐり」を観た!

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八王子夢美術館で「坂本一成 住宅めぐり」を観てきました。偶然、この展覧会が開催されていることを知り、時間の都合をつけて八王子まで行ってきました。坂本一成の建築展は、2008年に東京工業大学百年記念館で開催された「坂本一成建築展 日常の詩学」を観たことがあります。今回の展覧会は大筋では前回とほとんど同じですが、新たに区分けして加わったのは「Social Buildings」の項目です。「コモンシティ星田」以降、集合住宅などの他に、「東工大蔵前会館」(2009年)や、「宇土網津小学校」(2011年)などでした。

「坂本一成建築展 日常の詩学」を観た!


坂本はいわゆる住宅作家で、東工大の篠原一男の直々の弟子にあたります。代表作である「水無瀬の町家」(1970年)の他に、「雲野流山の家」1973年、「代田の町家」1976年、「南湖の家」1978年、「今宿の家」1978年、等々、70年代は次々と住宅作品をを作り続けます。その頃「都市住宅」という建築雑誌があり、若い建築家のほとんどが購入していました。「都市住宅」のスター建築家は、宮脇壇や東孝光でした。そして坂本一成の住宅作品も次々と「都市住宅」に掲載されました。坂本の師である篠原一男も、次々と話題作を発表していました。


つい最近、秋山さんのブログで知ったことですが、秋山東一は1942年生まれ、立川高校13期、坂本一成は1943年生まれ、立川高校14期、野沢正光は1944年生まれ、立川高校15期、偶然にも同じ高校だったようです。立川高校卒業後、秋山と野沢は芸大建築へ、坂本は東工大建築へ。大学卒業後は、秋山は東孝光の事務所に入り、野沢は大高正人の事務所に入ります。坂本は東工大篠原スクールというわけです。3人とも、出発は住宅でした。芸大は、吉田五十八や吉村順三の指導のもと、東工大は、谷口吉郎、清家清、篠原一男の指導のもと、日本の建築界を代表する建築家を数多く輩出しています。



もちろん、坂本の初期の住宅作品にも影響されましたが、僕が衝撃を受けたのは「House F」(1988年)でした。雑誌に載った写真を見て、こんな住宅ができるんだと、驚きました。それが後の「コモンシティ星田」(1991-92年)につながるわけですが。(以下、解説は図録による)


「House F」1988年

「祖師谷の家」から、7年ぶりに発表された住宅。「Project KO」での試みを発展させて、「自由な架構と広がりの領域」を実現させた。鉄筋コンクリート造の壁から離れて鉄骨の柱が立ち、その上に細い斜めのパイプでつながった折板の屋根が架かる。その下には、様々な高さの床が場所に応じて設定され、壁は天井まで達せず必要な高さで領域を仕切る。この住宅では、床、壁、天井画独立し、それぞれに展開している。


「コモンシティ星田」1991-92年

「戸建て住宅における共有化」をテーマにしたコンペティションの1等案。2.6haの敷地に、112戸の戸建て住宅と緑道、集会施設などが建設されている。斜面の住宅地では各住戸を建設する前に雛壇状に造成しておくことが当たり前だが、ここで採られたのは地形をそのまま残すスロープ造成。各住戸は1絵画鉄筋コンクリート蔵、2階が鉄骨蔵で、1階部が擁壁を兼ねている。住戸をつくることにより、住宅地をデザインするという手法だ。


   

「Project AO」2011~
計画中の住宅プロジェクト。敷地の片側が急斜面となって落ちている敷地で、周囲の条件を勘案しながら、必要とされる空間を縦方向に積んでいる。ここでも採られているのは、床レベルを微妙に違えながら、つなげていく手法。断面における綿密な検討が、この作品でも行われている。


「水無瀬の町家」1970
「散田の家」にも見られた入れ子状の空間配置を踏襲する一方で、正方形の平面や中心の柱といった形式性は失われた。壁の配置も敷地の条件に合わせて、微妙に揺らいでいる。建物の高さは1階建てと2階建ての中間的なスケール。外壁は「やりっ放し」といわれる凸凹のあるコンクリートに、銀色のペンキを塗って仕上げている。虚構的であると同時に実在的。象徴的であると同時に物質的。坂本作品の特徴である両義性が、幾重にも織り込まれた初期の代表作。



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「坂本一成 住宅めぐり」

坂本一成(1943~)は八王子出身、日本を代表する建築家の一人です。氏は東京工業大学および大学院で篠原一男に建築を学び、その後武蔵野美術大学で助教授、東京工業大学で助教授、教授として後進の指導にあたりながら、住宅を中心に作品を発表してきたプロフェッサーアーキテクトとして有名です。東京工業大学坂本一成研究室からは現在、建築界においてその活躍がめざましいみかんぐみの曽我部昌史、アトリエ・ワンの塚本由晴や西沢大良などを輩出し、その師としても坂本の名は知られています。氏の作品を読み解く上で特に触れておきたいのは、氏の「建築を自由にする」姿勢です。この姿勢は設計上の物理的制約からの自由を単に指すだけではなく、社会や生活の中にある建築や住宅の既存の有り様からの自由をも示します。例えば、私たちにとって馴染みのある住宅の間取り、いわゆるnLDK(リビング・ダイニングキッチン)タイプは氏の住宅で使われることはありません。代わりに、例えば、「代田の町家」(1976年)に顕著に見られるように中心となる部屋を主室、そして室と室をつなぐ間室、中庭は外室といったように部屋を場所との関係の中で位置づける間取りとしています。これは生活様式の内容まで含むいわば用途を前提とした室名が住宅の構成を不自由なものにしていると氏が考えるからに他なりません。この事例のように「建築を自由にする」姿勢は今日まで一貫する氏の重要な作品の特徴といえるでしょう。展示では、1969年から2011年の間に氏が設計した作品のうち「水無瀬の町家」(1970年)、「House F」(1988年、日本建築学会賞作品賞)、「コモンシティ星田」(1991-92年、村野藤吾賞)、「House SA」(1999年)など20件を、模型とまるでその場にいるかのような巨大建築写真タペストリーで紹介。加えて現在計画中の住宅「Project AO」も1/3サイズの模型で初公開します。本展では氏の作品を通じて、私たちが普段あまり意識せずに住む住宅のあり方について改めて考えます。


「八王子夢美術館」ホームページ


とんとん・にっき-saka4 「坂本一成 住宅めぐり」

図録

2013年5月17日発行

監修:坂本一成

制作・編集:高木伸哉+磯達男+山道雄太

    /株式会社フリックスタジオ

発行所:株式会社フリックスタジオ









過去の関連記事:
八王子夢美術館で「土門拳の古寺巡礼」展を観た!
八王子夢美術館で「画家 岸田劉生の軌跡」展を観た!


NHK日曜美術館「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」

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東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」が開催されています。2013年3月8日(金)から5月26日(日)までです。副題には「ピカソと並ぶ美の巨匠。没後アジア発の回顧展」とあります。僕が観に行ったのは、5月8日でした。実はこの展覧会、まったく僕は観に行く予定がなかったのですが、NHKの日曜美術館に大江健三郎が出ていて、ベーコンについて自分に引き寄せて熱く語っていました。タイトルは「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」でした。

NHK日曜美術館「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」


5日、その日は朝、僕は用事があって外に出ていて、帰ってきたときに家人がこの放映を観ていました。僕が観たのは大江さんが出ている最後の部分だけでした。さっそく再放送を録画して、何度も繰り返し観直しました。もちろん大江さんに感化されて、直ぐに近代美術館の「フランシス・ベーコン展」を観に行ったというわけです。 とりあえず通り一遍の記事を5月18日に、このブログにアップしました。

東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を観た!


そうこうしているうちに、朝日新聞の投稿欄「はがき通信」(2013年5月16日)に、以下のような記事が取り上げられていました。


悲しみが伝わる

「恐ろしいのに美しい」という見出しにひかれ、12日の「日曜美術館」(Eテレ、再放送)を見た。フランシス・ベーコンの「ある磔刑の基部にいる人物像のための三習作」は1940年代の作品。彼は第2次世界大戦下のロンドン空襲で多くの死んだ人を見た。その説明の後再び同じ絵が映ると、赤ともオレンジともいえる背景の色が目に飛び込み、悲しみが伝わってきた。人間の塊で表現したベーコンを少し理解できた気がした。(岐阜県多治見市・TK・会社員・36歳)


テレビで放映されたものをブログで取り上げるのはいかがなものか、というご意見はあるでしょう。図録も高くて買わなかったので、仕方がありません。労多くて益なし、というご意見もあるでしょう。が、僕の理解力不足に起因しているのは分かっていますが、大江さんの話は文字にして初めて伝わるものではないかと思っていたりもします。先日も、「第7回大江健三郎賞」の受賞者本谷有希子との公開対談にも行ってきました。老人特有の早口で、一度聞いただけでは理解できない部分も多々ありました。これも記録として文字にしておきました。

「第7回大江健三郎賞・公開対談」を聞く!

その対談の中で、フランシス・ベーコンについて触れた箇所がありました。

大江:長編小説でも、即興性が大事。フランシス・ベーコンという画家。同じ名前の哲学者がいる。即興性、偶然性が必要だ。偶然性を彼はアクシデントと言っている。いいものにするためにはアクシデントが必要であると。偶然によって仕事を始める、が、それを書き直していく。最初の構想などないのだと言う。書き直していくと自分がなにを表現したいのかが分かってくる。ベーコンはこう言っている。書き直している間に小説ができてくる。その間に批評性が入る。私の長編小説もこうして書いている。創り上げていく、それが文学だと。


また、たまたま出会った、ベーコンに関連した文章を以下に載せておきます。

先日、酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」(岩波現代文庫:2013年4月16日第1刷発行)という本を読みました。その中の「写真術の招来」という章に、フランシス・ベーコンに関して、以下のような文章があるのを見つけました。なんと初出は「月刊百科」1983年11月号に書いたものだというから、30年も前の文章です。酒井忠康の鑑識眼の高さが分かります。
近年、その作品がはじめて組織的に日本に紹介されたイギリスの画家、フランシス・ベイコンなどは、写真をもっともたくみに利用している作家といってよい。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」のカットによった、ベイコンの仕事などは、写真と絵画だけでなく、映画も加わって、映像の再生が不断に行われていることを物語っている。(平凡社「遠い太鼓」所収、「写真と絵画」を改題)

酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」を読んだ!


以下、NHK「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」より


フランシス・ベーコン(1909-1992)

20世紀初頭に生まれ、第2次世界大戦後、世界的に活躍。


映画監督:デヴィッド・リンチ

フランシス・ベーコンはおそらく、私がもっとも好きな画家です。私は共鳴するのです。私も有機的な現象を愛しています。肉が大好き、人間の形が大好き、彼も同じものを愛しているのだと感じました。


ベーコンのアトリエには多くの写真が残されていた。ベーコンは写真を材料に遣い、時には何枚も組み合わせて絵を描きました。


「叫ぶ教皇の頭部のための習作」1952年

幾つものイメージが重なり合って生まれた作品は、20世紀を象徴する人間像と言われている。


大江:

「人体による習作」1949年

この絵なんか、実に美しく描かれていると思います。フランシス・ベーコンという人が、戦後から21世紀までの絵の世界を完全にリードした人だということを、いま改めて感じています。


「ある磔刑の基部にいる人物像のための三習作」1944年頃

ベーコンはデビュー作だと呼んでいた。30代半ば、画家としてはまだ無名南敷、明日をも知らない戦争の最中、ベーコンはこの絵を描きました。


「ソーホー」はロンドンの繁華街、ゲイコミュニティの中心、ベーコンはここへ足繁く通った。1967年までイギリスでは同性愛は違法でした。だからベーコンは人生の大半を法律違反の状態で過ごしたのです。ゲイをオープンにした彼は、とても勇気があったと思います。会員制の「コロニー・ルーム」、ソーホーでは伝説的なクラブで、そこではなんでも起こりえた。女主人ミュリエル・ベルチャーのお眼鏡に適わなければ、店に入ることさえできない。


「スフィンクス ミュリエル・ベルチャーの肖像」1979年

ベーコンは開店当初からの会員で、二人は大親友だった。コロニー・ルームはベーコンにとってどこよりもくつろげる場所だった。


ベーコンは絵を描くのに、写真を使っていた。特に気に入っていたのはイードウィアード・マイブリッジの写真。19世紀の写真家マイブリッジは、レスリングをする二人の男性の動作を、一コマずつ連続して撮影しました。

マイブリッジ「動いている人間像」1885年頃


この写真をもとに、ベーコンは物議を醸す作品を生み出します。ベッドの上で、裸の男性が二人絡み合っています。薄いカーテンのような縦の線が、カメラのブレに似た効果を生んでいます。男性の肉体がぶつかり合う激しい動きそのものを表そうとしているかのようです。

「二人の人物」1953年


学芸員マルガリータ・カポック

ベーコンは、マイブリッジの写真を、体の動きを調べる視覚辞典のように用いました。彼は、絵の中に動いている感じを表現したかったのです。それは「レスリングをする人」から離れ、まったく違う状況に置かれました。恋人同士の男性を描写したかったのです。


「ベラスケスによる教皇イノケンティウス10世の肖像に基づく習作」1953年

ベーコンの代表作のひとつ、ローマ教皇が大きく口を開け叫んでいます。この作品でベーコンは複数の画像を混ぜ合わせて使っています。ひとつは、17世紀スペインの画家ベラスケスによる肖像画の傑作です。

「教皇イノケンティウス10世の肖像」1650年


玉座に座る教皇の権威的な姿に、ベーコンは一見まったく関連性のない別のイメージを重ねます。

映画「戦艦ポチョムキン」1925年、セルゲイ・エイゼンシュテイン。


1925年に製作されたこの映画を、ベーコンは若い頃に観ています。乳母車が階段を落ちていくシーンは、ベーコンの脳裏に焼き付きました。アトリエには、叫ぶ乳母の写真が残されています。ベーコンの中に、乳母の叫びがベラスケスによる教皇の肖像画と混ざり合います。


学芸員マルガリータ・カポック

頭のなかに様々なイメージが混在しているとベーコンは言っていました。イメージを本来の文脈から抜き出し、他のイメージと融合させることが重要です。美術学校で学ぶような技術は、ベーコンはこだわりませんでした。


17世紀の名画と20世紀の映画、ベーコンは独特な感覚でイメージを組み合わせ、一人の人間の孤独な叫びを描きました。正式の美術教育をう受けかったベーコンは、こうした技法を独学で切り開いていきました。


東京国立近代美術館で、日本では30年ぶりとなるベーコンの展覧会が開かれています。


大江:

「叫ぶ教皇の頭部のための習作」1952年

この口に僕たちの目が吸い込まれるように描かれていて、実に人間の叫ぶということはこういうことだと。一個の人間がいま現実に生きていて叫ぶ、恐怖によって叫ぶ、怒りによって叫ぶ、悲しみによって叫ぶにしても、その叫び声がこんなに見事にとらえられている絵はない。人間が叫ぶということの意味ということの全体が表れているような絵だと思った。しかも、これは美しい。僕は美しいと思うんですね。


僕ら原発反対というのでも、少し下火になったとみんな言ってますが、私はそう思っていませんが、やはり大きい声で叫びますけど、その時に自分たちの叫び声が非常に有力だと、優勢だと、力があるとも思えわないけれども、叫ぶ当人にとっては非常にいま自分にとって大切なことをしているという気持ちで、僕はデモに行っています。デモで叫ぶとすれば、叫ぶと言っても大江さんは小さな声で何かぶつぶついっているだけじゃないかと言われるけれども、心からぶつぶつ言ってるんです。小さな声でも叫ぶことはできる、黙っていても叫ぶことがある。


とんとん・にっき-9条の会

大江:

絵というものは、文学でもそうですけど、ほんとに優れた文学、ほんとに優れた絵画、ほんとに優れた音楽というのは、それ以前につくられたものの影響を無視できない。しばしばいろんな絵の引用がある。しかし、引用で表現が二重三重にある面白さがある。

「ン・コッホの肖像のための習作Ⅵ」1957年


ベーコンは、19世紀の画家ゴッホを、独自のリアリズムを新たにつくり出したと讃えています。南フランスの田園を画家が一人歩いている。元になった絵、

ゴッホ「タラスコンヘの道を行く画家」1888年


大江:

芸術がしちゃいけないことは、よく分かっていることを、人が表現したり言ったりして、よく分かっていることを説明するように、絵解きするように描くものは芸術じゃない、と思います。彼はゴッホの絵を観て、夏のフランスを歩いている一人の画家ゴッホはどう感じているか、すべての感覚をリアルに感じとって、自分が絵を描くとこの絵になる。この絵が、自分がゴッホの絵を観て、心の中に呼び起こされたすべての感覚の総体だと、総合されたものだと、彼は言いたいわけです。それが僕にも伝わってくる。そして、それを見ている日本人の一人の観客が同じように強胸に突き刺さるように感じる。それが芸術というものが伝達されるリアルなものとして、芸術が受けとめられることだと、ベーコンは何度も言っています。


1960年代になると、身近な人物の肖像画を多く描くようになります。繰り返し絵にしたのは、恋人のジュージ・ダイアです。

「ジュージ・ダイアの三習作」1969年


25歳年下のダイアの整った外見を、ベーコンは好んでいました。ダイアはロンドンの下町出身。男らしい見た目とは裏腹に、内向的な性格で、酒に溺れる危うい一面がありました。お気に入りのダイアの顔を、ベーコンは激しく歪めて描いている。どんなに親しいモデルでも、肖像画を描くときには写真を使いました。写真は傷むにまかせ、時には自ら折り曲げることもありました。ダイアの写真には皺がより、顔に絵の具が落ちています。ダイアの肖像画、顔の真ん中に銃で撃たれたような黒い穴があります。ベーコンは、写真を無造作に扱ううち、偶然に生まれる色や形を絵に利用していました。ダイアはこの肖像画が描かれた2年後、大量のアルコールと薬を飲み、帰らぬ人となりました。愚かでどうしようもないのに愛おしい、一人の男性から受け取ったすべての感覚を、ベーコンは絵に残そうとしていました。


「現実は曖昧である。その曖昧さを正確に捉えなければならない」と、ベーコンは言う。

大江:

「横たわる人物像No.3」1959年

今回、ここに来ている絵の中で、フランシス・ベーコンを表現している一番の典型的な絵、一番の代表作のひとつじゃないかと思っている絵です。彼は人間の形を考える上で、人間の骨格、肉付きを含めて、一人の人間がそこに立っているとすると、その人間で一番重要なものは何かというと、脊髄骨だと彼は考えている。一人の人間がいますね。背骨がありますね。この背骨が人間の体に一本通っている。背骨というものが動物と違って、人間というものの本質を、まっすぐ立っている背というものを表現していると。ここに黒く見えますね。これは髪が伸びているんじゃなくて、背骨が体の中にある。黒い線がレントゲン写真で写したように、自分の感覚に受けとめられる、自分の感覚には目に見えるように、人間の背骨というものが見えているんだと、それを自分は描きたいんだと。すっかり新しいリアルなもの、新しいリアリズム、新しいリアリスティックなもの、新しいリアリティを絵で表現しなきゃいけない。それが私たちのやることですと、フランシス・ベーコンは言っている。


大江:

最初はそれは偶然のようにして始まった。そうするうちに一つの絵のある部分ができあがる。そうするとその段階で批評性、自分の中に批評する力が現れる。自分が描いているものがいいか悪いか、この点はいい、後半は捨ててすっかりやり直さなければ行けない。意志としてのはっきりやり方が分かっている態度決定を自分に呼び起こす力が、偶然から始まった絵に、偶然からのように始まった小説の草稿にはある。それが僕にとっては一番面白い。小説家であることの驚き、悦びに関係しています。


「三幅対―人体の三習作」1970年

僕はこの絵がとても好きです。どうしてこの絵が好きだったのか。いま考えますけど・・・。悲劇的な、残酷な、苦しい、そういう現実というものを、我々が生きている時代がそうです、それをリアルの表現する。それと共に現実の中でフランシス・ベーコンが感じているユーモア、おかしさ、陽気さ、笑い、そういうもの、あるいは根本的に肯定的なもの。こういう現実に我々が勇気を持って生きていることには意味がある、そういう人間として絵を描いている。いま若い人たちが真面目にしっかり受け止めようとすれば受け止めるべきものはある、それが人間に対する芸術の役割なんだと。非常に苦しい時代で、だから家で悲しんでいようと言うよりは、例えば近代美術館へ来て、ベーコンを観ることがどんなに励ましになるかと、僕は思っているんです。


「自画像のための習作」1976年

60歳を過ぎるとベーコンは、たびたび自画像を描くようになります。そのわけを問われてベーコンは「親しい人たちが次々と死んでしまい、自分以外にモデルがいなくなったからだ」と答えています。


1992年、ベーコンは旅先のスペインで、心臓発作のため82歳で亡くなります。

過去の関連記事:

東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を観た!




川上弘美の「なめらかで熱くて甘苦しくて」を読んだ!

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川上弘美の「なめらかで熱くて甘苦しくて」(新潮社:2013年2月25日発行)を読みました。カバーの装画は、萬鉄五郎の「かなきり声の風景」(山形美術館蔵)です。発売と同時に購入し、一度は読み終わっていたのですが、なかなかブログに書けなくて、再度読み直して書いています。


「なめらかで熱くて甘苦しくて」というタイトルは艶めかしい。この短編集は、「aqua」「terra」「aer」「ignis」「mundus」の5篇から成っています。水、土、空気、火、宇宙、といったところ。東日本大震災の後「神様2011」を書いた以降か、今までの川上弘美の作品とは、かなり違った作品になっています。


巻頭の「aqua」は、田中水面と田中汀という二人の女の子の話。「terra」は、大学生の沢田とわたしが、事故死した加賀美の納骨のために遠出するという話。「わたしたちはかさなる」「長くまじわる」。「aer」は、出産経験者ならではの作品。腹の中にいるときは最初アカシと呼んでいたが、出てきたしろものの名前をアオにします。「ignis」は、伊勢物語を下敷きにした都落ちの話。男女、青木とわたし、30年間の葛藤を描いた作品。最後の「mundus」は、ブリキの箱を裏庭に埋め30年後に箱を掘り出したが、中には何も入っていなかった。洪水が起こり、それでもそれは橋を渡ってきた。大震災の影がちらつきます。


きっかけは、作家になる前に年長の友人から聞いた「恋愛って要するに性欲なのよね」という言葉だったという。「なるほどそうかもしれないって。でも、考えてみると、恋愛する前も恋愛してからも、頭だけで考えていては分からない、何か体の中から自分を動かすものがあるな、と。もちろん性欲という一つの言葉には収まりきらないのだけれど、いつか書いてみたいと思ったんです」と、川上弘美は言います。(「本よみうり堂」より)


とりあえず巻頭の作品のみ、簡単な「あらすじ」をまとめてみました。
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物語は東京の西の郊外の町。田中水面(みなも)と田中汀(みぎわ)、同じ田中という苗字の二人が出会ったのは、水面が埼玉から引っ越してきた小学校3年生のとき。帰りに校門を出たところで、「あたしも田中っていうのよ」と、田中汀は近寄ってきて、「あたし、前世の記憶があるの」と突然に言いました。教室ではほとんど言葉は交わさないが、それから毎日一緒に帰るようになります。汀の家があまり豊かでないことが、水面にうすうすわかってきます。4年生になると水面と汀は違うクラスになったが、6年生になるとまた水面と汀は同じクラスになります。以前はおかっぱだった汀は肩よりも長く髪を伸ばしていました。水面と汀は同じ身長、同じ体重でした。体育館の鏡にうつった姿は姉妹か、ふたごのように見えました。水面はまだ生理が始まっていない。汀の背中をこっそりうかがうと、汀はもうブラジャーをつけています。クラスの半分以上の女の子は、すでに生理が始まっていました。汀がどちらなのか、水面には見当がついていません。クラスの女子で受験するのは4人。水面は受験したくなかった。同じ社宅の子供たちはほとんど公立の中学に進んでいた。「私立に入っておけば、転勤があってもまた帰ってきてから簡単に編入できるから」、水面の母清子はそういって父の三津夫を説得した。清子は近所づきあいを、ほとんどしなかった。社宅の噂を最初に聞いたのは、水面が引っ越してきた3年生の頃でした。行方不明になった子供がいる。5年生になったとき、また同じ噂が、子供の性別と住んでいた棟がつけくわえられて、再燃しました。受験の結果は水面は補欠だったが、結果発表の翌日に入学許可の電話がきました。お手洗いに行くと、初潮がきていた。清子は夕飯に赤飯を用意した。新しい中学校までは、電車で50分ほどかかった。中学2年の夏休み、水面は久しぶりに図書館の駐輪場で、汀に会いました。畑だった土地を売って、汀の家が建て直されたのは、6年生の頃だった。一緒にソフトクリームを食べに行くと、店員はお金を受け取らなかった。「あたしのこと、好きなの、あいつ」と汀は言う。「つきあってるの」と水面が聞くと、汀は首をふって「だってあたし、ほかに好きな人がいるもん」と言い、それは「地理の先生」だと汀は言います。明日、うちに遊びにこないと、汀は誘います。汀の部屋は、慣れない匂いがしました。揮発性の塗料のほの甘い匂いを、うんと薄めたような匂いでした。中2の冬に、水面はまた社宅のうわさ話を聞いた。社宅のD号棟に住んでいた小学生の女の子が行方不明になった3ヶ月後に奥多摩の山林で、死体が発見された。死亡してまだ数日という推定の死体は、衣服をつけていなかった。これ、知ってると古い新聞の切り抜きを見せてくれたのは、汀でした。「昭和33年って、わたしたちが生まれた年ね」と水面がつぶやくと、汀は頷いた。衣服をつけていなかった、ということの意味が、水面にもうすうすわかるようになっていた。高校から私立の男子校に入った立山洋太は、うちの文化祭にこないと、水面を誘った。セックスってどういう感じのものなんだろうと、水面はときおり想像し、夢に見たこともあります。なぜだかお風呂に入っていて、その中でおないどしくらいの男の子とセックスをするはめになっているのだった。あっ、セックスをした、と思って、感触をたしかめると、それは太い便が出るときとまったく同じ感触なのだった。男の子には、実際のところ、興味がなかった。田中汀がシンナーをやっている、という噂を水面は聞いた。汀の部屋を訪ねたとき、うすあまい匂いがしたことを思い出した。立山洋太と映画をみた帰りに寄ったピザ屋に汀がいた。前髪の長い女の子と二人でパフェを食べていた。「ヨータ、田中さんとつきあってるの」と汀が聞いた。立山洋太は口をむすび、じっとしていた。その日の夜、ヨータとつきあっていたんだと、汀は電話してきました。「いつからつきあってるの」と汀は聞いた。別につきあってるとかそういうんじゃと、水面が小声で言うと、「田中さんって、子供だね」と汀は言った。水面は頬がかあっと熱くなった。汀の言葉が正しいから自分はかあっとしたのだと、水面は知っていた。少しだけマスターベーションをしてみたが、うまくゆかないので、立山洋太とセックスすることを想像した。思いがけず、高まった。田中汀がシンナーをやっている、という噂はなかなか消えなかった。清子が自殺未遂をした。ひそかに溜めこんでいた睡眠薬をまとめて飲んだのだけれど、量が足りなかったので助かった。清子が退院してから、三津夫が女をつくっている、ということを水面は知った。清子を、可哀想だと水面は思った。同時に、清子のようには絶対に自分はならないと、蔑んだ。このあたりでクワガタを採ったんだ、と水面は思いだした。ねぇ、と声をかけられて振り向くと、汀がいた。シンナー吸ってたって噂、ほんとだよ、昔だけどねと汀は言います。あたし両親が死んじゃって幼稚園のとき今の伯父さんに引き取られたんだ。前世って前に言ってたけど、それって。うん。両親が生きてるころのこと、すごい生まれる前みたいな遠い感じがして、それで。汀は答えた。汀の身長は、今も水面とほとんど同じだ。からだつきも。「たいへんだったんだってね」。汀は言った。水面は頷いた。殺されたD号棟の女の子のことを考えた。その子の家族、今どこにいるのかな。いつか汀が言っていたのを思いだした。清子が死ななくてよかったと、初めて水面は思った。三津夫への怨みも、はっきりとわいてきた。わたしには前世もないし来世もない。気がつくと水面は激しく泣いていた。何も考えず、ただおおっぴらに泣きながら、水面はおおまたで歩きつづけた。


他に、
terra
aer
ignis
mundus


川上弘美:略歴
1958(昭和33)年、東京都生れ。1994(平成6)年「神様」で第1回パスカル短篇文学新人賞を受賞。1996年「蛇を踏む」で芥川賞、1999年「神様」でドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞、2000年「溺レる」で伊藤整文学賞、女流文学賞、2001年「センセイの鞄」で谷崎潤一郎賞、2007年「真鶴」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。その他の作品に「椰子・椰子」「おめでとう」「龍宮」「光ってみえるもの、あれは」「ニシノユキヒコの恋と冒険」「古道具 中野商店」「夜の公園」「ハヅキさんのこと」「どこから行っても遠い町」「パスタマシーンの幽霊」「機嫌のいい犬」などがある。

過去の関連記事:

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川上弘美の「どこから行っても遠い町」を読んだ!

川上弘美の「風花」を読んだ!

川上弘美の「真鶴」を読んだ!
川上弘美の「ハヅキさんのこと」を読んだ!
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センセイの鞄は川上弘美の最高傑作だ!
ニシノユキヒコの恋と冒険
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川上弘美の「龍宮」を読む!

ロドリゴ・ガルシア監督の「彼女を見ればわかること」を観た!

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映画「彼女を見ればわかること」を観ました。映画公開時に観ようと思っていましたが、なぜか見逃してしまいました。たぶん、その時の映画のポスターが、女性がいかにも仮面を被っているという印象を強く受けたからかもしれません。たまたまテレビで放映されていたのを録画してあったので、今回一気に観たというわけです。


監督のロドリゴ・マルケスは、ガルシアマルケスの息子、だそうです。5つのストーリーで構成され、ロサンゼルスに住む5人の女性の悩みや人生の転機を描いたドラマ。物語は一つ一つが独立したオムニバス形式の映画だが、少しずつ重なり合う部分もあり、彼女たちの抱える問題が微妙に交差するという、絶妙な構成です。それぞれが愛に悩み、孤独をかみ締める転機に立つ女性たち。この作品に、これだけの女優が参列しているのは驚きです。


第2話の、女性支店長が中絶手術をした後、病院から出てきた街路で号泣するシーンは、忘れられません。女性支店長を演じたホリー・ハンター、1993年の「ピアノ・レッスン」でアカデミー主演女優賞を受賞しているんですね。同性愛者を出されると、男の僕は困ってしまいます。盲目の妹を演じたキャメロン・ディアスは、勝ち気でわがまますぎて、僕には悪い印象しか残りません。やはり第1話に登場するグレン・クローズは、圧倒的な存在感を放っていました。女性だったら誰でも、この中の一人一人に自分を重ね合わせるのではないでしょうか。


序章:キャシー刑事(エイミー・ブレナマン)は、自殺死体が高校時代の同級生だったカルメン・アルバ(エルピディア・カリージョ)だと知る。
第1話 キーナー医師の場合:医師のエレイン(グレン・クローズ)は、自宅で痴呆症が進行している年老いた母親の介護をしている。占い師のクリスティーン(キャリスタ・フロックハート)は、エレインの心の空白をことごとく言い当て、近い将来に異性との出会いがあると告げる。
第2話 レベッカの贈り物:銀行の支店長をしている独身女性レベッカ(ホリー・ハンター)は、ビジネスマンのロバートと不倫関係になって3年。ある日、妊娠に気づくが、中絶を決意。そして手術の前夜、彼女は部下の副支店長ウォルターと思いがけずベッドを共にしてしまう。
第3話 ローズのための誰か:バツイチの童話作家ローズ(キャシー・ベイカー)は、中学生の息子との関係が決定的な変化を迎えた時、向かいに越してきた男に好意を抱くようになる。
第4話 おやすみリリー、クリスティーン:占い師クリスティーンが一緒に暮らしている恋人リリー(ヴァレリア・ゴリノ)は、死の病に侵されている。だが死を恐れ、途方に暮れているのはクリスティーンの方だった。
第5話 キャシーを待つ恋:カルメンの自殺の原因を調べているキャシーは、盲目の妹キャロル(キャメロン・ディアス)の世話をしながら暮らしている。キャロルは銀行の副支店長ウォルターと交際中。しかしある夜、キャロルはカルメンが死に至った理由を推理し、彼女は愛のない人生に絶望したのだろうとキャシーに語りながら涙を流すのだった。(「MovieWalker」より)


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:ハリウッドを代表する5人の女優が出演を切望した作品。人生の苦みと希望を語る5つの物語。 本作の脚本を書き、監督も手掛けているのは全くの新人のロドリゴ・ガルシア。彼はノーベル賞作家のガルシア・マルケスの息子だが、それだけの理由でここまで豪華なキャストは実現しない。その理由は一重にその脚本の素晴らしさだ。一読したキャシー・ベイカーが即座に出演を希望し、グレン・クローズ、ホリー・ハンター、キャリスタ・フロックハート、キャメロン・ディアスらが彼女に続いた。彼女たちを主演に据えた5つの物語はいずれも彼女たちの持ち味を活かした、静かだが奥行きの深い物語だ。

ストーリー:愛を追い求める女医(クローズ)、クール過ぎるキャリア・ウーマン(ハンター)、息子の成長に戸惑う母(ベイカー)、同性の恋人の看病をする占い師(フロックハート)、愛に絶望している盲目の美女(ディアス)と五人の女性のそれぞれの人生の断片を描く。


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とんとん・にっき-kano1 「彼女を見ればわかること」

映画公開時のポスター

江國香織の「ちょうちんそで」を読んだ!

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江國香織の「ちょうちんそで」(新潮社:2013年1月30日発行)を読みました。この本も発売と同時に購入し、一度は読み終わっていたのですが、なかなかブログに書けなくて、再度読み直して書いています。新潮社のこの本の紹介には、以下のようにあります。


取り戻そうと思えば、いつでも取り返せる──闇の扉を開く新しい長編。
いい匂い。あの街の夕方の匂い──人生の黄昏時を迎え、一人で暮らす雛子の元を訪れる様々な人々。息子たちと幸福な家族、怪しげな隣室の男と友人たち、そして誰よりも言葉を交わすある大切な人。人々の秘密が解かれる時、雛子の謎も解かれてゆく。人と人との関わりの不思議さ、切なさと歓びを芳しく描き上げる長編。記憶と愛を巡る物語。


最初の章で、冒頭「隣室の男がやってきたとき、雛子は架空の妹とお茶をのみながら、六番街の思い出について語り合っているところだった。」とあります。最初に読んだとき、なにを思ったのか「架空の妹」のところを鉛筆で“しかけ”と書き込みました。「架空の妹」、冒頭だけでなく最終章まで、要所要所に出てくるのですが、これがなんとなくこの小説の“舵取り”、あるいは“狂言廻し”の役割を果たしているのではないかと思ったからです。ちなみに「“狂言回し”とは、物語において、観客(あるいは読み手などの受け手)に物語の進行の理解を手助けするために登場する役割のこと。場合によっては物語の進行役も務める。」(「feペディア」より)とあります。それらを併せて、直感で“しかけ”と思ったのでしょう。


この物語の主人公は雛子、今年54歳になります。東京からやや離れたところにある、かなり高級な高齢者向きのマンションで、独り暮らしをしています。 妹の飴子は50歳になるはずだが、いま部屋にいる雛子の架空の妹は30歳くらいです(ときどき17歳くらいにも見える)。姉妹は、ミルク紅茶にビスケットをひたして食べています。彼女たちの母親が好んだ食べ方です。隣室の男とは、妻と暮らす丹野龍次という白髪まじりの老人です。しょっちゅう遊びに来るこの男を、雛子は嫌いではない。


雛子には息子が二人います。正直は、午後の日差しのなか、妻と亜美ちゃんと、そしてまだ生後6ヶ月の赤ん坊の娘を、夏の浜辺に連れ出しています。亜美ちゃんは、弟のガールフレンドです。大学生の弟は、夏のあいだ、海の家で働いています。正直と9歳年下の弟は父親の違う兄弟だが、喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。父親が、妻の連れ子である正直と、実の息子である弟とに分け隔てなく接してくれたことが大きく、正直は父親に感謝しています。


9月になり、新学期が始まって、なつきは3年生になりました。小島先生には話すことができた。秘密を守れる人なのです。パパにもママにも言えないことを、どうして小島先生には話せるのかはわからない。小島先生はすごく小柄です。大きすぎるサンダルをはいて立つ姿は、お年寄りのようにも子供みたいにも見える。雛子が、髪を「うんと短く」するようになったのは最近のことです。病室で、目をさましたときのことを雛子は憶えています。医者がいて看護師がいて、夫がいました。自分が泥酔して昏倒し、救急車で運ばれたあと、2日間意識が戻らなかったことを知らされました。雛子は家族を捨てたつもりだったし、何年も会っていなかったのだから。


「ねぇさん、ねぇさん」、架空の妹が言葉を重ねて呼びます。「思い出すのやめれば」と言う。「そんなことをすれば悲しくなるだけなんだから。ねぇさんだって、ほんとうはわかっているんでしょう?」。架空の妹の言うことは、いつだって正しいのだから。母親に会いに行くのは、正直なところ気が重かった。母親が家を出て行ったとき、誠は12歳でした。それは、ほんとうに突然のことでした。結局、母親には男がいたのでした。家族を捨て、その男の元へ走ったのでした。帰ってきてもダメなことを、はっきり知っていた気がします。母親の連れ子であり、当時成人していた兄の正直は猛り狂いました。


バスを降り、緩やかな坂をのぼりきれば、そこが母親の住む施設でした。誠には、母親がでて行ったときよりも、帰ってきたときの方が耐え難かった。信じられなかったし、一方で、どうしようおなく腹が立った。「正直、子供生まれたよ」と誠が言うと、「そうなの」とだけ呟きます。自分に孫ができたことも知らない母親を、洵は哀れだと思います。「彼女とか、いるの?」と尋ねられ、「いない」とこたえたのは、いる、とこたえて、今度連れていらっしゃいと言われたら面倒だと、咄嗟に判断したからでした。


ミートソースは濃く、味がよかった。極端に短い髪、白地に同色の水玉の散ったブラウスと、こげ茶色のスカート。ブラウスは袖がふくらんでおり(ちょうちんそで、と母親は呼んでいた)、誠が子供だったころから、母親が似たような服を好んで着ていたことを思い出した。「ピアノ、弾いてるの?」と誠は訊いた。母親は「たまーに、私は飴子おばちゃまほど上手には弾けないから」と、微笑みながら言う。


最初からそこにあることに気付いていた、1枚の写真にはおそらくいまの誠とそう変わらない年齢の、娘が二人写っています。雪景色のなかにならんで立って、大きく笑っている姉妹。叔母はまだ学生だったはずだ。二人でイギリスを旅したときのスナップです。行方不明になったというその叔母に、誠は一度もあったことがない。「男で身を持ち崩す嘉慶なんでしょうよ」、祖母はそう言っていました。「誠は、小人を見たことがある?」と、母親が言った。


「でもさ、誠くん、立派に育ってよかったじゃん」と、架空の妹が言う。「私、孫がいるのよ」と、雛子は言う。架空の妹は動じず、「そうみたいだね。おめでたいじゃん」と、あっさり言う。妹―架空のではなく現実の飴子―がいなくなったのは、雛子が再婚した年の夏でした。雛子は、そのとき、妹の居場所を知っていました。妻子持ちの男と駆け落ちして、神戸にいるのでした。あの子を止めることなどできただろうか。一人の男を信じ切ってしまった飴子を?飴子は男としばらく神戸で暮らしていたが、男が妻子の元に突然戻り、その2年後に飴子が今度はほんとうに行方不明になりました。


「雪!」、架空の妹が言い、言うが早いか窓をあけます。「昔さ、二人でイギリスを旅行したとき、大雪が降ったね」と、架空の妹が言った。この部屋に飾ってあるなかで唯一の、現実の飴子が写っている写真だ。雛子の独身最後の冬で、飴子はまだ大学生だった。あれから30年もたつのだ。架空の妹はピアノを弾き始める。賑やかで速い、素朴で陽気な架空の音がピアノからこぼれ、部屋を満たし、雛子は立ったまま目をとじて、前身でそれを聴きとる。現実には存在しない音の一つ一つが、現実に存在する自分の上に、周囲に、次々降りてきては消えるのを感じる。雪のように、記憶のように。

江國香織:略歴
1964年東京生まれ。1987年「草之丞の話」で毎日新聞社主催「小さな童話」大賞を受賞。2002年「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」で山本周五郎賞、2004年「号泣する準備はできていた」で直木賞、2012年「犬とハモニカ」で川端康成文学賞を受賞。「409ラドクリフ」(1989年フェミナ賞)、「こうばしい日々」(1991年産経児童出版文化賞、1992年坪田譲治文学賞)、「きらきらひかる」(1992年紫式部文学賞)、「ぼくの小鳥ちゃん」(1999年路傍の石文学賞)、「がらくた」(2007年島清恋愛文学賞)、「真昼なのに昏い部屋」(2010年中央公論文芸賞)、「つめたいよるに」「ホリー・ガーデン」「すいかの匂い」「神様のボート」「金米糖の降るところ」など多数。


過去の関連記事:

江國香織の「犬とハモニカ」を読んだ!

江國香織の「抱擁、あるいはライスには塩を」を読んだ!
江國香織の「真昼なのに昏い部屋」を読んだ!

江國香織の「スイートリトルライズ」を読んだ!

江國香織の「日のあたる白い壁」を読む!

江國香織の「がらくた」を読んだ!

江國香織の「間宮兄弟」を読んだ!
江國香織の「ぬるい眠り」を読んだ!

江國香織の「きらきらひかる」読了。

「東京タワー」、あるいは江國香織について・1


芥川龍之介の「南京の基督」を読んだ!

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練馬区立美術館で「牧野邦夫―写実の神髄―展」を観てきました。画像のアクセス解析を見ると、牧野邦夫の「南京のキリスト」が、ここ数週間、一番多いのでまずは驚きました。なにしろインパクトのある牧野の油彩画です。筋肉質の女性の裸像が素晴らしい。僕も牧野作品のなかでは、「南京のキリスト」が好きです。

練馬区立美術館で「牧野邦夫―写実の神髄―展」を観た!


話は最初から脱線しますが、今日の朝日新聞夕刊(2013年5月28日)に、「キリスト墓 観光の目玉 青森・新郷村」という記事が載っていました。副題には「慰霊祭50年・・・なぜか神式・盆踊りも」とあります。記事を読んで、いや、驚きました。「ゴルゴダの丘で磔にされたキリストが、ひそかに日本に逃げ延びていた」というのだから、「エ~ッ、うそ~」と言いたくなります。いや、ホントの話のようです。なにがホントかはさておき・・・。


青森県新郷村には、キリストの墓があり、墓前で毎年開くキリストの慰霊祭はこの6月に50回目を迎える、という。人口3000人足らずの新郷村、村を貫く国道沿いの高台に、木製の古びた十字架が立つ塚が二つ並んでいます。「キリストの墓」と、キリストの身代わりとなって十字架にかけられたとされる「イスキリの墓」です。伝説では、キリストは村の娘をめとり、3人の子を育て、106歳まで生きた、という。慰霊祭である「キリスト祭」は64年に始まったが、なぜか神式で営まれる。「真偽はともかくとして、ロマンがあるでしょう」と須藤良美村長は笑う、と記事にあります。



それはさておき本日の主題は、芥川龍之介の「南京の基督」です。練馬の展示では「南京のキリスト」(芥川龍之介作品より)とありました。芥川の作品、押し入れの奥にあった文学全集を引っ張り出してきました。実は、黒澤明の映画「羅生門」について、このブログに書いたときに、この全集を出して、芥川の「羅生門」と「藪の中」をこの本で読んでいたのです。そんなわけで、芥川龍之介の「南京の基督」、ありました。上下2段組ですが、わずか10ページの短編です。一気に読み終わりました。なんとなくですが、そんな物語かなと、予想していた感じが、おおむねあたらずとも遠からず、でした。さて、「南京の基督」とは、どんな物語なのか?3章からなる短編小説です。


南京奇望街のある家の一間に、色の青ざめた支那の少女が、古びた卓の上に頬杖をついて、西瓜の種を噛んでいます。壁には折れ釘に小さな真鍮の十字架が懸かっています。その十字架の上には、受難の基督が両腕をひろげて浮き彫りされています。少女の名は宋金花といって、貧しい家計を助けるために夜な夜なその部屋に客を迎える、15歳の私娼でした。私娼のなかでは、金花ほどの容貌の持ち主は何人もいたが、金花ほど気立ての優しい少女は他にいません。他の売笑婦と違って、嘘もつかなければわがままも言わず、夜ごとに愉快そうな微笑を浮かべて、この陰鬱な部屋を訪れるさまざまな客と戯れていました。こういう金花の行状は、彼女の生まれつきにもよりますが、まだそのほかに何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から壁の上の十字架が示す通り、亡くなった母親に教えられた、羅馬加特力教(ローマカトリック)の信仰を持ちつづけているからでした。


ところが一月ばかり前から、この敬虔な私娼は不幸にも、悪性の梅毒を病む体になりました。周りの人は、痛みを止めるのに阿片酒を飲むことを教えてくれたり、さまざまな薬を親切に持ってきてくれたが、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引きこもっていても、一向に快方へは向かいませんでした。ある人は、「あなたの病気はお客から移ったのだから、早く誰かに移し返してしまいなさいよ。そうすれば二、三日でよくなってしまうに違いないわ」と言います。金花はひとり壁に懸けた十字架の前にひざまついて、受難の基督を仰ぎながら、熱心にこういう祈祷を捧げました。


「天国にいらっしゃる基督様。私は父を養うために賤しい商売を致しております。しかし私の商売は、私一人を汚すほかには、誰にも迷惑はかけておりません。けれども今の私は、お客にこの病を移さない限り、いままでのような商売をすることはできません。たとえ飢え死にしても、お客と一つ寝台に寝ないようにしなければなりません。さもなければ、怨みもない他人を不幸せにすることになりますから。しかし、私は女でございます。いつなんどきどんな誘惑に陥らないものでもございません。天国にいらっしゃる基督様。どうか私をお守りください」。こう決心した宋金花は、いくら商売を勧められても強情に客をとらずにいました。だから客は彼女の部屋には来ないようになりました。同時に彼女の家計も、一日ごとに苦しくなりました。


今夜も彼女は卓によって、長い時間ぼんやり座っていました。そこへ見慣れない外国人が外から入ってきました。「何か御用ですか」と金花が訊くと、相手は首をふって、支那語はわからないという合図をしました。金花はこの時この外国人の顔が、確かに見覚えがあるような、親しみを感じ出しました。金花がこんなことを考えていると、外国人はにやにや笑いながら指を二本立てて金花の眼の前に突き出しました。指二本が二ドルという金額を示しているようです。客を泊めない金花は、否という印に二度ばかり笑い顔を振って見せました。すると客は指を三本出して、答えを待つような眼つきをしました。金花が当惑顔をすると、客は二ドルでは彼女が体を任せないと思っているらしかった。ところが相手の外国人は、薄笑いを浮かべながら、四本の指を立てて、何かまた外国語でしゃべっていました。相手が両手の指を見せると、金花は苛立たしそうに足踏みして、続けざまに頭を振りました。


その途端に、釘に懸かっていた十字架が外れて、足元の敷石の上に落ちました。彼女は慌ただしく大切な十字架を拾い上げました。その時十字架に彫られた受難の基督の顔を見ると、それが外国人の顔と生き写しでした。金花の心には、巧妙な催眠術師が被術者の耳に囁き聞かせる暗示のような作用をおこしました。彼女の健気な決心も忘れてしまったのか、怪しい外国人の側へ、恥ずかしそうに歩み寄っていました。外国人は力一杯金花を抱きすくめました。この不思議な外国人に、彼女の体を自由にさせるか、それとも病を移さないために、彼の接吻をはねつけるか、そんな思慮をめぐらす余裕はどこにも見当たらなかった。ただ燃えるような恋愛の歓喜が、初めて知った恋愛の歓喜が、激しく彼女の胸元へ突き上げてくるのを知るばかりでした。


そして数時間後、金花の夢は、埃じみた寝台から、屋根の上にある星月夜へと、煙のように高々と昇っていきました。彼女のいまいる所は、確かに天国の町にある基督の家に違いなかった。卓の上にはさまざまな豪華な料理がたくさん並んでいます。「まあ、お前だけお食べ。これを食べるとお前の病気が、今夜のうちによくなるから」と、外国人は無限の愛を含んだ微笑も洩らしました。南京の基督はこう言ったと思うと、おもむろに椅子を離れて、呆気にとられた金花の頬へ、優しい接吻をしました。


金花は眠りがさめた今でも、うとうと心をさまよわせていました。昨夜不思議な外国人と一緒に、この籐の寝台へ上がったことが、はっきりと思い出されてきました。「もしあの人に病気でも移したら・・・」、金花はそう考えると急に心が暗くなりました。部屋は冷ややかな朝の空気に、残酷なくらいあらゆる物の輪郭を描いていました。金花は、眼をしばたたいて、しばらく取り乱した寝台の上に横座りをしていました。「やっぱり夢ではなかったのだ」。突然、彼女の顔は生き生きした血の色が広がり始めました。金花はこの瞬間、彼女の体に起こった奇跡が、一夜のうちに跡形もなく、悪性を極めた梅毒をいやしたことに気づいたのでした。「ではあの人が基督様だったのだ」。彼女は転ぶように寝台を這い下りると、冷たい敷石の上にひざまずいて、再生の主と言葉を交わしました。美しいマグダラのマリアのように、熱心に祈祷を捧げました。


翌年の春、一年ぶりに金花の所を訪れた日本人旅行家は、金花が話す基督が彼女の病を治したという不思議な話を聞いて、その外国人が自分の知ってる人で、彼が南京の私娼を買って、その女が寝ているすきに逃げてきたと得意そうに話していたが、その後、悪性な梅毒にかかり、発狂してしまったという話を思い出します。この女は今になっても無頼な混血児を耶蘇基督だと思っている。おれは女のために「蒙を啓いてやるべきか」、それとも「昔の西洋の伝説のような夢を見させておくべきか」と、迷います。


物語が終わった後、芥川は、以下のように書いています。

本篇を草するに当たり、谷崎潤一郎氏作「泰淮の一夜」に負うところ少なからず。附記して感謝の意を表す。

(大正9年6月22日)



横浜元町・中華街、ブラブラ散歩!

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渋谷から特急で30分、近くなった横浜元町・中華街へ行ってきました。ちょっと曇り空、ただ単に「お昼」を食べに行っただけですが、けっこう歩きました。なぜか中華街は修学旅行生がやたらと目立ち、元町商店街ではオバサンの2~3人組が目立ちました。


「関帝廟」はもう何度行ったことか、その装飾は見事なもので、何度見ても素晴らしい。日本ではわずかに日光の陽明門があるのみで、これほどの装飾の多いものは他にはありません。


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横浜関帝廟の今:以下、いただいたリーフレットによる

2011年鎮座150周年を迎えた横浜の関帝廟はいつも線香の香りが漂い、参拝の人が絶えることがありません。幕末のころ建てられた関帝廟は、1923年に関東大震災、45年に大空襲で焼失、86年には不審火で廟堂が罹災、と苦難の歴史を刻みます。そして90年、厚い信仰と人々の熱意により、横浜中華街のみならず日本国内外の寄付を仰いで現在の華麗な四代目関帝廟が姿を現しました。漢白玉石の欄干、青白石の雲龍御道石、ガラス細工の屋根飾り、「三国志」の物語を彫り込んだ観音石の柱、金箔彩色木彫などなど。中国の工匠が大陸・台湾からはせ参じて中国の伝統建築工芸の粋を駆使して建造しました。中国の民・清時代の南方の廟堂様式を持つこの廟は、困難を乗り越え中国文化を継承する、横花中華街の街づくりの象徴でもあります。2000年4月、神殿内のドーム型八角網組みの天井、および三国志の場面が彫られた青斗石の壁面彫刻が完成。三期十二年にわたる工事がここに完成しました。さらに2004年春節、廟域に華表が建てられました。龍などの彫刻を施した石造りの大柱・華表は、古来宮殿などに設けられ、王者の格と人の歩む道を指し示すシンボルです。




「元町ショッピングストリート」ホームページ

「元町仲通り地区街づくり協定」により、建物の形態や意匠についてさまざまな規制があります。例えば、「建物の高さ・壁面の位置」、「1階部分の壁面等の再後退」、「外壁のデザイン・材質・色」、「1階開口部の扱い」、「夜間照明」、等々です。今回、元町ショッピングストリートを歩いてみると、一番難しいと思われた1階部分の壁面後退が、ほとんど完了していました。歩道部分が拡幅されて歩きやすくなっていますが、元々は後退していなかったことを考えると、商店街の方々の気概と多大な努力が感じられ、素晴らしい商店街だと思いました。




過去の関連記事:

「横浜中華街・春節(旧正月)2010」に行ってきました!
横浜ぶらり散歩!

春節の横浜ぶらり旅-2
春節の横浜ぶらり旅-1
「みなとみらい線」に乗って横浜へ行こう!




イングリット・バーグマン主演の「ガス燈」を観た!

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「ガス燈」は、ただただイングリット・バーグマン主演ということで観た映画でした。これもいつ頃だったか忘れてしまいましたが、テレビで放映されていたのを録画しておいた作品です。内容はまったく分からずに、「ガス燈」という題名にひかれました。30数年前、設計事務所を設立して最初に設計した住宅の仕事で、音楽家のご主人が玄関燈としてガス燈を使いたいというので、八方手を尽くして調べたことがありました。結局いろいろな事情で、その話は立ち消えになりましたが・・・。


イングリッド・バーグマン(1915年8月29日 - 1982年8月29日)は、ハリウッドで活躍したスウェーデン出身の女優です。モロッコのカサブランカを舞台に、ハンフリー・ボガードと共演した1942年の「カサブランカ」で一躍スターになり、1944年の「ガス燈」でアカデミー主演女優賞を獲得しました。2本とも、60年以上も前の作品ですから驚きです。知性を感じさせる美貌と情熱的な演技で人気を博します。グレース・ケリーと共に、名実ともに20世紀を代表する“クールビューティ”女優のひとりです。監督は「マイ・フェア・レディ」でアカデミー監督賞を受賞したジョージ・キューカーです。


話は最初から「ガス燈」の本筋に入ってしまいますが、この作品の内容から、1970年代後半以降「ガスライティング」が心理的虐待を表す用語として使われるようになったそうです。ストーリーでは、妻が正気を失ったと当人および知人らに信じ込ませようと、夫が周囲の品々に小細工を施し、妻がそれらの変化を指摘すると、夫は彼女の勘違いか記憶違いだと主張してみせます。劇の題名は、夫が屋根裏で探し物をする時に使う、家の薄暗いガス燈に由来します。妻は明かりが薄暗いことにすぐ気づくのですが、夫は彼女の思い違いだと言い張るのでした。(「ウィキペディア」より)


霧の深いロンドンで街中にはガス燈がともる1870年の話です。オールクィスト家で起こった歌手アリス・オールクィスト嬢殺人事件は、まだ犯人は見つかっていません。アリスの姪ポーラはイタリア留学中にでピアノ奏者のグレゴリー・アストンと恋に落ち結婚しました。自分はあまり気が進まなかったのですが、夫の言うままに、殺人事件があった家で新婚生活を営むことになりました。ある日、ハンドバックに入れたはずの首飾りが紛失して以来、グレゴリーはポーラが自分のしたことを記憶していないと言って、ポーラを責め立てます。そして夫は、ポーラも精神病で死んだ彼女の母親と同じように、精神病で死ぬだろうとまで言うのでした。


ポーラは、夫の言ったことを気にしながら、一人、不安な日を送っていました。そして次第に自分の精神状態に自信を失い、夜ごとに薄暗くなるガス燈の光も、天井から聞こえる奇怪な物音も、自分の精神が衰えている為かと、焦燥にかられました。ある日、久し振りに夫と出かけた知人宅で、時計を隠したと言って夫から辱められ、彼女は耐え難い悲しみに襲われます。その様子を注視していた若い男がありました。夫と共に出かけたロンドン塔で、知らない男に会釈され、なぜかポーラは笑顔で返します。夫は展示してあったダイヤモンドに目が行ってますが。彼はブライアン・カメロンというロンドン警視庁の警部で、かつて名歌手アリスのファンで、可愛がってもらっていたこともあり、アリスの殺人事件に大きな関心を持っていました。


彼はある夜、グレゴリーの外出中、家人の制止も聞かずポーラに会い、彼女の叔母の事件について、ポーラに語って聞かせます。そして、彼女は精神に異常を来しているのではなく、夫の策略に過ぎないこと、夜ごとに暗くなるガス燈の光も、夫が閉鎖された屋根裏の部屋にいるためだ、と説明します。ブライアンがグレゴリーの机を開けてみると、彼女が隠したと夫から責められていた品物の数々が出てきました。20年前の殺人事件に、グレゴリーがかかわっていたとされる手紙も見つかりました。そこへグレゴリーが帰ってきます。ブライアンと言い争いになり、椅子の縛り付けられます。ポーラに助けを求めますが、ポーラは今までの経緯もあり、「精神異常だからできない」と、グレゴリーに冷たく答えます。自信喪失になりかけていたポーラは、自分を取り戻します。グレゴリーは、警官に引き立てられていきます。


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小島剛一の「漂流するトルコ 続『トルコのもう一つの顔』」を読んだ!

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小島剛一の「漂流するトルコ 続『トルコのもう一つの顔』」 を読みました。以前読んだ「トルコのもう一つの顔」の続編です。一度目の国外退去で終わっていますが、今回の話は再びトルコへの入国を果たし、波瀾万丈のトルコ調査旅行が始まります。そして、二度目の国外退去までの話になります。トルコの官憲は、まったくうんざりするほど暖簾に腕押し、というか、これはまるでカフカの「城」です。


トルコ、といえば、イスタンブール、いまイスタンブールはオリンピック招致合戦の最中にあります。イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの接するところ、そしてイスラム圏から名乗り出た、初めての国でもあります。東京都の猪瀬知事の失言問題が、マスコミを賑わしています。トルコは昔から親日の国、事を荒立てたりはしていません。猪瀬知事は発言を撤回し、東京の「立地」についてのみアピールする構えに転換したようです。


小島剛一の略歴は、以下の通り。

 1946年(昭和21年)、秋田県に生まれる。

 1978年、ストラスブール大学人文学部で博士号取得。

 現在はフランスで自由業。専攻は言語学と民俗学。

 著書:「トルコのもう一つの顔」(中公新書)1991年

     「ラズ民謡集」(Chiviyazilari イスタンブール、2003年3月)

     「ラズ語文法」(Chiviyazilari イスタンブール、2003年7月)論文

     「三省堂言語学大辞典」の「ザザ語」の項など、多数。


漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」
2010年9月15日初版第1刷発行

著者:小島剛一

発行所:有限会社旅行人
名著「トルコのもう一つの顔」から20年。著者渾身の続編がついに完成!
弾圧され続けた、トルコの少数民族の言語と、その生活の実態を明らかにした画期的トルコ紀行
政府に弾圧され続けるトルコの少数民族の言語と、その生活の実態を、スパイと疑われながら、調査し続けた著者。前著「トルコのもう一つの顔」(中公新書)が、まるで推理小説のようなスリルに満ちた物語と、著者の少数民族に対する愛情に涙が出たと絶賛され、長らく続編が待望されながら20年。
前著でトルコを国外追放されたあと、再びトルコに入国を果たし、またもや波瀾万丈のトルコ旅行が開始される。著者の並外れた行動力と、深い知識、鋭い洞察力が生み出した画期的トルコ紀行!


前書に書いた主要項目

1.建国以来トルコでは「トルコ共和国にトルコ語以外の言語は存在しない」という建前になっていたこと。

2.それが事実無根であることを言明したために逮捕投獄されたままの人が数知れないこと。

3.筆者にはその事情が分かっていたために「一介の観光客」として人知れず長年月をかけて少数民族諸言語を習得していったこと。

4.デルスィム語域で理由もわからず夜中にホテルで憲兵隊に叩き起こされた挙句に身柄を拘束されたエピソード。

5.その帰路アンカラでたまたま知り合ったトルコ人外交官Y氏との親交。

6.Y氏のおかげで1986年の夏「クルド語、ザザ語、ラズ語などの臨池調査許可」を得た紆余曲折のいきさつ。

7.公式に言語研究者としてザザ語やラズ語域を再訪したときの官憲や随行員との駆け引き。

8.その合間を縫っての虐げられた少数民族との交流。


この公式調査中、ラズ語域で結婚式の披露宴に招かれたときにラズ民謡を一曲ラズ語で歌おうとして官憲に妨害され、調査は中断されてしまった。アンカラまで護送されて外務省で「トルコ国外へ自主退去勧告」を下されるに至り、イスタンブール経由で陸路ギリシャに抜けたところで、前書「トルコのもう一つの顔」は筆をおいた。刊行直後から「続きが読みたい」という声は多数あったが、さまざまな事情で先延ばししているうちに、早くも20年近い年月が経ってしまった。


トルコが共和制樹立の際に多言語・多民族の事実を否定して「トルコ共和国は単一言語・単一民族国家である」という幻想を国是にしてしまったことは、現在に至るまで底知れない禍根を広汎に残している。トルコ国民は数世代にわたって、小学校に入るとすぐに強制的にその国是を暗唱し復唱することを教え込まれたのである。公の場で少数民族語を話したという「罪状」で何年もの獄中生活を余儀なくされた人も少なくない。


さあ、そろそろ結論を、とまでいかなくてもなんとかこの記事を終了させなければ、と思っていると、朝日新聞夕刊(2013年6月1日)に「トルコ数千人デモ 五輪開発への抗議発端」という記事が載っていました。2020年夏季五輪のイスタンブール招致をめざす政府は、タクシム地区の再開発に着手。その一環として、公園の樹木を伐採してショッピングモールにする計画がある。環境活動家らは「市民の声を無視している」と撤回を求め、数百人が5月27日から座り込んでいました。タクシム広場は、新市街側のイスティクラル通りのホキ単にある、イスタンブール一番の繁華街です。5月31日、近くの公園の取り壊しに反対するデモ隊を、警官隊が大量の催涙弾などを使って強制排除したという。親イスラムの公正発展党(AKP)は02年の総選挙で政権に就いて以降、高い経済成長を実現。国民の支持は高い物の、世俗野党は、エルドアン首相を「独裁的」と批判してきた。強制排除を機にエルドアン氏に対する世俗派の不満が一気に噴き出した形だと、記事は伝えています。


小島の略歴にも挙げてある通り、2003年には「ラズ民謡集」や「ラズ語文法」が、曲がりなりにもトルコ国内で刊行されています。小島にラズ語を教えてくれた人たちに文法書を進呈して廻り始めた日から、胡散臭い人物画小島の周りに寄ってくるようになります。そして見当外れの質問ばかりをします。いくつの言語が話せるのか。なぜラズ語のような「何の役にも立たない」言語を研究するのか。スポンサーは誰か。ラズ語はトルコ語の方言ではないのか。研究はいつ終わるのか。ラズ人の起源は何か・・・などなど。ある日の夕方、「MIT(トルコ諜報機関)の者です」とおっぴらに言う男が憲兵に連れられてやって来ます。


小島は二度目の国外追放の日がぐんぐん迫っていることを予感します。自国の言語事情を間接的で不正確な報告でしか知らないトルコ人為政者の判断で、少数民族語を会さないために少数民族を恐れている一握りの軍人と政治家の判断で、「トルコ共和国にトルコ語以外の言語は存在しない」という幻想の国是を言い続けることができなくなって、小島を逆恨みしている連中の判断で、国外追放が決定されるのです。海辺近くの食堂で昼食をとっていると、至福の男が4人、食事中の小島を取り囲み、「警察の者ですが、日本人のゴーイチ・コジマさんですね」と問いただします。警察の車で空港に送られ、翌日未明の飛行機で国外追放ということになります。


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小島剛一著「トルコのもう一つの顔」を読んだ!

「トルコ」へ行ってきました!




地図散歩・横浜根岸編“外国人遊歩道をたどる”

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「地図散歩・横浜根岸編“外国人遊歩道をたどる”」

「ベアト幕末日本写真集」や「横浜実測図」などを拡げて、

幕末から明治に懸けて外国人が「ミシシッピー・ベイ(根岸湾)」の

美しい眺望を愉しみながら、遊歩した道を当時に思いを馳せて

歩きます。ガイドはもちろん、山岡光治さん(オフィス地図豆店主)。


日時:6月1日(土)11時集合

集合場所:JR石川町駅南口
散策コース:JR石川町南口→地蔵坂→根岸森林公園→不動坂上

        →不動瀧→七曲坂→アメリカ坂→本牧山頂公園

        →千代崎川(暗渠)→JR山手駅


外国人遊歩道

「緑と洋館の巡り道」の元になっているのが「外国人遊歩道」で、これは江戸幕府が外国人の為に作った道路である。当時日本に住む外国人達は攘夷をとなえる浪士の襲撃を受ける危険と背中合わせだったそんな矢先、生麦事件が起こりピクニックに行ったイギリス人が命を落とし英仏両国公使は幕府に、山手一帯に遊歩道を建設するように申し入れた。
この時かわされたのが「横浜居留地覚書」であり、その内訳はミシシッピーベイを廻る長さ4マイルから5マイル、幅20フィートの馬車道を作ることであった、その他には狭くなった墓地の拡張、食肉の処理場、疫病を防ぐ官設種痘病院、射撃場、競馬場も要求され競馬場は今の根岸森林公園の場所にあたるものである。この様にして外国人達は居留地周辺で身の危険を心配することなく生活するすべを得たのである。実際の建設はトワンテ山に駐留する英国の赤隊が指揮して一年で遊歩道は完成する。費用は幕府が捻出してものだが、幕府としては多大な賠償金を支払ったり、ことによっては戦争に発展することを考えれば安いものだったのかもしれない。本来の遊歩道の場所は山手下の元町を通って地蔵坂を上がり、根岸森林公園を抜け不動坂を下り海にそって本牧を廻り本牧から千代崎町そして桜道を通り地蔵坂へ戻るルートで坂の各所には石畳がしかれていた。

出典:「外国人遊歩道」

















以下、山岡さんからのメッセージです。


テーマは、「『外国人遊歩道』 をたどる」 だ。
その「外国人遊歩道」があった場所は、
横浜市中央区のパンフレットにある「緑と洋館の巡り道」 とほぼ同じルートで、
これは江戸幕府が幕末期に作った外国人のための専用道路である。
この道筋をベアトが撮影した当時の写真と1/5000の地図、
これと現在の地図とを参照し、さらに現地の風景を眺めて、
在留外国人が「ミシシッピーベイ(=根岸湾)」の美しい眺望を楽しんだのは
どのあたりだろうかなどと思い巡らしながらたどる。




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地図屋・山岡光治の話を訊く!

パナソニック汐留ミュージアム「幸之助と伝統工芸」内覧会に行ってきました!

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パナソニック汐留ミュージアムで開館10周年記念特別展「幸之助と伝統工芸」ブロガー向け特別内覧会に応募したところ、運良く招待を得ることができました。2013年5月30日、夜、特別内覧会に行ってきました。担当学芸員である岩井美恵子さんによるギャラリートークが約45分行われ、その後、自由内覧という進行でした。今回の展覧会は、初出品作品約60点を含む松下幸之助ゆかりの工芸作品計約90点(作家数計65人)を一堂に会し、その芸術を紹介していました。「ものづくりの心」をあらわす工芸が文化の発展に寄与するということを祈っていた松下幸之助の思考に触れる絶好の機会でした。


やきものファンなら誰しも憧れる「萬歴赤絵」、「萬歴赤絵桝水指」と、中期から展示されている背が高く堂々とした「萬歴赤絵方尊式花瓶」を観ることができました。また同じく中期展示の「双蛸図漆貴重品筥」、外もぴっちりとつくられていますが、中がすごい。展示では中は見れないので、学芸員の方に中の写真を見せていただきました。


松下幸之助ほどの人なら、絵画も相当数所有していたに違いない、と思います。優品も多数あると思うので、機会があれば、そちらの方も公開していただきたいものです。また、幸之助の戦前からのお住まい、和風の素晴らしいものだったようで、茶室などと併せて、こちらも是非とも公開していただきたい。なにしろ和風建築は関西が本場なものですから。


展覧会の構成は、以下の通りです。

第1章 素直な心―幸之助と茶道―

第2章 ものづくりの心―幸之助と伝統工芸―


いただいた「報道資料」から、今回の「展示概要」を、以下に載せておきます。


第1章では、松下幸之助が出会い、そこに「素直な心」をみた、茶道に係る作品をご紹介します。当時の経済界同胞からたしなみのひとつとして茶道を勧められていた松下幸之助でしたが、実際に彼がたしなみ始めたのは40歳を過ぎてからのことでした。しかし、裏千家十四代家元である無限斎宗室と親交を深めながら、裏千家老分を務め、「宗晃」という茶名も受けるなど、茶道は幸之助の生き方の核となっていきました。一方、使用する茶道具は当時の数寄者たちとは少し異なり、現代作家のものを多く使用していたようです。元来人間そのものに関心の強かった松下幸之助は、「もの」を生み出す作家に興味をひかれたと考えられます。


第2章では、松下幸之助が京都や大阪の工芸家を通じて、日本の伝統工芸に関心を寄せる契機となった作家らの作品を展示します。そして展示の目的として収集した重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝を中心とした作家たちの作品と、東京国立近代美術館及び個人所蔵の縁の深い作家たちの作品を加えて紹介いたします。



第1章 素直な心―幸之助と茶道―



第2章 ものづくりの心―幸之助と伝統工芸―






注:会場内の画像は主催者の許可を得て撮影したものです。


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松下幸之助ゆかりの

「萬歴赤絵」










開館10周年記念特別展「幸之助と伝統工芸」

「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助(1894-1989)が我が国の伝統文化に理解を示し、その普及と支援していたことはあまり知られていません。美術品を見る目は持ち合わせていないと言いながらも、実際には、多年にわたり絵画から工芸作品にいたるまで美術品を収集したり、公益社団法人日本工芸会などの団体の役員を務めるなど、文化支援活動を続けていました。本展では、このような松下幸之助と伝統文化との関わりをご紹介します。松下幸之助は「素直な心」を生涯大切にしていましたが、その「素直な心」を育てる道が茶道にあると考えるようになりました。そして茶道具に触れるうち、その関心は工芸家に向けられるようになったのです。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、截金など、さまざまな素材を駆使し、伝統的なわざを絶やさず時代の息吹を取り入れることによって成立する日本の工芸作品。松下幸之助は「伝統工芸は日本のものづくりの原点である」と確信し、このような作品を作り出す工芸家を支援することで、「ものづくりの心」を未来に伝えていきたいと考えました。本展は、初出品作品約60点を含む松下幸之助ゆかりの工芸作品計約90点(作家数計約65人)を一堂に会し、その芸術を紹介します。「ものづくりの心」をあらわす工芸が文化の発展に寄与するということを祈っていた松下幸之助の思考に触れていただく絶好の機会となります。


「パナソニック汐留ミュージアム」ホームページ


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東京藝述大学大学美術館「夏目漱石の美術世界展」内覧会へ行った!

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東京藝述大学大学美術館「夏目漱石の美術世界展」ブロガー向け特別内覧会に応募したところ、運良く招待を得ることができました。2013年5月31日、夜、特別内覧会に行ってきました。この展覧会の企画者の一人でもある東京藝術大学大学美術館准教授の古田亮さんの「見どころと主な出展作品解説」がありました。古田亮さんの本は、「俵屋宗達 琳派の祖の真実」(平凡社新書:2010年4月15日初版)を読んだことがあります。その後、特別内覧会という進行でした。あまりにも幅が広く、数多くの作品が展示してある今回の「夏目漱石の美術展」、夏目漱石は奥が深い、思っていた以上に圧倒されました。考えてみればこのような展覧会ができるのは、我が国では東京藝術大学をおいて他にはありません。幕末から明治にかけての、多くの美術関連の資料が残されていますから、当然のことかも知れません。


夏目漱石、けっこう読んでいるつもりですが、ふと考えてみると、手元に単行本が一冊もありません。漱石の作品を読んだのは、「現代日本文学館」全43巻のうち、「夏目漱石④、⑤、⑥」(昭和41年)の三冊か、他には、全集本に入っていてもついつい読みやすいので文庫本ばかり必要に応じて買い足して読みました。数えてはいませんが、それらの文庫本はたぶん数十冊はあるでしょう。漱石の本で最近読んだ本は、もう7~8年前になりますが、なんかの調べもので「三四郎」を読み直したこと、そして、水森見苗の「続明暗」を読んだ関係で新潮文庫「明暗(上・下)」を読み直したことがありましたが、それ以降、まったく読んでいません。

水村美苗の「続明暗」を読んだ!
夏目漱石の「明暗」を再読した!


それはいいとして、実は、時間ができたらゆっくりと“晴耕雨読”でと思って、岩波書店版の「漱石文学作品集(全16巻)」(1990年)を購入してあるのですが、箱入りで届いたときに一度だけしか開けたことがなく、押し入れの奥深くに入ったままです。いま、その付録としての大野淳一編集の「漱石文学地図」(A0版:1990年11月19日第1刷発行)を広げて見ているところです。これがなかなかの優れもの、漱石ファン必携です。明治44年5月「実用東京全図」の上に漱石関連の場所をプロットしてあり、周りには本になった漱石の著作が囲んでいます。そうそう、岩波書店の旧社屋正面入口の社名は夏目漱石の筆によるもので、岩波のロゴとして今でも使われているので、目にした方も多いでしょう。


以前から建築関連分野で言われていたことですが、夏目漱石は「建築家を志していた」ということ。実はこの辺りについて、今回の展覧会ではまったく触れられていないのが、僕としては大いに不満なところです。「処女作追懐談 」に、以下のようにあります。漱石15、6歳の頃のこと、「何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送って居るうちに、ふと建築のことに思い当った。建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよいよそれにしようと決めた」。しかし、漱石は自説を撤回して、実際には文学者になったわけですが・・・。


一方、よく引用される漱石の講演、明治44年8月に和歌山で行った「現代日本の開化 」では、次のように結んでいます。「日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。」として、「ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と。あまりにも「ペシミスティック」です。


それにしても今回の「夏目漱石の美術世界」展、漱石と美術の全貌がよく分かるように、その構成がよく考えられています。夏目金之助が「英語・英文学研究」のために英国に向けて出発したのは明治33年(1900)のことです。漱石は英文学研究と英国美術研究が不可分のものと考えて、精力的に美術館を訪れていたようです。当時隆盛していた「ラファエル前派」や「世紀末芸術」への理解、ターナーやコンスタブル、ブラングィンといった新しい時代を切り開いていった画家たちを注視します。漱石のロンドン時代については、多くの人たちが書いていますが、建築関連では東秀紀の書いた「漱石の倫敦、ハワードのロンドン」(中公新書:1991年9月25日発行)がベストセラーになったりもしました。


「子供の頃、うちに五、六十幅の絵がありそれを眺めるのが好きだった」と、回想している通り、漱石は生活の中で書画に親しみながら育ったという。漱石は、仏教美術や王朝絵巻などにはまったく関心を示していません。漱石が関心を示したのは、雪舟以降の水墨画や、狩野派や円山派など江戸絵画の全般にわたってでした。「虞美人草」の最後の場面に登場する酒井抱一の描いた屏風は、記述が詳細であるにもかかわらず、実作品が見当たらない。そこで今回の展覧会では、漱石の記述を頼りに、荒井経による「虞美人草図屏風」の再現制作を試みています。「逆に立てたのは二枚折の銀屏である」。おそらく架空の存在である抱一画の屏風、推定試作では下半分に雛罌粟が描かれています。これが今回の“目玉”と言ってよいでしょう。


「文学作品と美術」では、「草枕」「三四郎」「それから」「門」の4作品を取り上げた、その中に展開している美術世界を具体的な作品によって追体験していく、という試みです。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」の冒頭が有名な「草枕」、主人公の画工が温泉を訪ねる旅中に体験する出来事を通じて、理想とする芸術のあり方について自問自答します。ヒロインの志保田のお那美さんが馬に乗って嫁入りする情景が峠の茶屋の婆さんによって語られるが、そのイメージを彷彿とさせるのが平福百穂の「田舎嫁入」です。その峠の婆さんを見て、画工は「高砂の媼と、蘆雪の山姥」とを想起します。


「三四郎」のなかで、「一寸御覧なさい」と美禰子が三四郎に見せたのが人魚、マーメイドの図です。また、美禰子をモデルにして「森の女」を描く原口という画家が出てきますが、今回、原口画伯作「森の女」を、佐藤央育が推定試作として描いています。これも目玉の一つです。先日京都で、樂美術館へ行く途中見つけた建物の名は「西陣電話局」、設計者は逓信省の技師・岩元禄(1893-1922)です。禄の兄、一高のドイツ語教師である岩元禎は、夏目漱石の小説「三四郎」に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生のモデルだと言われています。


「それから」には、高等遊民という生き方を選んだ長井代助が、友人平岡に愛する三千代を譲りますが、それから3年、代助は三千代との愛を貫こうと決意します。その中で、代助は本棚から画帖を出して、「ブランギン」の港を背景に裸の労働者が4、5人いる図を見ています。それは「近代の貿易」という作品ですが、今回出ているのは「蹄鉄工」です。また青木という人が海の底に立っている背の高い女を描いた作品、言うまでもなく青木繁の「わだつみのいろこの宮」も出てきます。


「門」では、横町の奥の崖下の暗い家で世間に背を向けてひっそりと生きる宗助と御米。宗助の家では、かつて抱一の屏風を、毎年の正月には玄関に飾っていたという。父の死後、叔父の家に残されていた唯一の書画が、二枚折りの屏風、酒井抱一の「月に秋草図屏風」です。「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いた所へ、野路や空月の中なる女郎花、(抱一の弟子の)其一と題してある」。また床の間に飾られていた岸駒の「虎図」や、後に宗助は崖の上に住む金持ちの坂井の屋敷に屏風を見に行くことになりますが、ここでは渡辺崋山の「驟雨図扇面」が出ています。


「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」という、漱石の名言です。同時代の美術としては、岸田劉生、萬鉄五郎、高村光太郎、青木繁、等々。また今回の一番大きな作品、平田松堂の「木々の秋」、漱石は「大きな松に蔦が絡んで、熊笹の沢山茂った、美しい感じのする所が平田松堂君の地面であった」と評したという。他に、松岡映丘、今村紫紅、寺崎広業、横山大観、安田靫彦、和田英作、坂本繁二郎、小杉未醒、等々の画家が取り上げられています。明治、大正期の、そうそうたる画家たちです。


親交のあった画家たちとしては、浅井忠、橋本五葉、中村不折、津田青楓、等々が取り上げられています。特に橋本五葉や中村不折は、漱石の著作の装幀や挿画に数多くかかわっていました。圧巻は津田青楓の「夏目漱石像」や「漱石先生像」など、筆でさらっと描いたものは、味があって面白いと思いました。最後に津田青楓が漱石の娘を描いた「少女(夏目愛子像)」です。愛子は漱石の四女。愛子26歳の肖像画です。なにが面白いって、漱石はこう言ってます。「津田君は色彩の感じの豊富な人です。パレットを見ると其人の画の色が分かるといひますが、津田君は臨機応変に色々な取り合わせをして、それぞれ趣のある色彩を出すようです」と褒める一方で、自分の好かない色を平気でごてごてと使うので、「其所になると私は辟易します」と容赦なく言い放ちます。この作品は漱石の没後の作品ですが、青楓の特徴がよく表れています。


漱石が本格的に水彩画や南画を試み始めるのは、明治44年、フランス帰りの若き津田青楓と付き合うようになってからだという。青楓宛の手紙に、漱石は以下のように書いています。「私は生涯に一枚でいいから人が見てありがたい心持ちのする絵を描いてみたい山水でも動物でも花鳥でもかまわないただ崇高でありがたい気持ちのする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきたくありません・・・」(大正2年12月8日)と。今回、漱石の自筆の作品として、通期で17作品が展示されています。なぜかこれらはすべて「岩波書店所蔵」のものです。


展覧会の構成は、以下の通りです。


序 章 「吾輩」が見た漱石と美術

第1章 漱石文学と西洋美術

第2章 漱石文学と古美術

第3章 文学作品と美術

     「草枕」「三四郎」「それから」「門」

第4章 漱石と同時代美術

第5章 親交の画家たち

第6章 漱石自筆の作品

第7章 装幀と挿画



序 章 「吾輩」が見た漱石と美術




第1章 漱石文学と西洋美術



第2章 漱石文学と古美術




第3章 文学作品と美術

     「草枕」「三四郎」「それから」「門」







第4章 漱石と同時代美術



第5章 親交の画家たち



第6章 漱石自筆の作品



第7章 装幀と挿画



注:会場内の画像は主催者の許可を得て撮影したものです。


「夏目漱石の美術世界」

近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867-1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。当時流行したアール·ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。


「東京藝術大学大学美術館」ホームページ


巡回展:静岡県立美術館

2013年7月13日(土)~8月25日(日)

http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/


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「夏目漱石の美術世界展」

図録

編集:

東京藝術大学大学美術館

東京新聞

発行:

東京新聞

NHKプロモーション







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是枝裕和監督の「誰も知らない」を観た!

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山田洋次監督が選んだ日本の名作100本家族編、実は去年の7月31日に放映されたものを録画してあったので、是枝裕和監督の「誰も知らない」を観ることができました。この作品、撮影時1213歳だった明役の柳樂優弥は、カンヌ映画祭で日本人初、史上最年少の最優秀男優賞を受賞したことは知っていました。また、つい先日、第66回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門で、是枝裕和監督の「そして父になる」が審査員賞を獲得したことも・・・。


ある日、東京のマンションの一室に、女性と少年が引っ越してきます。大家には「小学生の息子と二人暮らしです」と挨拶します。しかし実際は、スーツケースに入った子供がいたり荷物に紛れ込むなどして、妹2人と弟1人を加えて5人家族でした。母親は家にいれば子供たちとゲームをしたり、散髪をしてやったり髪を結ってやったりもします。明に「今、好きな人いるの」と打ち明けて、明には「また?」とあきれられます。「お母さん、勝手なんだよ」と明が言うと、「あたしが幸せになっちゃ、いけないの?」と言い返したりします。子供たちは誰も学校に通ったことはなく、12歳の明は昼間は百貨店で働く母親に変わって夕食を作り、妹や弟の面倒を見ています。しかし、平和な家庭は長続きしません。母親が「しばらく留守にします」という書き置きを残して、家を出て行ってしまいます。


母親が置いていった僅かな現金もやがて底をつき、電気や水道も止められてしまいます。兄弟は4人は、コンビニで期限切れの弁当をもらい、公園で汲んできた水で生活します。4人は公園で洗濯をしている時に、不登校の少女紗希と知り合います。紗希は、豪華なマンションに住んでいます。明がお金がないと知ると、ネットで見つけたオジサンとカラオケに行って、お金を手に入れますが、明はさすがにそのお金は受け取れません。大人のいない子供たちの部屋が、ゲームをやる連中のたまり場になっていきます。そんなある日、明はたまたま見ていた少年野球にチームに入れてもらい、同年代の子供たちと束の間の野球を楽しみます。しかしその留守中に悲劇が起きていました。一番下の妹が死んだのです。明は母親に電話しますが、すぐに100円玉もなくなり、結局はつながりません。


死んだ幼い妹を、明は赤いスーツケースに入れます。引っ越してきた時のスーツケースです。紗希と明は、羽田空港近くの荒涼とした空き地にスーツケースを運び、そのまま埋めます。暗闇の空には爆音を轟かせて、飛行機が飛び去ります。二人が埋葬を終える頃、白々と夜が明けて、いつもと変わらない都会の一日が始まります。紗希と明は泥だらけの服のまま、モノレールに乗って家へ帰り着きます。そして場面は一転、見慣れた明の家の近所が映し出されます。コンビニの裏口で、顔見知りの店員から期限切れの弁当を受け取ります。肩を並べて帰って行く子供たち、欠けた妹の代わりに、不登校の少女紗希が加わって4人です。4人の後ろ姿はなぜか平穏で楽しげでもあります。


明と紗希が妹を埋葬するシーンが撮影された場所は、大田区城南島、羽田空港の北側にあります。子供たちがじゃんけん遊びなどで撮影された印象的な「階段」は、中野区と新宿区の境を流れる妙正寺川沿いで、近くには哲学堂公園があります。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:主演の柳楽優弥が史上最年少の14歳という若さで、2004年度カンヌ国際映画祭主演男優賞に輝いた話題作。『ディスタンス』の是枝裕和監督が実際に起きた、母親が父親の違う子供4人を置き去りにするという衝撃的な事件を元に構想から15年、満を持して映像となった。女優初挑戦の、YOU扮する奔放な母親と子役達の自然な演技も秀逸。母の失踪後一人で弟妹達の面倒をみる長男の姿は、家族や社会のあり方を問いかける。

ストーリー:けい子(YOU)は引っ越しの際、子供は12歳の長男の明(柳楽優弥)だけだと嘘をつく。実際子供は4人いて、彼らは全員学校に通ったこともなく、アパートの部屋で母親の帰りを待って暮らしていたが……。


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国立新美術館で「第69回 現展」を観た!

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画家の知人から招待状をいただいたので、国立新美術館で開催されている「第69回 現展」を観に行ってきました。


先日、同じ国立新美術館で「国展」を観ましたが、そちらの知り合いは彫刻家、「現展」の方の知り合いは画家です。「現展」は、平面(絵画・版画・デザイン)、立体・工芸・写真に分かれています。もちろん、圧倒的に絵画が多い、しかも、いわゆる具象あるいは写実よりも、抽象絵画が多いのがわかります。大きな国立新美術館の1階の半分を使って、展示室が23室に分かれているところに、まさに所狭しと作品が展示してあるのには驚きます。


「国展」を観た時も書きましたが、この膨大なしかも無償のエネルギーは一体どこから来るのか?これだけの作品があると、観るだけでもエネルギーを使います。画家や彫刻家などにとって、こうした団体に所属することは、どういう意味があるのか、その辺が僕にはよく分からないところでもあります。小さな画廊での個展では、世間への波及力がないのかも知れません。画家や彫刻家として、発表の機会として有効なのかも知れません。また大きな団体で賞をもらうことは、知名度を上げるために必要なことかも知れませんが、誰もが賞を受けられるものでもありません。


今回、僕の目についた作品の一部を、下に載せておきます。選んだ基準は、あくまでも僕の好みの範囲ですので、他意はありません。結局のところ、あまりに抽象度の高い作品、選ばれていませんでした。


「現展」のホームページを見ると、以下のようにあります。

現代美術家協会「現展」とは権力におもねることなく、平和と自由を愛し、時代と共に歩みながら、互いに個性を尊重し合い、常に研鑽を怠らず、新しい美術の創造をとおして、真の人間精神を探求する、現展は、そういう作家たちの集団です。


「現展」マークの由来
スペイン・バルセロナのカタルニヤ美術館にある「黙示録の仔羊」(タフルのサン・クレメンテ聖堂に飾られていた12世紀ロマネスク様式のフレスコ壁画)が、マークのイメージの元になっています。7つの眼を持つ万能の動物といわれ、作家は多くの観察・表現の眼を備えているといわれるところから、パレットの中に7つの眼を入れて現展のマークとしたものです。

平面部門






立体部門




写真部門




「現展」公式ウェヴサイト


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