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ヴィセンテ・アモリン監督の「善き人」を観た!

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事が終わってしまってからあれこれ悔やんでももはや取り返しはつかない。「後悔先に立たず」という諺を思い起こすような映画です。この映画、実はもう何度も観ました。1930年代のドイツ。ベルリンの大学で文学を教えるジョン・ハルダーは、病身で痴呆気味の母親と、ノイローゼ気味で家事も育児も放棄し一日中ピアノを弾いて過ごす妻、そしてまだ幼い二人の子どもとともに、誠実に慎ましく暮らす善良な男であり、しきりに入党をすすめる妻の父親とは距離をおいて暮らしていました。


ところがある時、総統官邸から呼び出しが届き、検閲委員長から意外な申し出を受けます。それは以前彼が書いた不治の病に冒された妻を夫が安楽死させる内容の小説をヒトラーが気に入り、同様の「人道的な死」をテーマとした論文を書いて欲しいという依頼でした。それは依頼というよりは命令であって、その仕事を引き受けてしまいます。さらに親衛隊少佐から執拗に入党の誘いを受け、やむをえず入党を決意します。


それを機に母親を実家に帰して独り暮らしをさせ、妻ヘレンとは別居し、その後離婚し、数年前から愛人として付き合っていた元教え子のアンと暮らし始めます。そしてジョンは、学部長に昇進します。親友のユダヤ人で精神分析医のモーリスはジョンの昇進を喜んでくれますが、ナチスに入党したことを知ると軽蔑のまなざしでジョンを見つめ、そして去っていきます。アンと再婚したジョンは親衛隊大尉にまで出世を遂げますが、母親は闘病生活に絶望して自殺未遂、そして帰らぬ人となってしまいます。


ある日、パリ駐在のドイツ人書記官がユダヤ人に暗殺されるという事件が起こり、ベルリンで反ユダヤの暴動が発生します。ユダヤ人の家や商店が襲撃され、ユダヤ人は警察に連行されます。身の危険を感じたモーリスは、ジョンにパリ行きの切符と出国許可証の手配を依頼しますが、ジョンは一度はそれを断ります。良心の呵責にさいなまれたジョンは、駅の窓口まで行きますが、親衛隊少佐と鉢合わせして、切符の購入は失敗します。


モーリスを救うためにジョンはなんとかパリ行きの切符を購入し、モーリスの自宅へ行きますがモーリスは不在、「今晩自宅へ来てくれ」と書いた伝言メモをドアの下から差し込みます。その直後、党本部への出頭を命じられたジョンは、妻のアンにモーリスへの切符を手渡します。しかしモーリスは現れず、その消息は途絶えてしまいます。その4年後、ジョンはモーリスの所在を突き止めます。同時にあの日なにがあったのかを知ってしまうのでした。モーリスは現れたが、アンがモーリスをゲシュタボへ引き渡したのでした。


ラストは、ユダヤ人収容所を訪れたジョン、かつての親友の変わり果てた姿を目にして、茫然と立ち尽くす場面で終わります。自分が無意識のうちにどれだけ深い罪を犯していたのかに気づいた瞬間でもあります。が、まさに時すでに遅し、取り返しがつかない状況に陥っていました。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなどで人気を博すヴィゴ・モーテンセン主演のヒューマン・ドラマ。劇作家C・P・テイラーの代表作を基に、ナチス政権下のドイツで葛藤(かっとう)する大学教授の日々を描く。監督は、『Oi ビシクレッタ』のヴィセンテ・アモリン。『ハリー・ポッター』シリーズのジェイソン・アイザックスや、『ヴィーナス』のジョディ・ウィッテカーらが脇を固める。特殊な国内情勢の中で、苦悩し続ける心優しい主人公の姿に、胸が熱くなる。

ストーリー:ヒトラーが独裁政権を築いた1930年代のドイツ。ベルリンの大学で学生を教えるジョン(ヴィゴ・モーテンセン)は、病に伏す母親を助け、自分の家庭では家事をこなす献身的な人間。そんなある日、自分が執筆した小説を読んだヒトラーが彼をナチス党に呼び入れることを決める。しかし、過去に戦争を戦い抜いた友人でユダヤ人のモーリス(ジェイソン・アイザックス)のことが頭をよぎり……。


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「ワタリウム美術館」と「塔の家」!

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「ワタリウム美術館の外壁が大変なことになっている!」と聞いて、観に行ってきました。設計はスイス人建築家のマリオ・ボッタ、日本でただ一つの作品です。シンメトリカルで、横縞のデザインがひときわ目に焼き付きます。その外壁を全面、人の顔写真で埋め尽くされていました。


現在ワタリウムで開催されているのは「JR展 世界はアートで変わっていく」、フランスのアクティヴィスト&写真家のJRが、これまでの仕事、東北の被災地の400人の顔写真などを展示しています。巨大な顔写真が、通行人を見下ろしています。

そしてワタリウムの前にあるのが「東孝光自邸」でもある「塔の家」です。a966年竣工当時からほとんど変わっていません。変わっているのは周りの風景です。高い建物が次々にできて、「塔の家」はますます埋没しているかに見えます。しかし、「都市に住む」ということを、これほど強烈に主張している建築はほかにありません。


「ワタリウム美術館」設計:マリオ・ボッタ



「塔の家(自邸)」設計:東孝光



「ワタリウム美術館」ホームページ


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山種美術館で「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」(前期)を観た!

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山種美術館で「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」(前期)を観てきました。観に行ったのはこの展覧会が始まって直ぐ4月10日のことでした。「6月2日までやってるから、まだいいか」と思っていたのですが、あれよあれよという間に、いつもの通り、ブログに書くのが遅くなってしまいました。家人からは「観たら直ぐ書かなければ、意味ないじゃん」と言われつづけています。


「百花繚乱」、国語辞書には「 いろいろの花が咲き乱れること。 すぐれた業績や人物が一時期に数多く現れること。「―の歌壇」」とあります。サブタイトルは「花言葉・花図鑑」とあります。それにしても今回のポスター(チラシ、小冊子)は良くできています。荒木十畝の「四季花鳥」四幅対を部分的に切り取って、一つの図柄にしたものです。一つ一つにそれぞれ四季の花と鳥が配置されています。そして色合いがよい。この四幅対は「余白なくびっしりと描き込まれた草木花の描写は単純化され、琳派風の装飾性を思考したものである」と、「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」の図録にあります。


荒木十畝(明治5-昭和19年)の略歴を、以下に載せておきます。

長崎に生まれる。旧姓朝長、名は悌二郎。明治25年に上京し、荒木寛畝に入門。師に認められ、翌年その養嗣子となり、十畝を改号。日本美術協会に属する一方、日本青年絵画協会にも参加。31年野村文挙らと日本画会を結成。41年第2回文展より審査員となり、以後官展で重きをなす。昭和12年に帝国芸術院会員となる。また、明治33年寛畝門下によって設立された読画会を運営。伝統的な手堅い画法を基礎に、穏健な写実による花鳥画を得意とした。


本棚を探したら山種美術館の「百花繚乱」をいう小冊子が出てきました。表紙は田能村直入の「百花」という巻物の部分を取っていますが、なんとなく今回の「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」のポスターと色合いや感じが似ています。こちらの「百花繚乱」は、2011年5月に開催された「百花繚乱 桜・牡丹・菊・椿」のものです。どうしても今ごろの季節、「百花繚乱」という言葉を使いたくなるようです。実は上の荒木十畝の略歴は、それに書いてあったものです。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 人と花

第2章 花のユートピア

第3章 四季折々の花



第1章 人と花



第2章 花のユートピア






第3章 四季折々の花





「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」

鳥が謳い、花々が色とりどりに咲き誇る春は、私たちの五感を楽しませてくれます。当館では、この季節にあわせ花の絵画で美術館を満開にする特別展「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」を開催いたします。日本における季節の草花への関心と、それを造形化しようとする意識は古くから知られています。人は花の美しさを讃え、時には自ら育てる喜びをも享受し、時代ごとに様々な花の表現を生み出してきました。四季をめぐる日本の風土の中で、花は季節を示す重要な要素です。とりわけ物語絵や風俗画には、春夏秋冬の草花を愛でる人物や、日々の生活の営みとともに描かれる豊かな花の表現がみられます。一方、花鳥画や草花図には、本来異なる季節に咲く花々を一つの画面や対の画面に同時に描く趣向の作品が少なくありません。四季花鳥図あるいは四季草花図として、日本の自然の風景や植物を織り込みながら、季節の草花や鳥を一つの情景として捉える様式が形成されたのです。こうした花鳥画や草花図の伝統は、中国から伝来し、掛軸から巻子、屏風まで様々なかたちで表現されてきました。屏風に種々の草花を自然景として配した江戸琳派の鈴木其一《四季花鳥図》(前期展示)、池田孤邨《四季草花図》(個人蔵・後期展示)、中国絵画に学んだ花鳥画に装飾性を加味した荒木十畝による大画面の4幅対《四季花鳥》は、ユートピア(楽園)のイメージとも重なります。さらに、明治以降になると、速水御舟《名樹散椿》【重要文化財】や山口蓬春《梅雨晴》のように、近世の花鳥画や草花図に内在する美意識を踏襲しながらも、斬新な構図や色彩など近代的な感覚を取り入れた新たな花の表現が模索されました。本展では、「物語でたどる人と花」、「ユートピアとしての草花と鳥 」、「四季折々の花」という3つの切り口から花を描いた作品を厳選し、花言葉や花の特徴、花を題材とした和歌や画家の言葉とともに、その魅力をご紹介します。満開に咲き誇る花の表現を通じて、美術はもちろんのこと文学や園芸の視点からも作品を読み解きながら絵画をお楽しみいただける展覧会です。


「山種美術館」ホームページ

とんとん・にっき-yama1 「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」

小冊子(図録)

2013(平成25)年4月6日発行

監修:

山下裕二(山種美術館顧問・明治学院大学教授)
編集・執筆:

山種美術館学芸部(高橋美奈子/三戸信恵/塙萌衣)
発行:

山種美術館



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東府中「アキチ」で夕食を!

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府中市美術館でアルバイトをしている姪に、先日「たまには食事をしながら美術談義でも」と話したら、姪から、「東府中の駅までの道に美味しいイタ飯屋さんもあります」、とメールで返事が来ました。姪は美術館から駅に行くこので、そう書いたのでしょう。そのお店は東府中の駅から直ぐなのに・・・。さっそく日にちのを調整し、家人と連れだって行ってきました。姪とは、家人の姉の娘なわけなので、僕よりは近いわけです。


それはそれとして、そもそも“イタメシ”という言い方は、あまり僕は気に入っていません。いつ頃から言うようになったのでしょうか。“イタリアン”だったらまだしも・・・。たまたま僕たちはお昼に中華料理を腹一杯食べてきたので、軽い“イタ飯”を選んでもらいました。飲み物は二人ともアルコールは駄目なので、僕だけ生ビールをガブガブ飲んでしまいました。サラダも、ピッツアも、パスタも、美味しゅうございました。「本日のデザート盛り合わせ」とメニューにあったので聞いてみたところ、ケーキだったので二人に聞いて取り止め、「ジャージー牛乳のバニラアイス」にしました。


イタ飯屋「アキチ」は、駅から美術館方向へ歩いて直ぐ、モスバーガーの隣でした。何度も前を通っているのですが、今までまったく気がつきませんでした。お店の外観は、緑色に塗られていて印象的です。内部はコンクリート打ち放しのまま、奥にバーカウンターがあるだけの、比較的アッサリとした、若者好みでした。大きな映像が映し出されるモニターが正面にあり、たぶんサッカー観戦などでは盛り上がるのではないでしょうか。







「東府中 アキチ」食べログ



国立西洋美術館で「ラファエロ」展を観た!

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ラファエロの最高傑作と言われている作品は、ヴァチカン宮殿の一室「署名の間」に描かれた「アテネの学堂」でしょう。完璧な遠近法に基づいて描かれた巨大な建物に、さまざまな時代の50人以上もの哲学者や科学者が集う空想的な情景が描かれたフレスコ画です。中央で議論するプラトンやアリストテレス、ヘラクレイトスら、古代の賢人が描かれている一方で、ラファエロは古代の賢人に同時代の芸術家たちの姿をまとわせています。プラトンはレオナルド・ダ・ヴィンチに、ヘラクレイトスはミケランジェロモデルに描いています。また画面の右端の若い男はラファエロ自身、つまり自画像だとされています。僕はヴァチカン美術館には2度行きましたが、2度とも「署名の間」をスルーしてしまい、残念でなりません。数年前、玉川学園に「イコン」展を観に行った時に通過した高学年校舎の大ホールに「アテネの学堂」が描かれていて驚いたことがありました。たぶん原寸大だろうと思いますが・・・。


ラファエロ・サンツィオ(1483-1520)は、イタリア北中部のウルビーノに生まれます。父親はウルビーノの著名な宮廷画家、幼い頃から父親から絵画の手ほどきを受けます。しかし、8歳で母を、11歳で父親を亡くします。その前後に、ペルジーノの工房に入ります。ペルジーノはレオナルド・ダ・ヴィンチとともにヴェロッキオ工房で修業した、鮮やかな色彩と優美さが特徴の画家です。その後、17歳で「親方」の資格を得て工房を構えます。

21歳でフィレンツェへ出たラファエロは、すでに巨匠となっていたレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの活動を目の当たりにします。年若いラファエロは、ふたりの様式を学び、独自の芸術を生み出すことになります。


ラファエロの「自画像」は、過去にかなり議論されてきたが、現在では若い頃にラファエロが最初にフィレンツェ滞在を終えた後の1506年に、ウルビーノで描いた自画像とする推定が有力になっています。幾多のラファエロ作とされる肖像画のうちで最も有名な作品で、数え切れないほど模写された作品でもあります。かつてヴァザーリは、「アテネの学堂」の右端に描かれている姿をラファエロの唯一の自画像として挙げ、「鏡に映る自分の姿を捉え・・・慎ましい相貌をしたベレー帽をかぶる好ましく感じのいい魅力的な若者の頭部である」と記述したという。


この25歳頃のものと思われる「自画像」(1508年頃)は、ウフィッツィ美術館の第26室に、ラファエロの聖母子の中でも名高い「ひわの聖母」(1507年)と、最晩年の作「レオX世」(1519年頃)とともにあります。最晩年、といっても、ラファエロは37歳の若さで夭折しますが・・・。僕はウフィッツィ美術館には、ということはフィレンツェには、2度行きました。ラファエロは「聖母の画家」とも呼ばれ、生涯で数10点の聖母子像を残しています。聖母子を描くときだけはモデルを使わず、自分の理想像をイメージして描いたという。その理想像には、幼くして死に別れた母親への思慕が投影されていたのだろうか、と池上英洋は「西洋美術を知りたい」のなかで述べています。


ラファエロは、ブラマンテの勧めでローマへ移住後、すぐに教皇ユリウス2世の信任を得て、ヴァチカン宮殿での仕事を始め、教皇のために多くの作品を制作します。先に述べた「アテネの学堂」を始め、やはり「署名の間」の「聖体の論議(協会の勝利)」、そして「キリストの変容」もあります。ローマ時代には建築家としても活躍します。メディチ家出身の新法王レオ10世に、若いラファエロは前ユリウス2世同様ひいきにされ、同郷の先輩ブラマンテの没後を引き継ぐサン・ピエトロ大聖堂造営の総指揮をレオ10世から拝命します。ラファエロが37歳の生涯を閉じたのは、ローマ都市計画監督官をレオ10世から拝命してわずか2年後の、1520年でした。レオ10世は若くして死んだラファエロの葬儀をし、古代ローマ建築を代表する円形神殿であるパンテオン内に埋葬しました。


国立西洋美術館で「ラファエロ」展を観てきました。観に行ったのは4月16日のこと、あっという間に半月が経ってしまいました。西洋美術館へ行くのも「ベルリン国立美術館展」以来のことです。今回の展覧会の最大の目玉作品は、なんといっても「大公の聖母」(パラティーナ美術館蔵)でしょう。この優美な絵は、18世紀末のトスカーナ大公フェルディナンド3世が亡命先にも持ち歩いたという愛蔵品でした。ラファエロの魅力が凝縮した名画です。


展覧会は4章で構成されています。まずは契約書に最初期の署名が見られる祭壇画の一部「父なる神、聖母マリア」と、父ジョヴァンニ、師のペルジーノらの作品が並びます。そしてフィレンツェ時代、ローマ時代についてそれぞれ肖像画や素描から成長過程をたどります。さらに弟子のジュリオ・ロマーノの油彩画や、ラファエロが下絵を描いたライモンディの版画などが続きます。


Ⅰ.画家への一歩

Ⅱ.フィレンツェのラファエロ―レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとの出会い

Ⅲ.ローマのラファエロ―教皇をとりこにした美

Ⅳ.ラファエロの継承者たち



ジョルジョ・ヴァザーリは「芸術家列伝」のなかで、「彼の後に残されたわれわれにとって、さてなすべきことは、彼がわれわれに手本として遺した良き方法、いやその最良の様式を真似ることである」と述べています。またドイツの文豪ゲーテは「イタリア紀行」のなかで、「彼は自然のごとく常に正しく、われわれが自然において最も理解の不十分な点において、彼は最も徹底的に理解している」と述べています。


ラファエロの魅力とは何か。「ラファエロの表現は、作品の空間配置まで考え、人物の違いをきちんと描き分けて物語を伝える点で最も説得力があり、バランスが取れていた。当時尊重された古代の作品や理論を完全に消化し、新たなものの見方を提案した」と、西洋美術館の渡辺晋輔は説きます。観る者の心を癒す、聖母の優雅さも称賛されてきました。「聖母は優雅さを最も表現できる主題。ラファエロはそれが非常にうまく、後世に“聖母の画家”とも呼ばれるようになるのです」と述べています。

Ⅰ.画家への一歩



Ⅱ.フィレンツェのラファエロ―レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとの出会い




Ⅲ.ローマのラファエロ―教皇をとりこにした美



Ⅳ.ラファエロの継承者たち



「ラファエロ」

ルネサンスを代表する画家ラファエロ・サンツィオ(1483-1520年)。ルネサンス絵画を完成させ、後の画家たちの手本となったラファエロですが、作品の貴重さゆえに展覧会の開催はヨーロッパにおいてもきわめて難しいとされています。本展はヨーロッパ以外では初となる大規模なラファエロ展です。本展にはペルジーノらの影響が色濃く残る修業時代の作品から、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに触発されたフィレンツェにおける作品、そして1508年にローマへ上京し、教皇のもとで数々の大規模プロジェクトに携わった晩年の作品まで、20点以上のラファエロ作品が集結します。特に《大公の聖母》はラファエロの描いた数ある聖母子像の中でも、最も有名なもののひとつです。さらにラファエロの周辺で活動した画家たちや、彼の原画による版画、それを図案化した工芸品等に至るまでを合わせ、計約60点が会場に並びます。以後の美術表現に絶大な影響を与えた画家ラファエロの全貌を知る、絶好の機会となるでしょう。


「国立西洋美術館」ホームページ


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村井康彦の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」を読んだ!

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村井康彦の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」(岩波新書:2013年1月22日第1刷発行、2013年2月15日第3刷発行)を読みました。村井康彦の名前を見て、随分昔に、お茶の本を読んだことを思い出しました。押し入れの奥に入っていたので、やっと探し出しました。「千利休 その生涯と茶湯の意味」(日本放送出版協会:昭和46年3月20日第1刷発行)という本でした。40年以上も前の本です。著者紹介には「京都女子大学文学部教授」とありました。その当時は茶の湯の専門家として、数冊の著作を出していました。


現在、村井の肩書きは、「国際日本文化研究センター名誉教授」となっています。肩書きで判断するというのではなく、その書き方や論の立て方でふと思い出したのは、井上章一のことでした。いま、購入したばかりの井上の著作「伊勢神宮と日本美」(講談社学術文庫:2013年4月10日第1刷発行)の略歴を見てみるとやはり「現在、国際日本文化センター教授」となっていました。数年前にも井上の「伊勢神宮 魅惑の日本建築」(講談社)という本を読みました。どうも井上は伊勢神宮が守備範囲らしい・・・。


さて、村井康彦の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」は、その名の通り、出雲に主眼を置いて記述されています。本の帯にはセンセーショナルに「邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである!」とあります。そしてカバー裏には、以下のようにこの本の「あらすじ」が書かれています。


大和の中心にある三輪山になぜ出雲の神様が祭られているのか? それは出雲が大和に早くから進出し、邪馬台国を創ったのも出雲の人々だったからではないか? ゆかりの地を歩きながら、記紀・出雲風土記・魏志倭人伝等を読み解き、古代世界における出雲の存在と役割にせまる。古代史理解に新たな観点を打ちだす一冊。


10年ほど前に、一時、「古事記」ブームがありました。当時爆発的に売れていた「口語訳 古事記 完全版」(訳・注:三浦佑之:2002年6月30日第1刷)を、僕にしては高価な本でしたが、購入しましたが、自慢にもなりませんが、1ページも読んでいません。ブームに遅れまいと購入したのですが、そのうち時間ができたらゆっくり読もうとは思っていたのですが・・・。そんなわけですから、「古事記」や「日本書紀」はおろか、「魏志倭人伝」などは、もちろんのこと読んではいません。日本誕生の物語は、まったく知らない、というわけです。


岩波書店新書編集部の平田賢一は、この本について以下のように書いています。

この本の始まりは7年前にさかのぼります。雑誌『図書』(2006年9月号)に「宮都の風景」という題でお書きいただいたことがきっかけです。それが出雲について論じながら、古代史全体の流れについて大きな問題提起をするような本になろうとは想像できませんでした。現地踏査される中で注目された四隅突出墓、磐座信仰の場、国司神社などの写真を見せていただきながら、次第にその構想の大きさが分かるようになりました。なお、掲載した写真はすべて先生が撮られたものです。本文と併せてお楽しみください。


古代の出雲世界とはなんだったのか。この本は、写真を含めて、大国主神(大名主命・大物主命)や出雲系の神々を求めて各地に出かけ現地を訪れた旅の軌跡であり、その間に思い描いた古代史の原像である、と村井は述べ、「あとがき」で村井は、出雲理解の三つのデータを挙げています。


一つは、三輪山の存在、山そのものが神体で拝殿はあっても本殿はないこと。その祭神・大物主神が大和にあってなぜ出雲系なのか。二つは、出雲国造が朝廷に出かけて奏上し貢置を申し出た「皇孫の命の近き守神」が三輪山の大物神社葛城の高鴨神社など、出雲系の神々だったこと。三つは、「魏志倭人伝」で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が、「古事記」「日本書紀」にまったく出てこないこと。この三つのデータを重ね合わせると、それは邪馬台国は出雲勢力の立てたクニであった、というものです。


話は奈良盆地の中央部東側にある三輪山から始まります。三輪山の麓にある大神神社は大物主命を祭神とするが、拝殿はあるが、この神社には祭神を祭る建物(本殿)がない。本殿がないのは、三輪山そのものを神体山として崇拝しているからである。したがって大物主神を祭る三輪ヤマハ、全山が禁足地だったこと、しかもこの山中には巨石に神の霊が宿るとする磐坐(いわくら)信仰があり、大物主神は山頂の奥津磐坐とされている。この大国主神が出雲の大国主神と同神だ、というのです。これは始まりの始まりに過ぎませんが、それにしても、まるで推理小説を読み解くような、スリリングな論の展開がその後次から次へと出てきます。


著者紹介
村井康彦(むらい・やすひこ)1930年、山口県に生まれる。1958年、京都大学大学院文学研究科博士課程修了。専攻は、日本古代・中世史。現在、国際日本文化研究センター名誉教授。著書に、『古代国家解体過程の研究』(岩波書店、1965年)、『平安貴族の世界』(徳間書店、1968年)、『千利休』(日本放送出版協会、1971年)、『茶の文化史』(岩波書店、1979年)、『京都史跡見学』(岩波書店、1982年)、『王朝風土記』(角川書店、2000年)、『日本の文化』(岩波書店、2002年)ほか。


目次
はじめに―備中国の惣社にて
序 章 三輪山幻想
第一章 出雲王国論
 1 大国主神の分身たち
 2 磐座祭祀をたどる
 3 『出雲風土記』の地政学
 4 四隅突出墓をたずねて
第二章 邪馬台国の終焉
 1 北九州の古代遺跡を歩く
 2 邪馬台国はどこにあったのか
 3 邪馬台国と大和朝廷
 4 邪馬台国の終焉
 5 「神武東征」説話
第三章 大和王権の確立
 1 「国譲り」とは何だったのか
 2 伊勢神宮の成立
 3 出雲系諸氏族の動向
 4 出雲系葛城氏の動向
 5 大和王権と吉備
第四章 出雲国造―その栄光と挫折
 1 国造の世界
 2 「神賀詞」奏上
 3 熊野神社
 4 出雲国造の本拠
 5 出雲大社はいつ創建されたか
 6 国造家の歴史に翳り
終 章 再び惣社へ
あとがき
年表

索引


とんとん・にっき-murai1 「千利休―その生涯と茶湯の意味」

昭和46年3月20日第1刷発行

著者:村井康彦

発行所:日本放送出版協会

ブリヂストン美術館で「日本人が描くParis 、パリ、巴里―1900-1945」を観た!

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ブリヂストン美術館で「日本人が描くParis 、パリ、巴里―1900-1945」を観てきました。佐伯祐三の作品が、6点も出されていて圧巻でした。チラシになっている佐伯の作品は「テラスの広告」(1927年)、石橋財団ブリヂストン美術館蔵のものですが、大阪市立近代美術館建設準備室蔵の「レストラン(オテル・ヂュ・マルシュ)」(1927年)も、同じ場所を描いている作品のようです。パリと言えばやはり藤田嗣治です。やはり6点が出されていました。出された作品数だけが判断の基準ではないのですが、次いで坂本繁二郎の作品が5点、浅井忠の作品が4点出されていました。


黒田清輝の「ブレハの少女」(1891年)は、今回出された中では最も古い1800年代の作品です。少女の姿が薄幸そうで、しかも貧困にあえいでいるように見え、以前から気になっていた作品です。ブリヂストン美術館のコレクションの解説があったので、以下に載せておきます。


1891年9月、黒田清輝は友人の画家・久米桂一郎と、パリを発ってブルターニュ半島のサン=マロ湾に浮かぶブレハ島に遊びました。この島の変化に富み風光明媚な景色やケルト系住民の風俗を喜び、同じように訪れた画家たちとの交流も楽しんだ黒田は、約1カ月滞在します。その間に海岸風景に加え、現地の子どもをモデルに雇って人物画を描きました。少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだような眼差し、手に持つ布きれの黄色、左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた碗。画面を覆う筆遣いも荒々しく、穏健な画風を示す黒田には珍しく、激しい表現がちりばめられた作品です。旅先での自由な空気が、彼の内面の熱情を引き出したのでしょう。


パリでも親しかったという浅井忠と和田英作の、同じ女性をモデルに描いた作品が出されていました。タイトルも同じ「読書」で、浅井は正面から、和田は左斜めから描いていました。同様の例として、大正9年9月、中村彝と鶴田吾郎が盲目のロシア人エロシェンコをモデルに競作しました。第一次世界大戦中、パリの日本人画家は激減したなかでフランスに留まった数少ない一人が藤田嗣治でした。大戦末期の1917年前後、パリの郊外や都市風景を哀愁に満ちた色調で描き始め、やがて1920年代に入ると、乳白色の下地に日本画の面相筆で裸婦や静物画を描く様式を確立させ、パリ画壇の寵児となりました。


小出楢重の「帽子をかぶった自画像」(1924年)は、帽子を被り背広を着て、パレットを右手に絵筆を左手にカンヴァスに向かっている作品でブリヂストン美術館で常時展示してありましたが、「パリ・ソンムラールの宿にて」(1922年)は、三重県立美術館蔵のもので、5ヶ月ほどのパリ滞在時に描いたもので、暗い色調が印象的でした。


児島善三郎は、1924年から1928年にかけてフランスに留学し、アンドレ・ドランのフォービズムによる量感あふれる裸婦の表現から多くを学んだとういう。「立つ」(1928年)はその成果が現れています。伊原宇三郎は1925年農商務省の海外実習練習生として渡仏します。ピカソら同世代の画家たちに共感をよせる一方、ルーヴル美術館に通いながら、ドミニク・アングルの「グランドオダリスク」を模写しました。こうしてモニュメンタルで古典の静かな香気が漂う画風が確立され、「椅子によせる」はその成果といえます。


展覧会の構成は、以下の通りです。



第1章 パリ万博から第一次世界大戦まで 1900-1914

第2章 黄金の1920年代と両大戦間期 1918-1945


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第1章 パリ万博から第一次世界大戦まで 1900-1914




第2章 黄金の1920年代と両大戦間期 1918-1945






「Paris、パリ、巴里―日本人が描く 1900-1945」

明治維新以降、西洋文化を学んでそれを乗り越えることが、日本のひとつの目標となりました。日本人洋画家にとって、芸術の都パリは、19世紀末から聖地となります。いつか訪れてその空気を吸い、泰西名画や最新の美術に直に触れてみたい、と強く憧れる対象となりました。1900年以降、パリを訪れる洋画家たちが増えていきました。聖地パリで、あるものは衝撃を受け、あるものは西洋美術を必死に学びとろうとし、またあるものは、西洋文化の真っ只中で日本人のアイデンティティーを確立しようと試みます。ブリヂストン美術館と石橋美術館のコレクションから、浅井忠、坂本繁二郎、藤田嗣治、佐伯祐三、岡鹿之助たちがパリで描いた作品約35点を選び出し、さらに他館から約5点の関連作品を加えて、日本人洋画家にとってのパリの意味を考えてみます。20世紀前半の、生き生きとした異文化交流のありさまをお楽しみください。


「ブリヂストン美術館」ホームページ


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「なんじゃもんじゃの木」が悲惨なことに!

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5月の連休、どこへ行っても混雑しているので、近場でどこかいいところがないかと思っていたら、6年前の連休に「なんじゃもんじゃの木」を見に神宮外苑絵画館前に行ったことを思い出しました。あの素晴らしい「なんじゃもんじゃ」の木、別名「ひとつばたご」、こちらの方が正式名称なのかもしれませんが、とにかく見に行ってきました。


行ってみてビックリ、あの凛々しく勇壮ななんじゃもんじゃの木の花がないじゃないですか。これには驚きました。6年前に画像と比べてください。あまりにも悲惨な状況です。いつからこのような状態になったのか、その原因はなんなのか、詳しいことは判りませんが、それにしても酷い(非道い)ことになっていました。





「なんじゃもんじゃ-明治神宮」


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聖徳記念絵画館で「展示壁画」を観た!

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神宮外苑にある「聖徳記念絵画館」、その中に初めて入りました。神宮外苑の絵画館とい言えば、「イチョウ並木」は毎年のように秋になりイチョウが色付いた頃に落ち葉を踏みしめながら観に行っています。その突き当たりにあるのが、中央部にドームをのせた左右対称のクラシカルな建物で印象的な「聖徳記念絵画館」です。まさに外苑のシンボルです。正直言って、今まで「明治天皇」ということで、絵画館へ行くのをずっと躊躇していました。


行ってみようと思ったきっかけは、昨年江戸博で開催された「維新の洋画家 川村清雄展」で、日清戦争で鹵獲(ろかく)した清国の旗や兵装、調度品類を描いた「振天府」の下絵を観てからです。その「振天府」が聖徳記念絵画館に展示してあることを知って、是非とも観てみたいと思いました。思っていた以上に収穫がありました。なにしろ当時の一流画家たちが、日本画40枚、洋画40枚、計80枚の絵で腕を競っていました。当然、史実に基づいた歴史的な場面が描かれており、当時の歴史を知る上でも、貴重な機会となりました。歴史画というと暗い過去の陰鬱なイメージがありましたが、そうではなく、展示室も、明るく、そして観やすく、気持ちのいい空間でした。



重要文化財「聖徳記念絵画館」
 所在地:新宿区霞ヶ丘町1番1号

 設計者:明治神宮造営局

 竣功年:大正15年(1926)

明治神宮外苑の中心的建造物、聖徳記念絵画館は、明治天皇、昭憲皇太后の御事跡を永く後世に伝える壁画を展示することを目的に建設されました。設計は一般公募され、一等当選の小林正紹氏の図案に基づき明治神宮造営局(佐野利器、小林政一)が修正を加え完成したものです。重厚な外壁は岡山県万成産の花崗岩張り、中央頂部に象徴的なドームをのせ、左右対称両翼部の2階が和・洋大壁画(縦3m、横2.7m)80枚の展示室となっています。正面階段よりアーチ型の玄関を入るとドーム天井の大広間には、国産大理石のモザイク床、石膏レリーフ装飾などが配され、我が国鉄筋コンクリート造の初期建造物として意匠的、技術的にも建築史上大変貴重な建築物であります。平成23年6月20日付で明治神宮の宝物殿とともに国の重要文化財に指定されました。



聖徳記念絵画館 壁画

明治天皇ご在位46年間の明治時代は、あらゆる分野において近代化への大きな飛躍を成し遂げ、様々な文化が花開きました。明治神宮外苑のシンボルともいえる聖徳記念絵画館には、明治天皇、昭憲皇太后お二方の御事跡を描いた壁画80枚が、延べ250mの壁面に展示されています。展示されている壁画は、この輝かしい時代の勇姿と歴史的光景を、史実に基づいた厳密な考証の上で描かれており、それぞれの壁画にゆかりの深い団体や個人から奉納されました。当時の一流画家による優れた芸術作品であるとともに、政治・文化・風俗の貴重な歴史資料としても高く評価されています。







川村清雄「振天府」下絵

若干の略筆はあるものの、完成作にほぼ忠実な下絵である。画面手前中央を占めるのは日清戦争で鹵獲(ろかく)した清国の旗や兵装、調度品類。中景冗談はそれら収蔵品の搬入の様子、その右手に見えるのは軍旗を掲げて進軍する日本軍であり、最上段右隅には白馬を駆る童子と白鳩とが描かれている。(「維新の洋画家 川村清雄」展、図録より)



「樺太国境画定標石」

時:明治39年6月~40年10月

所:樺太日露境界

明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を画定しました。この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。・・・また、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界線を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されています。



「聖徳記念絵画館」ホームページ


「明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集」

とんとん・にっき-kaiga 重要文化財「聖徳記念絵画館」
リーフレット

池上英洋編著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を読んだ!

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池上英洋編著「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス『万能人』の生涯」(新人物往来社:2012年4月20日第1刷発行)を読みました。呼んだというよりも、1年前に購入してから目につくところにおいて、時々開いては見たり読んだり、というのが本当のところです。本の帯には「芸術家?科学者?彼はいったい何者なのか。 あらゆる分野に足跡を残した巨人の真の姿を追う」とあります。この本、レオナルド・ダ・ヴィンチに関して、目次を見れば分かる通り、一通り過不足なく書かれていて、画像も多く、非常に判りやすく纏められています。


ちょうどいま、「Pen」(5月15日号)という雑誌で「ルネサンスとは何か?」という特集を組んでいて、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3大巨匠を徹底解剖、しています。ジムでバイクをこぎながら、パラパラと観て、面倒なので本屋で購入してしました。けっこう細かく、わかりやすく書いてあります。もちろんこの手の雑誌は写真が綺麗で、沢山載っているので、ほんとうにわかりやすい。


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レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作といえば、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂の修道院食堂に描かれた「最後の晩餐」と、ルーヴル美術館にあるダ・ヴィンチが終生手放さなかったという「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」でしょう。僕は「最後の晩餐」は2度、「モナ・リザ」は1度、観ることができました。ウフィッツイ美術館では、ヴェロッキオ工房で修業時代に一部を描いた「キリストの洗礼」や、「風景」の素描、そして有名な初期の作品「受胎告知」や、未完成のままに残された「東方三博士の礼拝」などを、2度観ることができました。


また去年、渋谷の文化村で「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展で、素描ですが「ほつれ髪の女」(1505-08年頃)を観ました。いま、都美術では「レオナルド・ダ・ヴィンチ展 天才の肖像」が開催されています。目玉は「音楽家の肖像」(1485年頃)が観られます。この作品は、池上英洋編著「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス『万能人』の生涯」では、「レオナルド工房作か」、「1490年頃」となっています。



池上英洋編著「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス『万能人』の生涯」の目次は、以下の通りです。


第1章 若き日のレオナルド

キリストの洗礼/受胎告知/レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ち/風景素描/ジネヴラ・デ・ベンチの肖像/工房と仲間たち/聖ヒエロニムス/東方三博士の礼拝/フィレンツェでの不遇/カーネンションの聖母/ブノワの聖母子

第2章 “万能人”への飛躍

岩窟の聖母/軍事技師として/舞台演出家・結婚プランナー/スフォルツァ騎馬像/白貂を抱く貴婦人/ラ・ベル・フェロニエール/建築家として/科学者としての近代性/最後の晩餐/大空への憧れ/ひととなり/アッセの間/リッタの聖母子と音楽家の肖像

第3章 放浪の思索者

イザベッラ・デステ/アンギアーリの戦い/ライヴァルとの戦いと失意/解剖学/ラ・ジョコンダ/自画像/聖アンナと聖母子/天文学と哲学/イタリアの斜陽とフランスでの死/レダ/紡錘棒の聖母子/洗礼者ヨハネ/手稿のゆくえ


下に、この本の「最後の晩餐」と「ラ・ジョコンダ」の見開きページを載せておきます。


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僕の中ではかなりの部分、レオナルド・ダ・ヴィンチは建築家だと思っています。僕が持っているレオナルド・ダ・ヴィンチ建築関連の書籍を紹介しておきます。ちょっと古いですが、学芸図書発行の「建築家レオナルド」ⅠⅡ(1990年11月21日発行)、カルロ・ペドレッティ著、日高健一郎/川辺泰宏・訳が、図版も豊富でよく書かれています。もう一つ、中公新書の長尾重武著「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期の理想都市像」(1994年8月25日発行)が、よく書かれていて僕は気に入っています。


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池上英洋という人、レオナルド・ダ・ヴィンチの研究では定評があるとのことですが、今まで僕の「網」にはなぜか引っかかりませんでした。巻末の著者略歴には、「中世からバロック時代の芸術家の分析を通じて、社会構造や思想背景を明らかにする方法には定評がある」とあります。ダ・ヴィンチ関連の著作が多いようです。僕も何度かイタリアへ行ったことがあるので、「イタリア 24の都市の物語」は興味深く読んでいます。それに誘発された記事も書いたりしています。最近、Takさん関連のオフ会やパーティなどで、何度かその風貌に接してもいます。


とんとん・にっき-ikegami 「イタリア 24の都市の物語」

2010年12月20日初版1刷発行

光文社新書

著者:池上英洋

発行所:株式会社光文社

とんとん・にっき-seiyo2 「西洋美術を知りたい」

2012年3月27日第1刷発行

監修者:池上英洋
発行所:株式会社学研パブリッシング

発売元:株式会社学研マーケティング

定価:580円








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池上英洋の「西洋美術史入門」を読んだ!
池上英洋の「血みどろの西洋史 狂気の1000年」を読んだ!


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モナリザあれこれ

TOTOギャラリー・間で「中村好文展 小屋のおいでよ!」を観た!

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TOTOギャラリー・間で「中村好文展 小屋のおいでよ!」を観てきました。


3階の展示室を入るとすぐに目につくのが記念撮影用の「顔出しパネル」です。そうです、鴨長明です。「元祖・小屋暮らし」といえば、方丈記を書いた鴨長明。「肩の力を抜き、リラックスした気分で展示を愉しんでくださいね・・・」というメッセージを込めた趣向だと中村はいう。


今年の1月半ばに京都国立博物館で「国宝十二天像と密教法会の世界」を観たときに、同時開催として「成立800年記念 方丈記」が開催されていました。鎌倉時代を代表する随筆として知られる「方丈記」は鴨長明が建暦2年3月に執筆したもので、平成24年には成立800年という節目を迎えます。そこに展示されていたのは、現存最古の写本である大幅光寺本「方丈記」(重文)でしたが、展示室の隅に1四方のその大きさを示すテープが貼ってありました。


2010年暮れには、INAXギャラリーで「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷展」という展覧会がありました。まさに「一畳敷」、全国から贈られた古材で組み立てられた畳一畳の書斎で、旅に生きた生涯を振り返ったという。「一畳敷の書斎」が原寸大模型が展示してありました。正確には畳一畳と、その両脇に板敷きがあります。茶室よりも小さい。しかし床の間もあり、明かり取りの窓もあります。実物は、国際基督教大学に現存しているそうです。

「INAX ギャラリー」で、「一畳敷展」、「下平千夏展」、「杉本ひとみ展」を観た!


また、2011年3月に西和夫の「二畳で豊かに住む」(集英社新書:2011年3月22日第1刷発行)という本を読みました。夏目漱石や正岡子規の家というか部屋も出てきますが、建築家ではル・コルビュジエの「小さな家」が出てきます。両親のために1924年に完成したレマン湖畔の住宅で、広さは60㎡、18坪(36畳)、我々からすればだいぶ大きな家ですが、コルビュジエにとってはこれが最少だという。戦後に最小限住居として、「池辺陽の立体最小限住居」や「増沢洵の最小限住居」にも触れられています。中村好文も取り上げていますが、高村光太郎の花巻の奥の山小屋についても1章を設けて触れています。

西和夫の「二畳で豊に住む」を読んだ!


4階の奥で映像が流れていました。中村好文がインタビューに答えていました。子どもの頃、家にあったミシンの下に隠れて遊んだことなど、原体験として語っていました。また、あれだけの大建築家であり大きなプロジェクトを世界中で行っているル・コルビュジエも、小さな小屋を造るんだと感動したことを、熱っぽく語っていました。3階の展示室には「古今東西7つの小屋」があります。中村が「ちっぽけな建築」と呼ぶル・コルビュジエの「休暇小屋」、立原道造の「風信子ハウス」、高村光太郎の花巻の家、堀江謙一のヨット・マーメイド号、等々。中村は、これらの小屋から学び、影響を受け、鼓舞されてきた、と述べています。


今回の展覧会の一番の見どころは言うまでもな、中庭に原寸大で建てられた「Hanem Hut」という独り暮らし用の小屋です。小屋で営まれる質素で豊かな暮らしぶりを頭に思い描きながら、小屋ならではの居心地を肌で感じ、味わってください、と中村は言う。下に中村の手書きの「見どころ」を載せておきます。もちろん、中村の手書きのスケッチや図面も「見どころ」のひとつです。


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3階展示室



中庭展示



4階展示室





中村好文からのメッセージ

32歳で独立してから30数年間、おもに住宅設計と家具デザインの仕事をしてきました。そのあいだに、レストランやカフェを設計したり、小さな美術館や個人記念館などを手がけたりもしましたが、仕事のほとんどは住宅設計でした。「ビッグプロジェクトには見向きもせず、住宅ひとすじに……」と言いたいところですが、実際には「ビッグプロジェクトの方が、ぼくに見向きもしなかった」というのが本当のところです。ただ、このことは私の「望むところ」でした。もともと、建築家としての私の最大の関心事は「人のくらし」と「人のすまい」でしたから、身の丈を越えた大きな仕事を抱えて右往左往することなく、心おきなく住宅の仕事に取り組むことができたのは幸いでした。ところで、私の「人のくらし」と「人のすまい」への関心は、「住宅ってなんだろう?」を考えることでもありました。ある時期からは住宅の原型が「小屋」にあるような気がしはじめて、南仏のル・コルビュジエの休暇小屋や、ロンドン郊外のバーナード・ショーの小屋や、岩手県花巻の高村光太郎の小屋など、古今東西の小屋を世界各地に訪ね歩く旅を繰り返してきました。そして、8年ほど前からは、エネルギー自給自足を目指す私自身の小屋(「Lemm Hut」2005年、長野県)で、自然の恵みと自分自身に向かい合う質素な小屋暮らしを愉しむようになりました。「小屋においでよ!」と題した今回の展覧会は、そんな小屋好きの建築家が敬愛をこめて「小屋」に捧げるオマージュです。会場では、長いあいだ、私の心の中に住み続けてきた古今東西の小屋の名作について語るとともに、これまで私の手がけてきた「小屋」と「小屋的な住宅」を紹介します。そして、中庭にはこの展覧会を象徴する ひとり暮らしのための「究極の小屋」を展示します。この展覧会が、来場者のひとりひとりにとって、小屋を通じて「住宅とはなにか?」を考えるまたとないきっかけになってくれますように……。


中村好文:略歴

1948年千葉県生まれ。72年武蔵野美術大学建築学科卒業。72~74年宍道建築設計事務所勤務の後、都立品川職業訓練所木工科で家具製作を学ぶ。76~80年吉村順三設計事務所勤務。81年レミングハウス設立。99年~日本大学生産工学部建築工学科教授。1987年「三谷さんの家」で第1回 吉岡賞受賞、93年「一連の住宅作品」で第18回 吉田五十八賞「特別賞」受賞。
主な作品に、「三谷さんの家」(長野県、1985年)、「上総の家Ⅰ、Ⅱ」(千葉県、1991年、1992年)、「museum as it is」(千葉県、1994年)、「扇ガ谷の住宅」(神奈川県、1998年)、「ReiI Hut」(栃木県、2001年)、「伊丹十三記念館」(愛媛県、2007年)、「明月谷の家」(神奈川県、2007年)など。
著書に、『住宅巡礼』、『住宅読本』、『意中の建築 上・下巻』(以上新潮社)、『普段着の住宅術』(王国社)、『住宅巡礼・ふたたび』(筑摩書房)、『中村好文 普通の住宅、普通の別荘』(TOTO出版)など。共著に、『吉村順三 住宅作法』(吉村順三と共著、世界文化社)、『普請の顛末』(柏木博と共著、岩波書店)などがある。

建築家・中村好文氏は30年あまり首尾一貫して、クライアントの暮らしに寄り添った、普段着のように居心地のよい住宅をつくってきました。建物に新奇性や作品性を追い求めることをせず、主役は「そこに住む人たちであり、そこで営まれる暮らし」と考える中村氏の設計思想は、初めて家を建てる若い夫婦から独り暮らしの老婦人、サラリーマンから芸術家まで、幅広い世代やジャンルの人々に共感され、絶大な信頼を得ています。

「中村好文展 小屋においでよ!」

本展覧会では、「住まい」に自然体で向き合ってきた中村氏が「住宅の原型」として注目し、子供の頃から魅せられてきた「小屋」を通して、「住宅とはなにか?」を問い直します。会場は大きく3つのパートで構成されます。3階の第1会場では、「鴨長明の方丈」から「ル・コルビュジエの休暇小屋」まで、中村氏があこがれ影響を受けてきた「古今東西の7つの小屋」を紹介します。4階の第2会場では、中村氏がこれまでに設計してきた数ある住宅のなかでも、特に「小屋的な」住宅を選りすぐって紹介します。そして中庭には、原寸大の「ひとり暮らし用」の小屋を展示します。この小屋は、ここ数年来、中村氏が自身の小屋で実験してきたエネルギー自給自足型の小屋を究極のサイズにまで切り詰めたもので、この小屋で人の住まいと暮らしの原型に思いを馳せていただく趣向です。小屋を訪ね、小屋を体験し、小屋から学ぶ……中村好文氏ならではの「遊び心」満載の展覧会をゆっくりお愉しみください。


「TOTOギャラリー・間」ホームページ


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丸の内「JPタワー」を体感する!

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「JPタワー」は、旧東京中央郵便局を一部保存することで、東京駅駅前景観を継承した高層ビルです。なかに商業施設「KITTE」があり、そこでで食事でもしようと立ち寄ったのですが、5月4日、ゴールデンウィークの真っ直中、考えが甘かった、沢山の人で、エスカレーターは長蛇の列、30分待ちで、そんな事態は初めての経験です。なんとか1階のアトリウムのエリアコンサートを見ただけで、すごすごと引き下がりました。以前にも、中央郵便局部分ができたときに、覗いたことがありますが、皆さん、新しいもの好きで、「KITTE」の集客力は、すごいものがありました。という自分もそうですが・・・。


JPタワー:建築概要(ホームページによる)

所在地:東京都千代田区丸の内二丁目7 番2 号

敷地面積:約 11,600 m2

延床面積:約 212,000 m2

階 数:地上38 階、地下4 階、塔屋3 階

高 さ:約 200 m

事業主:日本郵便株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、三菱地所株式会社

設計監理:株式会社三菱地所設計

施 工:大成建設株式会社

コストコンサルティング業務:株式会社NTTファシリティーズ

プロパティマネジメント/リーシング支援業務:三菱地所株式会社

開発手法:都市再生特別地区、特例容積率適用地区







中央郵便局

東京中央郵便局が17日、4年ぶりに丸の内のJR東京駅前に戻りオープンしました。旧局舎を建て替えた地上38階建ての高層ビル「JPタワー」の1階などが新店舗に。旧局舎は歴史的建造物として一部を残すかたちで建て替えました。旧局舎の設計は吉田鉄郎、1931年に完成。2008年に日本郵政がJPタワーの建設構想を発表したが、09年に当時の鳩山邦夫総務相が「価値がなくなったら国家的損失」と発言。計画を見直し、保存部分を拡大しました。



「JPタワー」ホームページ

「KITTE」ホームページ

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東京駅と中央郵便局
中央郵便局、保存部分を倍増 文化財登録へ文化庁と合意
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下北沢「kate coffee(ケイトコーヒー)」で昼食を!

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下北沢「ラプラス」の横の路地、階段を上がるとそこは「kate coffee(ケイトコーヒー)」です。店名はコーヒーとありますが、ランチもあります。ランチはカレーかパスタ。僕はだいたいカレーをいただきます。このお店、いわゆる飲食店や喫茶店の感じがしません。お店の雰囲気は一般家庭の居間のようで、すごくくつろげます。実は僕は数えるほどしか行ってません。家人の行きつけのお店です。


家人の、といっても、そのグループが「らぷらす」でなにか会合があった後、その帰りに立ちよる場所のようなのです。「らぷらす」とは「世田谷区立男女共同参画センター」のことです。いわゆる「世田谷のご婦人」ご愛顧のお店のようです。とはいえ、もちろん、誰でも入れます。アルバムの白黒写真がこのお店の雰囲気を出しています。机のようなものがあったり、ぎっしりと詰まった本棚があったり、まるで自分の家にいるようです。いやいや、僕の家はこんなに広くはありませんが・・・。昨年末に、6周年記念だったとか。


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kate coffee (ケイトコーヒー)

住所 東京都世田谷区北沢2-7-11 コージー下北沢2F
TEL 03-5454-5436
営業時間 10:00~24:00
定休日 月曜日(祝日の場合は営業、翌日火曜日が休み)
お店HP: http://www.katecoffee.jp

4年ぶりの「神田祭」を体感する!

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日本三大祭りの一つ、「神田祭」へ行ってきました。神田祭は2年に一度開催されますが、2011年は東日本大震災の影響で中止されたので、今回の神田祭は4年ぶり、ということになります。昨日はあいにくの雨でしたが、今日は一転、いいお天気で、約100基の神輿が次々と神田神社に入る「神輿宮入」で、神田界隈の街は沢山の人出で最高に盛り上がっていました。


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美術の春「国展87th」を観た!

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ここ数年、わが家では恒例になっている国画会のイベント、美術の春「国展87th」を国立新美術館で観てきました。最終日だったので、午後2時でまさかの終了、扉は固く閉められてしまいました。予想外だったので、彫刻部と絵画部だけしか観られませんでした。ほかに版画部、工芸部、写真部がありますが、プログラムをちゃんと読んでいれば分かることなのに、いやはや残念なことをしました。


「国展」の特徴的なことを挙げれば、出品数が多いこと。このエネルギーはどこから来るのでしょうか。彫刻でいえば、百鬼夜行、ありとあらゆる素材で造られています。形も様々です。テーマもこれといって傾向があるようには見えません。絵画でいえば、なにしろ大きな作品がほとんどです。抽象あり、具象あり、写実あり、コラージュあり、こちらもある種の傾向があるわけではありません。これだけの人が作品にこれだけエネルギーをかけるとは、本当に驚きです。


それはそれとして、こうして作品をピックアップしてみると、ある種の傾向が見て取れるのかもしれません。いや、「国展」そのものの傾向というのではなく、選んだ僕の好みが反映している、というだけのことですが・・・。


彫刻部








絵画部






「国画会」の成りたち:ホームページより
1918年(大正7年)文展から自由な制作と発表の場を求めて、京都の青年日本画家・小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰、入江波光らは在野としての「国画創作協会」をおこし、その通称を「国展」とした。
 創立宣言・・・「各自ハ各自ノ自由ノ創造ヲ生命トス」
 (要旨)   「芸術ノ創作ハ極メテ自由ナラザル可カラズ」
        「本会ハ創作ノ自由ヲ尊重スルヲ以テ第一義トナス」
同協会は1925年(大正14年)土田麦僊と交流のあった梅原龍三郎を招き、さらに川島理一郎を加え第1部を日本画部とし、第2部として洋画部(現絵画部)を設置した(翌1926年が第1回国展に相当)。そして1928年(昭和3年)国画創作協会の解散に伴い、第2部は名称を「国画会」として独立し、通称の「国展」もそのまま継承した。草創期の国画会の果たした在野団体としての役割は、福島繁太郎の影響もあり、毎年のように諸外国の優れた作家たち(マチス、ボナール、ロダン、ブールデル、バーナード・リーチ、ルオー、モネ、ルノワール、シャガール、ピカソ、セザンヌ等々)を特別陳列して世に広く紹介したことが特筆される。この事は内部的に研鑽の資となったのは勿論、対外的にも海外作品に触れることの少なかった当時の美術界には非常に有益な企画でもあった。以後、絵画部に版画部・彫刻部・工芸部・写真部を加え、5部による美術団体として、戦争激化のためやむなく中止した1945年(昭和20年)を除き、毎年春期に都美術館にて「美術の春・国展」を開催し、2005年(平成17年)には79回展に至る。現在、国画会は創立精神である「創作の自由」をモットーに、個性を重視し多様化する表現様式と新しい世代にも呼応する総合美術団体として、広くファンの支持を得ている。なお、会の運営はすべて合議制である。


国立新美術館


国画会

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ニューオータニ美術館で「ジャパン・ビューティー 描かれた日本美人」(後期)を観た!

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ニューオータニ美術館で「ジャパン・ビューティー 描かれた日本美人」(後期)を、前期に引き続き観てきました。 明治、大正、昭和初期に絶大な人気を博した「美人画」、前後期合わせて約80点の名品を観ることができました。そのなかでいささかの感想を述べておきます。


まず、いままで僕の中では拒否反応を示していた竹久夢二の作品、ほかの選ばれた作品の中ではどう考えても異質です。なんなんだろう、これは、と、ちょっと考えてみると、「大正」という不思議な時代背景がありそうです。竹久夢二の「宵待草」、もっとも得意としたと言われている舞妓像、品のいい横顔、モダンな着物を着て、手には扇を持っています。この「宵待草」には、「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も でぬさうな」と、自詩が添えられています。多忠亮の作曲により愛唱され、恋になくやるせなさ、退廃ムードを多分に秘めたその歌詞は庶民の心を揺さぶり、大正という暗い時代のムードに相乗りして大流行したという。


もうひとつは、これもいままで受け付けなかったいわゆる「デロリ」系の作品です。甲斐庄楠音の「汐汲み」、なんじゃ、これは!、と言いたくなるような、せっかく綺麗な女性を描いていながら、顔が奇妙です。わざと汚く描いているようです。なんなんだろう、これは?ウィキペディアの甲斐庄楠音の「画風」の項に、以下のようにありました。


基本的に画題は人物、それも女性が多く、風景画は非常に少ない。土田麦僊に「きたない絵」と言われたのは先述したが、岸田劉生には「デロリとした絵」と評された。それまでの日本画とは異なる暗い色調でグロテスクであり、ややもすればリアルを通り越してモデルの欠点を強調する傾向は、確かに人によって好きずきの分かれる画風である。大正時代末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表であろう。


美人画でデロリか、あまり丁寧に検討している時間がありません。でも僕の中では、これってけっこう悪くない、いやいけるんじゃないかデロリ系、と思うようになりました。


「デロリ」とは何か? それは、濃厚で奇っ怪、卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持ったもの。(「芸術新潮」2000年2月号「『デロリ』の血脈」より)


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 雪月花

第2章 四季の風情

第3章 心の内と外~情念と装い

第4章 技芸と遊び



第1章 雪月花


第2章 四季の風情


第3章 心の内と外~情念と装い


第4章 技芸と遊び


知られざるプライベートコレクション

「ジャパン・ビューティー 描かれた日本美人」

美人、すなわち美しい女性を描くことは、日本美術の長い歴史における重要なテーマの一つです。 このジャンルで活躍した近代の日本画家たちは、技法や形式において伝統を継承しながらも革新的な表現を模索し、多様な人物表現を試みました。明治、大正、昭和初期に絶大な人気を博した「美人画」に注目し、三大巨匠と謳われる上村松園、鏑木清方、伊東深水の作品をはじめとする約80点を、前期・後期に分けて展観します。日本の四季、風俗、歴史、文学に着想を得た女性表現の多様性と、その姿に託された理想美をお楽しみください


「ニューオータニ美術館」ホームページ


とんとん・にっき-ootani1 知られざるプライベートコレクション

ジャパン・ビューティー

描かれた日本美人

図録

展覧会監修:菊屋吉生(山口大学教育学部教授)
編集:小川知子(大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員)

    南由紀子(アートシステム)

発行:アートシステム

2013年3月発行




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酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」を読んだ!

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酒井忠康の「覚書 幕末・明治の美術」(岩波現代文庫:2013年4月16日第1刷発行)を読みました。発売と同時に購入し、ほとんどは4月末までには読み終わっていたのですが、最後の章の5ページほどを読まないで残したままになっていました。5月になって、もうそろそろブログに書いておかないとと思い、その5ページほどを一気に読んだというわけです。


酒井忠康の文章は、図録の解説などでは、ちょくちょく読んでいます。最近では、世田谷美術館で開催された「松本竣介展」や「佐藤忠良展」で、図録に書かれているのを読みました。が、単行本ではほとんど読んでいません。唯一僕が読んだ単行本は、「早世の天才画家 日本近代洋画の十二人」(中公新書:2009年4月25日発行)です。その12人とは、萬鉄五郎、岸田劉生、中村彝、小出楢重、村山槐多、関根正二、前田寛治、佐伯祐三、古賀春江、三岸好太郎、靉光、松本竣介、です。これはもう何度も引用したりしてブログに書いています。また何度か、展覧会で酒井忠康の風貌に接してもいます。僕の地元、世田谷の美術館館長でもあるわけですから・・・。


「覚書 幕末・明治の美術」、本のカバー裏に、以下のようにあります。

本書は日本の近代美術を幕末・明治の揺籃期を中心に,その後の展開を論じた文章で構成。美術作品はもとより、美術家たちの活動をも変転いちじるしい時代や社会の動向に照らして描いている。洋の東西にわたる広い視野のなかに浮かんでくる日本美術の「近代」といえるが、西洋文化=美術と邂逅した美術家の挑戦と挫折であり、さらには胎動とその準備を語ることを通じて、日本美術の「近代」が、いかなる過程を経て確立されていったのかを生き生きと描出。歴史と芸術の相克を探った独特の美術エッセー(覚書)。「岩波現代文庫オリジナル版」として刊行。


三崎海岸町の裏通りから急な石段を登った丘の上に本瑞寺がある。登り切ったところに山門が立ち、そこから三崎の海を一望することができる。城ヶ島が遠くに横たわって、その昔、東京都三浦半島南部を往来した船便のあったことなどをおもいうかべたが、朱色の大橋が城ヶ島へ架かった風景は、すでに、もとのそれではない。


と、まあ、この美文の書き出しを読むと、その後どのような小説の展開になるのか興味津々だが、小説ではありません。酒井忠康が書いた「美術評論家・岩村透」書き出しの部分です。こんな調子の美文が次々と出てくるのには驚きます。そしてシャイなところ。他力本願? 他動的? だいたい自分は躊躇しているというような書き出しで始まります。例えば以下の箇所。


三年ほど前になるだろうか、出不精のわたしは、二人の友人に誘われて福島へ行ったことがある。その日はあいにく雨であったが、雨天決行ときめていたので止すわけにもいかず、鬱々とした気分のまま電車に乗った。亜欧堂田善についての一文を仕立て上げなければならない義理があったからである。・・・まず、実物をみなくては話にならないという、美術とかかわるものの、逃れられない何か宿命のようなものを感じていなかったかといえば、それはまた嘘になる。こんなあんばいでは、先行きもあやしいが、ともかく実見することにしたのである。


この本は日本の近代美術にかかわる酒井の著作『野の扉―描かれた辺境』、『影の町―描かれた近代』、『遠い太鼓―日本近代美術私考』のうちからテーマに添った文章を選び、その他はここ10数年のあいだに執筆した文章から選んで編集したもので、その意味ではすべて既出の文章です。文庫化にあたり、全編にその後の新知見などを取り入れて大幅に加筆されたものです。全19篇中、9篇が単行本未収のものです。


Ⅰでは、日本近代洋画の揺籃期である18世紀末から始まる西洋美術との邂逅とその受容を近世の美術家に即して描いています。Ⅱでは、幕末から明治初期にかけて、本格的に西洋画の開拓に取り組んだ近代日本洋画のパイオニアを通して、その達成と挫折を描いています。Ⅲでは、幕末から明治にかけて来日した西洋の美術家の活動と、日本美術に与えた影響が検証されます。Ⅳでは、江戸以来の伝統を守った浮世絵師の活動がまとめられます。そして最初の美術批評家岩村透の登場により、美術と批評の関係が描かれます。


酒井忠康:略歴
1941年、北海道生まれ。慶應義塾大学文学部卒。1964年、神奈川県立近代美術館に勤務。同館館長を経て、現在、世田谷美術館館長。『海の鎖――描かれた維新』『開化の浮世絵師清親』などで注目され(第一回サントリー学芸賞)、その後、現代美術の評論でも活躍。著書に日本の近代美術に関する『野の扉』『影の町』『遠い太鼓』(以上,小沢書店)や『早世の天才画家』(中公新書)などがあり、随筆『鞄に入れた本の話』(みすず書房)や世界の現代彫刻を論じた『彫刻家への手紙』『彫刻家との対話』(以上、未知谷)など多数がある。


目次

Ⅰ 先駆者たちの視界
  西から東へ,あるいは東のなかの西
  未知の地平――司馬江漢
  亜欧堂田善ノート
  日本の銅版画史
  シーボルトの画家・川原慶賀
Ⅱ 明治美術の一隅
  福澤諭吉ノート
  川上冬崖の死
  高橋由一
  文人画との訣別――岡倉天心
  安藤仲太郎の《日本の寺の内部》
Ⅲ 外国人の眼
  歴史の風景
  知られざる画家 セオドア・ウオレス
  再考のジョルジュ・ビゴー
  外国人の眼――鹿鳴館の時代
Ⅳ 時代の明暗
  横浜絵,あるいは港町慕情
  写真術の招来
  中村不折と挿絵
  美術批評家・岩村透
  自然―変幻の秘密
あとがき
初出一覧


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酒井忠康の「早世の天才画家 日本近代洋画の12人」を読んだ!




「第7回大江健三郎賞・公開対談」を聞く!

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文京区音羽の講談社社内講堂で開催された「第7回大江健三郎賞・大江健三郎と本谷有希子の公開対談」を聞いてきました。メモしたものを、以下に書き留めておきます。


大江:本谷有希子の「嵐のピクニック」は、短編小説として、現代の日本文学の中で、しかも、一つ一つの小説の文章の作り方が違っていて、いろんな文体がよく考えられている。この作家の超えている力量が感じられる。女性の作家の作品が現れて、この賞を受けられた。全体は13篇からなっています。最初の短編、「アウトサイド」、無駄な言葉がなくて、文章もしっかり書かれている。少女の話だが、ほんとうにうまく書かれている小説だと思った。本谷さんに、短編の一部を読んでいただく。

本谷:「群像」から話があって、短編は初めての試みで、どうせ書くならできるだけ多くということで、13本書いた。「アウトサイド」は、先生に逆らう話です。先生はすごく優しいが、ある時、手首が下がってしまう少女の手の下に鉛筆を立ててレッスンをすることになる。―読む―大人の持っている狂気に触れたと思う瞬間で、少女は「この女の人は大人なんだ」と人生を理解します。

大江:この先生には何らかの事情のあるお母さんがいる。ピアノを習いに来ているのはごく普通の女の子。長い間ピアノが進展しないのは、手首が下がってしまうから。鉛筆が立てられてピアノを弾き始めると、瞬く間に200曲ものレパートリーが増える。先生はご主人とうまくいかない、家庭は崩壊して離婚します。危機感、クライシス。立派なグランドピアノにお母さんを閉じ込めて、その上に重しとしてピアノの教則本を載せてある。先生がいなくなってから、少女は17歳で子供を産み、親から追い出された。私も子どもをお腹に閉じ込めている。人は何らかの形で閉じ込められている。一人の少女がどのような人生を送っていくのか。いい短編です。これは10ページだが、次にもうちょっと長い「哀しみのウェイトトレーニー」を。

本谷:これは少し音楽が聞こえるような短編です。夫が自分に無関心の主婦。夫がテレビでボクシングを見ている。次の日からボディビルダーを目指してウェイトトレーニングを始めます。プロティンを飲んで、体も変わってゆくが、夫だけは彼女の変化に気がつかない。夫がトレーニングジムに来てガラスをトントンと叩く。―読む―夫に無関心でいられる主婦じゃないね。

大江:ビギニ、トレーニングするための小さいビギニ姿のまま、家を出て行く。駅二つ歩いて行ったらどうなるのか。ジムでポーズをつくる妻を見て、夫は哀しみを表している。小柄な夫と筋肉質の大柄な私が、一緒に帰って行く。

本谷:(質問)エンターテインメントをどう思いますか。この本を読んで、個性と多様性があると言いましたが、大江さんにとって、小説のエンターテインメントはどうでしょう。

大江:(答)ヨーロッパの小説に出てくるようなものを読むのは好きです。自分はエンターテインメントとして書いたことはない。書こうと思ったこともない。

本谷:書けば書くほどエンターテインメントから離れて行く。心掛けていることは、高校生でも、誰が読んでも分かるようにと。

大江:一行だけ、分からないところがある。「私は思春期で、自分のために溢れ出てくるあらゆる想像を爆発させないようにするだけで精一杯」という箇所。

本谷:先生がどういう事情で家にピアノを入れてピアノを教えているのだろう、と子供心に思った。

大江:面白い短編をつくろうとして書いているのか。

本谷:頭で考えないで、身体的に、無意識の部分を出して、自分は空っぽになって、即興性で書いていく。

大江:即興性というと「アウトサイド」で、トレーナーに訴えるが、トレーナーは聞かなかったことにする。トレーニングのポーズをする。夫はそれを見ている。「いかにして私がピクニックシートを見るたびに、くすりとしてしまうようになったか」を読んで、笑うようになったか。実に奇想天外は話。試着室がある。小さな部屋です。そこに入った女性客が3時間も入ったまま。店員が声をかけると「あ、いま着替えています」という。「お客さま、どんなサイズを着てますか」。夜7時の閉店時間になっても、翌朝になってもそのまま。「うちにはもうないから他の店へ」。試着室を押して別の洋品店へ行く。坂道の上で手を離してしまう。女の人が手を振って終わります。編集者にこんな小説、言えますか?即興性、そういうところが小説の面白さを表している。小説には即興性が大事です。

本谷:(質問)即興性は、短編にも長編にも必要なのか。

大江:長編小説でも、即興性が大事。フランシス・ベーコンという、画家と同じ名前の哲学者がいる。即興性、偶然性が必要だ。偶然性を彼はアクシデントと言っている。いいものにするためにはアクシデントが必要であると。偶然によって仕事を始める、が、それを書き直していく。最初の構想などないのだと言う。書き直していくと自分がなにを表現したいのかが分かってくる。ベーコンはこう言っている書き直している間に小説ができてくる。その間に批評性が入る。私の長編小説もこうして書いている。創り上げていく、それが文学だと。

本谷:「破綻」するか。私は破綻させるのが好き。劇ではどういう意味の破綻なのか、話し合っていく。

大江:あなたは演出家でしょう。小説は一人で書いている。

本谷:常識にとらわれず、書いていく。ここは伝わらないという所は直していく。

大江:あたたから何度か出た言葉、「反復する」という言葉、繰り返し。一つのイメージを繰り返す。繰り返すことによってものをつくる作業。繰り返しをつくる「ズレ」が文学をつくる大切なこと。意識的に書き直す。意識的にずれる。すっかり新しくなる。

本谷:作家としてこの10年間、自分というのにこだわってきたが、オリジナルなものをどんどん手放そうとしている。

大江:僕は偶然から始めた。田舎の中で、松山の本屋で、フランス文学に出会った。渡辺一夫先生。試験を受けたが、全然分からなかったので、受験生に分かるような問題をつくるのが先生の役目だと言った。東大新聞に「奇妙な仕事」が載りました。大学の近くの喫茶店に行ったら、東大新聞を先生が読んでいた。友人がこれを書いた人はあの人ですと先生に言った。先生の授業には出ていたので、先生は顔を覚えていた。「大江君、きみはこの方向へ行くの?」と行った。私はフランス文学の学者になりたかったが、「はい、私はこの方向に行きます」と、つい答えてしまった。それから50年、自分のことだけを書いている。それが人生の失敗だった(笑)。作家として、自分とは違うものを書いていくということは作家としていいと思う。

本谷:自信を持って進んでいきます。

大江:「個人的な体験」で変わった。あなたはこれからですから、多面的に進む必要がある。ミラン・クンデラ、その人の生き方を見ていると、自分にこだわってきたけど、それを突破する力がある。いまの道を進んでいかれることはいいと思う。

本谷:「万延元年のフットボール」を読んで、登場人物の言葉が印象に残っている。

大江:294ページに書いてある。弟は自殺、兄は生き残っている。作家としてものを書こうとするときに、一人の人間として市民生活は送れないが、小説の中では危険なことでもなんでもできる。「万延元年の・・・」の中で、小説は架空のもので、小説家にはなにもできない、と若い頃に言ったが・・・。小説を書き終わろうとした年代になると、フォークナーとかミラン・クンデラとか、小説なんですが、小説を読む人間として勇気づけられる。

会場からの質問:本谷の文章が一人称は平面的だが、立体的な一人称になっていろことについて。

本谷:「私」を使うことには注意している。感覚的に「音」として書いている。重みを出すようにするときには、三人称で書くこともある。

会場からの質問:「文学の言葉」がキーポイントだと思うが、大切なものとして大江がどこかで言っていた「詩」が大事だと。今までの受賞作の中に詩の受賞作がないのはどういうことか。

大江:オーデンやエリオットなどの詩は好きです。突き刺さってくるものを「詩」と考えている。大江賞は7回やったが、僕にとってはいい詩にまだ出会っていない。結果として「散文」で選んだ。去年の受賞作と今年の受賞作は散文だが、まったく違うもので、両方とも素晴らしい。

会場からの質問:小説とはなんですか。

大江:小説を書かなければ、生きて来れなかった。こういう状態にいます。

本谷:私は、「小説を書かなければ・・・」と思ったこともあったが、今は自分の中で感覚が違ってきた。自分の中でも考え続けている。

会場からの質問:才能があるとは、その特徴は。

大江:「嵐のピクニック」を読んで、本当に才能があると感じた。しかし、考えてみると、僕が入れ込んでいる、たとえばミラン・クンデラのように、才能以上のものを感じる。自分にとって才能が一番大事かというと、才能がないままに書いてきた。才能を超えたところに「小説」があると思う。武満徹、才能がある人だが、才能を超えている。

本谷:私も昔は才能に・・・。書けば書くほど、才能で書いている人はいないんじゃないかと思うようになった。才能はちゃんと考えなくていいんじゃないかと・・・。

会場からの質問:(質問ではないが)25年ほど前に、千葉県の障害者の集会で、大江さんから「あなたは生涯を受け入れて生きていく」といわれて、いままた大江さんにお会いできて大変公営です。ありがとうございました(会場から拍手)。



「大江健三郎賞」とは
1957年「奇妙な仕事」で鮮烈なデビューを飾った作家・大江健三郎は、その旺盛な創作活動によって、常に日本文学をリードしてきました。また、1909年創業の講談社は、出版文化を通じて、世界の人々との相互理解を深めるべく、微力を尽くしてまいりました。大江氏作家活動50周年、講談社創業100周年を記念するにあたり、日本文学に新たな可能性をもたらすとともに、世界文学に向けて大いなる潮流を巻き起こすことを目的に、「大江健三郎賞」は2006年に創設されました。
・選考委員:大江健三郎
・選考基準:大江氏が、可能性、成果をもっとも認めた「文学の言葉」の作品を選

び、受賞作とする。なお、選評の代わりとして、大江氏と受賞作家との

公開対談を行い、「群像」誌上に掲載する。(公募はしておりません。)
・賞     :受賞作品の英語(あるいはフランス語、ドイツ語)への翻訳および世界で

の刊行
・対象作品:毎年1月から12月までの1年間に刊行された作品を選考対象とする。
・主催   :講談社


「文学の言葉」を恢復させる 大江健三郎
いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来る、それが老作家のペシミズムです。しかも、そこに大逆転の時がありうる―世界的にその徴候が見えている―という思いも棄てられません。
そうなれば、若い層から実力のある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?

私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。
私は自分の晩年の仕事をやりながら、T・S・エリオットの「老人の愚行(フオリー)」という言葉に挑発されていました。生きている内に自分の名の文学賞を作るなど、その一種ですが、死んでからではやることができないと思いきって引受けました。私は、いまも注意深く見れば創られている、力にみちた「文学の言葉」を、知的な共通の広場に推し立てたいのです。上質の翻訳にして世界に向けても押し出します。
そして、この国でも海外でも、あの「文学の言葉」に共感した、ということが相互理解のきっかけだった、善き時代をよみがえらせたいとねがいます。

「劇団本谷有希子」Website


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とんとん・にっき-hon3「群像5月号」

第7回大江健三郎賞発表
とんとん・にっき-arashi 「嵐のピクニック」

2012年6月27日第1刷発行

著者:本谷有希子

発行所:講談社


とんとん・にっき-koudan1 第7回大江健三郎賞・公開対談」
招待状

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