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ブリヂストン美術館で「ドビュッシー、音楽と美術」を観た!

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ブリヂストン美術館で「ドビュッシー、音楽と美術 印象派と象徴派のあいだで」を観てきました。行ったのは8月30日、いやはや、ブログに書くのが遅くなってしまいました。僕の苦手の分野は語学と音楽、これはもう決定的、コンプレックスの塊です。まあ、他に得意の分野がある、というわけではないのですが・・・。ブリヂストン美術館は、ほとんど毎回観に行ってます。僕の数少ないアートの「定点観測地点」である、と言っても過言ではありません。毎回、テーマ毎に、観やすく整理されて展示されているので、好きな美術館の一つです。


さて、今回のタイトルは「ドビュッシー、音楽と美術」、ドビュッシーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの音楽家、今年は生誕150年にあたるという。と言われても、すぐにはその曲名が出てきません。そこで「ユーチューブ」をあたってみよう、と思い立ちました。「アラベスク」「ベルガマスク組曲/前奏曲」「月の光」「水の反映」「夢想」「亜麻色の髪の乙女」等々、次々と出てきました。一曲一曲聴いてみました。


ピアノ曲が多かったようで、CMやドラマの挿入曲など、どれもどこかで聴いたことがあるような曲ばかりでした。「ユーチューブ」なので長い曲はないので、他にもドビュッシー音楽の代表曲があるのかもしれません。ドビュッシー初期の代表作「選ばれし乙女」は、イギリスの画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの詩「選ばれし乙女」に共感して作曲されたという。


会場の壁はいつもとが違って濃いブルー一色、タイトルの副題には「印象派と象徴派のあいだで」とあります。ドビュッシーはどちらかというと、象徴派の側だとどこかに書いてありました。また、突然、葛飾北斎が出てきたので驚きました。彼は北斎や歌麿、また仏像を自宅に飾っていたという。ジャポニズム・日本趣味との関係も見え隠れします。また「古代への回帰」がありましたが、つながりが僕にはよく理解できませんでしたが、ドビュッシーの名作「牧神の午後への前奏曲」や「ビリティスの3つの歌」、「デルフィの舞姫」に、古代美術の影響が見られるという。


「章立て」が20章もあり、会場で観ている時は、それはほとんど感じられませんでしたが、ブログを書く段になって始めて、やや細かすぎるように感じました。もちろん、ドビュッシーの音楽に関連した章立てなんでしょうが、肝心のドビュッシーの音楽を知らないのでやむをえません。しかし、いつものことながらブリヂストン美術館の豊富な所蔵品に加えて、今回は特にオルセー美術館やオランジュリー美術館の作品を加えて、約150点の作品で構成されています。他にブリヂストン美術館のコレクション展示が25点もあり、これだけの作品をじっくり観るためには、パース配分が難しいですね。



展覧会の構成は、以下の通りです。

第1章 ドビュッシー、音楽と美術
第2章 《選ばれし乙女》の時代
第3章 美術愛好家との交流-ルロール、ショーソン、フォンテーヌ
第4章 アール・ヌーヴォーとジャポニスム
第5章 古代への回帰
第6章 《ペレアスとメリザンド》
第7章 《聖セバスチャンの殉教》《遊戯》
第8章 美術と文学と音楽の親和性
第9章 霊感源としての自然-ノクターン、海景、風景
第10章 新しい世界



第1章 ドビュッシー、音楽と美術


第2章 《選ばれし乙女》の時代


第3章 美術愛好家との交流-ルロール、ショーソン、フォンテーヌ


第4章 アール・ヌーヴォーとジャポニスム


第5章 古代への回帰

第6章 《ペレアスとメリザンド》

第7章 《聖セバスチャンの殉教》《遊戯》

第8章 美術と文学と音楽の親和性

第9章 霊感源としての自然-ノクターン、海景、風景

第10章 新しい世界

オルセー美術館、オランジュリー美術館共同企画
「ドビュッシー 、音楽と美術 ー印象派と象徴派のあいだで」
クロード・ドビュッシーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスを代表する作曲家。「月の光」や交響詩「海」などの作品で知られています。ドビュッシーが生きた時代には、音楽や美術、文学、舞台芸術が、互いに影響し合い、時に共同で作品をつくり上げましたが、彼は作曲家の中ではその代表的な人物と言えるでしょう。本展はドビュッシーと印象派や象徴派、さらにはジャポニスム等の関係に焦点をあて、19世紀フランス美術の新たな魅力をご紹介するものです。オルセー美術館、オランジュリー美術館、そしてブリヂストン美術館の所蔵作品を中心に、国内外から借用した作品約150点で構成されます。なお、本展はドビュッシーの生誕150年を記念して、オルセー美術館とオランジュリー美術館、ブリヂストン美術館で共同開催いたします。


「ブリヂストン美術館」ホームページ


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「東京駅赤レンガ駅舎:保存と復原のデザイン」(再掲)

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少し前からテレビでさりげなく「10月1日に東京駅がオープンします」というCMが流されていましたが、いよいよ10月1日、朝日新聞朝刊には「東京駅丸の内駅舎保存復元 本日完成」という全面広告が載っていました。実は中曽根政権末期には、赤レンガの駅舎を壊してその跡に超高層のオフィスビルを建てるという計画がありました。「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」の運動」やそれを後押しした世論の力が実って、東京駅は保存されることになり、ついては東京大空襲で焼け落ちた左右の大ドームまでをも復元しようということにまでなりました。


東京駅は辰野金吾が明治36年に設計を開始し大正3年に竣工したものです。東京駅はオランダのアムステルダム駅を手本につくられたという話が建築界に俗説として伝わっていましたが、昨年オランダへ旅行したのですが、実際アムステルダム駅を見てみると東京駅とはまったく違うものでした。アムステルダム駅は、オランダ・ルネサンス様式の典型として1889年(明治22年)にサイパースによりデザインされたもの、一方東京駅は、大正3年(1914年)に辰野金吾の設計でつくられたもので、イギリスのヴィクトリアン様式だと藤森輝信は解説し、「東京駅はアムステルダム駅を手本にしていない」と結論づけています。 


昨年12月3日に、武庫川女子大学東京センター主催の講演会シリーズ「わが国の近代建築の保存と再生」へ行ってきてきした。その日は第3回で「大正の近代建築」というタイトルが付いています。「明治から大正へ:転換期の近代建築」として京都工芸繊維大学教授の石田潤一郎さんの講演の後に、ジェイアール東日本建築設計事務所の田原幸夫さんの講演「東京駅赤レンガ駅舎:保存と復原のデザイン」を聞くことができました。その時の模様をブログに書いたことがあるので、以下に再掲しておきます。


講演会シリーズ第3回「わが国の近代建築の保存と再生 大正の近代建築」その2

「東京駅赤レンガ駅舎:保存と復原のデザイン」

田原幸夫 講演 建築家/ジェイアール東日本建築設計事務所


100年を生きてきた建築を、未来へ手渡すという保存、1日たりとも休めない東京駅、竣工まで1年と迫ってきました。東京駅は煉瓦造ではなく、実質的には鉄骨造です。1911年(明治44年)の鉄骨上棟時の写真から推定すると、2m間隔で鉄骨が入っていることがわかります。今で言うSRC造です。東京駅丸の内駅舎の竣工は1914年(大正3年)です。1945年(昭和20年)の第2次世界大戦で戦災に遭い、破壊され屋根が失われます。重要な駅でもあり、戦災復興として1日でも早く復興を遂げなければならないため、とりあえず4~5年持てばいいとして、今まであったドームが無くなり、多面的な屋根に変えて造られました。それが現在まで使われてきてしまいました。現在復原工事が進行中で、2012年(平成24年)に竣工予定です。ホテルは大きくなり、150室のホテルになります。



日本で最初の駅、新橋停車場が1872年に竣工します。1890年に、三菱へ土地が払い下げられます。東京駅は当初、1908年に東京駅という名称ではなく、中央停車場としてつくられました。新橋停車場は東京駅開業時に新橋駅と改称されます。元々あった新橋停車場は汐留駅に貨物駅として改称されます。1923年に起きた関東大震災で汐留駅は焼失します。1925年に東京・上野間が開通します。1926年には、東京駅から皇居へ向かう行幸通りが完成します。丸の内ビルディング(丸ビル)が完成、東京中央郵便局も完成します。次第にオフィスビル街の様相を整えて、100尺(31m)のスカイラインのビル群となり、その後、東京海上ビルを皮切りに、丸の内地区は現在の高層ビル群となってきました。


今回のプロジェクトの概要は、以下の通り。1987年に国鉄民営化、丸の内駅舎がJR東日本の所有になります。1987年に日本建築学会が「東京駅丸の内本屋の保存に関する要望書」を提出。同時に、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」が発足。1999年に石原都知事が「丸の内駅舎の創建時への復原」を発表。松田JR東日本社長(当時)「丸の内駅舎の復原方針」を発表。2000年に「特定容積率適用区域制度」が創設されます。2001年「東京駅周辺の再生整備に関する検討委員会」、2002年保存復原に関する「専門委員会」が発足します。2003年には国の重要文化財に指定されます。余った容積を周りに使用することで財政的なバックアップが出来、重要文化財を残すことが可能となりました。2007年5月に、丸の内駅舎保存復元工事の起工式が行われました。



プロジェクトの理念は、「東京駅周辺の再生整備に関する検討委員会」の方針を受け継ぎます。「東京駅丸の内駅舎保存復原基本方針」は、方針1として、残存するオリジナルを歳代園尊重し、保存に努める。オリジナルでないもののうち、オリジナルの仕様が判明しているものは、可能な限りオリジナルに復原する。等々。また方針2として、安全性、機能性、メンテナンス性等を考慮し、将来を見据えたスペックを設定する。方針1よりも方針2を優先させる場合には、細心の注意を払う、という条項も付け加えられています。


プロジェクトの構成は3つの部分に分かれます。まず、今ある総武線を除いた部分に地下を作り、地上部建物の免震構造とすること。地下部分は確認申請の対象となる。地上部は 重要文化財であり、保存復原方針に従うが、重要文化財であるため特定行政庁は受け付けないので確認申請の対象外です。また戦災で焼失した屋根を復原すること。


計画の3本柱としては「構造計画」「保存復原計画」「施設計画」が上げられます。「構造計画」、丸の内駅舎を駅・ホテル・ギャラリー等として恒久的に活用するために、必要かつ十分な安全性・利便性を確保し、免震構造を採用すること。重要文化財建物を永続的に保存するため、免震構造にするほか、レンガ壁や床組鉄骨などの既存架構を極力活用し、新たな補強を軽減すること、としています。「保存復原計画」、未来へ継承すべき貴重な歴史的建造物として、現存している建物を可能な限り保存するとともに、創建時の姿へ復原する。


「保存」、1、2階の既存レンガ壁体と鉄骨造及び広場側1、2階の既存外壁を保存。「復原」、広場側、線路側の 3階外壁は構造体増設の上、化粧レンガなどで復原。等々、4項目。「施設計画」、建物の保有する歴史的価値を有効に活かし、創建以来の「駅」「ホテル」としての機能、その後それに加わった「ギャラリー」としての機能を未来へと継承する。多様な現代の要求条件に対応するデザイン及び機能、設備を適切に付加し、歴史的建造物の新たなる活用の姿を実現。線路側空間はコンコースとしての有効活用及び丸の内駅舎の機能確保を優先。ドーム空間の復原・再生により、内部空間を活性化し、機能性を控除させる。等々。



1年前の文化庁のホームページには、東京駅丸の内駅舎の重要文化財指定にあたって、単に文化遺産としての価値ばかりではなく、歴史的建造物の保存活用のあり方に新たな方向性を示すものとして、大きな期待が表明されています。「使い続ける重要文化財」のための検討体制、近代建築の活用では「重要文化財は建築基準法の適用除外」が単純には成立しない。つまり、どれが正解かわからない。従って正しいプロセスで行われているかどうかが問われます。バランスを取りながら、第3者のアドヴァイザーを入れた。「決定は、設計者だけに任せてはいけない」ということ。「オーセンティシティ(真実性・真純性)」について。文化財の価値。「復原とは?」「保存とは?」、オリジナルだけではない、手を加えるためにはどうしたらいいのか。


「保存と復原のデザイン」について。「構造計画―文化財と安全性―」、鉄骨レンガ造の保存、軀体の保存・活用、構造設計のクライテリア、免震化計画、等々。「保存復原計画―本物の価値の継承―」、オリジナル設計図の残存状況、3次元測量調査、オリジナルの材料(レンガ、天然スレート、等)、外装保存計画、復原とオーセンティシティ(例として「ラオコーンの教訓」)、「オーセンティシティ(真実性・真純性)」という概念、「復原」という概念、復原部のモックアップによる検証、等々。「施設計画―使い続けるためのデザイン―」、活用と「手の加え方」、歴史的遺産への「手の加え方」、「活用のデザイン」、「南ドーム、完成イメージ」、「線路側外壁面のデザイン」、等々。


「生き続ける文化遺産」、「ストックを豊かに使い続ける」ということは私の持論。「徹底した土地活用」、そして「博物館にはしないこと」が重要です。実例として「三井物産横浜ビル」「グレシャムパレス・ブダペスト」「旧盛岡銀行」「ファン・エートヴェルド内部」「森五ビル」、等々。「グレシャムパレス」は荒れ果てていたが、フォーシーズンズが入り、きれいになった。東京駅も同じデザイナーがかかわっています。「森五ビル」、使い続けるにはサッシュやタイルなど、ここまで変えてもいいのではないか。「使い続けることの意味」、民間の場合、使いやすくなければ結局は残らない。「旧盛岡銀行」、驚くべきことに、普通に銀行として使われています。東京駅丸の内駅舎は1914年の竣工以来、一日も休まず、工事中も駅として使い続けられています。近代の文化遺産に於ける「本物の価値(オーセンティシティ)」を守るためには、建築としての本来の「価値」を維持し続けることが重要である。



(以上は、当日の講演と配布されたレジメに基づいていますが、文責はtontonにあります。)


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大江健三郎の「読む人間」を読んだ!

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大江健三郎の「読む人間」(集英社文庫:2011年9月25日第1刷)を読みました。この本の第一部「生きること・本を読むこと」は、2006年6~12月に毎月一回、ジュンク堂書店池袋店で行われた7回の講演をもとに大幅に手を入れたものです。第二部「死んだ人たちの伝達は火をもって表明される」は、やはり講演をもとにした「『後期のスタイル』という思想」と、「読むこと学ぶこと、そして経験」という2篇からなっています。


前にも書いた通り、「定義集」は2006年4月から2012年3月まで、月に1回、朝日新聞朝刊の文化面に掲載されたもので、「読む人間」とほぼ同じ時期に書かれました。一方は話し言葉、もう一方は書き言葉の違いはあれ、同じ問題を扱っています。つまりこの2冊は、相補的な関係にあります。とはいえ新聞連載の「定義集」の方が、より広範囲な問題を取り上げてはいますが。


本の帯には「大江健三郎はどんなふうに読んできたのか? ノーベル賞作家から3.11以後の世界を生きる世代へ」とあります。また本のカバー裏には以下のようにあります。


これらの本と一緒に生きてきた――。マーク・トウェインから井上ひさしまで、著者がこれまで出会った、世代を超えて読み継がれるべき大切な作品を紹介。自らの執筆活動と読書体験をもとに“読む”ことが“生きる”うえでいかに救いとなり、喜びになるかをやさしく語る。ノーベル賞作家による読書ガイド。文庫化に際し、東日本大震災後の2011年6月に行われた講演を新たに収録。


大江が9歳の時、四国の山村で大江が始めて読んだ本、マーク・トウェインの小説「ハックルベリイ フィンの冒険」の思い出から話は始まります。地獄へ行ってもいいから、ジムを裏切るまいと考える、影響を受けたのはその一行だと大江は告白します。戦争が終わった直後ですが、自分はそうしよう、一生その考えのままで生きよう、と私は思ったんです、そしてそれを原則として、今まで生きてきたように思う、と。


続けて、決定的に人生を決めることになる本と出会い、大江が16歳の時でした。戦争が終わり、新しい憲法が公布され、施行されます。ある事情から大江は松山の高校に転校します。始めて本屋に行って選んで買った本が、渡辺一夫の「フランス ルネサンス断章」(岩波新書)でした。もう一冊が、エドガー・アラン・ポーの「ポオ全集」。「当時、伊丹十三君が、私の転校した学校に、みんなから孤立した存在として、しかし悠々と生きていたんです」と、大江は語ります。後に大江は、伊丹の妹と結婚することになります。


「再読すること、rereading」のすすめについて、翻訳ものを読む場合ですが、大江は以下のように語っています。

まず最初は翻訳を、線を引いてがっちり読む。二番目は、線を引いたところを原文にあたって、ひとつずつ読んでゆく。それから三番目に、それがほんとうにいい本ならば、そして、もう一ヶ月時間をかけていいというような時であれば、これだけのことをやった後で原書を最初から読み通してみる。それがrereadingとしていちばんいい進み行きです。


専門家でもない人が毎回こんなことをやってはいられませんが、ましてや外国語ができない人や苦手な人にはこんなことはできません。が、このようにして読む。外国語と日本語のあいだを往復する。そうやって言葉の往復、感受性の往復、知的なものの往復を味わい続ける作業が、とくに若い人間に新しい文体をもたらすと考えているというのです。こういうようにして私の小説の世界が始まった、と大江は言います。渡辺一夫から伝授されたこと、3年ごとに新しく読みたいと思う大賞を選んで、その作家、詩人、思想家を集中して読むという方法で読むわけです。そのようにして3年ごとに自分の文体を変えていくという仕方でやってきたのだという。


ところが大江の実人生に思ってもみなかった事態が生じます。それは「長男の光が頭に奇形を思って生まれたことによる変化」、子供の手術は成功し、退院します。それからが大江とその妻と光との共生が始まります。当の子供を引き受けて、共生していこうと決心する過程を書いたのが「個人的な体験」です。28歳で光が生まれて、29歳で「個人的な体験」を発表します。そしてウイリアム・ブレイクを読むことで、「新しい人よ眼ざめよ」を書くことになります。短い小説を集めた短篇連作だが、最初の作品をブレイクの詩集からとった「無垢の歌、経験の歌」というタイトルにしました。


国立西洋美術館で「ウィリアム・ブレイク版画展」を観た!


大江は、48歳から50歳までの3年間、ダンテの「神曲」を読んでいました。51歳から長編小説を書き始めました。「懐かしい年への手紙」です。内容は自分が50歳までどのように生きてきたかということを検討する作品にしたという。自分でも良くできた作品、根拠はないがよく売れるだろうとも思ったという。ある時本屋へ行ってみたら、「真っ赤な本と緑色の本という2冊組の装丁の、クリスマスプレゼントみたいな本が、こんなに積んであって、その山の向こうに、哀れな『懐かしい年への手紙』が、数冊、こちらを恥ずかしそうに見ていた。ダンテの『神曲』のボッティチェリの挿絵を装丁に使った、きれいな本が」。いうまでもなく、山のような本が「ノルウェイの森」です。


小説は、東京で作家の生活をしている「僕」という人物のところに、しく久野村で暮らしている妹から電話が来た、というところから始まります。あなたの友達で私ら家族にも大切な友人であるギー兄さんが、大掛かりな事業を始めてしまった、かれの奥さんのオセッチャンが、相談に来た。あなたが帰ってきてかれと話せば、ギー兄さんは考え直すかもしれない。ともかく一度、帰ってきてくれないかという。そこで、「僕」が子供たちを連れて久し振りに村へ帰っていく・・・。


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エドワード・W・サイードについて。「exileの、つまり本来いる場所から追放された終焉の人間、端のほうにいる人間として、世界の中心にあるアメリカのまさに帝国主義の文化を、さらには世界政策を、批判し続けたシンに知識人でした」と称えます。大江は、小説を書き始めた当初から、自分は本来いるべき場所にいない人間だと感じるところがあり、それこそが」私の生涯の小説家としての主題であり続けた、と考えることがあるという。がしかし、「私の描く四国の森のなかの土地、人々、歴史と伝承のいちいちは、すべて私の想像力にのみ基盤を持つ者だ、と自分が確信している」とも言います。


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*編集中、続きます。

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スパイラルガーデンで「C-DEPOT2012」を観た!

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スパイラルガーデンで「C-DEPOT2012」を観てきました。といっても、なんとなくぶらぶらと原宿から青山へと散歩していた途中に、スパイラルへ入ったら、「C-DEPOT2012」をやっていた、というのが正直なところです。「C-DEPOT」というアーティスト集団についても、まったく存じ上げませんでした。スパイラルは槇文彦の傑作なので、もう何度も観に行ってますが、アートの展覧会は、ほとんどがぶらりと入るのがほとんどでした。


今回も同じでしたが、若者の無償のアートに賭ける情熱を感じとってきました。廻廊のようにスロープがある円形のスペースをどう展示するかが、毎回、気になるところです。今回は中央に垂れ幕のような布がぶら下がっていて場を引き締めていましたが、昨年11月に開催された棚田康司の木彫2体「ナギとナミ」の真横の展示が印象に残っています。


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「C-DEPOT2012」展覧会概要

アーティスト集団C-DEPOTは今年で設立10周年を迎えます。10回目となる「EXHIBITION C-DEPOT 2012」では総勢67組の様々なジャンルのアーティストが集い、これまで毎年交互に発表の場としてきた、"TOKYO" のスパイラルと、"YOKOHAMA" の横浜赤レンガ倉庫の両会場を舞台に、かつてない規模で展覧会を開催いたします。
"多様性" というキーワードで結ばれた、二つの会場を行き来することで生ずる"場"と"時"という要素が、鑑賞する上でどのような作用を及ぼすか、アーティスト達のメッセージと共に、是非肌で感じとっていただければ幸いです。そして10年という節目のこの機会に、C-DEPOTが歩んできた道なき道に一本の道標を打ち立てることで、多くのアーティストが歩む道を指し示す道しるべとなること、それが本展のもう一つの目的です。


C-DEPOT WEBサイト


spiral WEBサイト


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練馬区立美術館で「棚田康司『たちのぼる。』展」を観た!

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練馬区立美術館で「棚田康司『たちのぼる。』展」を観てきました。


僕は棚田康司の作品を観るのは過去に一度だけ、昨年、青山のスパイラルガーデンで「棚田康司展 『○と―』」を観ました。「○と―」は「らせんとえんてい」と、ふりがながふってありました。


棚田は、大学院時代、木材にFRPや鉄などの異素材を組み合わせた作品を制作していました。このミクストメディアによる制作は1999年まで続き、2000年になると次第にFRPが影を潜めていきます。その翌年、文化庁の芸術家在外研修員として派遣されたドイツ・ベルリンでの7ヶ月間の滞在が、棚田の制作活動に決定的な影響を与えます。2002年に帰国した棚田の作風は、それまでの自らの頭部を利用した人物像から、他者へと目を向けたものへと移行します。対象への焦点を絞り込み、子供たちへとその目を向けるようになりました。


棚田はドイツ滞在時、西欧人との体軀の違いや、木に命を見出す日本人の感性に改めて気付いたという。以来、日本古来の木彫技法「一木造り」を用いて、大人でも子供でもない、か細い肢体と憂いを秘めた表情を持つ少年少女の像を作り出し、独特な存在感を放つ像で注目されるようになりました。今回の「棚田康司『たちのぼる。』展」は、これまで一貫して「人間」を、そして「子供」を彫り続ける棚田の一連の作品群を、新作、制作過程のスケッチなども含め、網羅的に紹介されています。


棚田康司プロフィール

1968 兵庫県明石市生まれ 神奈川県茅ヶ崎市在住

1993 東京造形大学造形学部美術学科Ⅱ類(彫刻)卒業

1995 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了(深井隆研究室)

2001 文化庁芸術家在外研修員として7ヶ月ベルリンに滞在

2005 「第8回岡本太郎記念現代芸術大賞」特別賞受賞

2010 第20回タカシマヤ美術賞受賞

現在 神奈川県にアトリエを構える


今回の展覧会のタイトルである「たちのぼる」という言葉は、煙のイメージから湧き出たもの。棚田の新作のタイトルに由来するものだが、煙のようにゆらゆらと揺れながら、天空へ昇っていく少年に、あらゆる試練に遭遇しつつも、1人の人間として上昇するイメージ、また上昇してほしいという思いを集約している、という。


スパイラルガーデンの「ナギとナミ」にも驚かされましたが、練馬区立美術館のロビーに展示された「たちのぼる―少年の場合」にも驚かされました。なにしろ天井から1本のロープがぶら下がり、その下の少年の木彫は頭を下に、木の塊に頭を突っ込んだように見えます。なんとも不安定な形態なのでしょう。


ドイツから帰国して以降、棚田の対象は子供たちへと移行し、それは現在も続いています。しかし棚田は、単に造形的興味から子供たちの像を彫り続けるのではなく、子供たちに対する棚田自身の強い思い入れがあるのでしょう。棚田の意識は、現代社会を生きる子供たちを捉え、彼自身が自らと向かい合う術としているとも、またわれわれに人間を剥き出しにして突きつけているとも考えられるのではないでしょうか、と「ニュース」は伝えています。








「棚田康司『たちのぼる。』展」

彫刻家、棚田康司は、これまで一貫して「人間」を、そして「少年少女」を彫り続けてきました。棚田の約20 年に亘る制作活動の中でも、とりわけ重要なモチーフとして存在し続けているのは「少年少女」です。それは、すでに子供ではないけれど、まだ大人でもない少年少女のように、あいまいな境界線に漂う存在が棚田の制作のテーマであるためです。不安定さや繊細さ、そして危うさを秘めた彼らは、我々が気づいていない人間としての本質的な部分を露わにした存在とも言えるかもしれません。モチーフは変わらずとも、少年少女の形態は作品ごとに変化を帯びています。それは木という自然物を材料としているためでもありますが、加えて棚田の彼らを捉える視点の変化によるものです。「棚田康司-たちのぼる。」展と題した本展は、棚田にとって東京の美術館における初の個展となります。大学院修了作品から新作まで、また制作過程のスケッチなども含め、棚田の一連の作品群を網羅します。「たちのぼる。」という言葉は、煙のイメージから湧き出たものです。それは新作のタイトルに由来するものでありますが、煙のようにゆらゆらと揺れながら、天空へ昇っていく少年に、あらゆる試練に遭遇しつつも、ひとりの人間として上昇するイメージ、また上昇して欲しいという思いが集約されています。本展を通して、棚田の作品世界に触れて頂くと同時に、現代美術における木彫の一側面を捉える機会となりましたら幸いです。


「練馬区立美術館」ホームページ


とんとん・にっき-tana1 「棚田康司作品集 たちのぼる。」

著者:棚田康司

出版社:青幻社

発売日:2012年10月19日

練馬区立美術館、伊丹市立美術館開催の棚田康司展「たちのぼる。」公式カタログ
執筆者:堀江敏幸(小説家)/Lrnd Hegyi(キュレーター)/小野寛子(練馬区立美術館)/岡本梓(伊丹市立美術館) デザイン:古平正義

本書は、90年代の初期作品から、最新作までを収録した棚田の作品世界を俯瞰できる本格的な作品集です。


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イ・チャンドン監督の「ポエトリー アグネスの詩」を観た!

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見逃していた「ポエトリー アグネスの詩」、なんとうちの近所の映画館で上映していました。今日が最終日、以前観たことのある「ボローニァの夕暮れ」との2本立てです。結局のところ、2本とも観てきましたが。上映していたのは「三軒茶屋中央劇場」、「東京遺産な建物たち」(新紀元社:2004年9月7日初版発行)にも取り上げられた、ニューシネマパラダイスの世界が広がる、由緒正しき映画館です。トイレがやや汚いことや、座席がガタガタでお尻がちょっと痛いのが欠点ではありますが・・・。


それはそれとして、見逃していた「ポエトリー アグネスの詩」、やっと観ることができました。イ・チャンドン監督の作品は、「オアシス」「シークレット・サンシャイン」を、そして脚本を気に入りプロデューサー役を買って出たといわれる「冬の小鳥」を観ました。どれも問題作ばかりです。経歴をみると、「1970年代後半、民主化運動運動の中心的存在となる。2003年に発足した盧武鉉政権第1期内閣では文化観光部長官に就任した(~2007年4月)」とあります。作品数がわずか5本しかないようで、驚きました。まだ僕が観ていない作品は、「グリーンフィッシュ」 (1997年)と「パーミント・キャンディー」 (1999年)の2本ですが、TUTAYAで探しているのですが、なかなか見つかりません。


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遠く釜山で働く娘の代わりに、生活保護を受け、ヘルパーの仕事もしながら、中学生の孫息子を育てている初老の女性ミジャ、いつもオシャレして出歩いています。たまたま通りがかりに詩作教室を見つけ、子どもの頃、詩人になればいいと言われたことを覚えていた彼女は、詩を書いてみたいと思い立ち、通うことにしました。だが、花鳥風月を眺めては美しい言葉を探す穏やかな日々に飛び込んできたのは、あまりにも厳しい現実でした。自分がアルツハイマーの初期症状にあること。また、孫息子チョンウクが同級生を数ヶ月間にわたり輪姦し続け、その女子中学生が自殺したことを聞かされます。関係者たちは事件を公にすることを嫌い、被害者の母親に示談金を支払って、ことを収めようとします。


ある時、スーパーの会長の入浴介護をしている時に、迫られたことがありました。きっぱりと断ったミジャでしたが、示談金を用意するあてがまったくありません。意を決して、会長のなすがままに身体を預けます。そして、なにも言わずに金をくれと会長に言うと、脅すつもりかと言われたりもしますが、なんとか金を用立てました。その金を持って関係者のところへ行くミジャ。釜山の娘も呼び寄せて、事態を好転させたいミジャですが、もうその時には、孫息子に警察の手が忍び寄ってきていました。


イ・チャンドン監督が、韓国で実際にあった女子中学生集団レイプ事件から着想を得て制作した、という。表題の「アグネス」とは、作品内で自殺した少女の洗礼名です。ラスト、ミジャのアグネスにあてて書いた詩が流れるところは、涙が出ます。


以下、とりあえず、「シネマトゥデイ」より引用しました。


チェック:『シークレット・サンシャイン』の名匠イ・チャンドン監督が、16年ぶりにスクリーンに戻ってきた韓国の女優ユン・ジョンヒを主演に迎えた魂の賛歌。娘の代わりに孫息子を育てている初老の女性が一編の詩を紡ぐことを心の糧に、ある事件にまつわる現実と対峙(たいじ)していく過程を映し出す。出演者も『宿命』のアン・ネサンや、『冬の小鳥』のパク・ミョンシンら実力派俳優が集結。第63回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した心に染みる物語が深い余韻を残す。

ストーリー:66歳のミジャ(ユン・ジョンヒ)は、中学生の孫ジョンウク(イ・ダウィット)と二人で暮らしている。ある日、彼女は右腕に痛みを感じて病院に行くが、体の不調より物忘れのひどさを懸念され、精密検査を勧められる。診察後、ミジャは川で投身自殺した女子中学生の母親(パク・ミョンシン)が錯乱状態に陥っている姿を偶然目撃し……。


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「ポエトリー アグネスの詩」公式サイト

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三菱一号館美術館で「シャルダン展―静寂の巨匠」を観た!

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三菱一号館美術館で「シャルダン展―静寂の巨匠」を観てきました。行ったのは9月11日でした。シャルダンというフランスの画家、僕はまったく知らなかった画家でした。静物画、風俗画の巨匠だそうです。大辞林によると「静寂」とは、「静かでひっそりしていること。また、そのさま。」とあります。たしかにシャルダンのすべての作品が「静寂」でした。


また「静寂主義」とは、「自己の意志や行為を否定し、神にすべてをゆだねて心の安静を得ようとする精神的態度。狭義には、17世紀、外面化した教会に対し、信仰の内面化を求めて生じたカトリック教会内の神秘主義的傾向をいう。スペインのモリノスによって唱えられ、ドイツ敬虔主義に影響を与えた。キエティスム。クィエティスム。」とあります。詳しいことはわかりませんが、シャルダンの「食前の祈り」は、食前に捧げる感謝の祈り(ベネディシテ)の途中で言葉に詰まってしまった幼子と、それを見守る母と姉の視線が交わされる瞬間を描いています。


いずれにせよ、18世紀のロココ美術全盛の時代に、シャルダンは、身近な日常の台所用具や食器、果実や食料品を、あるいは何気ない生活の一コマを、静かな画面で描き続けました。シャルダンは、対象を常に眼の前に置きながら、長い時間をかけて制作した、という。そこから事物の本質に迫る、彼独自の表現が生み出されました。


シャルダンは、二点で一対の作品としてモティーフや画面構成、色彩などを対比させました。「肉のない食事」と「肉のある食事」、「すももの籠」と「桃の籠とぶどう」もそうです。また、「台所のテーブル(別名)食事の仕度」と「配膳室とテーブル」や、「デッサンの勉強」と「良き教育」は、長い間離れ離れになっていた作品ですが、今回、対になって展示されていました。


花は静物画では主要な主題ですが、なんとシャルダンはが花を描いたのは「カーネーションの花瓶」、1点のみだそうです。今回の目玉、晩年のシャルダンの静物画「木いちごの籠」は個人蔵のため、通常は非公開だそうですが、日本では今回のみの展示だそうです。


没後、母国フランスでも急速に忘れ去られてしまったシャルダンですが、19世紀半ば、フェルメールの再評価に尽力した評論家のトレ=ビュルガーがシャルダンの作品を見出し、再評価の道を拓いた、という。フェルメールの展覧会は日本では度々開催されていますが、それとは対照的に、シャルダンの紹介に光をあてた展覧会は日本では今回が初めてだそうです。


展覧会の構成は以下の通りです。

第一部 多難な門出と初期静物画
第二部 「台所・家具の用具」と最初の注文制作
第三部 風俗画-日常生活の場面
第四部 静物画への回帰
シャルダンの影響を受けた画家たちと《グラン・ブーケ》
三菱一号館美術館のコレクションから


中庭のベンチにはなんとあのジョサイア・コンドルが座っていました。コンドルはイギリス出身の建築家で、政府関連の建物の設計に携わった「お雇い外国人」です。工部大学校造家学科で、後に東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾など後進の指導にもあたりました。退官後、三菱の嘱託となり、三菱一号館や鹿鳴館など数多くの設計を手掛けました。



初期静物画



台所・家具の用具


風俗画-日常生活の場面



静物画への回帰





三菱一号館コレクションから


「シャルダン展―静寂の巨匠」

ジャン=シメオン・シャルダン(1699-1779)は、フランスを代表する静物・風俗画の巨匠です。わが国で初めてのシャルダンの個展となる本展は、ルーヴル美術館名誉館長ピエール・ローザンベールの監修により、厳選した作品のみで構成されます。晩年の静物画の最高傑作であり、個人所蔵のため普段は非公開の「木いちごの籠」、シャルダンが描いた唯一の花の絵「カーネーションの花瓶」はともに日本初公開となります。また、1740年にシャルダンが国王ルイ15世に謁見を許され献呈した「食前の祈り」は、その後各国王族が競って入手しようとし、注文が殺到しました。同主題の作品は4点のみ現存し、そのうちロシアの女帝エカチェリーナが愛蔵した作品と、シャルダンの未亡人が亡くなるまで手元に残した作品が出品されます。食前に捧げる感謝の祈り「ベネディシテ」の途中で言葉に詰まってしまった幼い子、それを見守る母と姉の視線が交わされる瞬間を描いた「食前の祈り」のように、本展は、日常生活のなかの絶妙な瞬間の描写が評価されたシャルダンの習作を纏まった形で鑑賞する極めて贅沢で稀有な機会となるでしょう。


「三菱一号館美術館」ホームページ


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損保ジャパン東郷青児美術館で「ジェームズ・アンソール―写実と幻想の系譜―」を観た!

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損保ジャパン東郷青児美術館で「ジェームズ・アンソール―写実と幻想の系譜―」を観てきました。観に行ったのは、9月8日、2時間ほど時間が空いたのでそれっとばかりに観に行ったら、なんと開催初日でした。ジェームズ・アンソールは、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォーと並んで、ベルギー近代美術の三代画家の一人と呼ばれているようです。ポール・デルヴォーについては、ちょうどいま府中市美術館で「ポール・デルヴォー―夢をめぐる旅―」が開催されていて、僕も観に行ってきました。アンソールについては、2005年、東京都庭園美術館で「ジェームズ・アンソール展」が開催され、なんと副題が「ベルギーが生んだ異端の画家」だったようですが、残念ながら僕は観ていませんでした。


ベルギーといえば「ベルギー王立美術館」、過去に、浮世絵版画のコレクション展や、ブリューゲル版画展などがありました。また、「アントワープ王立美術館」としては、「アンソールからマグリット」展がありました。昨年4月に、オランダ・ベルギーを旅して、改修工事中でしたが「ベルギー王立美術館」を観ました。「アントワープ聖母大聖堂」で、ルーベンスの作品をまとまって観たり、「聖バーフ教会」のファン・エイク兄弟による祭壇画「神秘の子羊」も観ることができました。もちろんブリューゲルも、オランダではレンブラントの作品をまとまって観ることができました。


アンソールは、愛好する巨匠について次のように答えています。「そもそもレンブラントを大変気に入っていましたが、ずいぶんあとになってゴヤとターナーに惹かれるようになりました。光と激烈さに取り憑かれたこのふたりの巨匠を発見し、わたしは熱狂しました。ヒエロニムス・ボスとピーテル・ブリューゲルの並外れた独創性にもまたわたしはおおいに喜びました。彼らの作品はほかのフランドル派の巨匠たちのものより優れていると思いました」。


アンソールは過去から同時代の様々な芸術家の作品を写した素描、模写を300余点も描いていた、という。今回も、ターナーやレンブラント、フランス・ハルス、等々の模写が取り上げられていました。特にレンブラントの「驚いた表情の自画像」は小さな作品ですが、表情豊かな見事な作品です。またドラクロワが北アフリカの狩猟の光景を制作するための素描を模写したりもしています。ジャポニスムのコーナーでは、「日本の木版画の模写‘武者’」や「北斎の模写‘『北斎漫画五編』第二十丁表、柿本貴僧正(鬼)’」が取り上げられていました。アンソールは極東の国々から来た品物すべてについて、常に“シノワズリー(中国趣味)”という単語を(不正確に)使っていた、という。


「写実的な静物画と肖像画」として、時代は近代に入ったことを、アンソールやブリュッセルの仲間の画家たちを通して示しています。写実は19世紀まではさほど重要ではなかった、という。一方で、近代の画家たちは、レンブラントやハルスの描いた肖像画を大いに称賛した、という。「風俗画」とは、特別に重要な出来事とは思われない活動に無名の人が携わっている描写をいいます。描かれている人物は、宗教的でも歴史上の英雄でもない、貴族やブルジョア、あるいは下層階級の人々です。風俗画には、道徳的な役割もありました。アンソールは、「オステンドの昼食後」や「牡蠣を食べる女」を描きました。


さて、今回の展覧会も目玉は、「グロテスクの絵画」についてです。アンソールが画家になってから最初の5年間に描かれた作品では、日常の現実を極めて詳細に描くこと自体が目的でした。その後アンソールは、ブリュッセルで組織された芸術家グループ「二十人会(レ・ヴァン)」が開催した展覧会で、写実主義、印象主義、象徴主義、等々、多くの芸術を知ることになります。1887年にアンソールが「二十人会」に出した素描の一連の大作「幻視」は、ルドンの作品に習って描いたもので、古いキリスト教の物語が型破りの奇妙な方法で用いられているという。


図録ではアンソールの新しい傾向の絵画は、現実的であると同時に奇妙であることから、ごく一般的には「超現実的(シュルレアル)」と呼ぶことができるが、その用語がエルンストやマグリットと関連するため、別の用語か他の言い回しを使うほうがよさそうだ、としています。アンソールの作品は象徴主義なしには語れないが、仮面の絵画や奇妙な風刺画に代表されるアンソールの芸術を言い表すのにもっともふさわしい単語は「グロテスク」ではないだろうか、ゴヤやルドンのグロテスクな芸術が、現実的、論理的かつ厳粛であるのと同時に、非現実的、不合理かつ滑稽であるように、と定義しています。


そして、アンソールのグロテスクな作品を、以下の重要な傾向にもとづいて分類しています。

神秘の源泉としての光/表情豊かな輪郭線/極東からの霊感/イメージを体系的にはぐらかす手法/純真な仮面/風刺画と悪魔/風刺画と地獄絵の巨匠たちの再発見/人びとと世界を嘲笑すること/主役としての骸骨。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 写実と反アカデミスム

1-1 アンソールの美術アカデミーにおける古典的描写方法の習得

1-2 外光主義

1-3 アンソールとブリュッセルの仲間たちによる写実的な静物画と肖像画

1-4 画家は近代の真の英雄である

1-5 近代生活のイメージ

1-6 貧しき人びとの尊厳

第2章 グロテスク絵画に向けて

2-1 光の感受性

2-2 線の感受性

2-3 ジャポニスム

2-4 創造手段としてのあやかし

2-5 アンソール芸術における“死の舞踏”とその他の骸骨

2-6 仮装

2-7 カリカチュア、悪魔、仮面

2-8 プリミティヴィスム:いわゆる15世紀の初期フランドル美術の再発見

2-9 諷刺



第1章 写実と反アカデミスム







第2章 グロテスク絵画に向けて



アントワープ王立美術館所蔵
「ジェームズ・アンソール―写実と幻想の系譜―」

ジェームズ・アンソール(1860~1949)は、ベルギー近代美術を代表する画家のひとりです。仮面や骸骨など、グロテスクなモティーフを用いながら人間の心の奥底に潜む感情を独創的に表現し、シュルレアリスムや表現主義など、後の絵画運動に影響をあたえました。その一方で、アンソールは伝統的なフランドル絵画や、外光主義をはじめとする19世紀の主要な絵画運動から影響を受けていました。本展覧会は世界で最も多くアンソールの作品を所蔵するアントワープ王立美術館のコレクションより、素描を含む約50点のアンソール作品をフランドルや同時代の画家の作品と共に展示し、アンソールの芸術を生み出した写実と幻想の系譜をたどります。


「損保ジャパン東郷青児美術館」ホームページ


とんとん・にっき-ensor2 アントワープ王立美術館所蔵

「ジェームズ・アンソール―写実と幻想の系譜―」

図録

執筆:

ヘルヴィック・トッツ

鈴木俊晴

翻訳・編集:

小林晶子(損保ジャパン東郷青児美術館学芸員)

鴫原悠(愛媛県美術館学芸員)

鈴木俊晴(豊田市美術館学芸員)

根本亮子(岩手県立美術館学芸員)

橋村直樹(岡山県立美術館学芸員)

NHKプロモーション

発行:

NHKプロモーション




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「かっぱ橋道具まつり」へ行ってきました!

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「かっぱ橋道具まつり」へ行ってきました。副題には「かっぱ橋道具街 100周年記念」とあります。いままで何度も行ってはいましたが、いや、驚きました、100周年とは。それにしてももの凄い集客力です。かっぱ橋道具街はたくさんの人で埋め尽くされていました。


以下、「由来」等はホームページからの引用です。


「合羽橋名前の由来」
河童が居たから”かっぱ橋”?実は、名前の由来には2つの説があります。1つめは、金竜小学校跡地辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説。もう1つは、お待ちかね「河童」説。曹源寺通称”かっぱ寺”に墓所がある合羽屋喜八のお話しです。今から約180年前の文化年間、合羽川太郎(本名合羽屋喜八)は、この辺りの水はけが悪く少しの雨ですぐ洪水になってしまうのを見かね、私財を投げ出して掘割工事を始めました。なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。そして、なぜか河童を見た人は運が開け、商売も繁盛したといいます。・・・さて、どちらの説がお気に召しました?



「かっぱ河太郎像の碑」

古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。今から約200年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね、私財を投げ出し、治水のための掘削工事を始めた。ところが工事は困難を極めなかなか捗らない。その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け、商売が繁盛したという。この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生90年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴き、この地に、かっぱ河太郎像を建立つする。

平成15年10月吉日 東京合羽橋商店街振興組合








「合羽橋道具街」ホームページ

とんとん・にっき-kappa1 「さがしやすい

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」HANDY SHOP GUIDE

KAPPA-BASHI

2012.10

東京合羽橋商店街振興組合


小原二郎の「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」を読んだ!

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小原二郎の「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」(中公文庫:1992年5月10日初版発行、2011年2月25日改版発行)を読みました。最近、大内秀明の「ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動を支えた思想」(平凡社新書)が出たので、それと関連して「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」も併せてアマゾンへ注文しました。


ところが「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」は、以前「中公新書」で出ていたものと同じで、ただ体裁だけを文庫に変えただけのものでした。僕が最初に読んだのは、たぶん昭和55年頃だったと思います。どうも僕が読んだのは第3章までのようで、第4章、第5章は、肝心の箇所なのにまったく記憶がありません。いずれにせよこの本は「モリス研究」の最も重要な古典と言えます。実はもう何年も、ウィリアム・モリス関連の展覧会が開かれるたびに、小野二郎の新書版「ウィリアム・モリス」を読み直さなくちゃ、と思い続けてきましたが、結局は今まで読めませんでした。


新書版と文庫版、まったく同じなのかと言えば、実はそうではなく、文庫版には「参考文献」もかなりの量が追加されているし、「モリス関係年譜」、「モリス・ガイド」、「モリス著作リスト」も追加されていました。また、小野二郎の妻の小野悦子による「ケルムスコット・プレスの設立まで」という文章も、新書版にはなかったものが追加されていました。写真類も新書版では各ページに白黒で入っていたのが、今回の文庫版ではカラーで7ページが追加され、モリスのプロフィール写真も載せてありました。やはり小野二郎が言いたかったのは、「ラディカル・デザインの思想」についてです。第4章コミットメント、第5章ユートピアの部分です。なかなかすんなりと理解できずにいますが・・・。


この本を紹介した文章を、以下に比較してみます。

まずは新書版。力がこもっています。

天性の詩人・ユートピア論に卓見を示した社会主義者・政治運動か・そしてすぐれた理論と実績を残した工芸家――19世紀イギリスの偉大な星、ウィリアム・モリスの多彩をきわめた足跡は今日もさまざまな分野に大きな影響を与えている。本書はデザイン思想を中心にしてモリスのみずみずしい精神の発露をあますところなくとらえ、その今日的な意味を描き出す。豊かな想像力と豊富な資料を駆使して浮き彫りにするユニークなモリス像。

次に文庫版。じつにアッサリとしています。

天性の詩人、真の人間解放を求めユートピア社会主義に傾倒したモリスは、一方アーツ・アンド・クラフツにすぐれた理論と実績を示した工芸家でもあった。今日あらためて大きな関心が寄せられているモリスの業績を、そのデザイン思想を軸にたどる。


「小芸術(レッサー・アーツ)」など、モリスの基本的なデザイン思想のほとんどは、たぶん学校で習ったと思います。と思って教科書を調べてみたら、「過去の模倣から脱出することを試みた最初の運動はアール・ヌーヴォーである。これはイギリスのラスキン、モリスらの理論の影響を受けたもので、ベルギー、フランスにおこり、直ちに世界各国へ伝わった」とあるだけで、モリスについて詳しいことは書いてありません。そうなると、建築史の先生が授業で解説しただけだったのかもしれません。


教科書以外でモリス関連の著作は、小野二郎の新書版しかありませんでした。だいぶ後になってから、芸術新潮の「ウィリアム・モリスの装飾人生」(1997年6月号)は、カラー写真をふんだんに使った、やや漫画チックな編集で、いま見直してみると、たいへん分かり易い構成でした。第1章ウィリアム・モリスとは何者か? 第2章モリスの恋と結婚 第3章モリス、会社を興す! 第4章楽園か?不倫の館か?ケルムスコット・マナー 第5章正義と癒しを求めて そしてエピローグ、モリスの夢の後始末、となっていました。



ウィリアム・モリスについて分かり易く書いてあるので、小野悦子による「ケルムスコット・プレスの設立まで」から、以下に引用しておきます。


ウィリアム・モリスは、信じられぬほど多方面にわたる様々な業績を残し、1891年のケルムスコット・プレス設立を最後に1896年、62歳で世を去った。彼の影響はイギリス国内にとどまらず、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本へと及んだ。世紀末にパリに台頭したアール・ヌーボー、オットー・ヴァーグナーを指導者とするウィーン分離派運動、グロピウスの設立したバウハウス、そして日本の柳宗悦の民芸運動等はすべてモリスに端を発しているのである。


詩人として世に名をなし、文学者として数多くの作品を残し、アイスランドの伝説やギリシャ古典を翻訳し紹介する一方、染色を研究・実践し、タペストリーを織り、書物の挿絵用の木版を彫るといった美術工芸職人の仕事をやり、壁紙、チンツ、タペストリー、カーペット、家具、ステンドグラス等のデザイナーとして、自らモリス商会を経営士、実業家の役割も果たし、また中世彩飾写本や初期刊本の蒐集をし、カリグラファー、そしてタイポグラファーとしてその道に足跡を残した。


これに加え、モリスは常に社会との関わりを持ち、古建築物保護協会の設立に努力し、産業革命以来歪められた人間の生活を救おうと、中世の騎士のように突進して、社会主義運動に身を投じる。各分野で発揮された才能は渾然一体となったモリス像を形成し、それ自体が彼の思想の表現と言える。したがって一つの業績のみを引き出して論じることはたいへん難しい。


さて、「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」ですが、小野二郎は、次のように述べています。「これは少なくとも私にとってのモリス入門ではある。これでモリスを卒業するどころではなく、モリス勉強をますます深める所存ではあるが。それもしかし、モリスの魅力を人びとと共有したい、共有するように何かしようということと離れることはないだろう。その意味では私はモリス研究家ではなくて、モリス主義者である」と。


目次

第1章 はじめに

第2章 ヤング・モリス

第3章 デザイナーとしてのモリス

第4章 コミットメント

第5章 ユートピア

あとがき

ケルムスコット・プレス設立まで


とんとん・にっき-mori1 「ウィリアム・モリス

ラディカル・デザインの思想」
中公新書

昭和48年9月25日初版

昭和53年5月25日再版

著者:小野二郎

発行所:中央公論社









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江戸東京博物館で「維新の洋画家 河村清雄」を観た!

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「川村清雄展、記念式典・特別鑑賞会・レセプション 特別招待&図録プレゼント」企画に申し込んだら、運良く招待状が届きました。案内には、次のようにありました。


近代日本美術の知られざる先駆者・川村清雄(1852-1934)は、近年とみに評価が高まっている幻の画家です。本展は、フランス・オルセー美術館からはじめて里帰りを果たす晩年の傑作「建国」をはじめとする代表作や初公開作品を含む約100点の絵画が一堂に会する最大規模の回顧展です。さらに歴史資料約100点を集結し、幕末から明治・大正・昭和へと続く激動の近代史を生きた清雄の人生を立体的に描き出します。美術愛好家のみならず、歴史ファンにも見逃せない展覧会です。


記念式典では、江戸東京博物館の竹内誠館長の挨拶に続き、川村清雄のお孫さんにあたる篠原ふき子さんの挨拶がありました。父親の川村清衛は、先祖伝来の受け継いできた品々を散逸させないよう、戦争中は穴を掘って埋めたりして、保存に努めたそうです。川村清雄の作品の多くは、清衛の決断で寄贈することになったが、余りにも量が多かったので、当初受け入れてくれるかどうか心配だったという。戦前のものは新潟市歴史博物館へ、戦後の作品は江戸東京博物館へまとめて寄贈したそうです。清衛は、幼い時から父の画業を助け、カメラマンとしての職業のかたわら、川村清雄の研究と紹介に尽力されたそうです。


今回の「維新の洋画家 川村清雄」展の担当をした学芸員、落合則子、田中裕二の紹介があり、落合則子によって映像を使って「見どころ紹介」がありました。


「形見の直垂」、清雄は海舟の訃報を聞いて駆けつけ、葬儀では海舟の棺側に従った。本作は海舟の没後直ちに執筆が開始された。中央に白直垂をまとう少女を描き、周辺に「外へ地獄内へ極楽」を描いた古代の棺の上に載る海舟の胸像や愛用の遺品などを配置する。最大の恩人に対する清雄の深い謝意と鎮魂の思いが込められた最高傑作のひとつである。本作品は以後も加筆が続けられ、終生清雄の手元を離れることはなかった。

「徳川家茂像」、清雄が描いた「歴代将軍像」のうち、最初に制作されたもの。将軍の肖像を描くという旧幕臣にとって栄誉ある仕事を遂行するために、清雄は1年の歳月をかけた。

「貴賤図(御所車)」、平安朝の御所車と従者、それを見送る子守(または母子)。滴るような緑と水の表現は、コローの技法に比せられた。小笠原長生は清雄を庇護し、山内侯爵邸内の空き家を与えて絵を描かせた。この作品を制作中に橋本雅邦が小笠原を訪問し、清雄と知己を得る。それが日本美術院での子展開催のきっかけとなった。


「建国」、鮮やかな金地を背景に、剣、鏡、勾玉、桜といったモチーフを散らし、力強く暁を告げる鶏を中央に配したもの。清雄はのの場面を「天岩戸の神話にとった」と述べている。日本的油絵を追求した川村の画業にとって、晩年の記念碑的作品といえる。オルセー美術館からの里帰り作品。

「ヴェニス図」、本展の準備過程で発見された作品。

「聖ガエタヌスに現れる聖家族」、ティエポロは清雄がヴェネツィア留学時代に崇敬して画家のひとり。ヴェネツィアの名家ラビア家にある小さな礼拝堂の祭壇画として描かれた。1887年にラビア家からアッカデミア美術館に移管された。

そして「紺糸素懸威腹巻(川村家伝来)」、川村家では「勝色糸縅腹巻」と伝え、修就が300両で作らせたという。兜の吹き返しや籠手には「丸に九枚笹」の定紋がある。

他に後期展示ですが「晴・雨」、晴と雨を象徴し、破れ日傘の下で蛤を焼く女と山中で蓑笠を着けて馬を曳いて歩く男を対比して描く双幅。箱書は幸田露伴の筆による。昭和4年喜寿展出品作で、その後所在不明であったが、このほど発見された。


以下、図録の「ごあいさつ」より


川村清雄は、最も早く海外で本格的な油彩画技法を学んだ日本人画家の一人でした。黒船来航前夜の江戸に幕臣の子として生まれ、明治維新で江戸を逐われた徳川宗家に従って静岡に移住しました。明治4年(1871)徳川家派遣留学生としてアメリカへ渡航、その後もフランスとイタリアに学び、都合10年余りの留学生活を送りました。帰国後の清雄は画塾で後進を育てつつ、明治美術会などに作品を発表しました。清雄の作品の特徴は、江戸人の持つ伝統的な美意識を西洋起源の洋画世界に溶け込ませた、和魂洋才ともいえる画風にあります。西洋の油彩画が培ってきた重厚で堅牢な色面と、日本画を思わせる軽快で瑞々しい線との融合は、他の画家の追随を許しません。


しかし、西洋の油彩画を受容し消化する途上にあって揺れ動く明治の洋画界は、日本的な洋画世界の構築を目指す清雄流の挑戦を理解しませんでした。やがて画壇から遠ざかり忘れられた存在となっていった清雄でしたが、主君徳川家達や勝海舟をはじめとするゆかりの人びとは、清雄の人物と芸術を心から愛していました。彼らの庇護のもとに珠玉のような日本的洋画の制作を続ける孤高の画家・川村清雄の姿は、「画家」よりも「絵師」と呼ばれるにふさわしいものであったでしょう。


展覧会の構成は、以下の通りです。


序章 旗本の家に生まれて

第1章 徳川家派遣留学生

第2章 氷川の画室

第3章 江戸の心を描く油絵師

終章  《建国》そして《振天府》



序章 旗本の家に生まれて



第1章 徳川家派遣留学生



第2章 氷川の画室





第3章 江戸の心を描く油絵師




終章  《建国》そして《振天府》



「維新の洋画家 川村清雄」

近代日本美術の知られざる先駆者・川村清雄(かわむら きよお)〔嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)〕 ―近年とみに評価が高まっている幻の洋画家です。旗本の家に生まれ、明治維新からまもない時期に渡欧し本格的に油絵を学んだ最初期の画家でしたが、当時の洋画壇から離れて独自の画業を貫いたため、長らく忘れられた存在でした。しかし彼が生涯をかけて追究した日本人独自の油絵世界は、今急速に見直されてきています。 本展は、清雄の最大の庇護者であった勝海舟(かつ かいしゅう)に捧げられた《形見の直垂(ひたたれ)(虫干)》(東京国立博物館蔵)をはじめとする絵画の代表作や初公開作品を含む約100点の絵画が一堂に会する最大規模の回顧展です。とくに注目されるのは、フランスへ渡った晩年の傑作《建国(けんこく)》(オルセー美術館蔵)が初めて日本に里帰りすることです。昭和4年(1929)にパリ・リュクサンブール美術館に納められたこの作品は、《振天府(しんてんふ)》(聖徳記念絵画館蔵)とならび清雄の画業の集大成となった作品ですが、日仏ともにこれまで展覧会場で公開されることがありませんでした。本展はこの秘蔵の傑作を目にすることができるまたとない機会です。さらに、清雄が絵画の理想としたヴェネツィア派最後の巨匠ティエポロの名画《聖ガエタヌスに現れる聖家族》(ヴェネツィア・アッカデミア美術館蔵)が、ヴェネツィアから来日します。また本展では、清雄が守り伝えてきた幕臣川村家資料を中心とした歴史資料約100点を集結し、幕末から明治・大正・昭和へと続く激動の近代を生きた清雄の人生を、彼を支えた徳川家達(いえさと)や勝海舟など人物交流のエピソードを織り交ぜて立体的に描き出します。美術愛好家のみならず、歴史ファンにも見逃せない展覧会です。


「江戸東京博物館」ホームページ


とんとん・にっき-kawamu 「維新の洋画家 川村清雄」

図録

平成24年10月8日発行

編集・発行:

東京都江戸東京博物館

静岡県立美術館

読売新聞社







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「特別名勝 六義園」へ行ってきました!

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「特別名勝 六義園」へ、始めて行ってきました。桜の季節でも、紅葉の季節でもない、ただなんとなく、園内を散策するのもまた乙なものです。なお、11月22日からは「高揚と大名庭園のライトアップ」が始まります。


「六義園」のリーフレットより、その概要を下に挙げておきます。


「六義園」は、五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。当園は池をめぐる園路をあるきながら移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、昭和13(1938)年に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28(1953)年に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。











「六義園」ホームページ

とんとん・にっき-riku17 特別名勝 六義園

「紅葉と大名庭園のライトアップ」
2012年11月22日(木)

    ~12月9日(日)

9:00~21:00

公益財団法人 東京都公園協会









ジャ・ジャンクー監督の「青の稲妻」を観た!

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ジャ・ジャンクー監督の2002年の作品「青の稲妻」を、TUTAYAで借りてDVDで観ました。今年の初め頃、やはりTUTAYAで借りて一度観ているんですが、ブログには書けませんでした。書けなかった理由は、たぶん、この映画はストーリーというストーリーがなかった、と思われたからだったかもしれません。いや、恥ずかしいことに、書くことに恐れをなしたからに相違ありません。


ジャ・ジャンクー監督の作品は思っていた以上に少なく、以下の7本です。僕はそのうちの4本を観たことになります。「一瞬の夢」と「プラットホーム」、探し続けているのですが、なぜかTUTAYAにないんですよね。


「一瞬の夢」(1997年)
「プラットホーム」(2000年)
「青の稲妻」(2002年)
「世界」(2004年)
「長江哀歌」(2006年)
「四川のうた」(2008年)
「海上伝奇」(2010年)


1960年前後のフランス映画の“怒れる若者たち”を描いた作品、例えばゴダールの「勝手にしやがれ」が思い浮かびます。ゴダールの作品は、ヌーヴェルヴァーグの基本3要素(即興演出、同時録音、ロケ撮影中心)とはっきりとしない物語の運び、だと言われています。そう言われてみると、まさにジャ・ジャンクー監督の「青の稲妻」は、それにあてはまります。


舞台は中国山西省、大同と呼ばれる地方都市。雑然とした街には、失業中の若者があふれています。定職もなく毎日ブラブラしている19歳のシャオジイとビンビン。原題は「任逍遙」、荘子の言葉だという。「なにものにもとらわれずに生きる」ということらしいが、映画のなかでは「やりたいことをやる」という感じで使われています。まさに「勝手にしやがれ」といえます。がしかし、シャオジイとビンビンは、金もないのでやりたいようにはやれません。


シャオジイは、ダンサーのチャオチャオに恋するが、彼女はヤクザの女で、実際に売られているという「モンゴル王酒」のキャンペーンガールです。彼女に付きまとったことから、ヤクザに痛めつけられます。ビンビンは、仕事を首になったことを母親には言えません。高校生の恋人とデートを重ねるが、もう受験が近いから会わないことにしようと言われても表情を変えません。進展することを自ら放棄しています。


ビンビンは軍隊に志願しますが、肝炎で落ちてしまいます。シャオジイはヤクザに仕返しをしようとしますが、オリンピック開催の決定の歓喜にかき消されてしまいます。そんな2人がラスト、なんとなく銀行強盗を起こします。爆弾を胸に抱えて「銀行強盗だ、金を出せ」と練習した通りにやってみると、警備員に簡単に取り押さえられ、あっさりと捕まってしまいます。「ボニー&クライド」ほどにはカッコよくありません。


常に煙草をくゆらす若者たち。無表情で、なにからなにまでダサくて野暮ったい。社会の閉塞感が漂うなかで、若者は出口が見当たりません。テレビでは、中国のWTO加盟、海南島での米軍機と中国機の接触事故、2008年オリンピックの北京開催決定など、若者の暮らす街とは同じ中国とは思えないほど、まったく違った中国が映し出されます。


以下、とりあえずシネマトゥデイより引用しておきます。


チェック:WTO加盟やオリンピック開催決定など、それまでにないほど社会情勢が急変した2001年の中国。変貌著しい中国社会から取り残されたような地方都市に生きる2組のカップルを通し、社会の激変を実感できない若者たちの葛藤、閉塞感をリアルに描く。監督は、『一瞬の夢』『プラットフォーム』などで世界が注目する中国の俊英ジャ・ジャンクー。刹那的に生きる主人公たちの心情を象徴するかのような、台湾の人気歌手リッチー・レンによる主題歌が深い余韻を残す。

ストーリー:中国の地方都市、大同。19歳のシャオジイ(ウー・チョン)は、年上のダンサーに恋をする。彼の親友ビンビン(チャオ・ウェイウェイ)は、恋人との距離を縮められずにいた。彼らは未来に期待しながらも、出口のない現実に苛立ちを募らせていく。


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松濤美術館で「古道具、その行き先 坂田和實の40年」を観た!

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私にとって、永く連れ添える物は、技術の完成度の高さや、めずらしさを誇る美術作品ではなく、用途の為に素材と形が固く結びついた、なんでもない普段使いの日常工芸品で、使われ育まれた物なのだと気がつきました。――坂田和實


坂田和實:

「古道具坂田」主人。1945年、福岡県生まれ。

1973年、目白に古道具屋をひらく。

1994年、千葉県長生郡に美術館as it isを開館。

主な著書に「ひとりよがりのものさし」(新潮社、2003年)がある。


まず始めに脱線ですが、「出品リスト」を見ると2番目に出てきたのが「ブルキナファソ/ニジェール 石像(2)」とありました。ブルキナファソ、この名前を始めて知ったのは、原広司の「集落の教え100」(彰国社:1998年)だったと思います。西アフリカの小さな国で、たしかカラー写真がついていたように思いますが、手元にないので何とも言えません。その前に「集落への旅」(岩波新書:1987年)を出していますが。原は、世界各国の集落を調査してまわり、上の本を出しそして「住居集合論」を出します。いや~、懐かしい。「ブルキナファソ」の出て来る箇所をネットで拾い出してみました。


[13] 複雑さ
  複雑なものは単純化せよ。単純なものは複雑化せよ。
  その手続きの複雑さが人の心をうつ。
  ・ ここにおける集落の教え
  一つの住居形式 (単純) ⇔ <変形>による多様なもの (複雑)
  つまり、(集落において)無限の複雑さを許容するが、それは一つの単純さの中においてのみ。これによ
  って成り立つ集落の複雑と単純の関係は同等の物の間の多様性(=パラディグマ)を指し示している。
   また、この複雑⇔単純の操作は、パラディグマだけにとどまらない。ここに配置が加わることで、単純
  ⇔複雑の変化(=シンタグマ)が集落に現れる。
  ・ 具体例 (ブルキナファソのサオ)
  ①集落風景が小都市に近い → 複雑
    接近した配置により、複雑な重ね合わせが生じている
  ②集落全体がモノクロームの色調に統御されている → 単純
    (穀倉と住居が)同じ土壁で造られている
  ①と②によってつくられた集落風景から美しい「立体」を感じる。
   →パラディグムとシンタグムの複雑さにおける巧妙な交差点が抽出されている



さて「古道具、その行き先」と聞いてふと思い出したのは、「遺留品研究所」のこと。1960年代は、デザイン・サーヴェイなどから、歴史的建造物や民家など、なんでもかんでも保存せよとしていた風向きも、たしか1960年代後半に入って雑誌「都市住宅」に批判を連載していたグループが「遺留品研究所」だったように思います。捜査官が遺留品や痕跡から犯人像を推測するがごとく、街に散在するものや断片からそれらに換喩した人びとの営為を読み取ろうとしたという。


記憶が薄れて、もしかして間違っていたらごめんなさい。いずれにせよその「遺留品」という名称、なんとなく「古道具、その行き先」で思い出したわけです。そのうちに路上観察学会ができて、「トマソン」なる概念が提出されたりもしました。「遺留品研究所や路上観察学会は、観察者と事物の間の境界線を相互浸透的なもの、あるいは読み手とテクストの関係を連鎖的に組み替えられうるものとして捉えたと言えよう」と。(『10+1No.44ARTICLE
笑う路上観察学会のまなざし 都市のリズム分析へ向けて |南後由和 より)


そしてまた、坂田和實が「用途の為に素材と形が固く結びついた、なんでもない普段使いの日常工芸品」というとき、ウィリアム・モリスの述べていることとほとんど同じです。またモリスに端を発した、柳宗悦の民芸運動も思い起こされます。日本民藝館の展示を見ると、かなりの部分、「古道具、その行き先」の展示心と合致しているのではないでしょうか。


白洲正子氏旧蔵の「奈良朝土管」にはなぜか笑っちゃいましたけど、村上隆氏蔵の「フランス、リモージュ鍍金七宝十字架」は素晴らしい芸術作品です。また「イギリス 革製ジャグ」や「朝鮮 李朝 床板」もいいものです。淀井敏夫氏旧蔵の「スペイン/フランス 木彫彩色聖母子」も素晴らしい。「コーヒー用ネル布」や「おじいちゃんの封筒」にはまいりました。展示の仕方でこうも変わるのかと。「洗濯用カゴ」、うちにもありましたね。「フランス 機内食用フォーク、スプーン、ナイフ(AIR FRANCE)」は、見覚えがありますね。








「古道具、その行き先 坂田和實の40年」
1973年に古道具店を開いて以来、坂田和實の提案してきた美学は着実に共感者を増やしてきました。今やその影響は骨董のみならず、雑貨、ファッション、インテリアなど広範囲にわたって着実の定着しています。美意識の開拓者として、現代のライフスタイルを導いてきた坂田自身のルーツと展開をたどり、現在の境地までを、これまで直接、間接に関わった数々のものたちにより紹介する展覧会です。


「渋谷区立松濤美術館」ホームページ


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府中市美術館で「常設展 明治・大正・昭和の洋画」を観た!

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府中市美術館で「府中美術館常設展 明治・大正・昭和の洋画」を観てきました。先月、9月30日のことです。観に行ったのは、「ポール・デルヴォー 夢をめぐる旅」でした。主たる企画展である「デルヴォー」も良かったのですが、常設展もなにかやってるからついでに観ておこうと立ち寄ったら、これがどうして、なかなかなものでした。僕がよく行く美術館、例えば、神奈川県立近代美術館、世田谷美術館、千葉市美術館、茨城県立美術館などは、常設展が充実しています。


常設展といっても、企画展と比べて見劣りがしないどころか、ときには企画展を上回る内容のものもあります。また常設展とはいえ、展示されているものが展示替えする場合もあります。府中市美術館、約1800点の収蔵作品から、常時40点から60点の作品を展示しています、とありました。ちなみに 平成24年度の予定を下に載せておきます。

5月19日(土曜日)から9月2日(日曜日)まで
府中・多摩の美術
9月12日(水曜日)から11月11日(日曜日)まで
明治・大正・昭和の洋画
小特集 江戸時代の絵画
11月23日(金曜日、祝日)から2月24日(日曜日)まで
現代の美術
3月9日(土曜日)から5月6日(月曜日、祝日)まで
明治・大正・昭和の洋画
小特集 司馬江漢


作品リストによると、「明治・大正・昭和」として今回展示されていた作品はラファエル・コランの「フロレアル」、チャールズ・ワーグマンの「街道風景」「三味線を弾く女」を含め46点、他に小特集として「江戸時代の絵画」が別室で宋紫石の三幅対「寿老人・牡丹図」を含め6点、ロビー展示には遠藤彰子の「光景」がありました。また牛島憲之記念館では「名作選」として、牛島憲之の作品25点が展示されていました。


先日江戸博で開催されている「維新の洋画家 川村清雄」を観てきました。清雄は、徳川家の援助を受けてヴェネツィア美術学校に入り、優秀な成績を収めて帰国します。帰国した彼を待っていたのはフランス美術の強い影響に染まる日本画壇でした。清雄が修めたイタリア伝統の油彩画は時流に入れられず、やがて清雄も画壇に背を向けることになりますが、繊細な写実表現を基礎に、日本画風の題材や質感を強調した作品を描きました。


チャールズ・ワーグマンが日本にやってきます。ワーグマンは仕事のかたわら日本の風俗を描き、五姓田義松らに油彩画を教えます。義松はその後、工部美術学校でフォンタネージに学び、フランスへ渡ります。義松はおよそ7年の滞在を終えて帰国します。山本芳翠はフランスで、レオン・ジェロームに師事し、10年間滞在しています。日本人画家による最初の裸婦蔵を描いたことはよく知られています。


高橋由一は、義松に1年遅れてワーグマンの元を訪れ、洋画の修行を始めます。明治中期以降の日本の洋画界の中核になったのは、黒田清輝でした。フランスで絵画の基礎を学び、コラン教室に入って画家の修業を始めます。その精神は、東京美術学校、芸大へと流れて定着しました。鹿子木孟郎も黒田の紹介で最初はコランに学びます。その後、ジャン=ポール・ローランスの門を叩きます。ローランスは、コランと比べると、ヨーロッパの伝統を重んじた正統派の画家でした。油彩画のわが国における受容は、こうした幾つかの道がありました。


「府中美術館常設展 明治・大正・昭和の洋画」を観て、油彩画という観点から良かったと思われる作品を、僕の独断と偏見で選びだし、下に載せておきます。









「府中市美術館」ホームページ



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みんなでつくった「元気のうた」をアーティストと一緒にみんなで歌おう!!

六本木・蒼龍唐玉堂で「黒胡麻担々麺」を食べる!

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六本木の国立新美術館で「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」を見終わって、ロッカーに入れてあった荷物を取りに行ったところ、床に10センチ×5センチくらいの紙切れが落ちていました。周りを見渡しても誰もいません。手に取ってみると、「蒼龍唐玉堂 黒胡麻担々麺 @880」とあり、住所と電話番号も書いてありました。どうも女性の字のようです。


ちょうどお昼時、当たるも八卦当たらぬも八卦、一か八か、黒胡麻担々麺を食ってやろうじゃないかと、一念発起しました。実は僕は外ではほとんど麺類は食べたことがありません。麺類と言っても、たまには日本蕎麦は食べますが、いわゆるラーメン類は食べません。なにしろ麺類は好きじゃないのですが、なぜか黒胡麻担々麺をその時、無性に食べてみたくなった、というわけです。


行ってみたら、やはり“担々麺”がこのお店の名物のようですが、他にもいわゆる“らーめん”や、“餃子”類もあり、“定食”類もありました。家人は湯麺を、僕は黒胡麻担々麺を、そして餃子も一緒にたのみました。味は思っていた以上に美味しゅうございました。ふと壁を見ると、「キアヌ・リーブスのサイン」とデカデカと書いてありました。キアヌ・リーブスも黒胡麻担々麺を食べたらしい。


帰ってから調べてみると、「蒼龍唐玉堂」は、「紅虎餃子房」や「万豚記」を運営している「際コーポレーション」系列の中華料理店でした。







「蒼龍唐玉堂」食べログ


「際コーポレーション」


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