横浜美術館で岡倉天心生誕150年・没後100年記念「生誕140年記念 下村観山展」を観てきました。頭に付いている「岡倉天心生誕150年・没後100年記念」は、前回の「横山大観展 良き師、良き友」にも付いていました。それもあってか、つい先日、映画「天心」を観てきました。茨城県北茨城市の五浦の地で、岡倉天心の指導を受けながら、日本画の近代化に向けて制作に励んだ4人の画家、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の若き日の物語でした。
観山の作品をまとまって観るという機会は、今までほとんどありませんでした。山種美術館、大倉集古館、五島美術館、松岡美術館、永青文庫、そして長野の水野美術館、茨城県立近代美術館などで幾つかの作品を観た覚えがあります。東京国立近代美術館や東京国立博物館でも観ています。が、いずれにしてもしっかりとした記憶に残っているわけではありません。と、思っていたら、ふと思い出しました。宇都宮市の栃木県立美術館で開催された「日本画創造の苦悩と歓喜―大正期、再興院展の輝き~大観・観山・靫彦・古径・御舟~」という展覧会です。なんと展覧会のチラシが下村観山の「不動尊」でした。図録を見ると、代表作「弱法師」を含めて観山の作品が10点も出ていました。
下村観山は、紀州徳川家に仕えた能楽師の家に生まれ、8歳で上京します。狩野芳崖や橋本雅邦から狩野派を学びました。「騎虎鍾馗」などは、11歳で描いたとはとても思えないほど驚くほどの腕前でした。明治22年、15歳で東京美術学校に第一期生として入学し、横山大観や菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受けます。「観山」の画号は、美校入学の頃から使い始めたようです。卒業後は東京美術学校の助教授となり、若手の育成にあたりながら、自身も制作に励みました。天心が「日本絵画協会」を組織すると、観山は横山大観や菱田春草と共に加わり、めざましい活躍をします。
明治31年、美校内部の確執に端を発し、天心は校長の職を追われることになりました。観山は天心に殉じて、大観や春草らと共に美校を去り、天心や同志と共に「日本美術院」を設立しました。初期の美術院は、空気や光線を表すため、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いた「朦朧体」が試行されたりもしました。その中にあって観山は、古典的な傾向と、朦朧体の傾向を同時に取り組み、堅実な歩みを進めました。
明治34年、観山は美校に教授として復帰しました。その2年後、文部省の銘により英国に渡り、色彩の研究を始め、西洋画の研究や模写を行いました。大英博物館にある模写を映したとされる「椅子の聖母」や、英国留学の後奥州を巡遊し、ウフィッツィ美術館で写したものとされるラファエロの「まひわの聖母」の模写は、板に油彩で描かれた原画の柔らかな明暗を、水彩で見事に絹に写し、観山の技術の確かさを示しています。
一方、日本美術院の活動は次第に停滞し、経済的にも立ちゆかなくなって、観山の帰国の翌年、明治39年には天心の別荘のあった茨城県の五浦に拠点を移すことになりました。観山は、大観、春草、武山と共に一家を伴って五浦に移住しました。しかし、天心が没した大正2年頃は、美術院の活動はほとんど休眠状態となっていました。
大正2年の末、観山は天心を通じて知遇を得た実業家・原三渓の招きにより、横浜本牧の和田山に新居を構え、家族と共に移り住みました。以降、観山は三渓の支援のもとで制作するようになり、二人の交流は観山が亡くなるまで続きました。この年、ボストン美術館の収集活動を託されていた天心が、健康状態の悪化で帰国し、療養中の赤倉の山荘で亡くなります。
天心の臨終に際し、観山と大観は、有名無実化していた日本美術院の再興をはかります。再興美術院の創立同人には、他に木村武山、安田靫彦、今村紫紅、そして洋画家の小杉未醒(放菴)がいました。翌年、天心の一周忌を期して開院式が行われ、第1回再興院展が開催されました。再興された日本美術院展は、大正期だけで13回の展覧会を開いたという。そこには近代日本画の歴史で代表作となるような作品、問題作となるような作品が次々と発表されました。観山は、茫漠とした空間を特徴とする高い精神性に満ちた画面を構成し、自己の頂点を極めました。
狩野派の厳格な様式に基礎を置きながら、やまと絵の流麗な線描と色彩を熱心に研究し、さらにイギリス留学による西洋画研究の成果を加味し、気品ある独自の穏やかな画風を確立した観山。今回の展覧会では、十代の狩野派修行期から、円熟した画技を示した再興日本美術院時代まで、代表作を含む約120点(展示替えあり)により、観山の画業の全容が紹介されています。
展覧会の構成は、以下の通りです。
第1章 狩野派の修行
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
第3章 ヨーロッパ留学と文展
第4章 再興日本美術院
第1章 狩野派の修行
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
第3章 ヨーロッパ留学と文展
第4章 再興日本美術院
「生誕140年記念 下村観山展」
下村観山は、紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれました。幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦に師事して狩野派の描法を身につけ、明治22年に東京美術学校に第一期生として入学し、横山大観や菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受けました。卒業後は同校の助教授となりますが、天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画し、その後は日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くしたことで知られています。大正2年には実業家・原三渓の招きにより、横浜の本牧に終の棲家となる居を構えた、横浜ゆかりの画家でもあります。狩野派の厳格な様式に基礎を置きながら、やまと絵の流麗な線描と色彩を熱心に研究し、さらにイギリス留学による西洋画研究の成果を加味し、気品ある独自の穏やかな画風を確立した観山。本展では生誕140年を記念し、十代の狩野派修行期から、円熟した画技を示した再興日本美術院時代まで、代表作を含む約120点(展示替えあり)により、画業の全容をご紹介します。
岡倉天心生誕150年・没後100年記念
「生誕140年記念 下村観山展」
図録
編集:横浜美術館
発行:横浜美術館
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