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藤野可織の「爪と目」を読んだ!

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とんとん・にっき-tume

藤野可織の「爪と目」(新潮社:2013年7月25日発行)を読みました。


いま、本屋さんでかけてくれたカバーを外してみると、表紙にはうつろな目がアップされている装画が使われています。この装画は町田久美の「みずうみ」(2011)、協力:西村画廊とあります。町田久美の名前は、2011年1月の「DOMZNI・明日展2010」で初めて知りました。「DOMANI・明日展2010」は、若手芸術家を支援する制度、「新進芸術家海外研修制度」で派遣された12名の作家の成果発表の場で、そのなかにデンマークに派遣された町田久美がいました。

国立新美術館で「DOMZNI・明日展2010」を観た!


もちろん、この本の帯には大きく「芥川賞受賞」とあり、また、「あなた」のすべてを「わたし」は見ている――衝撃の第149回とあります。帯の裏側はこうです。


娘と継母。父。喪われた母――。

家族、には少し足りない集団に横たわる

嫌悪と快感を、

律動的な文体で描ききった

戦慄の純文学的恐怖作(ホラー)。


「あなた」のわるい目が

コンタクトレンズ越しに見ている世界。

それを「わたし」の目とギザギザの爪で、

正しいものに、変えてもいいですか?


え~~っ、純文学的恐怖作(ホラー)かよ!

ちょっと違うようだけど、まあ、それでもいいや・・・


藤野可織は、1980年京都府生まれ。同志社大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了(文春の略歴には修士課程修了とある)。2006年、「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞受賞。同作を収録した「いやしい鳥」(文藝春秋)を2008年に刊行する。他の著書に「パトロネ」(集英社)がある。2009年「いけにえ」で第141回芥川賞候補に。2013年「爪と目」で第149回芥川龍之介賞を受賞。


「小説は最初の一行で決まる」と誰かが言っていましたが、まあ、それはあてにはなりませんが、芥川賞受賞時に多くのメディアが、必ずと言っていいほど取り上げていたのが、「爪と目」の最初の部分です。


はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。父は心底すまなさそうに、自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた「はあ」と言った。そんなことはあなたにはどうでもいいことだった。


この冒頭の部分で、「爪と目」の読者は最初から混乱します。いや、作者は意図的に読者を混乱させようとします。早い話が幼い女の子の「わたし」が、「あなた」、つまり父の愛人のことを書いているのです。こういう小説を「二人称小説」と言うのだそうです。しかも、例外的にうまくいってる成功例だという。登場人物は「娘」と「継母」、そして「父」と亡くなった「母」の4人です。これさえ分かれば、話は簡単、どんどん読み進めます。と思いきや、そうは一筋縄ではいきません。「わたしは3歳の女の子だった」、あれ、これは過去形です。娘が3歳の時に書いているのか、いや、娘が成長してから思い出して書いているのか、この辺も落とし穴です。


「爪と目」のタイトル、これは分かり易い。まずは「爪」、母親の死をきっかけに、「わたし」は爪を噛むようになります。しょっちゅう、ぴち、ぴち、と爪をかみ切る音がして、指先は睡液のせいで四六時中冷たい。医者は無理にやめさせようとするのは逆効果で、まずは心の不安を取り除くことだ、と言います。母親の死、これが問題です。自殺なのか、他殺なのか、はたまた? まさにホラーと言われる由縁です。


「目」の方、「あなた」はコンタクトレンズを入れています。中学生の頃からハードレンズを愛用しています。睫毛から落ちたマスカラの粉が目に入り込み、コンタクトレンズと接触し、まばたきをしても痛みが取れません。そういうときは慣れた動作でコンタクトレンズを外し、舌の先で一舐めして装着し直します。あなたと父は、眼科で知り合います。あなたはコンタクトレンズを長時間装用しすぎで眼球に傷をつくっていたこと、父は季節性アレルギー性結膜炎にかかっていたことで、眼科通いをしていました。


何度か眼科のエレベーターで乗り合わせるうちに、二人とも意識しあうようになります。あなたの容姿は取り立てて優れたものではなかったが、あなたには、男性が自分に向けるほんのほのかな性的関心も、鋭敏に感知する才能がありました。それを取りこぼさずに拾い集める才能もありました。手に入るものを淡々と、ただ手に入るままに得ては、手放した。決して面倒くさがらず、また決して無駄な暴走をすることもなかった。そういった事情から、父と関係を持ちはじめてからも、あなたはそれを誰にも悟らせませんでした。


父から妻子がいることを打ち分けられたが、ほんとうは、子供がいようがいましが私には関係ない、とあなたは言いたかったのでした。しかし、1年半が経ち、事情が変わって父が結婚を持ちかけたときには、あなたは彼に小さな子供が一人いることをうれしく思います。20代の半ばにさしかかり、少し子どもが欲しくなってきたからです。しかし妊娠はいかにも面倒くさそうでした。今、妊娠するのは気乗りがしないので、すでに産んである子どもは好都合でした。


わたしの母は事故死でした。少なくとも表向きはそういうことになっていました。父は単身赴任をしており、2週間に一度新幹線に2時間座ってわたしたち母娘の待つマンションに帰る、という生活をしていました。しかし、赴任先で知り合ったあなたと過ごすために、帰宅の約束を反故にし、そのたびに母に電話をし、適当な理由を告げていました。あなたは父の妻に無関心でした。父の子供にも無関心でした。それどころか、父にも無関心でした。


母の遺体を発見したのは、父でした。その週末、父は休日出勤を理由に、帰宅しない予定でしたが、あなたが高校時代の友人の結婚式に出るために、実家に戻っていました。思いがけず予定がなくなったので、連絡もせずに新幹線に乗りました。母が余計な疑いを抱かないよう、帰れるときには帰っておくのが父の方針でした。マンションに着いたのは昼近くでした。寝室では、わたしが両親のダブルベッドでうつぶせになって眠っていました。母がいなかったので、母の携帯に電話すると、すぐそばで着信音が鳴り響きました。見ると、携帯電話は食卓の上にありました。


母の遺体は、父がなんとなしにベランダの窓を開けるまで、固くつめたく強ばって横たわっていました。警察が来て指紋が採られたが、家族3人分のものしか検出されませんでした。わたしの証言は、要領を得なかった。母の死は、事故として処理されました。あなたの母親は、わたしの母が夫の不実を苦に自殺したのではないかと疑っていました。「だって奥さんは私たちのことは知らなかったに」と、あなたはかんたんに言い放ちました。あなたの母親は、残された子どものことも心配でした。


真相がどうであれ、わたしは、ふつうの子どもではなかった。不吉な傷を負ってしまった子どもでした。わたしは、たしかに母の死によって心に傷を負ったのでした。警察に事情聴取されたときの興奮が去ると、わたしはベランダには絶対に近づかなくなっていました。父の死んだ妻は、家事が得意でした。あなたはそうではなかった。父の死んだ妻は、一汁三菜をこころがけていました。あなたの出す料理は大皿に一品と、ひとつかみの生サラダでした。


しかし、父はあなたを手放すわけにはいかなかった。父は、できるだけ早くあなたを妊娠させるつもりだったが、うまくいかなかった。母が死んでから、父は性行為をさいごまでとり行うことができなくなっていた。それだけぼくは傷ついたんだ、と父は言います。父は、自分の能力を確かめるために、別の女性と関係し、不能になったわけではないと知りほっとしました。ただあなたとはできないだけでした。あなたは、父が浮気をしていることにすぐに勘付きました。父はときどき性交を試み、うまくいかないのはあなたの問題であり、父の問題ではないとでもいうような態度でした。


あなたは、いっそ気が樂でした。父が今までの生き方を変えない以上、あなただって今までの生き方を変える必要がないのだから。あなたは、私に飽きてきました。この子は一生こうやっていい子でいるのかな、とあなたは考えました。そして、未来のことを考えました。あなたは若かった。いつでもこのマンションを出て実家に帰ることもできます。男と出会い、結婚することもできます。


あなたは、ほどなくして愛人をつくりました。きっかけは、本でした。父が突然「本を処分しよう」と言いました。インターネットで近所の古書店を検索しました。本を引き取りに来た男は、あなたと年が変わらないように見えました。古本屋は「なんかおしゃれな家っすね」と言った。わたしが幼稚園に行ってる間に、あなたたちは週に二度三度、彼のアパートで会うようになります。あなたは古本屋に言われてはじめて、父が旧居から持ち込んだ家具が、行き当たりばったりに買いそろえられたものではないことに気がつきます。ネット上で部屋の設えについて検索するうちに、父の死んだ妻が選んだウォールナットの家具類は、ネットの向こうでもてはやされている価値観と合致していました。


この2ヶ月で、あなたのパソコンには数多のブックマークが登録されました。新しく設置され、あるいは更新を止めたものも、管理者が死んだものもありました。少なくとも、一つはそうです。私の母のブログで、あなたのお気に入りのブログです。「透きとおる日々」と題されたブログです。そこに写されている家具と、身の回りに置かれた家具を見比べました。管理者の名前はhina*mamaでした。私の名前は陽奈(ひな)でした。更新は昨年の秋で途絶えていました。最後に記事には「ベランダから見える空が好き。ウンベラータが欲しいな。」という記述がありました。


古本屋が突然訪ねて来たとき、わたしは幼稚園から帰っていました。あなたはまる1ヶ月も古本屋からのメールを無視していました。「え、ごめん、でも急に、困る」とあなたは言った。あなたはわたしの両肩をそっと押して、すばやく窓を開けると、「すぐだから。5分くらい」と言って、わたしをベランダに押し出し、錠をかけ、カーテンを引きました。「なんでメールの返信をしないんだ」と古本屋は言います。「いそがしくて」とあなたは答えます。がん、と音が立った。「もう会わないんならそれでもいい、でも明日さいごにもう一回ゆっくりはなしをしよう」と言い、あなたを振り返りながら出ていきました。あなたがカーテンを開け、錠を外すあいだも、わたしはてのひらを窓に叩き付けていました。


翌朝、わたしはいつもどおりに幼稚園へ送られていきます。あなたは古本屋との約束を守り、古本屋のアパートを訪ね「これでさいご」と言いました。古本屋はあなたをベッドに寝かせ、おおいかぶさってくると、あなたの右のまぶたを舌で押しあげ、、眼球の上に載ったコンタクトレンズを器用に舐めとりました。左目のまぶたもこじあけられて、左目のレンズも舐めとります。「これから、子どもを幼稚園に迎えに行かなくちゃ行けないのに」とあなたは言います。コンタクトレンズもメガネもなしに外を歩くのは小学生以来のことでした。見慣れた幼稚園も、ほんものらしくなかった。あなたは幼児の声と大人の声の混じるなかを、水中を進むようにふわふわと歩きます。


「傷跡が残ったらどうするつもりなんですか」「もう少しで目だったんです、もし目に当たっていたら、大変なことに」と言います。あれはほんとうに起こったことだったんだと、あなたは思いました。わたしが暴れて何人かの園児を負傷させたのだということが、あなたにもわかってきました。「陽奈ちゃんは、噛んでぎざぎざになった爪で、みんなを引っ掻いちゃったんです」と先生はあなたに報告しました。「陽奈ちゃんは、ごめんなさいもいわないんです。いつもはそんな子じゃないのに。陽奈ちゃん、どうしたの?」「すみません」とあなたは言いました。


あなたはドラッグストアに寄って、透明のマニキュアと爪やすりを買いました。マンションに帰り着くと、あなたは眼鏡をかけて、わたしを食卓の椅子に座らせ、わたしの爪にやすりをかけ、マニキュアを塗りました。「マニキュアを塗ってあげるから、もう噛んじゃだめ」と、あなたはおだやかに言いました。まぶたにおおわれたあなたの目の奥は、じくじくと痛んでいます。新しい眼医者を探そうとあなたは思った。眠りながら、あなたはひとの気配を感じていました。やがてその気配はあなたの顔におおいかぶさってきました。あなたの片方のまぶたが、こじあけられました。次いで、磨りガラスのように不透明で、いびつな円形のものが眼球に押しあてられ、凄まじい痛みがやってきます。


胸の上にわたしが乗り上がって、膝であなたの肘を押さえています。わたしは、あなたのもう片方のまぶたも押し上げます。そして、さきほどと同じものを眼球に載せました。あなたはその異物を魚のうろこかなにかだと思ったが、それはちがう。わたしが、よく訓練された歯を使って、左右の親指から剥がしとったマニキュアの薄片でした。「これでよく見えるようになった?」、あなたは答えなかった。あなたには意味すをなすものはなにも見えなかった。光だけがあった。あなたの体から、あなたの過去と未来が同じ平明さをもって水平にぐんぐん伸びていくような気がした。ただあなたが過ごしてきた時間とこれからあなたが過ごすであろう時間が、1枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた。


今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くにやってきているのが見えている。わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ。


選考委員の小川洋子は選評で、次のように書いています。「爪と目」が恐ろしいのは、3歳の女の子が、あなたについて語っているという錯覚を、読み手に植えつける点である。しかも語り口が、報告書のような無表情なのだ。弱者であるはずのわたしは、少しずつあなたを上回る不気味さで彼女を支配しはじまる。2人がラスト、あとはだいたい、おなじの一行で一つに重なり合う瞬間、瑣末な日常に走る亀裂に触れたような、快感を覚えた。広く世界へ拡散するのでもなく、情緒を掘り下げて行くのでもない方向にさえ、物語が存在するのを証明してみせた小説である。


とんとん・にっき-bunsyu 「文藝春秋(平成25年9月号)」

平成25年9月1日発行

発行所:株式会社文藝春秋


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