「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」展
関連講演会「速水御舟と院展の画家たち」
講師:山崎妙子(山種美術館館長)
日時:2013年8月10日(土)17:00~18:30
会場:國學院大學 院友会館
以下、山崎妙子、講演要旨
今回の展覧会は「速水御舟」展ではなく、「再興院展100年記念 速水御舟―日本美術院の精鋭たち―」展です。山種美術館の日本美術の所蔵品は約1800点、そのうち奥村土牛が135点、速水御舟が120点、所蔵しています。川合玉堂は70点、横山大観の作品は61点、所蔵しています。横山大観の「心神」は、美術館を作るなら、という条件で購入を許されました。「山崎さん、お金儲けもいいけど・・・」と、大観に言われたという。小林古径の代表作「清姫」もやはり、将来美術館を作るのならと、譲り受けました。
「山種美術館」の書は、安田靫彦が美術館竣工記念展のために書いていただいたものです。他にも何人かの画家に描いてもらっていますが、それらは第2展示室に展示しています。私の父、山崎富治も画家との交友が深い。富治が感じとなって、横山操、加山又造、平山郁夫という当時有望な画家と、年に数回「四方山会」という懇親会を開催しました。富治も含めて4人の名前に「山」が付くことから名付けられました。4人で新潟へ花火を見に行ったこともありました。
岡倉天心は、画家ではなく、思想的なリーダーでした。横山大観、下村観山、菱田春草は、院展の第一世代でした。小林古径や安田靫彦は第二世代、速水御舟は第三世代になります。「日本には素晴らしい古美術がある」という天心からの教えに従い、東京美術学校を卒業した横山大観、菱田春草たちは、帝国博物館の模写事業に参画します。大観は「孔雀明王」を1895(明治28)年に模写します。
自分(山崎妙子)としては、それまで大観は好きではなかった。この模写を観たときに、あまりにも素晴らしかったので好きになりました。牧谿(もっけい)の「観音猿鶴図」(大徳寺)の影響が強いことは明らかですが。観山もラファエロとかミレイの西洋画を模写しています。春草も「一字金輪像」(東京国立博物館)を模写しています。春草は色を出すのが上手い画家です。春草の「釣帰」1901(明治34)年は、最も朦朧体の特徴が出ています。
横山大観は、次のように言ってます。
私や菱田君が岡倉先生の考えに従って絵画制作の手法上に一つの新しい変化を求め、空刷毛(からばけ)を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢えてしたことが、当時の鑑賞界に容れられず、所謂朦朧派として罵倒を受けるに至ったもので、此特殊な形容詞は当時の新聞社諸君の命名したものであった。(横川毅一郎「大観自叙伝」中央美術社 大正15年)
それまで日本画は空気を描くということがなかった。いわゆる朦朧派として罵倒を受けます。朦朧体には一種ターナーの空気感があります。当時としては革新的でした。春草の「月下牧童」の頃になると、多少輪郭線が戻ってきています。大観の「菜の花歌意」は最も朦朧体です。観山の「不動明王」、人体表現が素晴らしい。天心がアメリカへ行きます。ボストン美術館所蔵の日本美術コレクションの調査と目録作成のためです。大観や春草も共に行きます。ニューヨークやボストンで展覧会を開きます。絵を売っています。アメリカでも見直されるようになった。その後、五浦に移ります。大正2年に岡倉天心は亡くなりましたが、大正3年に再興院展が開催されます。
大観の「喜撰山」1919(大正8)年、群青とか緑青をたくさん使っています。全体に青と緑ですが、金を刷り込んだ紙を使っています。大観の「木菟」1926(大正15)年も出ています。御舟は昭和5年、35歳の時にヨーロッパへ行きます。イタリア政府が主催した「ローマ日本美術展覧会」が開催されたことにあわせて、御舟は単身で渡欧します。その後10ヶ月間ヨーロッパ各国を歴訪し、建築や美術を観て回ります。20年前に御舟の奥様にお会いできました。ヨーロッパを回った時の写真や手紙を見せていただきました。御舟は家では絵は描かず、サラリーマンのように通っていました。子供を可愛がりました。奥様や娘さんが資料を整理してあったので、当館でも展示させていただきました。
奥様の話では、御舟はエル・グレコを観たいと言っていた。たくさんグレコの写真を持ち帰っています。御舟は人物画はほとんど描いていません。今村紫紅の「早春」1916(大正5)年が出ています。田園風景を大胆な構図と落ち着いた色彩で描いています。早くに亡くなったので、ヨーロッパへは行っていない。古径や青邨はヨーロッパへ行ったことで日本的に、細かい輪郭線を描くようになります。御舟はヨーロッパへ行ったことで、逆に洋風になります。みんな画塾で学んだ人たちで、人体デッサンはやったことがなかった。白樺派の雑誌などから西洋の影響を受けながら、風景をトリミングして描きました。「新南画」と言われ、狩野派のようではなく、情緒的な風景画を描きました。
御舟の「錦木」1913(大正2)年の作品、琳派的なものを意識して、白いところだけ胡粉を使い、こだわって描いた。「山科秋」1917(大正6)年は、新南画風ですが、色にこだわって描いています。小茂田青樹「丘に沿える道」1920(大正9)年、明治以降、厚塗りのように見えますが、山水画から風景画になっています。小茂田は御舟とは仲が良かった。今村紫紅を中心に「赤曜会」が結成されます。速水御舟、小茂田青樹、富取風堂、小山大月らが参加しました。
今村紫紅は、以下のように述べています。
日本画なんてこんなに固まってしまったんでは仕方がありあしない。兎に角派カウするんだな。出来上がってしまったものは、どうしても一度打ち壊さなくちゃ駄目だ。そすと誰かが又建設するだろう。僕は壊すから、君達建設してくれ給え。(神崎憲一「塔影」11巻5号 昭和10年)
御舟の「桃花」1923(大正12)年、長女の初節句のために描かれたものです。長女は、聖心女子大学の母体であるカトリック聖心会の東洋管区長であられた「シスター速水彌生」さんです。皇后様が当館へ来たときに、この絵を熱心にご覧になっていました。御舟は舞妓さんの絵も描いていました。奥様に帰ってくるまでに破いておくように、と言いつけて出かけたら、奥様は細かく切り刻んでしまったという。舞妓を描くのであれば御舟を辞めさせてしまえと大観は怒ったという。古径はそれならば自分の辞めると言って、御舟は助かりました。それほど御舟と古径は仲が良かった。
目黒の家で2時間も3時間も絵の話をしていて、奥様はなんの話をしているのだろうと、不思議に思ったという。御舟はデューラーなど、北方ルネサンスを意識していました。御舟の絵としては珍しい「灰燼」1923(大正12)年は、関東大震災の様子が描かれています。人はまったくいません。手前の瓦礫はキュビスムでしょう。「春昼」1924(大正13)年、茅葺きの民家を描いたもので、人はまったくいない静かな絵です。家の中に梯子が見えます。「百舌巣」1925(大正14)年、羽に金泥を使っている可愛らしい作品。12世紀の猿を描いた絵から学んでいます。
「炎舞」1925(大正14)年教科書や切手でよく知られています。奥様から聞いた話では、これは軽井沢に滞在しているときに描いた。御舟は毎晩焚き火をしてその炎をじっと眺めていたという。平安(鎌倉?)時代の「不動明王二童子像(青不動)」から炎を学んでいます。意図的にすべての蛾が正面を向いて、螺旋形に上に昇っています。バックの闇は非常に深い紫です。御舟はもう一度描けと言われても、もう描けないと言ったという。御舟は「昆虫写生図巻」1925(大正14)年を描いています。「昆虫二題 葉陰魔手・粧蛾舞戯」1926(大正15)もあります。
山種美術館45周年の時に一般の人にアンケートをとったら、1位が「斑猫」、2位が「炎舞」でした。専門家になると逆転し、1位が「炎舞」、「斑猫」は3位でした。
速水御舟の言葉。
梯子の頂上に登る勇気は貴い、サラにそこから降りてきて、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。大抵は一度登ればそれで安心してしまう。そこで腰を据えてしまう者が多い。登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把握者である。(「美術評論」4巻3号 昭和10年)
御舟は今までのスタイルを捨てて、一からやり直します。これは勇気のあることです。スタイルが決まってしまうと、画商がいたりして、そこから抜け出ることができなくなってしまいます。御舟は奥様に「これからは売れない絵を描くから、覚悟しておけ」と言ったという。家族が住んでいたのでは描きたい絵が描けないので、最初は小笠原に住まいを移すと思ったが、家族がもう少し近いところにと言ったので、西伊豆に決めて切符まで買ったが、急に亡くなってしまいます。
「翠苔緑芝」1928(昭和3)年、シスター速水彌生さんが言うには、彌生さんの結婚式の時に屏風として使いたいと言っていたが、彌生さんは一生独身でした。紫陽花の感じを出すのに、いろいろな薬を取り寄せていたと、奥様は言いました。「紅梅・白梅」1929(昭和4)年、当時は今ほど琳派は知られていなかった。大観も御舟も、琳派風の絵を描くようになります。私は御舟には他の画家にはない怖いものがあると感じて、御舟の研究をするようになりました。「豆花」1931(昭和6)年、森村泰昌さんが当館に来たときに、アール・ヌーボーの感じがすると言っていました。紫の色が綺麗です。
今回の展覧会で最初に出したのは「牡丹花(墨牡丹)」1934(昭和9)年です。逆転の発想です。花を敢えて墨にして、葉に色をつけています。花の部分だけ、滲ませています。御舟のコレクターに武智鉄二さんがいます。今回は出ていませんが、「秋茄子」が素晴らしいと絶賛しています。後年、絵が早く出来過ぎて困る、と御舟は言っていました。最晩年の作品に、未完の絶筆「盆栽梅」1935年があります。構想の過程がうかがえるスケッチや原稿類があります。
戦後の院展出品作
前田青邨の「大物浦」1968(昭和43)年は大きな作品で、琳派的なものを意識しています。青邨は「腑分」1970(昭和45)年もあります。小倉遊亀の「舞う(舞妓)」、「舞う(芸者)」1971、72(昭和46、47)年、床の間に飾る作品ではなく、展覧会の会場で映えるように、次第に作品が大きくなっていきます。日本画が変わっているのが、院展を観ただけでも分かります。
次回は「古径・土牛」です。来年1月3日からは「かわいい日本画」展、副題は「若冲、栖鳳、松園から熊谷守一まで」です。来年は50周年、「速水御舟展」を企画しています。出品作家の生没年一覧を見ただけでも、早死にした人と、長生きした人が分かります。日本絵の具は天然のミネラルが入っているので、それが良かったのか?長生きした方が作品も多く残っています。皆さまも長生きするように願っています。