丸谷才一:略歴
小説家、文芸評論家、英文学翻訳家。1925年山形県生まれ。東京大学英文科卒業。日本の私小説的な文学を批判し、古今東西の文学についての深い教養を背景に、知的で軽妙な作品を書いた。「笹まくら」「年の残り」「たった一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」などの小説の他に、「忠臣蔵とは何か」「文章読本」「新々百人一首」などの評論、随筆、ジョイスの「ユリシーズ」などの翻訳と幅広い分野で活躍した。書評を文芸の一つとして位置づけることにも取り組んだ。2011年文化勲章受章。2012年永眠。
「忠臣蔵とは何か」について
関容子:略歴
エッセイスト。1935年東京生まれ。日本女子大学卒業。「日本の鶯―堀口大学聞き書き書」は大学と丸谷の対談に構成者として同席したことがきっかけで生まれた。ほかに「花の脇役」「芸づくし忠臣蔵」「海老蔵そして團十郎」「新しい勘三郎―楽屋の顔」などがある。
「忠臣蔵とは何か」は、丸谷さんの評論活動のなかでも特異な重要さを占める著作です。関容子さんは忠臣蔵に関する著作をお持ちになるばかりでなく、歌舞伎の世界の現場の事情も知悉しておられる演劇通です。「忠臣蔵とは何か」に展開される議論の機微を深めるのに、打ってつけの方といえます。丸谷さんの独自の創見がどのようなものになるのか。改めて解きほぐされるに違いがありません。(菅野昭正館長)
関容子:
丸谷先生の「忠臣蔵とは何か」という本はどういう本か、「あとがき」に次のようにあります。
これは忠臣蔵といふ事件と芝居を江戸時代の現実のなかに据ゑながら、しかも、古代から伝わるわが信仰と関連づけ、さらには、もつと普遍的な(全世界的と言ってもいいかもしれない)太古の祭とのゆかりを明らかにした本である。
書き出しは、芥川龍之介と徳富蘇峯の座談会での発言です。芥川の亡くなるちょっと前の発言です。まず芥川の発言。「元禄の四十七士の仇討の服装といふのは、あれは元禄でなければ無い華美な服装なものですね。あの派手な服装は如何なる時代にもなかってやうですね。前時代から生き残った古侍があの服装を見たらさぞ苦々しく思ったでせう」。徳富蘇峯が上機嫌で次のように言います。「彼等はなかなか遊戯気分でやってゐるんです」と。座談会の常として、話題はすぐ別のことに転じてしまい、忠臣蔵論はこれだけでした。しかし丸谷先生は、「これだけでも重文に値打ちがある」と続けています。
この時36歳の小説家と、65歳の歴史家とは、忠臣蔵を解明するための最上に手がかりを、つい口にしてしまった。他の忠臣蔵論のなによりも、遙かに洞察に富んでいるように、あるいは少なくとも刺激的であるように思われてならない、と丸谷さんはいう。このとき芥川の念頭にあったのがどういう服装だったのか、史実のほうの衣装なのか、芝居のそれなのか、一概には決しにくい難しい問題である。赤穂浪士はあの夜、芝居で見るあのいでたち、左の選りに元禄十五年極月十四日、右の襟には播州赤穂浅野内匠頭家来何のなにがしと書いた白布をつけ、黒と白の山形模様(三角鱗形)を袖に染めた小袖、という服装で討ち入りしたのではなかった。揃いの火事衣装で敵の邸を襲うのは歌舞伎と人形浄瑠璃の工夫で、史実とは異なるのである、と丸谷先生は言います。
丸谷先生は、幾つかの例をあげて火事装束でなかったことの傍証としています。どうやら一体に、機能性を重んじながら、しかも華美で贅沢な服装だったらしい。彼等はいわば華麗な夜盗のいでたちで吉良の邸に乱入します。蘇峯が評して、「これを見ても元禄武士の何者であるかが、想像せらるるのみでなく、また元禄時代そのものが、躍如として活現せらるる感がある」と言うのは、この派手好みに喝采しているのであると、丸谷先生は言います。そして蘇峯の「彼等はなかなか遊戯気分でやっているんです」という台詞は、史実の討ち入り装束がてんでんばらばらでありながら華美でしかも機能性に富むよりはむしろ、ユニフォームになっている芝居の衣装のほうに一層ふさわしいような気がしてならないと、丸谷先生は別のところで言います。
日本人は300年の間、殊にこの100年間はなおさら、赤穂の浪士を武士の鑑と見なし、彼等の仇討ちは武士道の精華であると考えた。あるいは、そういう考え方を何となく受け入れて、別に疑おうともしなかった。どうやら、君主の敵を討ったから忠義であり、そして忠義は武士の徳目の最たるものだからあれは武士道というわけらしい。だが、四十六人がどんなに忠節の士であっても、怨恨が猛威をふるうことをもし彼等が信じていなかったならば、あの仇討ちは起こりえなかったであろう。(「忠臣蔵とは何か」本文より)
「3 劇的な事件」で、江戸時代は鎌倉時代に兄事していた。鎌倉時代を直接のように見なして、これに学ぼうとする気持ちが強かった、と丸谷先生はいう。江戸時代は、曾我兄弟の仇討ちに共感を持っていました。元禄16年、関東に大地震が起こります。これは浪士たちの怨霊だ。綱吉の悪政に悩まされていた。曾我ものを元禄元年、江戸の中村座、市村座、山村座の三坐揃って上演しました。曾我兄弟の怨霊。富士山の噴火、干ばつ、綱吉が10日に亡くなり、11日から雨が降り出す。本当にみんなが幸せになったので、正月の公演は、必ず曾我もの語りをやる。縁起がいいということで演じられている。今でもたくさんの曾我ものが上演されている。
歌舞伎は怨霊をおさめるもの。小栗判官、義経、道真、歌舞伎の人たちは敬って恐れていた。丸谷が出すまでは、特にそうは言われていなかった。丸谷は「カーニバル」と言った。判官は美男子、短慮、さっさと腹を切ってします。カーニバルのキャラクター。横恋慕の悲劇性。三代目菊五郎は立っているのが一番良い。昔の團十郎型は地味な演出でした。丸谷先生の「忠臣蔵とは何か」は、今まで漠然として見ていた忠臣蔵を、がらっと変えた大きな発見であると思います。先日亡くなった勘三郎が、この本を愛読していました。
勘平お軽ではなく、お軽勘平である、という書き出しで「6 祭りとしての反乱」は始まります。勘平のあつかいで作者の腕が最もよく発揮されているのは、彼が極めてて面的な登場人物だと言うことである、として、勘平のいろいろな局面を並べています。
まず靖年であり、次に大名に仕える武士であり、第三に腰元の恋人である。第四に駈落者であり、それゆえ第五に浪人であり、第六に「大事の場にも居り合わさぬ不忠者だが、それにもかかわらず第七に忠臣であり、第八にそのことを証明して復讐の仲間に加えてもらおうと努力する律儀な男である。第九に猟師であり、第十に百姓家の娘の夫であり、第十一に百姓夫婦の婿であり、第十二に金策に困り抜いている貧乏人であり、第十三に遊女の夫である。ここから話は厄介になるが、第十四に過失致死及び窃盗の犯人であり、第十五に過失致死及び窃盗の主観的な容疑者であり、第十六に殺人および強盗の客観的な容疑者であり、第十七に自殺者であり、第十八に殺人強盗の冤罪の張れた青天白日の身の男であり、第十九に姑の仇を討った孝子であり、第二十に討ち入りに参加する亡霊である。(「忠臣蔵とは何か」本文より)
丸谷先生は、普通はこんなこと考えないよね、と勘三郎さんと話していました。血で濡れた財布、それがもとで勘平が腹を切ることになったのを悔やんでいました。財布の焼香は、丸谷が気にいっていました。綺麗な結末が付くこと、大団円の結末が付くこと。平成中村座でやるときは、丸谷が勘三郎に頼んでいました。丸谷が書いた本が歌舞伎役者に大変刺激になっています。仁左右衛門が今度は北野天満宮でやりたいと言っていた。勘三郎は喧嘩っ早いところを受け継いでいるのでといったら、丸谷はそれはよくないから、評論家が何を言っても僕に言ってもらえば、代わりに代筆してあげるよと言っていました。穏やかにやってあげると、意気投合していました。
丸谷と勘三郎と関、三人で新年会をやっていました。しかし、勘三郎さんも丸谷さんもお亡くなりになりました。去年、二人ともお亡くなりになったのはたいへん残念です。
会場からの質疑1:
この本に対する歌舞伎界の反応はどうだったか?
開場からの質疑2:
歌舞伎はバロック演劇の影響を受けているとの説もあるが?
「連続講座 書物の達人 丸谷才一」
丸谷才一氏の文学の仕事は、振り幅がまことに大きくひろがっていました。長篇小説と短編小説。「源氏物語」と王朝和歌をはじめ、日本文学の伝統を新しく考え直す論考。明治以降の近代文学をめぐる新鮮な創見。イギリス文学を中心とする西欧の古今の文学にむけた、独自の卓見。とくにジェイムズ・ジョイスの研究および翻訳。豊かな学識を知的なユーモアを溶けあわせた随筆。丸谷氏は連歌、俳句の実作にも成果をあげました。対談あり鼎談あり各種の座談の名手でしたし、さらに会合や儀式の挨拶を掌編文学とでもいうべき佳品に、結晶させてしまう妙手でもありました。それほど幅ひろい卓越した業績すべてに亙って、隅々まで総合的に俯瞰し、そして筋道を通すのは決して易しい試みではありません。私ども世田谷文学館ではその難問に挑むべく、このたび講演シリーズを開催することにいたしました。丸谷氏の文業に親しく接してこられた方々を講師にお招きして、豊富な文学的遺産を総覧する充実した催しにしたいと願っております。丸谷才一氏の仕事を通して、日本文学の現在と未来をあらためて熟考する機会になるものと信じ、多数の方々のご来館を期待しております。
世田谷文学館 館長 菅野昭正
講談社文芸文庫
著者:丸谷才一
1988年2月10日第1刷発行
2011年7月1日第13刷発行
発行所:講談社