「官能的なものへの寛容な知識人」
鹿島茂:
仏文学者、明治大学教授。1949年神奈川県生まれ。東京大学大学院卒業。主な著書に「馬車が買いたい!」「子供より古書が大事と思いたい」ほか。「千年紀のベスト100作品を選ぶ」「文学全集を立ちあげる」などで丸谷才一との対談、鼎談が数多い。
鹿島茂さんは文学のみならず、近代西欧文化・文明の歴史の裏表に関心をそそぎ、博大な職見を蓄えてきた評論家です。丸谷さんとの鼎談、座談の回数を重ねてきたのも、そうした蓄積があったればこそです。そんな機会に接した知識人としての丸谷さんの風貌、小説・評論を通して理解した文学者としての丸谷さんの姿勢など、この機会に鹿島さんならではの見解に耳を傾けたいと思っています。(菅野昭正)
館長・菅野昭正:
鹿島さんは大変映画を愛好されていました。映画について感想を書いていたが、落ち込んでいたので、どうしたのかと聞いたところ、ノートを無くしてしまったと言っていました。丸谷さんと親しかった篠田一士、ともにスクラップを作ることに熱心でした。スクラップを作るのに毎日がいいか、一週間ごとがいいか、論争を始めました。そういうことって、ある種の技術が必要なんですね。鹿島さんも同類項、と言っていいのか、年齢にして20歳ぐらい違いがある評論家から見た「丸谷才一論」を、今日は楽しみにしています。
鹿島茂:
今、小林秀雄論を書いています。図書館に河上徹太郎全集を借りに行ったら、その月報に、丸谷さんが書いていました。河上徹太郎の評論家の特色として、官能的な部分をしっかりと理解した人だと書いていました。私はそうだ、そうだ、丸谷さんだよ、と思って帰ってきました。しばらくすると、亡くなったという知らせが届いてビックリしました。丸谷さんの文章を最初に読んだのはいつだったか。若い頃、歯医者に通っていた時に、エッセイを読みました。初期の丸谷のエッセイでした。夕刊フジの「男のポケット」は名エッセイです。高校1、2年生の頃、図書館にあった文学雑誌で、海外の文学の紹介記事、海外の新しい作家の「事典」、私の先生の館長(菅野さん)、清水徹とかからも聞きました。僕は卒論を「クロード・シモン」をやりました。あれはすごかった、と言うと、丸谷はあれは私がやったんだ、と平然と言いました。
編集者として、才能を集めてきて、それぞれを超えたものを、上回るものを創り上げる。アンソロジストとしての文学全集を作った。20世紀の新しい作家を取り上げた。今、ああいう風のものをできる人はいません。現実に文学全集はできなくなってきています。架空であればいいだろうと、三浦、鹿島、丸谷、三人で一冊になっている「文学全集を作る」.、アンソロジストとしての丸谷の一面が出ました。いい作品でした。丸谷さんは、元気で最後まで頑張っていた。丸谷として名を上げたのは、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」でしょう。モダニスト文学としての文学として、19世紀のロマン主義からシュルレアリスムまで、それに対してアンチテーゼを唱えた文学。この世に新しいものはある。新しいものを見つけた人は勝ち。新しいものはいいものだという考え。新しいものを発見した人は偉い人だ。スペインやトルコなど、遠方志向。時代を遡った中世の発見。自然主義は現実の中に新しいものはあるんだという考えです。象徴主義は中間的です。
モダニズムの本質は、新しいものには新しいものはない。我々がリクエートするのはどこにあるか。あるものは、配置転換とアレンジメントです。パスカルも全部アレンジメントです。モダニズムの基本姿勢だ。その最たるものは言語だ。言語は他人の言葉だ。他の人が使ってきた言葉だ。言語に新しいものは存在しない。ジョイスはそういう風な技法で書いている。全部言われてしまっているから、アレンジメントしかないと。字面だけ追って通俗小説として読むことも、丸谷さんの小説を読む時は、どこに参照例があるのか、深く読んでいくと読解が可能です。丸谷さんは論話が好きだったんですね。論話は共有しないと成立しない。お互いに会話が分かる人物として認定された。もう一段階、自身のプライベートの核心に迫るものがある。「樹影譚」という小説、SFから始まります。ある時手紙を受け取ってウンヌンという小説。最低、丸谷さんの小説は、通り一遍の読み方をして、もう一編読み直して二度目読み、円環構造を描き、やっと根本的な意味に到達します。
仲間での議論を愉しむ。國學院大學、館長の菅野さんも、國學院で教えていました。僕も國學院に語学で非常勤で勤めた。國學院はお金が無く、個室の研究室が無く、共同の大部屋が研究室でした。大きな円卓があって、これがとっても楽しい経験でした。それぞれの語学の変わった「事典」を集めてきたりして愉しみました。この伝統を作ったのが丸谷さんでした。
その後丸谷さんとの個人的な関わりを述べると、毎日新聞の書評欄を全面的に変えることを、丸谷さんは新聞社から言われていました。書評の方針として、「丸谷書評三原則」を作った。書評委員会方式は止め、それぞれの書評委員が取り上げること。書評は新聞に載るものだから、書き出しの三行で決まるので、そこに重点をおけ。要約をしっかりしろと言った。書評の役割は、一ページで頭に入るように書け。私は三原則にいたく感動し、なるほどと思い、その後の自分の指標にもしました。
「現代」という雑誌の座談会に招かれました。鹿島茂のセックスを取り上げるようになったのは、私の功績であると丸谷は言いました。いつの間にか、私はこの方面の第一人者となっていた。対談で言いたいことを延々と言う人は困りますが、丸谷さんはその点上手い、ちゃんと回します。丸谷さんの会話、談話、常に他者がいて、小説なりエッセイを進めていきます。丸谷さんの敵である「私小説」は、俺が俺がで進んでしまいます。丸谷さんは本当に私小説が嫌いでした。丸谷さんはモダニズム、モダニズムはアンソロジー、対話をしながら選択が大事なんです。
一番評価していたのは「勅撰和歌集」です。選ぶということ、選んだ人を批判する人。「新古今」は丸谷が一番好きでした。新しいものはひとつもない。あるとすれば選択と配列だ。丸谷さんは、全ての面で一貫していた人だなと思った。丸谷さんはグルメだった。食道楽は、丸谷的方法の全てだった。選択と配列そのものだった。食べる時は、話し相手があって、会話とリンクさせたから、丸谷的なものをリンクさせていく。丸谷は一時的レベル、通俗的、第二次レベル、第三次的レベル、自己表現。全てがそうでした。
どの辺にあるのか、おそらく早い時代に自己を完成させていたのではないか。そういう少年にとって、何が嫌だったのか。性的なものに対する非寛容だったのではないか。人間的なものにとっての最後の砦、守るべきものはそこのところにある。官能的なものを肯定するか否定するかであって、そこを侵略されたら抵抗する。最終的に文化の砦としての官能的なもの。
次になにを書くのか、丸谷さんに聞いたことがある。「今度は僕は警察に捕まるかもしれない」と言ったが、実現しなかった。病院での苦痛は食事だろうと思ったので、知り合いの料亭で作ってもらったものを持っていったら、喜ばれました。丸谷さんは、折口信夫が好きだった。特に「死者の書」は僕には全然分からなかった。官能的なものを軍国時代に評価したからだと思った。「新古今」、官能的なもの。武家社会になって、それでも止めないで最後の砦となったのが「新古今」だった。丸谷は、官能的なものを評価した。鹿島の、丸谷から引き出された才能、エロチックなもの。今週も週刊誌2誌から「老人のセックス」についてコメントを書いた。丸谷の最後の小説「樹影譚」、最終的にルーツを辿った。
今後、丸谷さんの研究が進んでいくと思いますが、丸谷さんが愛した作家は共通している。自分を出したい、自分を隠したい、そのせめぎ合いの中から生まれてくるものが好きだった。それが折口信夫だった。河上徹太郎はマル、小林秀雄はバツ。基本的には小林秀雄は、丸谷が一番嫌いな私小説家だった。「人生斫断(しゃくだん)」、それがランボーだった。小林秀雄は一気に到達したい、その性急さが若い人に人気のものだったが、丸谷さんの最も嫌いなところだった。小林秀雄のファンは、仏文学者と左翼、そして右翼だった。「人生斫断(いきなり)」。「人生、いきなりとはないんだよ」と丸谷は言う。アンチシャクダン。この元は鶴岡にあるんじゃないかと思う。それにしても「人生斫断」にならなかったのは、よくわからない。
一つあるとすれば翻訳の世界。アラン・シリトーの「長距離ランナーの孤独」の中にこういう一節がある。「奴らはずるい」。しかし考えてみると「俺も負けずにずるい」と。私はそれに感化されてしまった。丸谷はイギリス文学から多くを学んだ。丸谷さんは若い頃から一貫して変わらない人だった。座談が好きでしたが、受け渡していくということで、自分も賢くなっていく。私は丸谷からいろいろ影響を受けたが、「寛容である」ということ、そこを第一に認めること。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の最後にある「モーリーの告白」がそうです。丸谷さんの想い出が次々と思い出される。よく手紙をいただきました。僕は返事の代わりに、旅へ出た時必ず「おみやげ」をあげました。僕はこれを「おみやげコミュニケーション」と読んでいます。ある時、これを君にあげるよと、堀口大学の色紙をいただきました。「官能的なものがんばれ」というメッセージだと思って受け取りました。
会場からの質問その1:
丸谷はエッセイで阿部貞を書いているが?
阿部貞事件は昭和11年、2.26事件のあった年です。丸谷の中に阿部貞事件が刷り込まれていたんじゃないか。そっちへ行かないためにも、カウンターとして書いたのではないか?
会場からの質問2:
丸谷は美食随筆が多いが、ある時から書かなくなってしまったのはなぜか?
丸谷は食べ物に関して非常にレベルの高い人でした。神田の「いもや」で天ぷらを食べると、君は「いもや」かと馬鹿にされた。味もセックスも言葉にならない。言葉にならないものを書く。永井荷風に対して異常に対抗意識を持っていた。永井は「四畳半襖の下張り」を一つ書いています。丸谷も、究極のエロ本を書きたかったのかもしれません。
会場から突然、「東京の海苔問屋の事務員をしていた頃、海苔がまずいと書いていたので、私はそれに抗議して手紙を書きました。それが書かなくなった原因かも?」と。
「食通知ったかぶり」に酒田の「ポトフ」は美味しいとあったので行って食べたら美味しかった。酒田と鶴岡は敵対していたのですが…。
(終わり)