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連続講座「書物の達人―丸谷才一」、岡野弘彦「快談・俳諧・花柳」!

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連続講座「書物の達人―丸谷才一」もはや3回目、今回は岡野弘彦の「快談・俳諧・花柳」です。

岡野弘彦:略歴

歌人、國學院大学名誉教授。1924年三重県生まれ。國學院大學を卒業。宮中の歌会始召人を務めた。主な著書に「バグダッド燃ゆ」「折口信夫の晩年」「神がみの坐」ほか。丸谷才一、大岡信と「歌仙の愉しみ」などを編み、含蓄豊かな座談を展開した。


岡村弘彦さんは丸谷さんとともに、現代に連歌を再興する見事な成果をあげられた方です。また宮中の「歌会始」の召人を務められる歌人、古典に通暁する国文学者として、丸谷さんの王朝和歌や「源氏物語」を論じた業績をめぐって、行きとどいた理解を深めてこれたと推量されます。その面での掛けがいのない最高の知己の、含蓄に富むお話がうかがえるまたとない機械となることでしょう。(菅野昭正)


館長挨拶:

岡野弘彦先生について。折口信夫の最高弟です。最近の若い折口研究者の趨勢は、岡野さんの力が多いように思います。宮中の歌会始の召人も務めています。今日の丸谷についての話は「怪談」ではなく「快談」です。丸谷と愉快な話をなさった国文学の話を聞けるのではないでしょうか。


岡野弘彦:

丸谷を存じ上げてから、もう50年を超えるつき合いになります。丸谷と知り合った頃、私が20歳終わり頃でした。今私は数えで90になり、長い付き合いだったなと思います。館長(菅野)や橋本一明、中野孝次(ドイツ文学)、川村二郎(ドイツ文学)、そして渋谷の道玄坂を巨体で登っている印象が強い篠田一士、らが思い出されます。私は国文科ですが、神主の跡を継がなきゃならないのでしたが、子供の将来を占う風習で、私は稲穂をつかんだらお前は神主を嗣ぐことが決まってるんだよ、と父が言いました。伊勢の全寮制の大学、神宮皇学館に入った。月に8万円が出た。神宮から出ているのでしょうが、当時とすれは学生は使い切れません。毎週山田の町へ出て、山田には当時本屋が3軒ありました。岩波の青色、黄色を2、3冊買ってきて、次の週までに読んでしまった。


中学を卒業したあと、東京の國學院という学校に行きたい、いい先生がいる、折口信夫という先生がいる。父親もどうせ神主になるのだからいいだろうと。私が國學院の講師になったのは昭和29年だったと思う。丸谷は鶴岡の医者の息子で、昭和28年、國學院の講師として来ていた。私は昭和28年には内弟子として折口博士の家に入っていました。折口の家にはなんとなく一生独身でいた藤井春洋、養子に入ってからは折口春洋という名になっていましたが、硫黄島で戦死しました。


学徒出陣、今年入った君たちは戦争に行くだろう。最高の教授陣、言語学金田一京助、古典学折口信夫、等々。しかし、学校は工場へ行ったりして、半年ぐらいしか行けなかった。次の年には、愛知県の工場へ行った。少し遅れて、丸谷も戦争に取られた。内弟子は7年間、先生が亡くなるまで続いた。折口は、國學院と慶應、二校で教授していました。講演を清書して、昭和28年に亡くなり、死に水を取った。次の年、折口信夫の全集をつくった。20巻でおさめようとしたが、結局25巻になった。後年、40巻とか出しましたが。編集の雑務や月報の整理などを行いました。昭和20年終わり頃に出るようになった。


その頃から、丸谷と話していると楽しいんです。そのうちに館長(菅谷)や橋本一明とか、ふわっとした感じで、話していて楽しかった。中野孝次は頑固でしたが、楽しかった。予科の頃の先生、佐藤謙三先生にいろいろ相談したり、佐藤先生は学長になり、最後の頃は僕は学生部長として学生を説得し、事務局を説得する役目でした。佐藤さんと丸谷さんは、早い頃から話が合った。


心は万葉集から始まっている。400年前から俳句が作られた。「短詩形。庶民の間で生まれた俳句と短歌、あるいは和歌というのが、簡単に決められるものではない。「イイ女やナー」「イイ男やナー」、別に万歳をやっているのではなく。、折口の関西風の言い方です。日本の和歌は、神様から始まっていて、日本の近代文学にも影響しています。古事記の会話を見ると、短歌とも俳句ともつかない表現です。例として「筑波問答」があります。日本の短詩形、古事記や万葉集のように、決定的に決められるものではない。そういうことを考えると、「勅撰和歌集」、あの伝統が切れるわけです。


そして芭蕉が出てくる。連歌か出てくる。規則の束縛されて、面白くもなんともない。「三十六歌仙」、複数で、短句と長句を交互につくっている。捨ててはならない「春夏秋冬」、6巻、春秋2巻ずつ、夏冬2巻、約束だけは守る。日本の和歌の伝統は「恋」でしょう。恋と愛とは定義は違うが、人間観から発生している。心の結晶は四季の歌、そして恋です。そして「雑歌」、これは重要です。そして「旅」の巻。とにかく勅撰集がまとめられる。これが日本文学の伝統だと。丸谷さんのように分かり易く言われた方は初めてです。

「後鳥羽院」、柿本人麻呂に次いで歌の名手です。デーモニッシュな情熱を注ぐ、和歌の上で示したのが「後鳥羽院」です。若い丸谷さんが後鳥羽院の自分の著作を書こうと思った。私は20代から30代の前半は、全集本の仕事で忙しかったので、丸谷さんと会う機会がなかった。私は折口と佐藤の言うことは全部聞きました。佐藤から丸谷が和歌を知りたがっているので、話し相手になってくれと言われた。折口は、あの春洋(ハルミ)だって、布団担いで大森の駅まで行って。恐るべき若者がいると、新聞のゴシップ欄に出た。春洋さんは丹念に家計簿をつけていた。窮屈なばかりではいられなかった。先生を茶化したりもした。岡野は大きな木の枝払いで発散した。春洋はどうして我慢できなかったのか?


折口先生亡き後、佐藤先生が丸谷を推薦する。和歌を学びたいと言っている。話し相手になれと。でも会ってみると丸谷さんは、詩の伝統についてはよく分かっていた。相談相手として身のある話はしませんでした。「後鳥羽院」の時は、年表を作ってくれと言われ、作りました。優秀な人たちが國學院に来ていました。岩波文庫でシャーロック・ホームズを訳した菊池武一、それで國學院の語学の研究室は華やかだった。私は酒が飲めない、そういう意味でも神主の資格はなかった。道玄坂をみんなして登った。國學院は経営は困難で、給料は安かった。丸谷さんは、どうしてあの頃、酒代が出たんだろうと、よく言っていました。


丸谷さんの重要な本2冊、「日本文学史早わかり」と「忠臣蔵とは何か」です。菅原道真を祀ったお社は、怨霊を治めるものでした。「岡野さん、この下は道真公の墓ですよ。亡くなってすぐは怨霊だったんですよ」と丸谷。亡くなってすぐは鬼の形相、20年、30年経つと顔が変わっていった。丸谷さんは、まだしずまらないでしょうから、と言った。


政治家は薩摩と長州です。今は長州です。江戸を守ろうとして死んだ人たち。どうして祀ってやらなかったのでしょうか。八甲田山、どうして祀ってやらなかったのでしょうか。墓の大きさに歴然としている。階級差があります。四十七士はそんなことはない。靖国神社は最初はA級戦犯を祀ることには反対でした。天皇の与り知らぬところで合祀されてしまった。あんない敬虔に祈られる天皇は歴史上いません。皇后様、膝が悪いにもかかわらず、ひざまづく。東日本大震災の被災地に行って、ひざまづかれる。歴代の天皇・皇后にはいなかった。そういうことを考えると、今の政治家の発言の不用意さが目につきます。


周恩来首相の発言は大変なものでした。前の都知事は文学者の端くれのはずだが、気がつかない。丸谷さんと大野信さんの対談は、大変だったろうと思います。大野さんも国語学者として偉大な人です。編集者にエピソードを聞かされました。丸谷さんの方が、妥協の話を出されたという。あの二人があんな風に、いかにも適切なかたちで、イイ妥協の源氏物語。一通り原文でみないとダメですが、あの本の価値が分かります。


戦後の国文学は、今は源氏は言辞、古事記は古事記と専門分化していますが、僕らの教わった先生方は、源氏から近松まで何でも答えられた。明日をも知らぬ戦中派、丸谷もそういう世代でした。僕は丸谷さんは郷里の鶴岡を好きじゃない人だと思っていました。対談に丸谷がちょっと遅れてきました。「今日は泣いてきたよ」、藤沢周平の映画を観てきて、「泣いてきたよ」と言っていました。ああ、やっぱり鶴岡の人なんだな、と思いました。


俳諧、江戸の門弟、京都の門弟、との土地土地での共同制作です。芭蕉の句がくると、ぴたっと決まり、はい次。学生の頃から伊勢、今の宇治山田ですが、伊藤整に講演を頼むと、きちっと話をする。小林秀雄は、前の日飲んだらしく)、20分ぐらいでもう話すことはないと終わってしまった。


ということで「時間がなくなった」と岡野が言うと、すかさず館長が「どうぞ、心ゆくまで」と答える。


しっかり用意してきたのにと、岡野が言い訳をする。取り出した資料は、岩波新書の「歌仙の愉しみ」から抜粋したもの。丸谷の「新々百人一首」が賞をもらった時に祝いに謡ったもの。「鞍馬天狗の巻」(2000年1月~4月)。「信」は大野信、「乙三」は岡野、「玩亭」は丸谷です。


玩亭の祝ひに

春(新年) この年は鞍馬天狗で謡初        信

春(新年) 北山あはくかすむ春風          乙三

春      子の凧に龍といふ字を大書して     玩亭

雑(ぞう)  捨猫五匹やしなってゐる         信

秋(月)   姥ひとり高笑ひする月の峡(かひ)   乙

秋      径は花野へつづく夕ぐれ         玩


丸谷は古代から現代までの文学をよく分かっておられる方でした。それほど江戸の文人について分かっていたのはほかにいません。


生前、丸谷から「墓銘碑」を書いてくれと頼まれました。鎌倉霊園に丸谷才一と奥様のお墓があります。表に「玩亭墓」、後に「丸谷才一 鶴岡の人 小説家 批評家」


丸谷は喜んでくれた。50年の付き合いで一番嬉しかった。私の母は上手に字を書いた。父はダメでしたが。納骨を終える頃、海の方が夕映えの空になってきました。丸谷は四季折々の歌を読みました。


会場からの質問:

短歌について丸谷は明治以降のものはよく読んでいられるようですが、評論はあまり書かれていないことについて。丸谷は短歌は、狂歌はつくったが、作ったことがなかっただろうと思います。塚本(?)さんは短歌をよく読んだ。朗詠、または朗読の習慣がなくなってしまった。文語の調べのある歌を作れる人がいなくなってします。これを突き破るのは「天才」が出てくる以外にない。

(終)


とんとん・にっき-okamo 「歌仙の愉しみ」

大岡信・岡野弘彦・丸谷才一

岩波新書

発売日:2008年3月19日


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