特別展生誕140年記念
「川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―」
関連講演会
「川合玉堂―伝統と創造―」
講師:河野元昭氏
(東京大学名誉教授、秋田県立近代美術館館長、公益財団法人山種美術館理事)
日時:2013年6月15日(土)14:00~15:30
会場:國學院大學 院友会館
自己紹介、1943年生まれ、昭和18年生まれです。秋田県立近代美術館館長です。館員が28名いるので、頭文字をとって「AKB28」とまずは笑わせます。ホームページに「館長のつぶやき」を書いているので、ぜひ観てくださいと、しっかりと宣伝します。川合玉堂についての私見、考え方を90分間お話しします。タイトルの「伝統と創造」、川合玉堂に限らず、優秀な人はすべて「伝統と創造」は車の両輪です。
玉堂は3人の師についた。明治20年玉堂14歳で故郷の岐阜を離れて京都の画家望月玉泉に入門します。明治23年17歳で塩川文麟門下の幸野楳嶺の画塾に入門します。円山派と四条派の画家です。これを円山四条派といい、徹底的に写生を学びます。
「玉堂の言葉など」
幸野楳嶺の絵画教育法が非常な束縛主義で手本を与え、一々門人の書いたのを直し、全く自分通りに成らなければ承知せず、初の頃は他流の画を見てさえ叱った程である。これは絵画の初級教育に於ける最良法であるらしく、これだけでも一通りの画家には成る。(「川合玉堂の絵画教育法」)
運命を変える出来事が玉堂22歳の時に起きました。第4回内国勧業博覧会に出品した「鵜飼」が3等賞を受け、玉堂の方向性が見えました。そして玉堂は一大決心をします。橋本雅邦の「龍図屏風」(静嘉堂文庫美術館)を観て、玉堂は腰を抜かします。23歳で妻と子供を連れて上京します。全部投げうって橋本雅邦のところに押しかけて弟子になります。
「玉堂の言葉など」
所が例の十六羅漢の緻密なのと龍虎の豪放なものを博覧会で見せ付けられた時には、全く打たれてしまったのです。……妙に皮肉な、批評的なことを云う人もあり、色々でしたが、何と云っても皆が大きな衝動を受けたことは事実です。私などはもう打たれてしまったのです。是は飛んでもない偉い人が現在東京に生きて居ると思った。斯んな人にぶつかって行って、もう一遍叩き直さなければいかんと思ったのが私の決心ですね。練り直すより外ないと云う気持ちになったのです。(「雅邦に就く」)
雅邦に就いて、玉堂は本当の意味で画家になりました。京都では、円山応挙の模写など、「粉本主義」、いわゆる「古典主義」的でしたが、お手本に倣うというのが一般的でした。内国勧業博覧会の時には、玉堂は写生に重きをおいていませんでした。しかし玉堂は「絵の根本は写生」と考えるようになります。
「玉堂の言葉など」
写生に重きを置かないが、それをゆるがせにはされなかった。今の人のように写生万能ではなかったのだ。気分、心詩をくりかえして、正確な形、正確な色は絵画にとって余り必要な事ではない。自分の表わそうとする形、表わそうとする色で、自分が造物主になった気持で画を描かれた人である。客観的でなく主観的の人である。今申した心持気分は、写意の画という意味ではない。それは密画粗画に共通していた。(「橋本雅邦先生のこと」)
写生にとらわれてしまう風潮もありましたが、画家の主体性、主観を重視するという、「こころもち」を大事にする玉堂の画風が確立されていきました。
「玉堂の言葉など」
初歩の人には、手本も与え、粉本を摸写させ、自然の写生をさせるなどは勿論、毎月二回会を開いて、一回は歌を題にするとか、詩の意を画かせるとか、つとめて斬新な題を出して、専ら意想を練らせ、一回は竹に雀とか、達磨とか極めて平凡なあり来りのもので、技芸でなければ見られない様な題を出して、技芸の練磨をさせ、楳嶺風に悉く之を直すと云う。(「川合玉堂の絵画教育法」)
以下、スライドによる解説に入ります。
写生画巻「花鳥 15歳写生」(明治21年)
玉堂は写生を続けますが、全面的に「粉本主義」を否定しているわけではありません。
「鵜飼」明治28年
「小松内府図」明治32年、東京国立近代美術館(後期展示)
「焚火」明治36年、五島美術館(後期展示)
橋本雅邦の影響が強く出ている絵です。焚き火という、それまであまりモチーフにならなかったもので、自然主義的な考え。玉堂は生来光の感覚を持った画家でした。元を正せば岡倉天心、光とか空気を描かなければならない、と言いました。大観たちが五浦に行ったのを、当時は「都落ち」と言われました。菱田春草ともよく似ています。輪郭線がない。もっといくと朦朧体になっていく。
「渓山秋趣」明治39年
中国的な山水画です。中国人を描くのは当たり前ですが、玉堂はその中に日本人を描きました。「人間的」とはこういうところにあります。
「二日月」明治40年、東京国立近代美術館
墨画淡彩、(十分)重文になり得る作品です。水墨による朦朧体であると思う。応挙あるいは狩野派に通じている。なほ闇とのみ思ひしに月影を雲間に見たり二日の月か(『奥多摩雑稿』)。玉堂は天才であった、しかし、新しいものにチャレンジします。北斎がプルシャンブルーで成功したように、玉堂は赤みがかった空を描きました。「二日月」は、夕方の景を描いています。日本人は、ウエットな感覚が強い。感情移入しやすい。一種のDNAか?
「行く春 小下図」大正5年
六曲一双の「行く春」(東京国立近代美術館)は長瀞の渓谷を描いたもので、その「小下図」です。玉堂の代表作で、重要文化財になっています。春を描いているとされているが、本当に春であったかどうか、調べてみたいと思っています。小下図を見ると、大変苦労している様子が分かります。行く春と惜しむ気持ち。春を惜しむ、惜春。去りゆく季節を描くのは春と秋です。文学少年だった玉堂。美術史家源豊宗は「日本美術の流れ-秋草の美学-」の中で、「私は日本と西洋と中国それぞれの美術を象徴するものとして、西洋はヴィーナス、中国は龍、そして日本は秋草をあてることができると思います」と述べたという。
「紅白梅」左隻、大正8年
「柳蔭閑話図」大正11年
朝鮮の老人二人を描いています。玉堂は一度だけ海外旅行をしており、朝鮮半島を訪れています。帝展出品後は、大倉喜七郎の所有するところとなり、ローマの日本美術展に出品されたもの。有名なのは横山大観の「夜桜」ですが、玉堂はあえて朝鮮の風俗を描いたものを出しました。暫く行方不明だったが、今回出てきました。「悠紀地方風俗屏風」昭和3年
会場からの質問に答える。この絵は宮内庁三の丸尚蔵館にあり、琵琶湖と近江を描いたもの。新嘗祭で飾るという制約のある絵画です。やまと絵の伝統的にこのような絵を描いていた。このような仕事を与えられるのは大変名誉なことで、玉堂は一生懸命にやっています。自転車?少しでもオリジナリティを出そうと頑張った。
「月五首」
なほ闇とのみ思ひしに月影を雲間に見たり二日の月か(『奥多摩雑稿』)
雲にみがき雨にあらひてまさやかにぬれたるままの月いでにけり(『多摩の草屋』一)
とりよろふ嶺はやうやくくれはてて若葉の上に月みづみづし(『多摩の草屋』二)
月はつひに雲にかくりぬ山影のやみの底には瀬音のみして(『多摩の草屋』三)
なほのこる雨だれこして雲間より水々しもよ十四目の月(『多摩の草屋』四)
全体を通して河野元昭は、川合玉堂は「文学青年」であったと、何度も言い続けました。
特別展 生誕140年記念
川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―
2013(平成25)年は、日本の自然や風物を詩情豊かに表現し、今も多くの人々を魅了し続ける日本画家・川合玉堂(1873-1957)の生誕140年にあたります。この節目の年に、当館所蔵の71点の玉堂作品を中心に他館からも代表的な作品を借用し、玉堂の画業全体を振り返る展覧会を開催いたします。
愛知で生まれ風光明媚な岐阜で育った玉堂は、14歳で京都の円山四条派の望月玉泉や幸野楳嶺の元で本格的に日本画を学び、早くから才能を開花させました。本展では、初期の代表作「鵜飼」(山種美術館)、上京して橋本雅邦に師事した頃の狩野派の影響の色濃い「渓山秋趣」(山種美術館)、転換期の作品といわれる「二日月」(東京国立近代美術館)、「紅白梅」(玉堂美術館)を始めとする琳派や南画等さまざまな研究を経て新たな境地を拓いた作品、そして晩年の情趣深い画境に至るまでを展観いたします。また、長らく公開されることがなく、再発見とも言うべき作品「柳蔭閑話図」をこのたび特別に展示します。初公開となる「写生帖」(玉堂美術館)と18歳の玉堂が友人と編んだ同人誌『硯友会雑誌』(玉堂美術館)など、若き玉堂の熱心な研究の足跡を垣間見ることができる資料もご覧いただきます。
1957(昭和32)年、玉堂の訃報に接した日本画家・鏑木清方は「日本の自然が、日本の山河がなくなってしまったように思う」と嘆いたと言われています。俳句や和歌を嗜み、文学にも造詣の深い玉堂が描いた穏やかな風景は、今なお見る者の郷愁を誘い、私たちの心を癒してくれます。当館の創立者・山崎種二は玉堂と親しく交流し、しばしば青梅の玉堂邸を訪れるほどの間柄でした。そのご縁により、当館は玉堂の代表作の数々を所蔵しています。本展開催にあわせて修復し初公開となる作品、書や陶器の絵付けなど、これまでほとんど紹介されていないものも加え、当館所蔵の玉堂作品全点をご紹介するのは開館以来初の試みです。日本のふるさとやこころを描き続けた玉堂の魅力を心ゆくまでご堪能ください。
特別展 生誕140年記念
川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―
2013年6月8日発行
監修:山下裕二
(公益財団法人山種美術財団評議員・顧問
/明治学院大学教授)
執筆:河野元昭
(公益財団法人山種美術財団理事
/秋田県立近代美術館館長/東京大学名誉教授)
三戸信恵(山種美術館特別研究員)
櫛淵豊子(山種美術館学芸課長)
塙萌衣(山種美術館学芸員)
編集:山種美術館学芸部
発行:山種美術館