山岡光治の「地図をつくった男たち 明治の地図の物語」(原書房:2012年12月25日第1刷)を読みました。朝日新聞に書評が載ったのを見た時は自分のことのように嬉しく思いました。しかも評者が芥川賞作家の楊逸さんでしたから二度ビックリでした。が、その時点ではまだ本を入手しておらず、従って読んでもいませんでしたが、すぐさまアマゾンで購入し、2013年3月23日の「外国人遊歩規程標石めぐり」のときの昼食時に、本に山岡さんのサインをいただき、その後一気に読み終わりました。この本の書評については、楊逸さんが過不足なく的確に書かれているので、ここでは僕の感じたままを書いておきます。
会の案内には「日本の地図測量の歴史――測量遺跡が語るもの」とありましたが、そこで山岡さんの話を始めて聞きました。5年ちょっと前、2007年12月のことでした。ほぼ同じ年代であることや、その話し方に親近感を持ちました。いただいた名刺には「地図と測量の楽しさをお届けします。オフィス地図豆 店主山岡光治」とありました。定年退職を機に「年商50万円を目標にして」インターネット上に「オフィス地図豆」を開店したと話され、ますます身近に感じるようになりました。年金生活者で、かつ年商50万円を目標、というところがいいじゃないですか。その時の様子は「地図屋・山岡光治の話を訊く!」として書いておきました。
先日参加した国府津から曾我山の山歩き、「外国人遊歩規程標石めぐり」については、この本の「第7章 外国人の湯治行きを阻止した測量師」の中に、詳しく書いてありました。各国と日本との間で修好通商条約が結ばれ、そこで一般外国人が自由に行動できる範囲は、開港場から10里(約4キロメートル)以内に制限されました。それに対して交渉の当事者である初代駐日アメリカ公使は、自由に国内旅行ができることを要求しました。
しかし、幕府はこれを拒否しました。開国間もない時期の徳川政権や明治政府は、外国人と日本人が接触することで事を起こして欲しくないという理由からでした。ここでは詳細は省くが、「日本各地を自由に行動したい」「箱根や熱海温泉に行きたい」という在日外国人の健全な要求が、全費用6034円(現在の価格に換算すると約4800万円)を要する測量の実施になり、その「標石」が、国府津の上、曾我山に数ヶ所残っており、その標石を確認するために山歩きをした、というわけでした。
徳川家が早々に設立・開校した沼津兵学校出身者が、その後の地図測量分野で有用な役割を果たしたこと、北海道開拓の基礎となる地図測量事業と、その人材育成を担う開拓使仮学校の校長、荒井郁之助の話など、初めて知ることばかりでした。明治新政府の近代化推進、どの分野でも必ずお雇い外国人の話が出てきます。建築の分野ではそれはイギリスから招聘されたジョサイア・コンドルでしたが、必ずしも彼ばかりではなく、その前にはフランスからもアメリカからもドイツからもお雇い外国人がきていました。同様なことは地図測量の分野でもあったようで、その主導権争いは大変なものだったようです。
この本の中で僕がもっとも感銘を受けたのは、第11章 「美しさ」から「正確さ」へ 犠牲となった「かきたてるもの」、でした。「伊能図」意向、参謀本部陸軍部測量局による「五千分の一東京図」や「二万分の一迅速測図」は美しい、と山岡さんはいう。それから130年余を経て、地図は美しくなくなったという。地図は最終的には、使う人、見る人にとって「美しい」「楽しい」と思わせるものを持っていなければならない。それを山岡さんは、「かきたてるもの」という言葉で表します。
こんな言葉がこの本に出てくるとは予想だにしませんでした。「かきたてるもの」とは、地図をつくる側、そして使う側にも、惹きつける、空想させる、愛着を感じさせると行ったことを思い起こさせるものだという。いまは建築の図面はCADの図面がほとんどですが、僕らの頃はトレペに鉛筆で線を引き、図面には表情があり、描いた人それぞれの個性が出たものです。そのような図面を描けと、先輩に厳しく言われたものでした。
「陸地測量師のサムライ精神」の項は、何人ものサムライが出てきて面白い。最初の海外測量である日露国境画定測量にあたった矢島守一は金沢藩士、矢島の長期出張の際、夫人から「子供が大勢いるので、形ばかりでもいいからお土産を」と懇願されるが、「健康で帰ったことが一番の土産だ」と言って、一度も土産物を持ち帰ったことがなかったという。私事にこれだけ厳しいということは仕事上ではもっと厳格な人だったはず。こうした所作言動は矢島だけではなく、陸地測量部にはもっと大勢の矢島がいたはずだ、と山岡さんはいう。
いずれにせよ山岡さんの、近代日本の地図測量を支えてきた無名の技術者たちに向ける眼差しは優しく、温かい。「おわりに」で山岡さんは次のように述べています。現在では「あって当たり前」と思われている地図だが、一枚の地図の裏側には、時代や社会の制約を受けながらも、多くの先人が努力を重ねてきた歴史と、彼らの豊かな成果がある、と。
内容
明治維新の後、もっとも基本的な情報基盤である地図情報の脆弱さに直面した明治政府は、国家の急務として「地図づくり」に取り組む。伊能忠敬以降、維新前夜から明治時代の陸軍参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)の地図測量本格化まで、近代地図作成に心血を注いだ技術者たちの歴史を描いた、「知られざる地図の物語」。
著者
山岡光治(やまおか・みつはる)
1945年横須賀市生まれ。元国土地理院中部地方測量部長、「オフィス地図豆」店主。1963年美唄工業高校を卒業、同年国土地理院に技官として入所、2001年同院退職。同年株式会社ゼンリンに勤務、2005年に退社後、「オフィス地図豆」を開業し、人それぞれの地図の楽しみ方を知ってもらいたいとして執筆・講演・街歩きなどをしている。著書に、『地図に訊け! 』(ちくま新書)、『地図を楽しもう』(岩波ジュニア新書)、『地図の科学』(ソフトバンククリエイティブ/サイエンス・アイ新書)などがある。
目次
はじめに
第1部 維新前夜から維新直後の地図作り
第1章 明治維新前夜の地図測量技術
第2章 陸軍省最初の測量技術者福田治軒
第3章 沼津兵学校から巣立つ地図測量技術者
第4章 傑出したテクノクラート小野友五郎
第5章 開拓使測量を担った測量技術者たち
第6章 もうひとつの日本全図 観農局地質課に集まった技術者たち
第7章 外国人の湯治行きを阻止した測量師
第8章 明治期の地図作りへと向かう地図方
第9章 測量標石の始め
第10章 使われなかった日本で最初の水準点
第2部 陸地測量部の地図作り
第11章 「美しさ」から「正確さ」へ 犠牲となった「かきたてるもの」
第12章 未踏の高山を目指した明治期測量隊
第13章 測量登山黎明期 登山家ウェストンのころ
第14章 劒岳登頂は柴崎芳太郎に何を与えたか
第15章 戦場に送られる即席測図手たち
第16章 報告書に見る技術者たちの日常
第17章 文豪と地図
第18章 測量標石に残された思い
第19章 職人技のドイツ式地図から合理性追求のアメリカ式地図へ
おわりに
2013年3月23日
「外国人遊歩規程標石めぐり」
のときに、いただいたサイン
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