子どもの頃、デパートで行っていたサイン会だったと思いますが、山下清の風貌に接した記憶があります。また、近所の大人の人が、山下清がどこそこを歩いていたよと、聞いた記憶もあります。いずれにせよ、僕が子どもの頃は、山下清は日本全国を歩き回っていたようなので、そういう噂も数々ある人でしたし、どういう人かはなんとはなしに知ってはいました。しかし、映画やテレビで取り上げられるようになってからのことは、僕はほとんど知りません。
ここ数年、地方の美術館などで、山下清展が開催されていたことは知ってはいましたが、生誕90周年ということは知りませんでした。もちろん、山下清の作品をまとまって観ることができたもは、今回が初めてです。今までは貼絵ということもあり、作品を観たこともなかったので、僕の中ではちゃんとした評価はできませんでした。今回山下清の作品を観て、これは凄いと始めて思うようになりました。正直言ってその作品の迫力に圧倒されました。しかも、貼絵だけでなく、ペン画や鉛筆画、水彩画や油彩まで、数々の技法に挑戦していたこと、また、ヨーロッパ各国の訪問や、東海道五十三次に挑戦していたことも、初めて知りました。49際でお亡くなりになったことも、初めて知りました。
展覧会の構成は、以下の通りです。
第1章:少年期の山下清そして放浪
第2章:芸術家としての挑戦
第3章:初のヨーロッパへの旅と遺作・東海道五十三次
山下清:略歴
1922(大正11)年 3月10日、東京市浅草区田中町に生まれる。
1925(大正14)年 重い消化不良にかかり高熱にうなされる日々が続き、軽い言語障害となる。
1934(昭和 9)年 千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。学園での「千切り絵」が清の画才を発揮させ、
彼独自の技法による貼絵となる。
1940(昭和15)年 11月18日に突然、学園から姿を消し放浪の旅に出た。幾つかの職業を転々としながら
千葉県内、そして日本各地へと放浪の旅を続けた。時折、母の家や学園に戻り、
脳裏に焼き付いた旅先での風景を貼絵にした。
1953(昭和28)年 アメリカの雑誌『ライフ』が清の作品を見て驚嘆、放浪中の清を捜し始める。
1954(昭和29)年 1月10日、鹿児島で発見される。弟・辰造が迎えに行き、清の放浪生活は終わった。
1957(昭和32)年 母、弟・辰造と世田谷に住み始める。
1961(昭和36)年 ヨーロッパ他9カ国を訪問。
1964(昭和39)年 素描による「東海道五十三次」の創作を始める。
1971(昭和46)年 7月10日の夜、突然の脳出血で倒れる。7月12日朝永眠。
最後の言葉は『今年の花火見物はどこに行こうかな』だった。享年49歳。
「生誕90周年記念 山下清展」
2012年に生誕90周年を迎えた、放浪の天才画家・山下清。長い年月を経てもなお、清の作品が多くの人々に愛されているのは、観る者の心を捉えて放さない、素朴で懐かしい日本の原風景がそこにあるからではないでしょうか。1922(大正11)年この世に生を受けた清は、49歳で亡くなるまで、激動の昭和という時代と共に歩んできました。その波乱に満ちた人生は、映画やテレビドラマにもなり、画家としての領域を超え、美術ファンのみならず幅広い層から支持されています。近年では、画家としての再評価が高まっているだけでなく、清独自の文体で書かれた文章にも注目が集まっており、山下清の人気は、ますます高まっています。本展では、「日本のゴッホ」「放浪の天才画家」と称される山下清の生誕90周年を記念し、山下清の生涯を代表的な貼絵を中心にご紹介いたします。貼絵による完成を夢見て挑んだ最後の大作「東海道五十三次」の公開や一般初公開の貴重な貼絵作品を含め、鉛筆画、油彩、水彩画など約150点を一堂に展覧いたします。山下清の生涯を、遺族の証言に基づく“真の姿”としてご紹介いたします。