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大川美術館で「松本竣介とその時代」展を観た!

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大川美術館で「松本竣介とその時代」展を観てきました。赤瀬川原平の「個人美術館の愉しみ」を読んだときに、このブログに、大川美術館について下記のように書きました。


僕が興味をひかれたのは、群馬県桐生市にある「大川美術館」。松本竣介の展覧会があるというので、つい最近、知った美術館です。ある会社の社員寮だった建物を改修して美術館にしたという。日本の近代美術史に出てくる画家の作品が何かしら入っている。西洋絵画も充実している。が、しかし、美術館の柱になっているのが松本竣介の作品だという。戦後すぐに36歳で夭折した画家です。この美術館の改修を手がけた建築家は、松本竣介の次男、松本莞さんだという。美術館の建物は5階建てになっているという。ぜひとも訪れて見たい美術館です。


松本竣介展があることは知っていましたが、群馬県の桐生ということで、ちょっと躊躇していました。なにしろ桐生は遠いし、行ったことがないところですから。松本竣介展が開催されるという大川美術館についても、まったく知らない美術館でした。それが赤瀬川原平の「個人美術館の愉しみ」を読んでから、俄然、行ってみようと思うようになりました。しかし、スケジュール表を見ると、行けるのが最終日の11月11日しかあいていません。ところが11日に突然用事が入ってしまい、なんとかやりくりをつけて10日の土曜日に急遽、大川美術館へ行くことになりました。


JR両毛線は小山・高崎間、小山から右手の車窓に小高い山並を見ながら、長閑な田園地帯を走ります。途中、栃木、佐野、足利など、降りてゆっくりと見て回りたい駅名が続きました。が、なにはともあれ、桐生まで直行しました。あらかじめ調べてあった地図を見ると、大川美術館までは山登りのようなので、行きはタクシーに乗りました。正解でした。タクシーでも喘ぎながらの山道を登り、なんとか美術館に到着しました。美術館は水道山公園の斜面に建っており、入口が最上階、1階ごとに見て回り、次第に降りていくという仕組みになっています。最初は階段を懸念したのですが、いい位置にうまい具合に設けられていて、苦もなく観て回ることができました。


ラッキーだったのは、1フロアー降りたところで、ちょうど始まったばかりの「ギャラリートーク」に追いついたことでした。まったく予期していなかったことです。最初の部分は残念ながら聞き逃しましたが、女性の学芸員の松本竣介を思う気持ちと、その熱心な一つ一つの解説に聞き惚れました。今回出されている松本竣介の作品は、油彩やデッサンなど73点、これらが年代別に展示してありました。始めて知ったのですが、「建物(青)」という1948年の作品、これが竣介の絶筆だそうです。学芸員の話によると、絶筆は3点あるという。東京国立近代美術館で、いま、竣介の作品が2点展示してありますが、そのうちの1点が、やはり「建物」というタイトルの1948年の作品です。この2点はまず間違いなく絶筆なのでしょう。


今回、同じ作品の完成品である油彩と検討途上のデッサンが出ていたことです。「工場」1942年と、代表作といわれている「Y市の橋」でした。作品の検討過程がよくわかり、大変興味深く観ることができました。「自画像」が2点、出されていました。「顔(自画像)」1940年12月と、「自画像」1943年頃、です。自画像といえば、僕が竣介の作品を初めて観たのは、神奈川県立近代美術館で「立てる像」1942年だったと思います。酒井忠康は「わたしは『立てる像』をみるたびに、画家が現実という名のさまざまな鉄拳で打たれることを覚悟していたように思う」(中公新書:早世の天才画家)と書いています。


今年の夏頃にも、神奈川県立近代美術館で開催されていた「近代の洋画」展で、この作品を観ました。その時に同時に出されていた竣介の作品は、前後期で5点出ていたようです。僕は前期に行ったので「立てる像」1点のみ、観たのでしたが。図録には「松本竣介の魅力は、抒情的な表現とその画面に漂うそこはかとない寂寥感ないし孤独感にあるのではないだろうか」とあります。この時代の松本の乳白色の色調は、藤田嗣治からの影響があると言われています。生きる上での寂寥感や不安の感じは、人間の生活は、陰影が合ってのことだという人生観が、色濃く反映しています。

まとまって竣介の作品を観たのは、岩手県立美術館でした。行ったのは今年の夏頃でした。岩手県立美術館には「松本竣介・舟越保武展示室」という二人の名を冠した常設展示室があります。その時に以下のように書きました。


初期の松本の作品は、ルオー風の太い輪郭線が特徴的ですが、それは次第に姿を消し、青色を基調とした透明感のある色面の中に、都会の町並みや人物を独特の細い線で描いた「街シリーズ」が描かれるようになります。実は僕は、松本竣介と言えば初期の暗い画面のものだけしか知らなくて、大きく作風が変化していたことは、岩手へ来るまで知りませんでした。そう言う意味では初期から晩年までに到る松本竣介の作品を収蔵しているという、岩手県立美術館ならではの特徴があり、全体的に松本の作品を観ることができます。松本竣介は、1935(昭和10)年に、36歳の若さで亡くなります。


少し話は飛びますが、板橋区立美術館で開催されている「池袋モンパルナス」展には、竣介の作品が4点、「建物」1935年、「ニコライ堂」1941年頃、「自画像」1941年、「りんご」1944年、出されていました。「りんご」は、彼が名前を「俊」を「竣」に改めた最初の作品と言われています。鶴岡政男の「死の接吻(松本竣介の死)」1948年という不思議な作品が出ていました。「池袋モンパルナス」と竣介の関わりはそれほど深いものではなく、「新人画会」としての関わりであったらしい。


話はまた前後しますが、竣介は県立盛岡中学へ入学した13歳の春に、流行性脳脊髄膜炎にかかって聴覚を失うという不運を背負いました。「多感な少年にとって、音とつれだつ感情の連鎖を断つことになったのです。それは想像を絶する辛さだったにちがいない」と、酒井忠康は書いています。それがきっかけで中学を退学して上京します。谷中の太平洋画会研究所に入り、画家の道を進むことになります。聴覚を失ってから苦節10年、1935年秋、第22回二科展に「建物」を出品し、初入選を果たします。翌年、松本禎子と結婚し、松本姓を名乗ることになります。


「ギャラリートーク」の最後に、学芸員の方が、来年は松本竣介生誕100年であり、全国5美術館、来年4月の岩手県立美術館を皮切りに、神奈川県立近代美術館葉山(葉山町)、宮城県美術館(仙台市)、島根県立美術館(松江市)、世田谷美術館(東京都)を巡回する計画があるといううれしい話がありました。さて、どこで観ようか、考え始めた矢先に、なんと、下のような新聞の記事が見つかりました。決まったわけではないのですが、なんともはや、残念なことです。「生誕100年・松本竣介展」、開催されるように祈るばかりです。


震災で予算の構図描けず巡回展危機 生誕100年・松本竣介

思春期を盛岡市や花巻市で過ごした洋画家松本竣介の生誕100年を記念し、岩手県立美術館(盛岡市)など全国5美術館が来年度に企画していた巡回展の開催が危ぶまれている。東日本大震災の影響で、岩手県立美術館の企画展事業予算が来年度も引き続き凍結される恐れがあるためだ。巡回展は各美術館が費用を分担して開催するため、1館でも抜けると実現が難しい。関係者は「岩手ゆかりの人気画家だけに、何とか開催してほしい」と…

(12月5日:河北新報の記事の一部)


松本竣介の作品










松本竣介以外の作品



「松本竣介とその時代」展

松本竣介(1912-1948)は、戦中戦後の困難な時代にひたむきに生き、1948年、36歳で夭折しました。身近な「もの」や「都市」を描いた静謐な絵画空間は、いまもなお多くのひとびとを魅了してやみません。本展では、竣介十代から最晩年の作品まで、代表的な油彩画や魅力的なデッサンとともに、同時代を生きた画家の作品を館蔵品を中心に展観します。知的な好奇心を持ちつづけた竣介は、つねに新しい時代の潮流に敏感に反応しました。研ぎ澄まされた視線を、自身の内外に鋭く向け、その振幅のなかで表現したともいえるでしょう。多様な試みは、同時代を生きた画家との交流からも誘発され、さまざまな表現へと深化してゆきました。松本竣介次男・莞氏設計による当館の展示空間で、彼らが生きた時代に思いをはせつつ、不安な時代にこそ生み出された、竣介とその時代の絵画表現を見つめなおします。


「大川美術館」ホームページ


とんとん・にっき-ooka1 「松本俊介とその時代」展

図録

2011年10月1日発行

発行:財団法人大川美術館








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