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赤瀬川原平の「利休 無言の前衛」を読んだ!

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とんとん・にっき-rikyu


赤瀬川原平の「利休 無言の前衛」(岩波新書:1990年1月22日第1刷発行、2012年1月25日第32刷発行)を読みました。 すごいですね、32刷ですよ、驚きました。これだけ売れている本ですが、僕はほとんど何も知りませんでした。この本を知った直接のきっかけは、テレビで放映されたものを録画してあった勅使河原宏監督の「利休」を、つい先日観たことによります。映画「利休」の脚本が赤瀬川原平とあったからです。赤瀬川によると、「利休」の脚本がほぼ手を離れたころ、新書出版の話があらわれた、と述べています。「しかし映画の脚本一つ書いたとはいっても、私の場合は特殊なケースで、千利休研究の世界では保育園から幼稚園に進んだくらいのことだろう」と、「あとがき」に書いています。


赤瀬川原平といえば、日本の前衛芸術家の典型的な人です。「いまでこそ思うが、そのころの芸術青年にとって前衛という言葉は光り輝いていた。古いものを壊して新しいものを創り出す。周囲はすべて古いものに囲まれている。それを壊せば即新しいものがあらわれてくる」。が、しかし「芸術の概念を、日常の感覚につなげようとする前衛芸術は、日常への接着を繰り返すうちに、日常に接近しすぎて、接着というよりもその中に入り込み、日常の無数のミクロの隙間から消えていった」。前衛芸術はついに日常生活の全域に散った、その先に「路上観察学」ができた、その最初のきっかけが「トマソン物件」だったと、赤瀬川はいいます。


「トマソン」とは、当時ジャイアンツの4番バッターの助っ人大リーガー、ゲーリー・トマソンのことで、バットはふれどボールに当たらない、すなわち役に立たない存在の悲哀が、超芸術物件に通じるのではないかと、命名されたものです。「無用とは何だろうか。無用の機能というものはあり得るのか」、赤瀬川は考えます。同質の無機能性をもった物件が相次いで発見されるに及んで、これらは「超芸術」と定義されるようになります。日本語には「無用の用」という言葉がありますが、バーナード・チュミの設計したパリの公園「ラ・ヴィレット」のフォーリーも無用の用とも言えます。


もちろんこの本「超芸術トマソン」が出たときに何度も読みましたが、現在、狭い我が家のどこを探しても見つからない、行方不明ですが、どこかにあるはず。我が家は「トマソン」という言葉は今でも公用語、僕が何かしらわけの分からないことを言ったりしでかすと、家人から「それ、トマソン」と言われたりします。トマソン物件第1号は「四谷怪談」ですが、僕が強烈に印象に残っているのは、谷町の「風呂屋の煙突」です。「辰野金吾に関連して」という記事に、以下のように書きました。


そこで「超芸術トマソン」(発行:白夜書房 1985年5月10日初版第1刷発行)を引っぱり出してみてみますと、「ビルに沈む町」と「馬鹿と紙一重の冒険」の個所に、白黒写真ですが、霊南坂教会の建物が写っていました。例の飯村昭彦氏の「風呂屋の煙突」ですね。最近、彼が知人の設計事務所の写真などを撮っていたことが、偶然に判明しました。いずれにせよ、斜面にたくさんの緑が残る閑静な住宅地であった赤坂霊南坂地区が、森ビルに買い占められて再開発が行われた地区です。その後、ご存じのように森ビルは「六本木ヒルズ」や「表参道ヒルズ」が続くわけですが。


たしか「超芸術トマソン」の最後のページに、夏の暑い日に白い帽子をかぶった赤瀬川画伯が座り込んで、谷町の煙突を写生している姿の写真が描いた絵と共に載っていたという記憶があります。ということで、探したらもう一個、「トマソン」について、ブログに書いていたので、下に載せておきます。


その再開発区域の中に「谷町」というところがあって、そこにお風呂屋さんがあったんですよ。赤瀬川原平の「超芸術トマソン」という本、ご存じですか?そうです、その本の表紙、煙突の上に登って写真を撮ってる、その煙突が谷町にあったお風呂屋さんの煙突ですよ!撮影は若きカメラマン飯村昭彦君、なにしろ「煙突の拓本」まで採ってきたんだから凄い!これは「馬鹿と紙一重の冒険」と評されていますが。しかも絵を描かないことで有名な赤瀬川原平画伯はなんと、その煙突を油彩で描いているではないですか!再開発前の霊南坂、谷町の辺りについてはトマソンの中の「ビルに沈む町」に詳細が載っています。


まあ、話はずいぶん外れていってしまいましたが、要は赤瀬川の言わんとするところは、トマソンは利休と通じている、ということです。「瓢箪から駒ではないが、冗談からお茶であった」。家元からの(人を介して)突然の電話、「勅使河原宏は知っていますか」「いえ、知りません」・・・「そうですか。彼はいま草月流の家元になっていて、もう10数年映画から離れているんですが、今度また映画を作ろうとしてるんですよ」「ほう」「野上弥生子の『秀吉と利休』ですがね、その脚本をあなたに書いてもらえないかということで」「え」。赤瀬川は「近年これほど驚いたことはなかった」と述懐する。



勅使河原宏から脚本の話があったとき、秀吉をやるのは誰だろうかと尋ねた話は映画「利休」の項で書きました。秀吉はビートたけしで、利休はマーロン・ブランドという話です。また、京都聚楽第の庭に朝顔を植えて、咲き乱れた姿が見事だという話が秀吉に伝わり、いよいよ秀吉が来る朝、利休は朝顔の花を全部摘み取り、一輪だけお茶室に飾ったという話も、「利休」の項に書きました。このエピソードは、映画の最初に使われている有名な話です。


また、「バランサー秀頼の死」として、秀吉と異父同母兄弟の秀頼に赤瀬川は触れていて、映画の中でも比較的大きく重要な意味合いで取り上げています。秀吉と利休の間のバランスをとり、兄の秀吉をしっかりと手助けしていること、もちろん、利休の考え方もよく理解して、尊敬もしている。秀吉の強さもろさを見極めながら絶えずフォローしているということ。しかし、肺病や巳で兄よりも先に病死し、その2ヶ月後に利休は切腹になります。


赤瀬川は「じつは映画の脚本を書いていて、最後のところで困ってしまった」と述べています。利休は秀吉に勝って死んでいっただろうし、芸術は政治に勝つ流れに乗っていかなければならない。蟄居を命ぜられてから、利休はなおもまた新しいお茶室を発想し、それを造ろうとしていた、それを後の人に託して死んでいく、ということでないといけない、と赤瀬川は思ったという。それが「楕円のお茶室」だという。それは利休の芸術論を探るより、まず人間ドラマをつくることだ、ということで、映画からは消えて行ったのですが・・・。


金の茶碗を映画の撮影で使ったら、天皇役の堂本尚郎が「あち・・・」と言って指を引っ込めた話とかは映画の中のエピソード。津田宗及、今井宗久は堺の商人のナンバーワン、ナンバーツー、信長軍の近代装備を調達して大儲けをしているわけで、その一方で茶の湯をたしなんでいる。いまでいうと西武セゾングループ会長の堤清二が一方で小説を書いて文学賞をもらったりする、というのに似ているのかもしれない、とも言ったりします。赤瀬川の家での、古新聞の出し方の話、手洗いの蛇口の話、財布へのお札の入れ方の話、トマソンに変わってリベラ選手のバッティングまでの所作の話、相撲の仕切りの話。、等々、笑っちゃうネタも満載です。いや、赤瀬川の本は面白い。


とはいえ、さすがは往年のアバンギャルド、「もう一度路上から考え直す」、かつての前衛青年はただでは転びません。「他力思想」を持ち出します。利休の言葉「侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し」から、「人の恣意を超えてあらわれるもの、そこに得がたいものを感じる。利休の言葉もそれを指している。人の作為に対して自然の優位を説いているのだ」と。そして「偶然も無意識も、それは自然が成すことである。それに添って歩くことは、自然に身体を預けることだ。他力思想とは、そうやって自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら。人間を超えようとすることではないかと思う。私もまたそうやって拡大した自分の身体の自然の中で、拡大したり旧に出会ったのだった」と、結んでいます。


序 お茶の入口
I 楕円の茶室
1 利休へのルート
2 縮小の芸術
3 楕円の茶室
II 利休の足跡
1 堺から韓国へ
2 両班村から京都へ
III 利休の沈黙
1 お茶の心
2 利休の沈黙
3 「私が死ぬと茶は廃れる」
結び 他力の思想
あとがき
参考文献


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