勅使河原宏監督の「利休」は、1989年9月15日に公開されたもので、原作は野上彌生子の小説「秀吉と利休」。千利休を三國連太郎、豊臣秀吉を山崎努が演じています。一方、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」は、1989年10月7日に公開されたもので、原作は井上靖の小説「本覺坊遺文」。本覚坊を奥田瑛二、千利休を三船利郎が演じています。が、「千利休 本覺坊遺文」はここでは取り上げません。「利休」は、BSシネマ山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族篇~、昨年9月11日(日)にNHKBSプレミアムで放映されたものです。
勅使河原宏(1927-2001)は、いけばな草月流の創始者勅使河原蒼風の長男として東京で生まれる。1944年東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画学科に入学。3年後に洋画科に移る。1964年勅使河原プロを設立。同年再び安部公房と組み、「砂の女」を映画化して、数々の賞を受賞します。1979年に父が、2代目家元を継いだ妹の霞が翌年に相次いで死去し、1980年草月流3代目家元を継承しました。1984年にはスペインの建築家を題材とした「アントニー・ガウディ」で映画界に復帰します。1989年には野上弥生子原作の「利休」を映画化、モントリオール世界映画祭最優秀芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、健在ぶりを示しました。2001年逝去、享年74。次女の勅使河原茜が草月流4代目家元を継いでいます。(参考:ウィキペディアによる)
実は、僕はお茶(江戸千家)も習っていたし、お花は草月流でした。同じ先生についていました。といっても習っていた期間は4~5年だったように思います。ちょうど、蒼風が亡くなり、霞さんが2代目家元になった頃だったように思います。建築をやっているので、お茶やお花は少しは勉強しておかなければ、という動機でした。野上弥生子の「秀吉と利休」も読みましたし、桑田忠親の「千利休」や、村井康彦の「千利休」も読んだ記憶があります。
勤め先が元赤坂にあったので、草月会館とは目と鼻の先です。しかし、丹下健三が設計した「旧・草月会館」は、いつも前は通っていたのですが、前衛美術や演劇のメッカだったため、恐れ多くて入れませんでした。新しい「草月会館」は、丹下事務所が入っていたので、友人を訪ねて何度か行ったことがあります。一度は、都知事候補の鈴木俊一の選挙開票の日だったことで、丹下事務所全体が浮き足立っているときに、なんの用事だったのか飛び込んでしまい、あっけにとられたことがありました。
京都・聚楽第の自邸の庭に、利休は朝顔を植えます。たくさん咲き乱れた姿が見事だと評判になります。その噂が秀吉の耳に入り、わしにも是非見せてくれと言う。いよいよ秀吉がお成りという朝、利休は庭の朝顔を全部摘み取ってしまいます。そして一輪だけ、お茶室の床の間にに飾るのでした。一歩間違えば秀吉の逆鱗に触れかねない出来事でした。それを利休は平然とやってしまい、秀吉はそれに感服するのでした。
まず画面には、背景を説明するために、以下のように出ます。
天正十年(1582)六月二日、信長花心・明智光秀反乱。織田信長、京・本能寺にて自決。東山御物等、茶の湯名物数十種焼失す。
勅使河原監督の「利休」の配役は、利休は三國連太郎、秀吉は山崎努です。一般に利休というと、繊細優美なイメージを持ちますが、三國は大柄で太めでガッチリ形です。大徳寺所蔵の利休の木像(2代目ですが)を参考にしているようです。山崎努の秀吉は、最初、はしゃぎ過ぎかと思いましたが、利休と併せてみるとちょうどいい。一人一人あげればきりがないですが、この映画はキャスティングが命です。
脚本を担当した赤瀬川原平は「千利休 無言の前衛」で、以下のように書いています。勅使河原宏から脚本の話があったとき、秀吉を演るのは誰だろうかと尋ねた。「ビートたけし」という答えを聞いて、私はそのイメージに勇気が湧いた。あまりにも遺骸で、しかしピタリと重なる。では利休は尋ねると、「マーロン・ブランド」と答えられて、このイメージも嬉しくなった。
秀吉と利休の関係は、石田三成が台頭してきてから、微妙に狂い始めました。利休の愛弟子でかつて秀吉の逆鱗に触れて二度も所払いになった山上宗二が殺されてしまいます。また三成は秀吉に「利休が朝鮮出兵に疑義を抱いている」ともちかけます。利休は茶室で秀吉と顔を合わせたが、朝鮮出兵に口を出したため、ますます秀吉を怒らせてしまいます。また罪状の一つに、売僧(まいす)行為があります。利休が目利きをして、新作のでこぼこした茶碗を名物と賞して高く売ったというものです。
利休の名声は晩年になっても高まる一方でした。武将たちは利休の茶席に憧れ、そこに座ることを誇りとしていました。徳川家康や伊達政宗も、利休の茶に心酔して日参するようになります。利休と家康の茶会があることで、石田三成はギヤマン小瓶に毒薬を詰めて、利休に差し出します。利休は秀吉の命令かと聞くと、光成は利休のいいようにすればいい、と言います。家康は今は秀吉に恭順しているものの、秀吉側から見れば油断のならない大名です。家康のと茶会では、床の間に毒薬の入ったギヤマン小瓶が飾ってありました。
一番の罪状は、大徳寺の山門楼閣に、利休の木像を置いたことでした。古渓の計らいで、寄進者千利休の木像が作られたのでした。それを不敬として、利休にいいがかりをつけた、というわけです。京の河原には利休の罪状を書いた「覚書」が立てられ、利休の木像も刀で斬りつけられて縄で吊り下げられていました。
利休は京を退き、堺屋敷内に閉居するよう命じられます。秀吉の正妻、北政所・ゆらから利休の妻・りきに便りが届き、詫びれば自分からも許しを乞うとありました。しかし、利休は頑なに詫びることを拒み続けます。りきからゆらへの便りには丁重な礼の言葉があるだけでした。秀吉はさらに腹をたて、利休に切腹を命じたのでした。天正十九年二月二十八日に利休は自刃して亡くなります。
唯一、ホッとする場面は、大政所(北林谷栄)と秀吉と大納言秀長(田村亮)の3人が、親子水入らず話をする場面です。大政所が元々おれは百姓だったと言い出したのを、秀吉が禁裏に仕えていたと言いなさい、と言ったりします。なにしろこの3人は、名古屋弁丸出しで、なかなかいい雰囲気を醸し出していました。
脚本・赤瀬川原平、音楽・武満徹、衣裳・ワダエミ、建築の監修は茶室の研究の第一人者中村昌生です。茶道具や屏風や襖など、、映画の中で「本物」が数多く使われているようです。五島美術館蔵の織部の古伊賀水指「破袋」や「黒織部沓形茶碗「わらや」、他に長次郎の「赤楽茶碗」や「黒楽茶碗」も、これらは国宝なので模造品を使っているかもしれませんが。また長谷川等伯の「柳橋水車図屏風」や「枯木猿猴図」なども受けられました。
岩波新書
著者:赤瀬川原平
1990年1月22日第 1刷発行
2012年1月25日第32刷発行
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