宮下規久朗の「裏側からみた美術史」(日経プレミアシリーズ:2010年10月8日1刷)を読みました。カバーの写真は、ルーブル美術館にある「ミロのヴィーナス」の、まさに裏側から撮影された写真です。美術というものは、美しく清らかなものばかりではない。表面から眺めただけでは見えてこない、美術史にまつわる明暗を描き出すことで、美術の力と奥深さを物語りたい、というのが宮下のこの著作の主題といえます。
この本は2007年6月から現在まで、資生堂の「花椿」で「美術史ノワール」と題して隔月で連載したものをまとめたものです。基本手金その時どきの興味や、常日頃思っていることを綴った美術万代であり、大学やカルチャースクールでいつも話している内容の一端である、としています。生と死、聖と俗、言葉とイメージ、芸術家と人格、性と食、権力と展示、純粋美術と民衆美術など、美術史の普遍的なテーマにも触れている、と続けています。この本のおおよその内容は、「目次」を見れば概ねわかります。
宮下規久朗の略歴は、以下の通りです。
神戸大学大学院人文学研究科准教授。1963年生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文学研究科修了。神戸県立美術館、東京都現代美術館学芸員を経て現職。主な著訳書に「カラヴァッジョ」(サントリー学芸賞、地中海ヘレンド賞受賞)、「刺青とヌードの美術史」、「食べる西洋美術史」など。
たまたまこの本を手にとって開いたところが、「フランダースの犬」について書かれている箇所、第9話「天国への階段」でした。つい最近、ブログに書いたこともあり、俄然興味が出てきて、そこから先に向かって読み始めて、一通り読み終わってから、第1話からまた読み始めました。僕には、大聖堂の絵のうち、主人公ネロが観たルーベンスの絵は何だったのかが疑問だったからです。まあ、この本は、どこから読んでも読み始められる、というものです。
以下、興味の赴くままに、少しだけ、書いておきます。
第13話「芸術家の晩年と絶筆」では、かなりきついことが書かれています。芸術家の晩年には、晩年洋式あるいは老年洋式というものが見られる。美術科は老年になると、技術が熟練することから細々としたことにこだわらずに、面倒なことを嫌う老人特有の気質により、表現が荒っぽくなり、自我が標識スルことが多い。ほとんどの場合、それはマンネリズムであり、劣化した洋式であるが、なかには追従を許さぬ高見に達する例外的な天才もいる。として、例としてキリコの晩年は若い頃描いた自作のコピーばかりで、描写が薄っぺらで力が抜けている。アンソールもまた、30代ですべての才能を出し切ってしまい、その後は若い頃の代表作を延々と繰り返し模倣した、と述べています。
第15話「記録と追悼」には、以下のようにあります。大原美術館にある熊谷守一の「陽の死んだ日」は、何度見てもその悲痛な感情に打たれる。身近な小動物や花を、極限まで単純化した形体と平明な色彩によって描く素朴な作品で知られる熊谷守一の例外的な作品である。貧窮にあえいでいた画家は、3歳の二男、陽が熱を出したとき医者に行く金がなく、死なせてしまった。47歳の画家はすっと絵が描けずに悩んでいたというが、愛児の死に動転して無我夢中でこの絵を描いた。しばらくして絵を描いている自分に気づき、愕然として筆を置いたという。・・・愛児のデスマスクを残そうという記録性ではなく、愛するものとの別れに際してただ絵を描くことしかできないという、画家の業のようなものを感じさせる。
第19話「戦争と美術」には、以下のようにあります。第2次世界大戦中、日本の郡部は記録とプロパガンダのために画家たちを動員してセンチに派遣し、さかんに戦争画を描かせた。・・・戦前パリで国際的に活躍した藤田嗣治は、戦争中、軍部の推進する美術政策の中枢にいてさかんに戦争記録画を描いたため、戦後になって非難を浴びることになった。・・・戦争中は彼に追従し、軍部の仕事を分けてもらおうとしていた画家たちが一斉に掌を返し、藤田を「美術家全体の面汚し」とまで非難したのだ。
グローバルなパリ画壇で鍛えられた彼にとってみれば、レベルの低い村社会で足の引っ張り合いをしている日本の画壇に堪えられなかったのだろう。彼は日本を離れてフランスに帰化し、二度と変えることはなかった。日本で国際的に傑出した芸術家や天才が生まれにくいのは、出る杭を叩くこうした日本人の陰湿で嫉妬部会国民性だと思う。・・・70年になって突如、戦争記録画153点が日本に返却され、「無期限貸与」というかたちで東京国立近代美術館に収蔵された。
あるいは、第16話「映画になった画家たち」は、芸術家が劇映画の題材になった例をあげています。「炎の人ゴッホ」「華麗なる激情」「モンパルナスの灯」「モディリアーニ真実の愛」「赤い風車」「カラヴァッジオ天才画家の光と影」「カミーユ・クローデル」「真珠の耳飾りの女」「宮廷画家ゴヤは見た」「クリムト」「ポロック二人だけのアトリエ」等々、際限がありません。しかし宮下は次のように言います。画家映画というジャンルはすでに確立しているようだが、画家の人気や作品に依存して安易に作られているものが多いようだ。この分野は玉石混淆であるといってよいであろう、と、しっかりと釘をさしています。
目次
第1話 天才の嫉妬
第2話 不良か優等生か
第3話 ヌードが取り締まられるとき
第4話 肖像と権力
第5話 死刑囚と美術
第6話 誹謗の肖像
第7話 危険な食物
第8話 究極の身体芸術
第9話 天国への階段
第10話 本物と偽物のあいだ
第11話 聖像が隠されるとき
第12話 社会不安は美術を変え得るか
第13話 芸術家の晩年と絶筆
第14話 語ることができることとできないこと
第15話 記録と追悼
第16話 映画になった画家たち
第17話 医学と美術のあいだ
第18話 聖人の力と呪い
第19話 戦争と美術
第20話 回顧展の流行
あとがき
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