近代日本を代償する思想家・岡倉天心(本名覚三、1862-1913)は、明治31年に東京美術学校校長の職を辞して賛同する仲間たちと日本美術院を創設しました。
明治36年5月、天心は、画家飛田周山の案内で別荘地にふさわしい場所を探し求め、福島県いわき市の沿岸から五浦に辿り着きます。天心は、ダイナミックで変化に富んだ景観に魅了され、土地を購入します。当初は古い料亭(観浦楼)を住居としていたが、明治38年には、自らの設計により邸宅と六角堂を建築しました。また同年には日本美術院を再編成して、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山を五浦に呼び寄せ、日本画の近代化を目指した美術活動を展開します。
六角堂は平成23年3月11日の大津波によって流出しました。それを惜しむ多くの方々から寄付金が寄せられ、平成24年4月に再建されました。六角堂は、天心の創意の奇抜さを示して、強烈なイメージで五浦を特徴づけています。その特異な姿は、法隆寺夢殿を模したものとされていたが、道教(杜甫草堂)と仏教(仏堂)と禅(茶室)が渾然一体となった天心の世界観が表現されています(熊田由美子の研究による)。
僕が観に行った時は、台風の影響で小雨が降っていて、足場が悪く、「岬公園」へは残念ながら行けませんでした。従って、海側からの画像は「新れいな日記」より借り受けた画像です。なお「ウォーナー」とは、天心の教えを受けた美術史家のラングドン・ウォーナーのこと。第二次大戦中、爆撃対象から奈良や京都などの都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出した、とされています。
五浦の作家
明治39年(1906)末、日本美術院絵画部は東京谷中から天心の別荘のあった北茨城市五浦に移転、大観、春草、観山、武山の4人が移り住むことになりました。当時の五浦は不便な一寒村であり、世間からは「美術院の都落ち」などと揶揄されましたが、当人たちは「東洋のバルビゾン」と意気揚々としていたという。ここでの4人は、俗塵から遠ざかるとともに、背水の陣を敷く精神的苦境のなかにあって、日本画の近代化に向けて研鑽を重ねていきました。
岡倉天心記念室
茨城県天心記念五浦美術館内には、天心の多方面にわたる業績を顕彰すると共に、天心と大観ら五浦の作家たちが新しい日本画の創造に邁進した五浦の地の歴史的重要性を紹介しています。